攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

龍興のもとで衰退する斎藤家

跡を継いだのは義龍の嫡男・龍興で、この年わずか14歳である。一国を統治するには幼すぎた。
義龍の死は桶狭間の戦いの翌年にあたる。この頃の信長はすでに尾張をほぼ統一し、また強敵・今川義元を倒した後なので、喜んで美濃攻めの兵をあげた。織田軍と斎藤軍は森部で激突し、織田の圧勝に終わった。
ところが、勝った方の織田軍も斎藤軍の粘り強い抵抗にあって致命傷を与えるまでのことはできなかった。義龍がきっちり美濃の国人衆をまとめあげていたことが、彼の死後にも生きたのであろう。

こうして再び織田と斎藤がにらみ合う状態になったわけだが、どうやら龍興には祖父や父のような才覚が欠けていたらしい。長じてから放蕩にふけったという話もある。実際、彼の代から斎藤氏は少しずつ衰退していくことになる。
龍興の「失敗」としてもっとも名高いのが、家臣の竹中半兵衛による1564年(永禄7年)の「稲葉山城乗っ取り事件」である。なんと、わずか十数名の兵を率いた家臣に居城を奪われて、しかも1年取り返せなかったうえに、最終的にその家臣の手から返してもらった――というのだから、これは戦国大名として失態中の失態といえる。どうしてそんなことになったのかを見てみよう。

元々の発端は半兵衛と龍興側近の対立にあったらしい。軍略の才能に恵まれた代わりに多分に頑固なところのあった半兵衛はいじめやからかいの対象になり、時に小便をひっかけられることさえあった。
これに激怒した半兵衛は大掛かりな「復讐」を企んだ。まず城中にいる弟の見舞いと称して城に登った半兵衛は、隠していた武器を取り出して突如城内を占領。そこに半兵衛の舅にあたる有力武将・安藤守就が兵を連れて駆けつけたから、龍興は城を捨てて逃げ出すしかなかった。前代未間のクーデター、完成である。

半兵衛はこの後1年近く城を占領した後、尾張の信長が「城を明け渡せば美濃の半分をやろう」と誘ってきたのも拒否して龍興に城を返すと、自身は隠居してしまった。のちに信長が美濃を占領した後で彼の家臣となり、羽柴秀吉――のちの豊臣秀吉の軍師となるのだが、これはまた別の話だ。

半兵衛が何を思ってこの事件をおこしたのかは定かではない。
ただの意趣返しだったかもしれないし、体を張って主君に反省を求めようとしたのかもしれない。クーデターによって美濃を乗っ取る気だったが稲葉山城占領後はうまくいかないのであきらめたのだ、という見方もある。
しかし間違いないのは、龍興に祖父・道三や父・義龍のような才覚があれば、このような状況には陥らなかっただろう、ということだ。

減亡とその後の龍興

稲葉山城乗っ取り事件に象徴されるように、家臣団の信頼を失っていった龍興は、美濃占領をもくろむ信長の前に押されていくことになる。
そして、そのとどめとなったのが「西美濃三人衆」と呼ばれる有力国人衆の裏切りだった。先に名前の出た安藤守就に稲葉一鉄・氏家卜全を加えたこの三人は、美濃西部に代々大きな勢力を持ってきた地付きの名門武家である。

道三の美濃乗っ取りが成功したのにも、彼らが味方についたことが大きい。彼らに見放されては龍興の命運はすでに尽きたも同然だった。1567年(永禄10年)、龍興は稲葉山城を攻め落とされて美濃を脱出する。
こうして道三以来の戦国大名・斎藤家は滅亡したのである。

ところで従来はあまり注目されないのだが、龍興と信長の戦いはこれで終わりではなかった。伊勢長島を経由して摂津にたどり着いた龍興は三好三人衆を頼り、後に信長が足利義昭と対立して「信長包囲網」の苦境に立たされると一向一揆とも連動して信長に戦いを挑んでいる。
しかし、結局のところ龍興が信長に勝つ日は来なかった。越前の朝倉家のもとに身を寄せた龍興は、信長の越前侵攻に立ち向かうも、敗れて討ち死にしている。1573年(天正元年)のことであった。

地盤が弱いからこそ……?

なんともはや、斎藤三代(もしくは四代)の生涯はそれぞれに劇的でドラマチックである。
僧侶から身を興し、地盤を築き上げた新左衛門尉。それを引き継いで美濃一国を盗み取った道三。父殺しの汚名を着た義龍。国を追われた後も信長と戦い続けた龍興。彼らの物語は史実と創作が入り混じったものではあるが、それだけに歴史ファンもそうでない人も引き込むだけの魅力にあふれている。
そして、その生涯は戦国時代の縮図をそれぞれの形――成り上がり者の時代、主家乗っ取りの時代、肉親同士の骨肉の争いの時代、力なきものが追われる時代――で象徴したものでもある。

加えて、成り上がりの家系であるがゆえに家臣団、国人衆とのつながりが弱かったであろうことも、このような劇的な運命にかかわっているはずだ。
多くの戦国大名は譜代の家臣をもち、周辺の国人とも代々の付き合いがある。その関係性が勢力を拡大していった後に地盤という大きな力になって大名を支えてくれる。しかし、成り上がりの家にはそれがない。だからその立場はいつだって不安定なのだ。

たとえば、戦国時代を代表する成り上がりといえば豊臣秀吉だ。
彼は庶民の出だから、譜代の家臣も血縁で結ばれた国人もいない。だから加藤清正や福島正則、石田三成といった若者たちを育て、生え抜きの家臣として自らの政権を任せようとした。ところが、彼らは立場の違いから反目し合い、秀吉の死後に相争って徳川家康が躍進する隙を作ってしまった。
同じように、一から成り上がって主家を乗っ取った斎藤家には、地盤がなかった。だから不安定で、滅亡の原因になった。そういうことなのだろう。

実際のところ、一般のイメージと違って戦国大名には守護や守護代出身が多く、最低でも国人として代々の領地や家臣がいるのがほとんどだ。成り上がって大名になったのは斎藤家や豊臣家くらいで、彼らの勢力は長続きしなかった。
このあたり、現代でいうと政治家に近いのかもしれない。政治をやるには三バン――地盤、看板(名声)、鞄(資金)が必要なので、その点に有利な世襲政治家ばかりが増えるのだという。そうでない政治家はどうしても立場が不安定なのだ――そう、「地盤のない大名」のように。
なんだか世知辛い結論になってしまったが、それが歴史の示す真実というものである。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する