当時、鍋島直茂はまだ「信生」を名乗っていましたが、この勝利を記念して信生は鍋島家の家紋を剣花菱から大友家の杏葉に替えたそうです。なおこの戦い後も大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送るなど、従属関係は完全に解消されることなく一部維持されたようで…
黒田官兵衛が信長に臣従するために謁見したのが1575年(天正3年)7月、その4年後の1579年(天正7年)6月13日に竹中半兵衛は陣中で亡くなってます。しかしこの間の1578年(天正6年)10月から一年間、官兵衛は有岡城に幽閉されていたため、たしかにふたりが秀…
角隈石宗は通好みの戦国武将ですよね。軍師というより、本来の「軍配者」の代表とも言えますが、この耳川の戦いに出陣する際に死を覚悟して自身の書いた兵法書をすべて焼き払ってしまったのがもったいないです。
竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取りのエピソードが事実なら、なぜ信長は2千程度しか守備兵がいないこのチャンスに軍事行動をおこさなかったんでしょうね。この半年間は美濃攻めの好機だったと思うのですが。
なぜ毛利氏が京のある東ではなく西へ侵攻したかというと博多がほしかったようです。 小早川隆景と立花道雪の対決という戦国ファンなら心躍るカードですが、ふたりは20歳ほど離れています。もっとも毛利元就は道雪よりさらに16歳ほど上なのですが。 あと多々…
厳島合戦の勝利は結果を知っているとそう難しくないように見えますが、毛利元就が打った数々の布石はまさに戦略家ですよね。なお宮尾城はこの戦いのために築かれたのではなく、それ以前から大内氏の城として存在していたようです。
松永久秀の謀反の背景には「麒麟がくる」で採用されたとおり、信長が久秀のライバルである筒井順慶を大和守護にすえたことにあるようですが、爆死伝説は昭和に生まれたエピソードみたいですね。
記事にあるとおり、間近の距離で築城工事をしている以上、北条方がまったく気づかないことはありえないと思います。むしろ約3ヶ月で石垣づくりの居城が完成していく過程を見せつけられるほうが守備側の精神的ダメージは大きいのではないかと。
秀吉についてのエピソードは創作あるいは誇張されたものが多いので、この墨俣一夜城にまつわる話も江戸時代に書かれた『武功夜話』にしか記載がないため真偽は定かではないのですが、建材を筏にして川に流すなどその後に秀吉が実行した水攻めのようにスケー…
北ノ庄城の天守は7層とも9層とも言われており、その前年に焼失した安土城に匹敵する規模であったと伝わっています。なかでも現在丸岡城で確認できる笏谷石の石瓦が使われていたことがルイス・フロイスの記録にあり、さぞすごかったんでしょうね。
元亀元年の姉川の戦いで敗北するも、そこから3年間、浅井氏は抵抗をつづけており、長篠の戦い同様、戦国大名同士の争いが一度の勝敗で滅亡に至らないことを示しています。ただどこまで計算だったかはわかりませんが、小谷城を攻めることで朝倉氏を要害・一乗…
仁科盛信は一族・重臣の逃亡や寝返りが相次ぐ中で最後まで武田家に忠誠を尽くした人物としてファンも多いですよね。盛信は自刃したものの、その子の信貞は生き延びて江戸幕府の旗本になっています。
秋山虎繁がおつやの方を正室として迎えたという有名なエピソードですが、史実と異なるという説もあるとか。ちなみに養子に出された勝長はその後も生き延びて、最後は本能寺の変で信忠とともに討死したそうです。
妙林尼の史料はほとんど残っていないそうですが、耳川の戦いで夫が戦士したために出家し、名乗った名前だそうです。ルイス・フロイスの文書にも彼女と思われる記録があることを考えると、当時はそれなりに話題になったのでしょう。
その後、上杉謙信が死に、織田信長が天下人になったので上杉方についた遊佐氏が裏切り者のように語られていますが、はたして本当のところはどうだったのか。七尾城の戦いを別の観点から捉えた「マンガでわかる七尾城」もぜひ読んでください。