攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

狩野探幽 の検索結果:

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…年間は狩野永徳の孫、狩野探幽が率いる新世代の狩野派と、永徳の様式を受け継いだ旧世代の狩野派(甚之丞もそのひとり)のちょうど移行期であり、共存していた時期でもありましたので、二の丸御殿には両方のスタイルで描かれた障壁画を見ることができます。 旧世代は奥行きや高さを表現し、大画様式(大画方式)と呼ばれるドーン、バーンといった迫力のある絵で、一方の新世代は枠内に収め余白を活かしたすっきりした絵です。名古屋城本丸御殿の上洛殿は1634年(寛永11年)に増築されているので、寛永行幸より…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(二の丸御殿・大広間四の間)

…ど、定説とされてきた狩野探幽が永徳様式を模倣して描いたのではなく、永徳の弟子である山楽が描いたと推定していくプロセスはとてもおもしろいし、勉強になりますね。当時の狩野派内部の序列を書状の署名順や行幸御殿での担当割当との比較などで考察し、さらに探幽らの年齢(探幽は20歳そこそこで、山楽は60代後半)を踏まえた上で、明らかにテイストの異なる大広間四の間の障壁画を見ると、やはり四の間だけは別人が描いたと考えるのが自然で、この時点でそれを担当できたのは山楽だろうと。 いちおう昨日もノ…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…でもっとも有名なのは狩野探幽の「雪中梅竹遊禽図襖(せっちゅうばいちくゆうきんずふすま)」で、去年東京国立博物館で開催された特別展「桃山―天下人の100年」でご覧になられた方も多いかもしれませんが、この襖絵は家光の上洛にあわせて増築された上洛殿のものなので築城時のものではありません。 一方、この表書院は築城時からあった建物なのでこの絵を展示することにしたそうです。ただ有名な絵を展示するのではなく、テーマにあわせてチョイスするのはいいなと思いました。 二条城の展示収蔵館はひたすら…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

…ようになり、そのとき狩野探幽に命じて描かせた「夢想の画像」が日光輪王寺に保存されていることや、日光東照宮の造営をさせたことなど、家光が祖父を慕っていたことを示すエピソードは枚挙に遑がない。 特にすごいのは、同じく日光輪王寺に保存されている守り袋にまつわるものだ。その中に納められた紙には「生きるも死ぬもすべては大権現様(家康)次第」とか「二世権現、二世将軍」といった言葉が書かれている。前者は家康を完全に神格化しているし、後者は本当の二代将軍である父・秀忠をすっ飛ばして自分を二代…

特別展「桃山─天下人の100年」の後期展示を見てきました

…として、だから棟梁の狩野探幽が障壁画を担当したと聞いてきただけに、釘隠しの格式は黒書院のほうが上? とちょっとぼくもまだ理解が追いついていないのですが、機会があれば二条城に聞いてみようと思います。 図録の解説によれば、黒書院のほうは安土桃山時代、大広間は江戸時代初期に見られる意匠で、黒書院のほうは家康が築城した頃の釘隠しの可能性があるとのこと。ちなみに「桐に鳳凰」や「雲に龍」は定番の図柄の組み合わせで、たとえば桐は鳳凰の止まり木ということからセットで描かれます(ほかに「竹に虎…

二条城で開催された二の丸御殿「黒書院三の間」学芸員解説会に参加してきました

…派のリーダーであった狩野探幽のアイデアですが、黒書院については迫力ある絵で相手を圧倒するのではなく、複数の場面を描くことを優先したようです。(威圧より歓迎を示したのではないかとおっしゃっていました) 季節の移ろいが描かれている また季節が描かれているのも黒書院の障壁画の特徴です。具体的なポイントを教えていただきました。 まず東面の左下には夏から初秋にかけて咲くミズアオイが描かれています。 次は南面の左下。 ここには秋に咲くリンドウが描いてあります。 そして西面の中央下あたり。…

二条城で開催された二の丸御殿「式台の間」特別入室と学芸員解説会に参加してきました

…図」によれば、采女=狩野探幽とあるため、長らく探幽が描いたとされてきましたが、一方で絵の構図の特徴から狩野山楽によるものとする説もあります。 狩野派は初代・狩野正信が足利義政の御用絵師になって以降、織田信長、豊臣秀吉と常に権力の中枢の御用絵師として画壇に君臨してきました。それは徳川の時代になっても変わらず、二条城の改修時は天才と謳われた狩野探幽をリーダーとして大量の絵を制作しました。 山楽は探幽の祖父にあたる狩野永徳の弟子で、江戸にいかず京都に残り「京狩野」と呼ばれていました…

紅葉の名所、大徳寺高桐院にいってきました

…そうですね。 襖絵は狩野探幽の弟で宗家を継いだ狩野安信が描いたとされる水墨画です。 さらに書院につづく茶室「松向軒」は1628年(寛永5年)に忠興自ら建立したもので、忠興好みの二帖台目で、三帖の水屋がつき、茶室には珍しい黒壁を使うなど、壁や天井にも趣向が凝らされていて有名です。この茶室はもともと北野大茶会で使われたとも伝わるそうですが、高桐院でいただいたパンフレットにはその記載がないので(たんに「三斎公の手で建立」とだけある)真偽は不明です。 蒲落ち天井(がまおちてんじょう)…

大政奉還についての誤解〜教科書でよく見る絵のように慶喜が諸侯に発表したわけじゃない?〜

…しょうか。大広間には狩野探幽が描いた巨大な松の絵が床の間だけでなく両脇にも描かれていますが、この絵には桜が描いてあります。これは探幽の弟、狩野尚信が描いた「桜花雉子図」です。違い棚が直角に備え付けられていることや、一の間と二の間の幅がズレていることなども黒書院だと特定できるポイントです。 上の図面のとおり、黒書院は対面で使用する一の間と二の間をあわせても56畳で大広間の92畳と比べるとひとまわり小さいので、これだけの人数を収容することはむずかしいと思います。また親しい人との対…

【京都】2019年秋に開催される歴史好き向けの特別公開・特別拝観・ライトアップイベントまとめ

…0月の第2日曜だけは狩野探幽筆方丈襖絵など、約100点におよぶ寺宝が虫干しを兼ねて公開されます。 大徳寺 黄梅院 秋季特別公開 期間:2019年10月5日(土)~12月8日(日10:00~16:00※10月28日は拝観休止 拝観料:800円 織田信長が、父・信秀の追善供養のため創建した小庵にはじまる寺院で、のちに豊臣秀吉が増築しました。本堂や唐門、日本の禅宗寺院において現存最古という庫裡は重要文化財に指定されています。特別公開では、豊臣秀吉の軍旗「瓢箪」をかたどった池を配す千…

徳川美術館で「合戦図~もののふたちの勇姿を描く~」のギャラリートークを聞いてきました

…を模索した。ほかには狩野探幽の養子である狩野益信や谷文晁など 「源平合戦押絵貼屏風」は狩野安信が描いたと伝わる 「東照社縁起絵巻」は狩野探幽が描いている 「平家物語」を題材にした合戦図(絵巻・屏風)の特徴は「(描かれている)人物がわかる」「地理が不正確」、一方「関ヶ原合戦図屏風」では「家康以外、誰かわからない」「地理・地形は正確」といったちがいがある。とくに「関ヶ原の戦い」については(活躍したのが豊臣恩顧の武将たちという)家康にとって不本意な勝利だったため、わざと人物をわから…

二条城で「松鷹~桃山の遺風~」のギャラリートークを聞いてきました

…芸員も山楽説を主張 狩野探幽は「画壇の家康」という異名がある 個人の「くせ」をもとに画家を特定する手法・技術を確立したのは二条城の模写事業の初代監督をつとめた土居次義(どい・つぎよし)先生で、イタリアの美術史家ジョヴァンニ・モレッリが考案した「モレッリ法」をアレンジして取り入れた 「モレッリ法」では手足の指、爪、耳の形などに特徴を見出すが、日本の障壁画は山水図や花鳥図が中心であるため、木の皺の線、水の流れの線、陰影の付け方で判断する ただし二条城では塗り直し、描き直しと修復さ…

二条城で開催された二の丸御殿大広間四の間特別入室と学芸員解説会に参加してきました

… これまで二条城は「狩野探幽または狩野山楽」と両方の説を併記して紹介してきましたが、このたび狩野山楽と断定するに至った経緯などについて説明がありました。 「大広間」全体の筆者は探幽という説が従来からあった 理由は指図(中井家文書)などに大広間という建物は探幽(正確には当時の呼び名である「采女」)と書かれているから ただし行幸後に解体された建物などがないことからこの文書は同時代のものではないと考えられる=伝聞情報 そもそもこうした御殿の障壁画に絵師はサインを入れない(発注者に対…

二条城で「梅と牡丹の障壁画~廊下を彩る花たち~」のギャラリートークを聞いてきました

…の寛永行幸にあわせて狩野探幽らが新規に描いたものとされています。一般的にこうした障壁画はひとつの様式で描かれるものですが、この「牡丹図」については北側と西側で様式が異なっています。北側の二面は水辺と地面が描いてあり、牡丹の根もとが確認できます。さらに金雲が描かれており、モチーフが重なり合って奥行きのある空間が表現されています。こうした様式は狩野永徳が中心となった桃山期の狩野派の様式です。 一方、西側は地面を描かず、ふすまの下辺からいきなり枝や幹が描かれています。これは狩野探幽…

【お寺まるごと美術館PROJECT】妙顕寺で酒井抱一「観世音図」を見てきた(夜桜ライトアップも)

…身です。 狩野安信は狩野探幽や狩野尚信の弟で、狩野貞信が亡くなったため宗家を継いだ人物です。安信の三作は金碧障壁画ではなく水墨画の掛け軸ですが、こういう人たちの絵がふつうにあるのが京都の大寺院のすごいところです。Wikipediaの安信のページにも記載されてないのですが、ほかにもきっとたくさんあるんでしょうね。 ほかにも狩野山楽の「楼閣山水図屏風」などが妙顕寺にはあるはずなのですが、今回は展示されてませんでした。この絵は山楽の基準作例とされてるそうなので、いつか見てみたい。 …

【京の冬の旅】妙心寺龍泉菴で狩野派の絵師が描いたとされる杉戸絵を見てきた

…物館にあります。また狩野探幽筆「観音・龍虎図」は本物が展示されています。これは掛け軸で間近まで近づいて見ることができます。残念ながら撮影不可だったのと、パンフレットの写真も小さくてうまく撮れませんでした。 ただ個人的にはこの龍泉菴のいちばんの見どころは、72面あるという杉戸絵です。狩野派が描いたとされる杉戸絵は撮影オッケーだったのでまずはご覧ください。この虎の杉戸絵とかすごいでしょう。 この絵はいわゆる「鯉の滝登り」ですが、「登竜門」の話(中国の黄河中流にある急流「竜門」を登…

【京の冬の旅】妙心寺鱗勝院で春日局の御霊屋と海北友雪の水墨画等を見てきた

… ちなみに麟祥院には狩野探幽が描いた春日局の肖像画が所蔵されているそうですが、それは今回の特別公開の対象にはなってませんでした。 淀城のしゃちほこが 稲葉氏は幕末、淀城の城主をつとめていました。「鳥羽・伏見の戦い」において淀藩の裏切りが幕府軍敗退の一因となるわけですが、その淀城の火の見櫓に上げられていたしゃちほこが麟祥院の庭園にあります。 kojodan.jp 御霊屋の来歴 ガイドの方から聞いた話をそのまま書くと「麟祥院の御霊屋は後水尾天皇から春日局が下賜されたもので、仙洞御…

【京の冬の旅】本法寺で長谷川等伯筆「佛涅槃図(複製)」や狩野山楽筆「唐獅子図屏風」を見てきた

…も!)や、大徳寺では狩野探幽の「山水図」「芦雁図」、妙心寺では狩野山楽・山雪による「竹虎図」などかなりの作品が公開されています。 とても一日二日でまわりきれないくらいの数なので、まずは近場のお寺についてはリハビリ散歩のついでに見学しようと、今日はもっとも近い、うちから徒歩3分のところにある本法寺にいってきました。 こっちが正門です。ぼくは堀川通側の裏門(といっていいのかな)から入りましたが、帰りはこちらから出ました。 長谷川等伯と本阿弥光悦にゆかりのあるお寺です 本法寺は長谷…

二条城で開催された二の丸御殿大広間三の間特別入室と学芸員解説会に参加してきました

…広間三の間の障壁画 狩野探幽の「松孔雀図」 孔雀は真孔雀 ただし首が鶴のように長くなっているなど少し脚色(創作)されている 孔雀は江戸城で飼育していた記録もあり、実物を見ているはず 探幽の革新的な技法として「地面を描かない」点がある 襖の最下部からいきなり幹が伸びている 大広間三の間の欄間彫刻 北面(四の間との仕切り)は左「唐松、唐椿に孔雀」、右「唐松、薔薇に孔雀」と花がちがう 西面(二の間との仕切り)は「桐、牡丹に鳳凰」の裏面→二の間側が表面 鳳凰…聖天使の出現を待って現れ…

名古屋城本丸御殿を見学してきました

…こと、御殿の障壁画は狩野探幽率いる狩野派が担当していることなど、じっさいに内部を歩くとその共通性がよくわかります。表面的なデータでも比較してみましょう。 名古屋城本丸御殿 二条城二の丸御殿 完成年※ 1634年(寛永11年)※徳川家光の上洛にあわせて改修 1626年(寛永3年)※後水尾天皇の行幸にあわせて改修 延べ面積 3100m2 3300m2 御殿配置 雁行型を改修時に拡張 雁行型 建物 13棟、30部屋以上 6棟、33部屋 建築構造 木造平屋建てこけら葺書院造 木造平屋…

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