攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

井戸 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…された土橋門や近くの井戸、枡形、土塁に塀と見所はたくさんありますが、本丸跡に残る大きな土塁や、三の丸の遊歩道外の土塁なども個人的にはいい感じでした。土橋門から三の丸の外側をぐるりと回る道も土塁の高さを感じるいい道でした。土橋門のある三の丸で終わらず、本丸の方まで足を伸ばして欲しいです。 館林城は市民の施設が立っていることから、市民の生活に城がある感じがして、なんだかほっこりするとともに、もう少し歴史のあるこの城の存在を感じる場所にならないかなぁと思いました。城もなかをはじめ、…

細川玉子さんによる「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」レポート

… 埋門石垣と 産湯の井戸じゃ!」とお答えくださいました😊 中でも「岡崎城の心礎は触ることが出来るんじゃ!これは他の城ではなかなかないじゃろうな。大変貴重だと思うぞ!」とお話くださいました! その心礎なのですが、スタッフ様にお声かけし、玉子も触らせていただきました。「岡崎城を築城したのはわたくしなのでは?」と思える、不思議な力を感じました😊 さすが家康様! 岡崎城のことを伺うなら、「葵」武将隊の家康様しかおられませんね😊 そして、稲姫様へは【おすすめのお土産品】について、お聞き…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…のコーナーには「有楽井戸」と呼ばれる大井戸茶碗のほか、徳川美術館やマスプロ美術館から借りてきた有楽好みの茶碗が展示されています。 そしてこの特別展の目玉はなんといっても狩野山楽が描いた「蓮鷺図襖」でしょう。チラシにも使われている、このインパクトのある金碧障壁画は豪華で美しいのでぜひ間近で見てほしいです。ちょうど椅子もあるのでしばらく座って見るのがいいですね。 ぼくは2022年3月の「京の冬の旅」で正伝永源院が特別公開された際に「蓮鷺図襖」を見ましたが、今回は室中と同じ配置で展…

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

…には怪談で有名なお菊井戸があり、ちょっとしたホラーが楽しめます。お城に入る前に広場があるのでそこで花見がてらお弁当を食べました。最近では彦根城の「ひこにゃん」人気にあやかり、姫路城の「しろまるひめ」とかいうゆるキャラも登場したようです。 姫路城の始まりは、1346年の赤松貞範による築城とする説や戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の…

城葱さんの「城もなか」道中記【岩村編】

…ピンク文字で右側に、井戸に蛇骨投入して霞が城を包んだ伝説が紹介されている。ピンクの色彩は可愛らしく、幻想的な霞のイメージにもいいが、ぱっと見では見にくい。霞のために見えにくいという演出なのかもしれない。 あんは、あま酒あん。これは今までに登場したことのない新しいタイプのコラボあん。あんにフルーツやくるみや栗という山の幸を組み合わせるのはあるが、あま酒という飲み物を合わせるのは初めてです。この斬新な挑戦にも拍手喝采だけど、代表銘柄「女城主」で有名な地元の名蔵元「岩村醸造」とのコ…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…時であったために、溢れた濁流はすぐに城を水没させてしまった。これが「高松城の水攻め」だ。 どうにか本丸だけは残ったが、備蓄した食糧はすべて水没し、井戸も沈んだために水も泥水しか手に入らない。到着した毛利の援軍も秀吉軍に阻まれ、ついに講和の交渉が始まる。しかし、その条件で難航しているうちに京都より急報が秀吉の元に届く。それは本能寺で信長が殺されたことを知らせていた……。こうして時代は次の局面へと大きく動いたのだ。 kojodan.jp kojodan.jp kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ③――武将の気迫で持ちこたえた城・長光寺城

…も、長光寺城は城内に井戸がなく、城外から水路の類を利用して水を引き込んでいたようで、そこを押さえられてしまったらしい。 城というものの性質からしてそんなに簡単に水源を断たれては困るのだが、もともとこの地域が六角氏の勢力範囲だったことから、領民たちの協力を得てこの作戦は成功した、というわけだ。たちまち城内の水は尽き、残されたのはたった三つの水瓶だけとなった。そのまま立て籠もり続けたら、籠城側は戦う力をすべて失って降伏するしかなかっただろう。だが、ここで勝家が気迫を見せる。「この…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相④――戦わずに勝つための長囲と調略

…それだけに、籠城側は井戸をはじめとする水の確保に神経質になるわけだ。 もうひとつは「水攻め」である。ここまで繰り返し紹介してきたように、生活のための飲料水や防備のための水堀、交通のための川や海など、城にとって「水」は非常に重要な要素だ。それを逆利用するのがこの水攻め――具体的には土木工事で近くの川の流れを変え、堤防を築いて、城を水浸しにしてしまう戦法だ。結果、その城は孤立し、援軍が後詰決戦に挑むのも難しくなる。川に面していて窪地にある城などに、特に効果があると考えられる。しか…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】本城の場所は「四神相応」であるべき?

…絶対的に必要だからである。日常的な居住空間として使うにしても、非常時に籠城するにしても、水が確保できなければ話にならない。 このような「水手」(飲料水)の問題も、城作りにおける重要ポイントである。井戸や貯水池のある区画は「井戸曲輪(水手曲輪)」と呼ばれ、厳重に守られた。籠城側としてはこれを守りきらなければいけないし、攻城側はここを破壊したり汚染したりできればかなり勝ちに近づく。それだけ重要なだけに、そもそも場所選びの時点から水手の問題は重視されたであろうことは想像に難くない。

40年ぶりの特別公開、古田織部ゆかりの興聖寺を見学してきました

…」です。「まいまいず井戸」のように、地面を深く大きく掘り下げ、螺旋状の石段を降りた先に手水鉢があります。以前は水が湧いていたそうですが、いまは枯れているとか。 かなり珍しいのですが、あとでネットで調べてみたら大徳寺の塔頭・高桐院や滋賀県の青岸寺など、ほかにもあるようですが、これだけ大きなのはここだけみたいです。 なんとも洒落たこの「降り蹲踞」が古田織部によるものだと断定できる記録はないそうですが、でもこんなに奇抜な発想は織部っぽいですよね。ザ・数寄って感じ。ちなみに奥に見えて…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立に端を発し、大和一国に広がった騒乱 室町時代 1438年(永亨10年)〜1439年(永亨11年) 永亨の乱 鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じた事件 室町時代 1441年(嘉吉元年) 嘉吉の変(嘉吉の乱) 播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(あかまつ みつすけ)が、室町幕府6代将軍・足利義教を殺害した事件。満祐を討伐した山名持豊の功により山名氏の勢力は大きく拡大し、細川氏と力を競う…

【お城の基礎講座】52. 曲輪(くるわ)の名前

…(みずのてくるわ)・井戸曲輪(いどくるわ) 井戸などの水源を含む曲輪の一般的な呼び方です。 その他 太鼓丸、鐘丸、馬屋曲輪などの名前もあります。 まとめ 曲輪の名前には本丸、二の丸、三の丸などや、方位名がついた西の丸、東の丸、役割の名前がついた水の手曲輪などがあります。城郭によって名前の付け方に特徴があるところがありますので、それらを比較してみてもおもしろいでしょう。ということで、曲輪の名前についてのお話でした。じゃあね🖐️ このコラムが毎日メールで受け取れます 以下のページ…

【お城の基礎講座】34.櫓(やぐら)のネーミング

… その他には、内部に井戸を作った 井戸櫓(いどやぐら) 水の手櫓(みずのてやぐら) などがあります。 時を知らせる櫓 物を貯蔵しておく以外にも櫓の役割がありました。それは時を知らせるための櫓で、 太鼓櫓(たいこやぐら) 鐘櫓(かねやぐら) というものです。 太鼓櫓は二重櫓のニ階部分に太鼓を置いて、太鼓の音を遠くまで響かせるためにニ階の窓を大きくしたものです。朝と夕方に太鼓を鳴らし、これを合図に城門の開け閉めが行われていました。太鼓ではなく鐘をつく場合は鐘櫓と呼ばれました。 掛…

丸亀城 城と迷信

…とは知らない重三郎は井戸を調べて欲しいと頼まれ、鉄棒を使って水面まで降りた。その時、大きな石を上から落とされて井戸の底に沈んでしまった。こうして裸重三も城の人柱にされたと伝わっている。 このふたつの伝説は真実とは考えにくい。豆腐の売り歩きは江戸になってからの文化であるし、石工が道具を使って石垣を登っても特段警戒するようなものではないからだ。伝説ができたのはその後の生駒氏の運命が影響している。親正の曾孫の代に起きたお家騒動が原因で、生駒氏は諸侯ではなくなっている。あまりにも早い…

【お城の基礎講座】24.籠城のために

…たと考えられます。 井戸 長期にわたって籠城する時に必要なものは水です。そのため、天守の地下には井戸が作られました。松江城天守の地下には井戸が残っています。 トイレ 人が生活すると必要になってくるものの一つにトイレがあります。姫路城には雪隠(せっちん=トイレ)が全部で六つもあります。しかし、一度も籠城戦が行われていないため『未使用』です。 流しや囲炉裏 食事を作る場所も作られました。姫路城天守には巨大な流し、備中松山城天守には長囲炉裏が作られました。これらの備えは、すべての天…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…空堀や土塁、石垣や大井戸など山城 の特徴と言える遺構が残されているのみ。春日山城跡の中腹には遠くを睨むかのような凛々しい上杉謙信公の銅像が立っていますので必見です。 とも | 謙信公像[春日山城] その他にも本丸跡や上杉景勝屋敷跡、直江兼続屋敷跡、毘沙門堂跡など石碑があちこちに建っているので散策するのが楽しい史跡だったりします。 所在地 新潟県上越市大字中屋敷ほか アクセス 車の場合、北陸自動車道「上越IC」から車で15分。または上信越自動車道「上越高田IC」から車で15分。…

南山王の居城・南山グスクと、沖縄最南端の具志川グスクを取材してきました

…ですが、生活の痕跡や井戸の有無を見ることで、特殊な用途で使われたことがわかります。あと現地はほんとうに風がすごかったので建物は建てることは不可能でしょうね。 二の郭には「ヒーフチミー(火吹き穴)」と呼ばれる穴があります。この竪穴は東の崖下にある横穴とつながっていて、船からの荷揚げ用だったとも、緊急時の避難用だったともいわれています。 一の郭のほうが低いというのも珍しいですね。 見渡すかぎりの太平洋です。風などの影響で那覇に入港できなかった船にとっては最後の寄港地なので、そうい…

琉球における築城の名人・護佐丸が築いた座喜味城を取材してきました

…理由は城内にひとつも井戸がないからです。それと建物が正殿以外に確認されていないことから、逃げ城(=本土でいう詰城)だった可能性を指摘する研究者もいるそうです。 階段が設置されていて城壁に上がれます。グスクではよくある風景ですね。 見晴らしがとてもいいのですが、風が強かったです。 ちなみに台風のあとは地面がデコボコになってるんだそうです。城壁が穴の多い琉球石灰岩でできていて、そこに風が吹き付けるから起きる現象ですね。 城壁の曲線(アーチ)が連続していることや、城壁の厚さ(幅)が…

かつての王都・浦添グスクと浦添ようどれを取材してきました(伊祖グスクも)

…ェックしましょう。 井戸もありますが、野面積みの粗いつくりなので、親富祖さんは「水が溜まったかわからない。雨水を一時的に溜めておく程度の井戸だったのかも」とおっしゃってました。 さらに奥に進みます。 「旗立て岩」と呼ばれる見張り台からの見晴らしが最高です。もともとはここにも御嶽がありました。 牧港もよく見えますので、おそらく英祖王が浦添グスクに移ったあとも港の監視などのために使われたと思います。 「発掘調査をしてないのであんまり説明することがないんだよね」とおっしゃってました…

琉球版・麒麟がくる!? 阿麻和利の居城・勝連グスクを取材してきました

…述しますが、城内には井戸もたくさんあります。 階段をのぼると四の曲輪に出ます。 四の曲輪 城内でもっとも広いのがこの四の曲輪です。約2000坪あるとか。 上の写真の右側、つまり三の曲輪側に重臣の居住区が、反対側にはノロ(神女)や鍛冶屋など職人の屋敷があったと考えられています。奥のほうに進むと、大手門にあたる南風原御門(はえばるうじょう)と呼ばれるアーチ式の門があったそうです。 四の曲輪には5つの井戸(カー)があり、まず西原御門のそばには訪問者が手を洗って清めるために使われた「…

琉球国王・尚円王の生まれ故郷である伊是名島を取材してきました

…中腹にあるイシカー(井戸)へ行けます。沖縄では井戸のことを「カー」といい、ほかのグスクでも「○○カー(またはガー)」という井戸がたくさんあります。 この日は時間的にも装備的にも山頂を目指す余裕はなかったので、イシカーのほうへ進みました。 海側を歩くので見晴らしが最高です。 仲田港もよく見えます。 下の写真に見えている島は「降神島(うるがみじま)」といって、天から神々が降り立った島という言い伝えがあります。 本土だと神様は山に降りるのですが、琉球では島に降りるんですね。この島は…

紅葉の名所、大徳寺高桐院にいってきました

… 墓所の手前には三斎井戸と呼ばれる井戸がありました。 また庭にある袈裟型降り蹲踞(けさがたおりつくばい)は加藤清正が朝鮮出兵の際に、朝鮮王城の羅生門礎石を持ち帰り、細川忠興に贈ったものを利用したと伝わります。忠興はこのつくばいをとても気に入ったそうで、参勤交代の際にも持ち歩いていたといわれています。 苔がいい感じですね。 先日訪問した総見院の掘り抜き井戸も清正が朝鮮から持ち帰った石でつくったものと案内されていましたし、黄梅院にも清正が持ち帰った石がありました。これは日本に帰国…

築城の名手(2)加藤清正が築いた城

…下水をくみ上げられる井戸を数多く掘り(およそ120ヶ所)、非常時の食糧としてレンコンが栽培され、梅、銀杏が植えられていました。 熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれていますが、それは本丸にあるこの大銀杏(おおいちょう)に由来します。 ちなみにこの大銀杏は雄の木で、残念ながら実はつけません(よって食料としては使えませんでした)。 また楠木は根から油が採取できることを考えて植樹したといわれています。 さらに畳には芋茎(ずいき)を入れて、壁の中には干瓢(かんぴょう)を塗りこんで、いざとい…

SL人吉に乗って、雨の人吉城を訪問してきました

…のかは謎で、こうした井戸をもつ地下室はこの相良清兵衛と息子の相良内蔵助の屋敷跡で発見された2例しかないそうです。 相良清兵衛は藩主と対立して「御下の乱」に発展するんですけど、この地下室がなにか関係しているのかもしれませんね。 人吉城址です。石垣がカッコいいです。 この上部にある石が飛び出た部分は「はね出し」と呼ばれていて、西洋式の技術だそうです。ほかには北海道の五稜郭などで見られる城郭建築で、珍しいみたいですよ。 (手前には排水用の石樋も見えますね) ここは御下門(おしたもん…

唐入りの前線基地、名護屋城はめちゃくちゃ広かった(そして名護屋城博物館はすごかった)

…す。 ここには唯一の井戸が残っています。 三の丸から本丸にいけるんですが、馬場のほうにまわりました。 ここの石垣もすごいです。 風化してはいますけど、櫓台も残っています。 二の丸です。二の丸はちょっとした広場みたいになっていました。 建物があったことを示す礎石跡がわかるようになっています。 この石垣にのぼってみます。 おそらくこの下あたりが真田昌幸の陣跡じゃないかと思います。 当時はもっと見晴らしが良かったんでしょうね。 では本丸のほうに戻りましょう。 これが二の丸から見た本…

姫路城大天守内覧会に参加してきました(ブルーインパルスも目撃!)

…向に進みます。 お菊井戸前です。 この先が招待者限定エリアになっていました。 修理期間中の見学施設「天空の白鷺」が閉館してからは解体のためにここで行き止まりになってましたから、ひさしぶりです。 そして! 大天守の石垣です。これを見るのはもう何年ぶりでしょうか、エレベーターのガラス越しには見てましたけど、あらためて見上げるとすごい石垣ですねえ。 この天守台の石垣は14.5メートルあります。 風が強くてなかなか寒かったのですが、5分くらい撮影しまくってました。 いよいよ大天守の中…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する