攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川家光 の検索結果:

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…623年】三代将軍・徳川家光の正室は「鷹司孝子(たかつかさたかこ)」、院号は「本理院(ほんりいん)」。名前からも分かるとおり関白・左大臣の娘。幕府と朝廷との関係を強化する必要から迎えられたと思われる。将軍の妻が摂関家から迎えられたのは初めてで、それだけ武家の力が強まっていたとも、公家の力が弱まっていたとも考えられる。家光との関係はかなり悪かったようで「江戸へ移ってから結婚するまでに二年」「吹上(ふきあげ)に中之丸御殿が作られ、そこへ住むことに(中之丸様という呼び名はそこから)…

【クーデターで読み解く日本史】鬱積した浪人たちのエネルギーが暴発した事件――由井正雪の乱(慶安の変)

…徳川秀忠、3代将軍・徳川家光と順調に代替わりが行われ、支配体制が完成に向かっていったのが江戸時代初期である。 さて、その家光が亡くなった1651年(慶安4年)の頃、江戸で問題になっていたのが浪人問題であった。関ヶ原の戦い以来、幕府に逆らったり、落ち度をとがめられたり、そして跡継ぎがいなかったりといった事情で数多くの大名が改易され、残った諸大名も経済的な圧迫を受けて新たな家臣など雇えない状態にされていた。これは徳川氏の支配を安定させるために有効な手段ではあったが、そのせいで失業…

【殿様の左遷栄転物語】第5章 地方から中央へ! 本社に栄転、成り上がる

…・徳川綱吉は3代目の徳川家光の四男にあたり、もともとは上野国館林藩主だった。とはいっても館林に赴いたことはほとんどなく(史料上確認できるのは一回だけだという)、江戸の神田御殿に居住し、そこで藩政を執っていた。 ここには約500人の家臣団(士分、ただし与力や同心は含まない)がいたとされる。うち6割ほどはもともと直臣だったりその子弟だったりで、前章で紹介した付家老とその一族たちに立場が近い、といえる。残りの約4割は別の大名家に仕えていた過去があったり、綱吉の縁故関係だったり、そし…

【殿様の左遷栄転物語】駿河大納言の悲劇に巻き込まれた付家老たち

…秀忠の子で3代将軍・徳川家光の弟にあたる徳川忠長(通称・駿河大納言)にまつわるケースである。この忠長は幼い頃より利発で秀忠に寵愛され、一時は兄・家光に代わって将軍職を継ぐのでは、と見られていた時期もあったとされるほどだ。 実際には家光が跡を継いだのだが、その背景には長子相続を貫きたい家康の介入があったとされる。本連載第2章で紹介したように、本来継承する予定でなかった人物が(事情があったとしても)家督を継ぐと後世に禍根を残しかねない。太平の時代にあっては当然の判断であったといえ…

【殿様の左遷栄転物語】二重に抱えた複雑な事情 佐賀藩鍋島家

…児・伯庵が時の将軍・徳川家光に対して、お家復興を申し出た一件がある。しかし、この際には幕府が一向に取り上げず、数度にわたって訴訟が繰り返された末、ついに伯庵が会津藩預かりになることで、大きな問題にはならずに終わった。 このような鍋島・龍造寺の関係をベースとして創作されたのが、世に名高い「鍋島化け猫騒動」だ。龍造寺家の者にかわいがられていた猫が、主人が殺害されたことから化けて出て、敵である鍋島家の大名を苦しめるというのが大体のあらすじだが、もちろんこれはまったくのフィクションで…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…の名前で「3代将軍・徳川家光に代わってその弟の徳川忠長を擁立しよう」という手紙が諸大名の江戸屋敷に送られたのだが、ほとんどの大名たちが驚いて幕府に申し出たのに、忠長自身と加藤家だけはこれを提出しなかった。これが問題になったのだ。 もともと家光と忠長は仲が悪く、忠長が謀反をして将軍の座を狙うということは十分にあり得た(少なくとも、人々がそれを信じる素地はあった)。しかし、利勝本人は「私はそんな(手紙を出す)ことをしていない」と言い出す。では、黒幕は誰か――そこで「加藤家が怪しい…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府6代・徳川家宣――短い治世ながら、英才を活用した名君 1662年~1712年

…甲府藩主で3代将軍・徳川家光の子である徳川綱重だ。父が正室と結婚する前に生まれた子なので隠し子とされ、家老・新見(しんみ)備中守正信の子「新見左近」として育った。ところが、結局綱重と正室の間に男子は生まれず、家宣の出自が明かされて将軍家を継ぐことになった。 家宣は生真面目で礼儀正しい人であったようだ。学問に熱心で、後述する新井白石(あらい はくせき)からさまざまなことを学んだが、その際はどんなに暑くても正装で臨み、扇で扇いで涼をとろうとさえせず、蚊がやってきても無視した、とい…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府5代・徳川綱吉――生類憐みの令を発した犬公方 1646年~1709年

…」 綱吉は3代将軍・徳川家光の四男であり、上野国館林藩に25万石を与えられた親藩大名であった。1680年(延宝8年)、そんな彼が将軍となったのは、兄・徳川家綱が子を残さずにこの世を去ったからだ。家綱時代に権勢を振るった大老・酒井忠清は徳川家の血筋がいくつも残っていたにもかかわらず、あえて後西天皇(ごさいてんのう)の皇子・幸仁親王(ゆきひとしんのう)を擁立しようとした、という。これに対し、綱吉を擁立する老中・堀田正俊(ほった まさとし)は病床の家綱を説得。これを了承した家綱が弟…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

「生まれながらの将軍」家光 1623年(元和9年)、徳川秀忠は自らの次男・家光に将軍職を譲り渡した。新たな将軍となった弱冠20歳の若者は、広間に居並ぶ諸大名に対して宣言する。すなわち、「祖父家康と父秀忠は、諸大名の力を借りて天下人となったので、同格の礼で応えてきた。だが、私は生まれながらの将軍であり、お前たち諸大名は家臣である。そのように扱うことに不満があるなら、領地に戻って戦う準備をしろ」――このようなことを言ったわけで、これはもう堂々たる王者の言である。 この年には豊臣家…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…元和9年)には息子の徳川家光に将軍職を譲っているが、父・家康にならって大御所となり、以後も実権を掌握した。秀忠の治世における特徴は、法によって厳しい統制を行ったこと、といっていいだろう。武士に対する法である『武家諸法度』および朝廷と公家に対する法である『禁中並公家諸法度』はともに家康時代に制定されたものであるが、秀忠はこれらの法を厳格に適用することによって江戸幕府と将軍の権威を高め、潜在的な敵対勢力の力を弱めた。 たとえば、豊臣恩顧の大名の代表格である福島正則は「無断で城を修…

【戦国時代の境界大名】宗氏――朝鮮半島との交渉・貿易を独占した一族

…、最終的に時の将軍・徳川家光の判断にゆだねられた。家光が下した判決は「国書改竄は柳川家によるものであり、宗義成は無罪」であった。日朝関係にこれ以上の波風を立てないための判断であったろうか。その後、調興は津軽へ流罪となり、その地で生涯を終えている。 この事件は対馬藩を危機に追いやったが、一方で家臣団を再編して支配体制を確立する機会にもなった。加えて、日朝外交の仲介役として特権的な地位を確立し、さらに実際の所領が対馬と肥前国のものを合わせて3万石弱(のちに2万石加増)であったにも…

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

…り。長宗我部交渉の最前線にいた利三もまた、明智家中で難しい立場になってしまったのではないか。 この四国問題が謀反につながったのであれば、利三が「本能寺の変」にも参加し、先鋒を務めたのは当然のことであろう。この時、主従は運命共同体であったはずだ。彼は「山崎の戦い」にも参加し、敗れた後は姿を消したが捕らえられ、処刑された。主君・光秀とともに磔になったことが知られている。なお、娘の福は母方の稲葉氏のもとで育てられ、のちに徳川家光の乳母になって徳川政権の安定化に尽力にすることになる。

【江戸時代のお家騒動】米沢騒動 幕閣重鎮の後ろ盾でお家断絶を回避する

…。 正之は3代将軍・徳川家光の腹違いの弟で、中央政権に対して十分な発言力を持っていた。上杉家の断絶を回避するために正之は奔走し、江戸城と藩邸を行き来しながら、国元の方にも動揺を与えないために「相続の件は大文夫だ」と使者を送って伝えるなどの配慮を行っている。このような正之の働きのおかげで、所領を半分にするという条件で義央の子が藩主を引き継ぐことが正式に決定された。ここに米沢藩4代藩主・上杉綱憲が誕生し、上杉家は断絶を免れたのだった。 上杉家が窮地を脱することができた理由として、…

【江戸時代のお家騒動】柳川一件 日朝を揺るがす前代未聞の「国書改竄事件」

…の代替わりが行われ、徳川家光が三代将軍となっている。朝鮮使節の将軍就任の祝いのための来日が宗氏の仲介によって実現し、翌年の1624年(寛永元年)には朝鮮から使者が訪れている。 しかし柳川氏が幕臣を望んでいることに宗氏が強く反対したことから、お家騒動が勃発してしまう。当時の藩主・宗義成に反抗した調興が、幕府に国書改竄の件を訴えたのだ。この件は、1635年(寛永12年)に家光によって裁かれた。両者それぞれに尋問が行われた後、江戸城にて直接取り調べがなされ、裁定がくだされた。その結…

【江戸時代のお家騒動】鍋島騒動「猫化け話」に象徴される龍造寺家の悲劇

…の伯庵が亡き父と意を同じくして、龍造寺再興に乗り出したのだ。1634年(寛永11年)、三代将軍・徳川家光が上洛した際に、伯庵は龍造寺家再興を訴え出た。この訴訟は無視されたものの、伯庵はその後も数回にわたって幕府に赴き、訴えを繰り返した。しかし「伯庵は高房の嫡子ではない」として彼の訴訟は却下され続け、ついに彼の扱いに困った幕府は、伯庵を会津お預けにするという処置をとる。 こうして1642年(寛永19年)、伯庵は会津に預けられた。龍造寺家再興の望みは、ここに完全に潰えたのである。

建物内はスマホのレンズを通したほうがよく見える

…となった沢庵をのちに徳川家光が尊崇したことで大徳寺と徳川家に縁ができたそうです。 スマホのレンズを通して見える世界 せっかく現地にいるんだから写真ばかり撮らずにちゃんと自分の目で見なきゃといつも反省しているのですが、建物内など暗い場所の場合はむしろスマホのレンズ補正を積極的に活用していったほうがいいのかもと思いました。4Kテレビと同じで見え過ぎちゃうことの功罪はあるのでしょうが、スマホのレンズを通して見てみるという小技をおぼえておくといいかもしれませんね。 なおこの大徳寺本坊…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

…定し始めた3代将軍・徳川家光の時代以降は、養女を取ってまで政略結婚をすることはほとんどなくなったが、それでもこのような「筒抜け」状態は変わらず、大名を大変苦しめた。 問題はまだあった。将軍家相手の婚姻は、普段以上に金がひどくかかるのである。祝儀を派手で壮大にしなくてはならないのはもちろんのこと、「御守殿」と呼ばれる住居をつくらねばならず(これは同時に、ここに入る妻の呼び名でもあった)、さらに女中や下男といった妻のお付きの者たちの切米(給料)も支払わなければならなかった。これが…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え徳川家の厚い信頼を得ていました。 寛永12年に家光が参勤交代制を発布し「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て 「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなったと言われています。 健康に気を使う政宗でしたが、晩年は体調不良を訴え始め病気がちになります。 1636年4月、参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ宿泊した郡山では何も食べられなくなり江戸に入った頃には絶食状…

【京の冬の旅】妙心寺鱗勝院で春日局の御霊屋と海北友雪の水墨画等を見てきた

…菩提寺で、3代将軍・徳川家光が創建した寺です。 方丈の三部屋には海北友松の息子、海北友雪による「雲龍図」「山水図」「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)・西湖図」の水墨画が描かれています。これは複製ではなく本物でした。とくに室中に描かれた「雲龍図」は間近まで寄って見れます。 「京の冬の旅」パンフレットより 天球院の室中には金碧障壁画の「竹虎図」が描いてましたけど、こちらには水墨画とお寺ごとにいろいろちがうんですね。このへんはもっといろんなお寺をまわっていくとルールとかパターンが見…

名古屋城本丸御殿を見学してきました

…年(寛永11年)には徳川家光がここに宿泊しています。この家光の上洛にあわせて本丸御殿は拡張・改修されました。そのときに将軍宿殿機能としては不要になった中奥・奥部分を解体撤去し、代わりに増築されたのが今回完成した「上洛殿」(黒木書院・湯殿書院等も)です。 ではそれぞれの部屋を写真で紹介しますね。 上洛殿 別名「御成書院」とも呼ばれる、本丸御殿のなかでもっとも格式の高い空間です。江戸時代には「御書院」や「御白書院(おしろしょいん)」と呼ばれたそうです。 障壁画はもちろん天井や長押…

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