攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

後水尾天皇 の検索結果:

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…。二条城二の丸御殿が後水尾天皇の行幸のために大改築されたのが1626年(寛永3年)、名古屋城本丸御殿に「上洛殿」が増築されたのが1634年(寛永11年)ですから、この利常による二の丸御殿造営は時代的にその間のことでした。 しかしこの御殿はおよそ100年後の1759年(宝暦9年)にやはり火事で焼失しています。すぐに再建されたものの、また1808年(文化5年)に焼失、さらに再建した御殿が明治時代まで残っていたのですが、これも火事で焼失したため現存していないというわけです。動画にも…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…3年)におこなわれた後水尾天皇の行幸(寛永行幸)にあわせて城域を西方に拡張し本丸を造営、もともとの御殿は大改修されて現存する二の丸御殿に。 この改修(拡張)前後の様子は桝田先生に描いていただいた復元イラストで比較するとわかりやすいです。 (左)家康の築城時(右)寛永年間の改修時 現在、二の丸御殿を見学すると車寄から入って遠侍→式台→大広間→黒書院→白書院と奥に向かい、さらに白書院→黒書院(牡丹の間)→大広間→式台→遠侍と裏側を通って戻るルートになっています。このうち、最後に見…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…将軍だった寛永期に、後水尾天皇の行幸を迎えるために大改修されたものです。天守台も残されていますが、この天守台も寛永期天守の天守台で、慶長期天守台よりも大きいものです。徳川家康時代の二条城の遺構を明確に見ることはできませんが、二条城は初代将軍である家康から三代将軍家光までが将軍就任の祝賀式を行い、最後の将軍となった慶喜が大政奉還をした城でもあります。言わずもがな、二条城二の丸御殿は国宝であり、二条城は世界遺産にも登録されています。ぜひ二条城に足を運んで、徳川将軍家の京における権…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(二の丸御殿・大広間四の間)

…すが書いておきます。 後水尾天皇は一般的には「ごみずのお」と読むけど、京都の一部の先生は「ごみのお」と読む 本丸堀の深さは約5mほどあるらしい 大広間四の間の障壁画はぜんぶで46面、格天井にはめられた天井画は78面、釘隠しは34枚 あと投影されたスライドはほぼ撮影してきたので共有しますね。(1、2枚撮れなかった) 狩野派の話はいずれ攻城団テレビでもやりたいですね。それと二の丸御殿を歩きながら、二条城のガイドツアーも早く再開したいなとあらためて思いました。 kojodan.jp

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…現時点の仮説としては後水尾天皇の行幸に先立って二条城の拡張工事に動員された義直と頼宣が、伏見城の建物を移築する際になんらかの協力をしたのだろうとのことでした。 小屋場(こやば)というのは解体した資材置き場なのかと質問したのですが、よくわからなくて今後ほかの資料などが出てくれば特定できるかもしれないそうです。 二条城の寛永改修工事は大御所・秀忠が自分の弟である義直や頼宣に手伝わせており、天守台石垣は尾張藩が築いたという記録も残っているので、思わぬところで二条城が出てきてうれしか…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…したものであり、時の後水尾天皇は天皇権威の失墜を嘆いて天皇をやめようとしたほどである。その一方、秀忠は自らの娘である和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させており、後水尾天皇の後は和子が生んだ娘が明正天皇として即位した。これもまた、徳川将軍家の朝廷に対する勝利であった。 この他にも、家光の代に完成する江戸幕府の官僚機構は、秀忠の時代にプロトタイプ(原型)というべきものができていたのである。 やり過ぎなほどに孝行者? さて、秀忠といえばかつて大久保忠隣が称したように「孝行者」で、…

明智光秀と三条西実澄――あるいは文化と権威の意味

…危機に陥ったところ、後水尾天皇が勅命を出して講和させ、藤孝の命を救った、ということがあった。その理由は「藤孝が古今伝授の唯一の継承者だから、失わせてはならないため」だったというのである。なぜそこまで古今伝授が重要だったのか。 それは、歌学という文化において古今伝授が最高の権威であったためと考えられる。公家社会を中心に成立していた歌学の世界では権威こそが最も重視され、古今伝授こそがその頂点にあった。その権威が失われることは許されない、公家社会全体の権威にもヒビが入る――とまで大…

東京国立博物館で特別展「桃山―天下人の100年」を見てきました

…良天皇・後陽成天皇・後水尾天皇の宸翰(しんかん=天皇自筆の文書)、千利休や古田織部の茶器、などなど、タイトル通り桃山文化の集大成って感じでした。 「洛中洛外図屏風」だけで歴博甲本・上杉本と2点も展示されていて、その横には「聚楽第図屏風」と並んでいて圧巻でした。Wikipediaでパブリックドメインの画像を見たことのある方は多いと思いますが、これの本物を見れるんです。後期は後期で岩佐又兵衛が描いた船木本とか徳川の二条城が描かれた勝興寺本が展示されます。 『洛中洛外図屏風』《上杉…

二条城で開催された二の丸御殿「黒書院三の間」学芸員解説会に参加してきました

…ということですね) 後水尾天皇の行幸を迎えるにあたり、徳川家は幕府の威信をかけて二条城の大改修工事をおこないます。城も約二倍に拡張し、御殿と天守を新築し(完全な新築は本丸御殿や行幸御殿ですが、二の丸御殿もほぼ新築と言えるほどの改修だったようです)、室内にはすべて狩野派による障壁画が描かれました。 残念ながら現在残っている建物は二の丸御殿のみです。行幸御殿が移築された仙洞御所は先日、京都新城跡の痕跡が見つかったところですね。 黒書院三の間とはどんな部屋なのか いよいよ本題です。…

『花と火の帝』――武力に対するは呪力

…が政仁親王ーーのちの後水尾天皇である。まだ14歳なのに心の中に強い悲しみを秘めた親王に岩介は惹かれ、身分を超えた親友というべき関係となっていく。 時あたかも戦国時代は終わって江戸時代初期、江戸に幕府が開かれて全国の武士はこれに従い、それまでのものとは違う新たな秩序が生み出されようとしていた。こうなると、新秩序の担い手たる幕府にとって天皇や公家はいかにも邪魔な存在だ。武力はなくとも権威があり、きちんと縛っておかなければ恐ろしくて仕方がない。だからことあるごとに干渉してくる。岩介…

二条城で「梅と牡丹の障壁画~廊下を彩る花たち~」のギャラリートークを聞いてきました

…、寛永行幸の準備は(後水尾天皇に娘を嫁がせたこと含め)大御所・秀忠が中心だったので、ちょっとご都合主義な妄想っぽい気もします。 じつはこの旧様式も新作で、あえて新旧異なる様式で描いたことに意味があるのか、今後なにかわかればいいんですけどね。 この「牡丹図」は現在も二の丸御殿内の当時の位置に複製画がはめこまれているので、見学した際にチェックしてみてください。ただし西側は四の間が開放されている場合は見れません。北側はガラスで保護されていますが、いつでも見れます。 「梅図」はもとも…

【京の冬の旅】妙心寺鱗勝院で春日局の御霊屋と海北友雪の水墨画等を見てきた

…に「春日局」の名前は後水尾天皇や中宮和子に拝謁するために御所にあがる際にいただいた称号で、名前は「斎藤福」です。 その後、稲葉正成の後妻となり、さらに徳川家光の乳母となります。家光が将軍になったことで「将軍様御局」として大奥を取り仕切り、とくに大御台所であった江(崇源院)が亡くなったあとは絶大な権力を誇りました。 家光が実母の江ではなく、春日局を信頼したのは、両親(徳川秀忠と江)が自分ではなく弟の国松(徳川忠長)を溺愛し、ないがしろにされたからといわれてます。『春日局略譜』に…

二条城で開催された二の丸御殿大広間三の間特別入室と学芸員解説会に参加してきました

…(元和6年)、秀忠が後水尾天皇のもとに娘・和子を入内させる 1626年(寛永3年)、家光が後水尾天皇と中宮(和子)、女院、内親王を招待して歓待(寛永行幸)。その準備として2年前から大改修をおこなう 寛永行幸時の各御殿 本丸御殿は大御所秀忠のための御殿→1788年(天明8年)「天明の大火」で焼失 二の丸御殿は将軍家光のための御殿→現存 行幸御殿は後水尾天皇のための御殿→御所へ移築後焼失 狩野派の絵師たちが障壁画を描く 二の丸御殿大広間 一の間は将軍が座る 二の間は対面の相手が座…

名古屋城本丸御殿を見学してきました

…26年(寛永3年)※後水尾天皇の行幸にあわせて改修 延べ面積 3100m2 3300m2 御殿配置 雁行型を改修時に拡張 雁行型 建物 13棟、30部屋以上 6棟、33部屋 建築構造 木造平屋建てこけら葺書院造 木造平屋建てこけら葺書院造 障壁画担当絵師 狩野探幽 狩野探幽 障壁画の数 1049面 3600面 ※完成年は築城年や竣工年ではなく、あくまでも御殿として内装が完成した年を示しました。 またどちらも明治期には宮内省管轄の離宮となり、その後地元(名古屋市、京都市)に下賜…

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