攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

酒井忠次 の検索結果:

【家康の謎】徳川四天王は誰が決めたの?

…といえば、本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政の4人である。「四天王」というのは仏教世界観の話で、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)という東西南北=四方を守護する天(仏の一種)のことである。ここから転じて、なんらかのグループにおける傑出した4人の実力者のことを「四天王(○○四天王)」と呼ぶようになった。徳川四天王という名付けも、その流れを受けてのものである。しかしこの呼び名、戦国時代からあったのだろうか。 蜻蛉切(と…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…、徳川家の重臣である酒井忠次様に預けられ、信長様の元に届きました。信長様は内容について「これはどうだ?」とひとつひとつ、酒井様に問いただしたとされます。その際に酒井様は「その通りでございます」と答えたと伝わっております。 酒井様が十カ条まで事実だと認めたところで、信長様は残る二カ条には目を通さず「徳川家の家老が認めるのであれば事実に間違いなかろう」と述べられ、酒井様へ信康様の処罰を家康様に伝えろと命じたとされています。 そして信康様は、遠江(浜松)の二俣城で「我れ天道に逆らっ…

細川玉子さんによる「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」レポート

…家康様、榊原康政様、酒井忠次様、稲姫様がご出陣されておりました。 玉子が伺った日は平日でしたが、おもてなし活動やお写真撮影など、ご活躍されておられました。いつも明るく、こんな玉子にも気さくにお話してくださる皆様!お忙しい中、取材のご対応も快くお引き受けくださいました🙇 (向かって右から、榊原康政様、徳川家康様、稲姫様、酒井忠次様) 大変恐縮ではございましたが、グレート家康公「葵」武将隊の皆様に、いくつかご質問させていただきました! 家康様へは【岡崎城のおすすめの場所】を質問さ…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…には家康の家臣である酒井忠次らが14日には伊勢桑名に着陣していました。 しかし、織田の家臣である池田恒興、息子の元助、娘婿の森長可らが信雄を裏切って秀吉方につきました。そして城主・中川定成が伊勢峯城に出陣して手薄になっていた犬山城を池田隊が急襲したために、前線が尾張地方へと移ってしまいました。家康はその報せを聞くと急いで桑名にいた酒井忠次を羽黒(愛知県犬山市)へと向かわせ、清須にいた家康は小牧山に入って防備を整えました。羽黒まで南下していた秀吉方の森長可と激突した羽黒・八幡林…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…時、家康様の元には、酒井忠次様、榊原康政様、本多忠勝様、井伊直政様らを筆頭に、石川数正様や服部半蔵殿ら、総勢34名ほどしかおらず、このわずかな手勢で、この危機を逃れられるのか?明智軍は1万3000とも聞く、織田家と同盟国である徳川が狙われないわけがない!一揆の襲撃や、落ち武者狩りもある、これは逃げ切れない! と、京都の知恩院にて自刃も考えられたそうですが、本多忠勝様の説得により家康様は自刃を改め、三河国への帰還を決意されたそうです。(家康様は何度か自刃騒ぎをおこしています) …

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…突。長篠城救援部隊(酒井忠次隊)の動き 1575年(天正3年)4月、武田信玄の後を引き継いだ武田勝頼は15,000の大軍を率いて三河に侵攻しました。5月1日には長篠城を包囲し、豊川(とよがわ)を挟んだ南岸には鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を中心に、姥ケ懐砦(うばがふところとりで)、中山砦、久間山砦(ひさまやまとりで)、君ヶ伏床砦(きみがふしどとりで)を築きました。長篠城主は2月に入城した奥平信昌です。勝頼は5月11日から長篠城への猛攻撃を開始しました。 34歳の家康は4月末…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…康直属部隊、東三河=酒井忠次、西三河=石川家成 他の戦国大名と同様に家康も寄親寄子制を採用 三河三奉行は真偽不明 12月、従五位下三河守に叙任される、徳川に改姓(復姓?) 前年の永禄の政変により将軍不在だったので近衛前久を通じて朝廷に直接奏請 正親町天皇は松平氏では前例がないと難色を示す →三河守に任官するためには源平藤橘 徳川氏と藤原氏との関わりを示す家系図をでっち上げて勅許を得る →清康の時代から新田源氏を名乗っていたとも 1586年(天正14年)まで家康は「藤原家康」を…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…われており、東三河は酒井忠次、西三河は石川家成が旗頭となり、その配下に三河武士団とともに松平一族が置かれています。岡崎城は「家康出生の城」として有名ですがそれだけではなく、岡崎城で生まれ、今川の支配から独立して徳川家康を名乗るまでの居城なのです。つまり、彼にとって大きな転機となった時期を岡崎城で過ごしていたと言えます。 家康時代の姿は見ることができず 家康時代の岡崎城はどんな姿だったのだろうか(頭にハトが止まっている貴重な画) 元康時代の岡崎城の姿は、残念ながらまったくと言っ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

… 徳川軍の武将である酒井忠次らが武田方の占領する鳶ヶ巣山砦(長篠城の支城)に奇襲を仕掛けてこれを打ち破ると、いよいよ勝頼は後に引けなくなった。後方を突かれ、また長篠城を包囲する部隊も危うくなった以上、残された選択肢は兵力に勝る連合軍を正面決戦で破るしかなかったのだ。これは武田軍にとって悲劇的な突撃となった。連合軍が厳重な防備の向こうから、用意していた千丁以上の鉄砲で迎え撃ったからだ。襲い来る銃弾が武田軍の兵を次々と打ち倒し、名の知れた名将たちが次々とその命を散らした。幾度かの…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…名のある武将としては酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の「徳川四天王」がおり、特に本多忠勝は50を超える戦いに挑んで一度も手傷を負わなかったという。もちろん、勇猛な武将だけでは天下は取れない。能吏・謀臣として知られる本多正信は三河一向一揆において家康に背き、その後多くのものたちが徳川家に戻ったのに長く放浪を続けた変り種であるが、家康とは深い信頼関係で結ばれ、息子・正純とともに活躍した。 一方、家康も彼らの信頼に応えていたことがよくわかるエピソードが『徳川実紀』にある。豊臣…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…る徳川四天王の一人の酒井忠次の指揮がよかったからだと謙遜して答えたところ、秀吉はその人柄のよさを大いに褒めたという(『寛政重修諸家譜』)。 徳川氏が秀吉の命で関東に移った際には上野(群馬県)小幡3万石を与えられ、大名となった。さらに「関ヶ原の戦い」の後には、朝廷や公家との折衝を行う京都所司代の要職を与えられてこれをよく務めた。また、美濃国(岐阜県)に加納城(岐阜市)が築かれると、新たに美濃加納藩10万石の大名として入る。この城は中山道の要衝で、万が一、豊臣秀頼ら大坂方が挙兵し…

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…「徳川四天王」の一人酒井忠次を信濃へ送り込み、頼忠に徳川支配下に入るよう説得させようとした。 ここからが少々妙なのだが、頼忠は「自分はすでに北条氏に従っている」と主張したのではなく、「徳川の支配下に入るのであって、その部下の酒井に服従するいわれはない」といい募ったのだ、という。それをいわせたのは名族としての誇りだったのかもしれないし、あるいは徳川支配下での立場をよくするための策だったのかもしれない。結局、家康は改めて使者を立て「家康の支配下に入るように」と告げさせる。すると頼…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…り、やがてこの二人に酒井忠次を加えた四人が「徳川四天王」と呼ばれるようになっていくのだ。 あまりの家康による寵愛ぶりに、小瀬甫庵の『甫庵太閤記』をはじめとして家康・直政の男色関係を疑う声は強い。寵童が側近として出世するのは当時としては別に珍しいことではないが、特別な証拠があっての説ではないようだ。それよりも、煎本増夫の『幕藩体制成立史の研究』の説の方に説得力があるようだ。これは『井伊年譜』の「徳川家康の正室・築山殿の母は通説では今川氏の重臣・関口親永の妻で今川義元の妹といわれ…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…日未定 発売日未定 酒井忠次さかいただつぐ 忠次 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 本多忠勝ほんだただかつ 忠勝 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 榊原康政さかきばらやすまさ 康政 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 井伊直政いいなおまさ 直政 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 稲姫いなひめ 稲姫 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 織田信秀…

6.譜代大名の懐事情

…称された家康の腹心・酒井忠次の血を引く名門中の名門だった。しかし、貧しさの前には家名の威光もあえなく力を失ったのだ。他にも、恥を忍びながらも行列を作らず、徒歩で移動して財政負担を軽くした涙ぐましい例もあったようだ。一方で、大規模な大名行列が通過・滞在すれば宿代などの形で地元にお金が落ちたため、その経済効果で潤った藩もあったという。 そんな中、譜代大名は江戸を守るため、関東近郊に領地を持っている場合が多い。図抜けた大大名も基本的にいないので、権威を守るために派手な行列を仕立てる…

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