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【10大戦国大名の実力】伊達家③――地方勢力の栄光と悲哀

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父・輝宗から政宗ヘ

その晴宗の跡を継いだ輝宗は、かつて伊達家の支配下にあったがのちに独立した最上氏との縁組や、相馬氏との長年にわたる戦いを講和で終わらせた傑物だったが、若くしてその地位を息子・政宗に譲る。
この際、輝宗は家臣団を大きく入れ替え、政宗の発言力を高めたとされる。これによって伊達家は何代も続いた(家臣団の反発を背景にした)父子の対立を回避し、政宗がスムーズに勢力拡大を図ることができた。

現代の企業でも代替わりに伴って幹部社員をごっそり入れ替え、社内意見を統一して新たな局面を迎えようとすることがあるが、それと同じことだと思えばわかりやすい。結果として「奥州の独眼竜」伊達政宗の飛躍が始まることになったわけで、輝宗の先見の明は後世に高く評価されることとなった。
ちなみにこの輝宗、当時大いに勢力を伸ばしていた織田信長に注目してたびたび動物などを贈り物として贈り、信長もそれを喜んだ――というから、先見の明としては相当なものを持っていたのだろう。

家督を継いだ政宗は次々と勢力を拡大し、奥州中南部に広大な勢力を築くにいたった。
政宗の業績として注目したのが、敵対した小手森城への撫で斬り(皆殺し)だ。東北地方では有力勢力のほとんどが血縁で結び付いていることもあり、皆殺しが行われることはない。相手を完全に滅ぼす前に他から仲裁が入るし、そうでなくても周囲に反感を覚えさせるようなことを避けたいからだ。
政宗はあえて皆殺しを行い、古い価値観を打破して新たな価値観を作ろうとした。ここに政宗の革新性を見ることができる。

しかし、息子・政宗が躍進する最中に、父・輝宗は命を落としてしまう。しかもそれは、輝宗が政宗と二本松城主・畠山義継との和睦を仲介していた最中に、突如変心した義継が輝宗を人質に逃走。これを追った伊達家の手勢が輝宗と義継の両者を殺してしまう――という非常にショッキングなものだった。
この死については、輝宗が息子に対して「自分ごと撃て」といったとする美談調のエピソードが伝えられているが、その真偽は不明である。

秀吉も認めた政宗のパフォーマンス

この時期中央では既に豊臣秀吉がその政権を確立させて近畿・中部・中国・四国・九州を制圧し、いよいよ関東へ、東北へとその手を伸ばそうとしているところだった。
政宗は当初こそ関東の北条家と手を結んで豊臣に対抗しようとしたものの、後に方針を転換。秀吉軍の北条攻めに合流し、服従を誓っている。

この際、政宗のパフォーマンスとして「切腹用の白装束で秀吉と会った」という逸話が伝わっている。秀吉は政宗がなかなか来なかった事には怒っていたものの、パフォーマンスを気に入って政宗を許した、という。
しかし、政宗の首に杖を当てて「もう少し遅かったらこれが危なかったぞ」と脅すあたり、秀吉も並ではない。

その後、秀吉によって一部所領は没収されたものの、多くが政宗の手に残った。ところが、秀吉によって取りつぶされた大名の旧臣たちによる大崎・葛西一揆を煽動した疑いをかけられ、転封とさらなる領地減を命じられている。
この際にも逸話がある。政宗は「金銀で飾ったはりつけ柱を先頭に立てて秀吉の所に向かい」、さらに証拠として出された手紙については「本物の私の花押(戦国時代のサイン)には仕掛けがしてあります。これは偽物です」と弁明したという。

本当に仕掛けがあったのか、それともあらかじめ二種類用意してあったのか、真偽はわからない。
そもそも、秀吉や当時の人々が本当に政宗の十字架パフォーマンスを喜んだのか、また花押が偽物だという弁明を信じたのかも、よくわからない。しかし、一揆の煽動をしたということになれば謀反を疑われても仕方がない。それが領地減で済んだのだから、パフォーマンスにも意味があったのだろう。政宗らしい大胆不敵な話である。

政宗のこうしたパフォーマンス趣味には、現代の人気政治家や名物社長と同じものが感じられる。
すなわち、人目を引く派手な行為で交渉相手の度肝を抜き、また庶民の人気を集めて政治や事業をやりやすくする、というわけだ。テレビが普及して政治がショー化されたといわれるが、実はそれ以前からこうしたパフォーマンスで政治を動かす手法は存在したのである。無論、そのやり口に賛否が分かれることは現在も変わらない。

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