攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

鎧 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…秋月城 御城印 秋月鎧揃え版 秋月城(福岡県朝倉市) 朝倉市立秋月博物館、秋月駐車場管理組合 観光案内所、筑前秋月 和紙処、朝倉市観光案内所 ほとめく館 500円 印刷 A6 2023年11月21日 十河城 御城印 十河城(香川県高松市) 十河の郷 昭和おもひで館 300円 印刷 はがき大 2023年11月19日 片野城 御城印 片野城(茨城県石岡市) 銅山堂 330円 印刷 縦15cm、横10.5cm 2023年11月19日 府中城 御城印 府中城(茨城県石岡市) まちかど…

【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?

…う家康に自ら人々を率いて味方した、というのである。そして家康から貰った旗に「厭離穢土欣求浄土」と書いた。ここでの意味合いは「生を軽んじて死を幸いにする」ということであり、そもそもは一向一揆側が「進めば極楽、下がれば地獄」と言った意味のことを鎧に書いていたことに対抗するものであったらしいのだ。 どちらが本当であるかはわからない。しかし、戦国乱世に生きるだけに、人を殺し、自分も殺されるかもしれないという状況は避けられない――そのことはどちらのエピソードにも共通しているといえよう。

【戦国軍師入門】立花道雪――輿で戦場を駆けめぐった、雷神の生まれ変わり

…出陣したのが道雪だ。鎧を纏って颯爽と馬を駆る彼は大内軍が想像もしない速度で軍を展開させ、馬ヶ岳城に籠もっていた敵を攻撃して大いに打ち破る。この戦いは結局大友側に有利な条件での講和となり、恐るべき若武者の名を諸国に喧伝することになったのだ。 その後も道雪の活躍は続く。大内家との戦いがしばらく続いた後、1535年(天文4年)には肥後の小勢力たちが連合して起こした反乱を制圧しに向かうが、その途中で待ち伏せを受けて苦戦する。ところが道雪は駆け付けた援軍を敢えて待機させ、自分の戦力だけ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…若武者であった。赤い鎧を身にまとい、片鎌の槍を構えたこの若者は、信高の周囲にいた敵将を次々と討ち取ってしまった。信高はさぞ驚いたに違いない――それは誰あろう、自身の夫人(おみのの方、と伝わる)であったのだから。 彼女自身は「夫を救う!」というよりは「このまま城が落ちるなら、せめて夫とともに討ち死にしたい……」といった悲壮な覚悟であったらしい。ところが戦ってみれば見事な活躍を見せ、58人の敵をなぎ倒してしまった。その姿に驚きながらも喜んだ信高は、「とにかくこちらヘ!」と彼女とと…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史①――古代の集落から、拠点としての城ヘ

…である。特に後者は大鎧を着込んでいた当時の武士に対して抜群の効果を発揮し(馬に乗らないと自由に動けないのに、馬では山の上へ行けない!)、ゲリラ戦的にわずかな兵で大軍を打ち破った楠木正成の活躍など、数々の籠城戦が現代に伝わっている。とはいえ、これはあくまで動乱の時代のための臨時の城。後述する戦国時代の城のように、ある程度恒久的に使うようにはそもそもできていなかったようだ。 そのため、室町幕府が成立して情勢が安定すると、山城の多くは破棄され、武士たちは平地や小高い丘の館を使用する…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家①――イノベーションの遅れは致命傷①

…陣した。名前の由来は鎧を一つ(一領、と数える)しか持たず、替えなどなかったことから来ているとされる。戦国時代、ほとんどの兵士たちは兵農未分離の農兵であったため、一領具足もその一種と考えるべきだろう。にもかかわらず長宗我部の一領具足がその名を広く知られるようになったのは、長宗我部軍団の主戦力として四国統一の原動力になったことに加え、その成立経緯にも原因がありそうだ。 これについては、以下のような推論がされている。すなわち、土佐の国人領主たちが細川氏衰退後の激しい混乱によって次々…

【10大戦国大名の実力】武田家①――名門の長所と短所は背中合わせ

…「楯無(たてなし)の鎧」の前にそろい、「御旗、楯無、御照覧あれ!」と唱えたと伝わっている。先祖から連なる血と家を大事に思うからこその習慣であろう。 しかし、実際には義光が武田を名乗ったことはない。その名を名乗るようになったのは、義光の子・義清が常陸国吉田郡武田郷に移り住み、「武田冠者」と称した後とされる(諸説あり)。そのため、武田氏の祖は義清、と考えるべきだろう。この義清は息子の清光があまりにも乱行が過ぎたことから息子ともども甲斐国市川荘に流されてしまう。ここから、武田信玄に…

【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

…「関東」という強固な鎧が、それを纏う人間たちの心を弱らせたのではないか。結果、3ヵ月にわたる籠城戦の末、氏直が秀吉に降伏することによって小田原征伐は終わった。秀吉は自決を申し出る氏直を許し、代わって氏政とその弟の氏照、及び重臣数名を自決させた。この直後に東北地方の諸大名も秀吉に頭をたれ、秀吉の天下統一は成ったのである。 氏直は高野山に入り、のちに秀吉に許されて1万石を与えられた。氏直の死後はその一部が叔父にあたる氏規の子・氏盛とその子孫に受け継がれ、河内国狭山の大名として江戸…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府12代・足利義晴――各地を転々とした、名ばかり将軍 1511年~1550年

…おんこそで=白糸の大鎧)が義晴に与えられたのは就任から3年も経った後のことであり、このあたりに将軍の権威の低下を窺うことができる。 そんな義晴の音難が始まるのは1526年(大永6年)のことである。始まりは、細川家臣の細川尹賢(ほそかわ ただかた)と香西元盛(こうざい もともり)が争い、ついには元盛が謀殺されるという事件だった。これは尹賢が、高国に寵愛されていた元盛のことを気に入らなかったというのが原因だったらしい。そのため尹賢は元盛の右筆を買収し、元盛に謀反の疑いがあるという…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府11代・足利義澄――管領の傀儡将軍は京を追われ…… 1479年~1511年

…させた将軍家に伝わる鎧と刀を与えて、新将軍として擁立する準備を進めていく。この後、再び改名し、今度は義高(よしたか)と名乗るようになっている。 傀儡とされ、怒りを爆発させる 義高への将軍宣下がなされたのは1年後のことだった。そして、元服式はそれよりさらに7ヶ月も先に行われる予定になっていた。これは政元が典礼を嫌う傾向にあったため、彼の家臣らが説得するのに時間がかかったのだという。このように典礼を疎んずることをはじめ、政元はたびたび不遜な態度に出ることがあった。加えて、政元は奇…

【歴代征夷大将軍総覧】坂上田村麻呂――あまたの伝説に名を残す、武士の象徴 758年~811年

…嵯峨天皇は彼の遺体に鎧を着せ、立った姿で、東に向けて埋葬させた、と伝わる。これは死後も東北平定にその霊威を振るってほしい、という願いに他ならない。また、国家に何か非常の危険があれば田村麻呂の霊が警告してその墓が音を立てて動き、また反逆者と戦うものは彼の霊に祈って加護を求めるのだ、ともいう。さらに神格化され、北天(=仏教の守護神のひとつ、北方を守護する毘沙門天のこと)の化身である、とさえいわれた。 東北の各地には田村麻呂を主役とする伝説が残っていて、彼が建立した、あるいは彼とか…

【お城の基礎講座】53. 水堀(みずぼり)

…ていくからです。重い鎧などを着た武士は堀を泳いで渡ることは簡単にはできませんでした。重いために沈んでしまうこともありました。堀の中で動きが鈍くなっているときには、城内からの鉄砲や弓矢の攻撃でやられてしまうこともありました。さらに水堀の中には、つるを伸ばす植物を植えるのがよいとされていました。なぜならこのつるが掘を泳ごうとしている敵兵に絡みついて身動きを取れなくするからです。こういったことも敵を寄せつけいないためには必要なことで、細かなことにも仕掛けを施していたのですね。 まと…

【お城の基礎講座】48. 城の蔵(くら)

…供する具足(ぐそく=鎧)を保管する蔵もありました。これらはほとんどの場合、隅櫓(すみやぐら)や多門櫓(たもんやぐら)に納められていたと思われます。また、鉄砲や大砲などに使う火薬を納めていた煙硝蔵(えんしょうぐら)などがありました。火薬などを保管しておくため土蔵ではなく、燃えにくい石蔵(いしぐら)や穴蔵(あなぐら)としていました。現存している例としては大阪城の焔硝蔵があります。 その他 他には金を保管しておく金蔵、塩を保管しておく塩蔵、船を保管しておく船蔵などがありました。 ま…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…陣に突入し政宗自身も鎧に矢や銃弾を受けるなど苦戦します。敗色濃厚となった伊達軍は政宗を逃がすべく、軍配を預かった宿将・鬼庭左月斎が殿を務め、人取橋を越えて敵中に突入して討ち死にを遂げました。 また伊達成実の軍勢500も攻撃を受けましたが踏み止まって時間を稼いだため政宗は無事に本宮城に逃れることが出来ました。 伊達軍の壊滅は目前に迫っていましたが日没を迎えたため、この日の戦闘は終結し九死に一生を得たと言われています。 ところがその夜、敵の部将が陣中で家臣に刺殺されるという事件が…

武勇に彩られた本多忠勝の生涯

…て奮戦し、5本の矢を鎧に受けた状態で家康のもとに戻ってきた。これを家康は「我が家の良将」と褒め称え、また武田側からも「家康に過ぎたるものがふたつあり、唐の頭に本多平八」と賞賛の言葉があった、という。 やがて家康は織田信長とともに武田家を攻め、ついにこれを滅ぼす。その際、信長は安土へ戻る前にわざわざ忠勝を呼び寄せてその武功を褒め、「花も実も兼ねた勇士」と自らの家臣団に披露した、という。 その信長が本能寺の変で死んだ際、堺にいた家康は本拠地に戻るために敵対勢力の多い伊賀を抜けなれ…

舅を追い返した小松姫

…考えられる。 これに決然と立ち向かったのが小松姫であった。自ら鎧を身にまとって舅や義弟の入城を防ぎ、しかしその一方で「孫の顔が見たい」という昌幸の願いには女性らしい心遣いで答え、酒や料理で歓待する。もちろんそのときも城内に招くようなおろかなまねはせず、少し離れた寺で宴を開く気の使いようだ。これには昌幸も感心し、「彼女がいる限り真田は安泰だろう」と言った――という。強さと優しさを備えた、稀有な女性であったと言っていいだろう。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2012年6月30日)

剣豪将軍・足利義輝、最後の大奮戦

…れた義輝は、すぐさま鎧を身に着け、しかも十数本の刀を持ち出したとされる。それらの刀を一気に使うのではなく、1本以外はすべて床に突き刺した。そして、襲い掛かってくる敵兵を次々と斬り捨てたかと思うと、やおら手の刀を捨て、次の一本を抜いては再び別の兵を斬ったのである。 日本刀は私たちが思うほど頑丈なものではなく、甲冑や人間の肉・骨を斬れば刃こぼれが起こり、また人の脂によって切れ味が悪くなってしまうものだ。そこで義輝はあらかじめスペアの刀を用意し、とっかえひっかえで振るった、というわ…

人取橋の戦い、主君を救った片倉小十郎&鬼庭左月

…に立ったこの老将は、鎧もつけない姿で見事な奮戦を見せた。人取橋を超えて連合軍への突撃を敢行し、政宗らが引き上げる貴重な時間を稼いだのである。もちろん、こんな無茶をすれば本人の命があるはずもない。彼は75年の生涯の幕を壮絶な討ち死にで閉じることとなったのだった。 もう一人は政宗の片腕として名高い片倉小十郎(景綱)だ。連合軍の攻撃が政宗の本陣にまで達し、総大将までが戦わなければならないような状況に陥ったとき、彼は政宗に「小十郎」と呼びかけた、と伝わる。すなわち、敵に対して「自分が…

【戦国合戦こぼれ話】人取橋の戦い―家臣の献身と敵側の事情が政宗を救う

…・鬼庭良直(左月)は鎧も身につけない姿ながら人取橋で命がけの奮戦を繰り広げ、命と引き換えに政宗が撤退するだけの時間を稼いだ。 おかげで伊達軍は1日目を乗り切ったのだが、翌日以降も戦況は厳しいと思われた――ところが、連合軍側は翌日には撤退し、戦いは終わってしまったのだ。理由は諸説あるが、佐竹氏の重鎮が急死したこと、彼らの本国の情勢が変化したことが原因であったらしい。 この戦いでは、無理に二本松城を攻めた政宗の若さが目立ち、優れた将という印象は薄い。だが、部下の献身や敵の事情とい…

安濃津城 女武者が守った城

…兜をとった。すると、鎧の袖にまでかかる長い黒髪がこぼれ、そのときになって若武者の正体が自身の妻であることがわかったそうである。その後も若武者に扮した信高夫人は戦場に立ち、6、7人の敵兵を倒したという武勇が伝わっている。夫人がどんな気持ちで戦場に立ったのかはわからないが、家族の絆を感じさせられるふるまいだと言えるかもしれない。 夫人の活躍はあっても、兵数の差を埋めることはできなかった。信高は西軍の降伏勧告を受け入れ、剃髪して仏門に入った。 幸いなことに信高の属する東軍が勝利した…

三木城 長期籠城の末に飢えた城

…補給路も絶っている。 それでも戦いは長引き、1580年(天正8年)まで続いていた。この頃になると、別所方では食料の不足が深刻になってきていた。松の皮をはがして柔らかい部分を食べて飢えをしのぎ、鎧を着る力も残っていないような状況である。 秀吉から講和の条件が示され、別所長治ら主だった者の切腹と引き換えに、城内の者の命は助けるという条件で開城の運びとなった。 切腹前に秀吉は長治に酒肴を贈り、長治はそれを受け取った後に自刃して果てた。城は開城し、播磨一帯が信長の支配下となっている。

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