攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

小田原征伐 の検索結果:

【家康の謎】家康は武術の達人だったの?

…るエピソードがある。小田原征伐の際、川を渡ることになった。家康はこの時点ですでに馬術の達者として知られていたので諸将はその様子を見守っていた。ところが家康は馬術の腕を見せようとせず、自分の馬から降りて家臣におぶさり、そのまま川を渡ったという。この様を笑う者もいたが、心ある人々は「危ないところを避けることこそ馬術の達者の証拠」(意訳)と感じ入った、とされる。 これらの名言・エピソードに共通するのは、「ただの武将・武士と大将のやるべきことは違う」という思想性だ。なるほど家康は剣術…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…秀吉軍に従軍していた小田原征伐あたりは軒並み「勝利」としてカウントされているのもどうなのかなと。 こうやって見てみると、初陣の寺部城攻めにはじまり、それなりの数の合戦に参加しているものの、家康自身が主体的に起こした合戦が少ないことに気づきます。姉川の戦いのように信長の援軍として参加した合戦、武田信玄に攻め込まれての防衛戦など、巻き込まれた合戦の数があまりに多い。三英傑でくくられる信長や秀吉と比べても圧倒的に武力制圧による領土拡張が少ないですよね。 関ヶ原の戦いや大坂の陣が有名…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…0年(天正18年)の小田原征伐後に秀吉より東海五カ国から関八州への転封を命じられたため、それに従って江戸に入城しました。家康がまず手掛けたのは家臣団の配置です。江戸につながる主要な街道の入口には重臣を配置しました。つまり、上野国の高崎には井伊直政、上野国の館林には榊原康政、相模国小田原には大久保忠世などです。家康が入った江戸城はどうだったかというと、本丸及び空堀で仕切られた二つの曲輪があった程度で、城の改修は必要最低限に留めたと言われています。大きく築城を行うのは1603年(…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…e.com 北条家(小田原征伐)や豊臣家(大坂の陣)のように大軍で居城を攻められての籠城戦の場合はそのまま滅亡になっているものの、野戦での敗戦――それも本拠地から遠く離れた遠征先での敗戦なら即滅亡にはならない確認はできたかなと。同時に即滅亡していない時点でその当主はけっして暗愚ではなく、むしろ歴代を振り返ってもトップクラスに有能だった可能性があることも正しく認識すべきだと思いました。大内義隆、朝倉義景、今川氏真、武田勝頼など家を滅亡させてしまった当主はどうしても無能で暗愚なイ…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…利軍にも伊予を落とされていたため、元親は秀吉軍に降伏する。秀吉は彼に土佐一国のみを安堵し、他の三国はそれぞれ部下たちに与えたのだった。 この四国征伐は大軍によって一気に決着がついた戦いでもあったが、元親が戦上手なだけにもっと長引く可能性は十分にあった。それをスピード解決に導いた要因のひとつが官兵衛の見事な策略にあったのは間違いない。この後、秀吉は九州を席巻しつつあった島津家を九州征伐で押し返して傘下に入れ、さらに抵抗する北条家を小田原征伐で壊滅させ、天下統一を完成させるのだ。

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…条氏を「踏み潰し」た小田原征伐の際のものである。これこそ、先述した「水攻めに耐えた城」のエピソードだ。ここでもまた、活躍したのは女性であった。小田原征伐が行われた時、当時の城主・成田氏長は主家である北条氏の本拠地、小田原城救援のため城を留守にしていた。残されていたのは氏長の夫人およびわずかな武将と兵に過ぎなかったのだが、豊臣軍はこの城を見逃してはくれなかった。長囲にあたってはまず周囲の支城を落として本城を孤立させるのが常道であったから、これは仕方がない。 しかし、忍城側も易々…

【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

小田原征伐とその後の北条家 信長の死後に中央を席巻した豊臣秀吉は北条家に対して臣従を要求したが、氏政・氏直親子はこれに従わなかった。そして1589年(天正17年)、北条家が真田家と名胡桃城をめぐって領土問題を起こすと、これを大義名分として秀吉軍による小田原征伐が開始される。これは秀吉率いる本隊が西から、上杉・真田・前田らが北から、九鬼・長宗我部らが海から、と三方から総勢21万に及ぶ大軍が北条家を攻め立てる、史上まれに見る大規模な合戦であった。 この際の北条側の様子を示すものと…

【10大戦国大名の実力】北条家④――関東に覇権を築いた氏康の時代

…で現代企業の本店支店制度のようで、非常に先進的なシステムであるといえよう。こうして配置された支城主たちの下には、「○○衆」とよばれる軍団が構成され、いざという時には地域を防衛する軍事力となった。 氏康という優れた指導者が死んで、家督が4代・氏政や5代・氏直といった後継者に受け継がれていっても、豊臣秀吉が大軍をもって攻め込むまで決して破られることのなかった関東の組織力は、このようにして形成されたのである。しかし、この強さが秀吉による小田原征伐の際には、どうやら裏目に出たようだ。

【10大戦国大名の実力】北条家①――築き上げた組織力がもたらしたもの

…しとしなかったために小田原征伐で攻め滅ぼされ、五代約百年の歴史に幕を下ろした。 この一族では開祖にして「戦国時代の始まりを告げた男」「最初の戦国大名」こと北条早雲の名が特に有名だが、その後に続く氏綱・氏康・氏政・氏直もそれぞれに個性を持つ優れた大名たちで、関東支配と地盤固めに奔走した。そして北条家が得たのは、関東に根付いた強大な組織力であった。戦国時代末期の北条家は名実ともに「関東の支配者」といっていい。にもかかわらず彼らが滅びたのは、別の方法論で形成されたより強力な勢力が中…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…0年(天正18年)に小田原征伐が行われると、秀吉はこれに参陣しなかった奥州の諸大名に対し、仕置きを行った。対象の大名から領地を没収し、空いた領地に自分の家臣たちを配置したのである。 その中のひとりが氏郷だ。彼はそれまでの領地であった伊勢から会津へ転封となった。氏郷が会津に配置されたのには理由がある。会津は奥州勢が京へ向かうために必ず通らなければならない要所である上、奥羽には「東北の覇者」と称される大名・伊達政宗がいたのだ。つまり、秀吉は奥州勢力をけん制するために氏郷を会津に置…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…秀吉による北条攻め「小田原征伐」では、豊臣軍20万余騎、北条軍8万余騎と両軍あわせて28万人が参加する大合戦となっています。もっともほとんどの部隊は包囲に参加しただけで、槍を手に取り戦った人数となるともっと少ないと思いますけど。 kojodan.jp ちなみに秀吉が明智光秀をやぶった「山崎の戦い(山崎合戦)」では羽柴軍4万余騎、明智軍1万6000余騎と両軍あわせて5万6000人、柴田勝家をやぶって信長の後継者闘いに勝利した「賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳合戦)」では羽柴軍5万余騎、柴田…

【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易

…0年(天正18年)の小田原征伐で北条氏が滅亡して以降、上総国の家臣団を里見家が引き受けていったために、過分な人数の牢人が安房国に存在する結果になったのではないかといわれている。この三つを見ると、どれも謀反とするには明確でない罪状ばかりなのがわかる。それでは、このような不明確な理由を取り上げてまで徳川家が里見家を改易に追いやりたかったのはなぜなのか。そこにはやはり、隠された「真の理由」が存在した。 外様大名であることと「見せしめ」が改易の真相 まず第一に、里見家が外様大名――つ…

八王子城 戦国の終わりを告げた城

…のは、豊臣秀吉による小田原征伐と言えるのではないだろうか。この戦いによって豊臣秀吉の力が天下に知れ渡り、その後、国内での大きな戦は消えていくからだ。その戦いの舞台のひとつとなったのが八王子城である。 syama1957 | 詰の城(天主閣跡)[八王子城] 八王子城は関東の山城としては破格の大きさである。この城は、北条氏康の三男・氏照によって1582年(天正10年)頃に築城されたと考えられている。城は深沢山に建てられた。深沢山は北浅川と城山川に挟まれた扇状地にある、険しい独立峰…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…の大大名であったが、小田原征伐後、家康は代々受け継いできた三河を含む東海から、関東への国替えを命じられ、本領を手放すことになった。これは家康を遠隔地へ移してその脅威を削ごうとする秀吉のたくらみであったとされる。家康ほどの大名であっても、これには従わざるを得なかったのである。 この配置転換から逃れて、かつ本領を保持できたのは、ごく少数の、それも中央から離れた遠隔地の大名だけだった。すなわち、陸奥の南部・津軽・岩城・相馬、出羽の最上・戸沢、常陸の佐竹、中国地方の覇者として早くから…

【戦国合戦こぼれ話】小田原攻め―未曾有の大軍と万全の準備

1590年(天正15年)ごろには、豊臣秀吉による天下統一は最終段階にいたっていた。旧織田政権の諸将は完全に彼の傘下に入り、北陸・中国・四国・九州の諸大名もあるいは降伏し、あるいは攻め滅ぼされていた。そんな秀吉に対して明確な対立姿勢をとっていたのが、関東の覇者である北条氏(小田原北条氏)であった。 秀吉は傘下の大名である真田昌幸と北条氏が領土争いを起こしたことをきっかけに、一気に殲滅することを決める。「小田原攻め」などと呼ばれることの戦いこそは、秀吉が築き上げた圧倒的な戦力・経…

【戦国を彩る名軍師たち】三成に過ぎたるものが二つあり――島清興

…名な忍城攻めの失敗(小田原征伐の際、北条方の城に水攻めを行うも失敗、非常に攻めあぐねた)などの例を見ても、戦場の猛将ではない。 そこで彼は武勇で知られた清興に目をつけたのだが、その誘い方が凄い。なんと、三成は当時の自分の所領四万石のうち一万五千石(一説には二万とも)を割くという破格の条件を示したのである。確かに清興という名将にはそれだけの価値があった――なにしろ、のちに「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」などと謳われるような男だ――が、なかなかにできる判断で…

【受験にご利益あり?】全国にある「落ちない城」一覧

…城は豊臣秀吉による「小田原征伐」の際、石田三成が率いる2万6千の大軍に攻められながら、わずかの兵で籠城して耐え抜き、落城しなかったことから「落ちない城」としてPRしています。成田氏長の娘・甲斐姫をモチーフに作られたお守りがJR行田駅前観光案内所のほか、行田市郷土博物館・行田市役所・観光情報館ぶらっと♪ぎょうだ・古代蓮会館・前玉神社・高源寺で販売されています。 落ちない御守り発売中!|行田市観光ブログ blog.kojodan.jp 富岡城 一般的には知名度が高くありませんが、…

【戦国を彩る名軍師たち】独眼龍に助言を与え続けた片倉景綱

…る。 最も有名なのは小田原征伐に際しての一件であろう。秀吉が北条氏の小田原城を攻めた際、政宗のところにも出陣命令が来た。これを断ることは秀吉との敵対を意味したが、しかし出陣すれば秀吉に従うことになる。この際、景綱は強烈な勢いを持った秀吉のことを「夏の蝿」に例え、幾度かは潰せてもついにはしのぎきれなくなる、と進言した。政宗もこれを受け入れ、秀吉に付き従ったため、伊達氏は滅亡を免れたのであった。 もともと師弟関係であった景綱と政宗の結びつきは強く、この時以外にも度々助言する機会は…

【戦国武将の御朱印集め】織田信長を祀る建勲神社の御朱印をいただいてきました(京都)

…断で和睦し、さらに「小田原征伐」で武功をあげながら三河・遠江への転封を嫌がって改易となり、「大坂の陣」後に大名として復帰するなど、波乱万丈の人生を送っていますが、織田の血脈をこうしてつないだことは評価されるべきでしょうね。 船岡山城として攻城も 冒頭に書いたとおり、いちおうここも城址です。山頂西側には少しだけ広場があるのですが、ここからは京都タワーまで眺望できるので、「応仁の乱」のときは木もなかったでしょうからかなり見晴らしが良かったんでしょうね。 下の写真の左端に京都タワー…

戦国末期の駿府城の瓦について

…に徳川家康が築城し、小田原征伐後に家康が関東移封となったことにともない中村一氏が入城します。江戸時代にはふたたび家康が大御所の城として城主になっていますが、この金箔瓦がいつ・誰の時代のものなのかについて諸説ある状況です。今回はツイッターでこの件について考察されている寺井半兵衛さんに寄稿いただきました。 駿府城から出土した瓦は従来、徳川家康の家臣である松平家忠が書いた『家忠日記』より、家康が五カ国領有期に居城としていた1586年(天正14年)〜1590年(天正18年)には石垣の…

忍城 豊臣の猛攻に耐えた堅城

…を攻めた。世にいう「小田原征伐」である。この戦いでは北条氏の本拠地・小田原城で長期の籠城戦がおこなわれたが、一方で北条の支配下にある関東各地の城でも数々の戦いがあった。豊臣方の石田三成による忍城攻めもその中のひとつだ。 tamo | 雨上がりの夜空[忍城] 舞台となる忍城は北条氏の支配下にあった成田氏長の居城であった。埼玉県行田市にあり、湿地帯の中に点々とある島に築かれている。城は攻めにくく、越後の上杉謙信を退けるなど、堅城として知られる。城は1490年(延徳2年)、成田親泰…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…でした。 解説画像は小田原征伐についてまとめた2枚です。画像を2枚添付してみたらどうなるかなあと思って試してみましたが、だからといってたくさんシェアされるわけもなく。 #真田丸 今週から小田原攻めです。北条征伐の進軍ルート(真田は北方隊)と小田原城包囲の布陣を2枚にまとめました。秀吉が家康に「関八州を与える(でもいまの領地は取り上げる)」と伝えた、いわゆる「関東の連れ小便」は6月末頃っぽいですね。 pic.twitter.com/DNXRdhmZK1 — 攻城団 (@kojo…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…昌幸・信幸とともに「小田原征伐」に参加。松井田城攻め、忍城攻めなどに加わる。信繁はこれが初陣となる。信繁、この頃に堀田作兵衛の妹を娶ったと思われる。 7月16日、北条家滅亡。秀吉、天下統一。 1591年(天正19年) 25 1592年(文禄元年) 26 信繁、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に在陣。 「文禄の役」 1593年(文禄2年) 27 1594年(文禄3年) 28 秀吉、渡海しなかった代償として真田親子に伏見城の普請を命じる。11月2日、秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する