攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川四天王 の検索結果:

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…す。徳川軍は、のちに徳川四天王として名を轟かせる本多忠勝、榊原康政らを先鋒として諏訪原城を攻めました。徳川家臣のうち、諏訪原城周辺出身の従者を多く抱えていた鳥居元忠は、斥候※として進軍した際、武田軍から銃撃を受け、生涯歩行困難になったと伝わります。じつは、この徳川家康による諏訪原城攻めには、旧駿河・遠江の国主・今川氏真が徳川方の将として従軍していました。家康は、氏真を徳川軍の将として従軍させることで、自身の駿河・遠江支配は「旧国主のお墨付きを得ている」とアピールしていたのだと…

【家康の謎】徳川四天王は誰が決めたの?

…マでは必ず活躍する「徳川四天王」といえば、本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政の4人である。「四天王」というのは仏教世界観の話で、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)という東西南北=四方を守護する天(仏の一種)のことである。ここから転じて、なんらかのグループにおける傑出した4人の実力者のことを「四天王(○○四天王)」と呼ぶようになった。徳川四天王という名付けも、その流れを受けてのものである。しかしこの呼び名、戦国時代か…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…の関東入封とともに、徳川四天王の榊原康政が城主となった「館林城」。歴史や縁の深いお城は、その歴史的なおもしろさに加えて、頼もしい城もなかなどのお菓子により城の楽しさに気づき、広めてくれるといいなぁと願うばかりです。 さて今回は、どんな地域の、どんな特徴的な城もなかに出会うことができたのか、そして、その城もなかが生まれたふたつの城はどんなお城だったのか、ご報告させていただきます。 忍城の城もなか 「忍城最中」(金沢製菓舗) 税込150円 皮は、定番の、三層角右寄り型!!城もなか…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…武勇が理由であった。徳川四天王のひとり・井伊直政は四男の忠吉を推した。関ヶ原の戦いで活躍したことを挙げたのだろう。これに対して、大久保忠隣の挙げた名前が秀忠だった。 昔から秀忠に仕えてきた彼は、武勇を理由とするほかの候補者に対して「乱世なら確かに武勇が一番ですが、これからは平和な時代なので、必要なのは文の徳です。秀忠さまは文と武を兼ね備えておられ、かつ孝行の心を持ち人格もすばらしいお方です」と主張した。これが家康の心に響き、秀忠は改めて彼の後継者となった。1605年(慶長10…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…原康政、井伊直政の「徳川四天王」がおり、特に本多忠勝は50を超える戦いに挑んで一度も手傷を負わなかったという。もちろん、勇猛な武将だけでは天下は取れない。能吏・謀臣として知られる本多正信は三河一向一揆において家康に背き、その後多くのものたちが徳川家に戻ったのに長く放浪を続けた変り種であるが、家康とは深い信頼関係で結ばれ、息子・正純とともに活躍した。 一方、家康も彼らの信頼に応えていたことがよくわかるエピソードが『徳川実紀』にある。豊臣政権時代、諸大名が自慢の煌びやかな宝物の数…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…、あくまで上役である徳川四天王の一人の酒井忠次の指揮がよかったからだと謙遜して答えたところ、秀吉はその人柄のよさを大いに褒めたという(『寛政重修諸家譜』)。 徳川氏が秀吉の命で関東に移った際には上野(群馬県)小幡3万石を与えられ、大名となった。さらに「関ヶ原の戦い」の後には、朝廷や公家との折衝を行う京都所司代の要職を与えられてこれをよく務めた。また、美濃国(岐阜県)に加納城(岐阜市)が築かれると、新たに美濃加納藩10万石の大名として入る。この城は中山道の要衝で、万が一、豊臣秀…

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…ている。徳川家康は「徳川四天王」の一人酒井忠次を信濃へ送り込み、頼忠に徳川支配下に入るよう説得させようとした。 ここからが少々妙なのだが、頼忠は「自分はすでに北条氏に従っている」と主張したのではなく、「徳川の支配下に入るのであって、その部下の酒井に服従するいわれはない」といい募ったのだ、という。それをいわせたのは名族としての誇りだったのかもしれないし、あるいは徳川支配下での立場をよくするための策だったのかもしれない。結局、家康は改めて使者を立て「家康の支配下に入るように」と告…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…多くの軍功を立て、「徳川四天王」の誉れを受けた名将だ。彼の活躍があったればこそ、その後約250年にも及ぶ井伊家の栄光があった。 ――さてこの井伊直政という男。彼を徳川生え抜きの武将であると思っている人はいないだろうか。家康が天下統一にこぎつけた理由の一つとして、酒井・榊原・大久保・本多といった三河武士の活躍が語られることが多い。そのため、井伊もまた譜代の三河武士であると見られることが多いようだ。 しかし、そうではない。松平氏が徳川氏と姓を変えて三河(愛知県)から遠江・駿河(と…

6.譜代大名の懐事情

…たという。酒井家は「徳川四天王」と称された家康の腹心・酒井忠次の血を引く名門中の名門だった。しかし、貧しさの前には家名の威光もあえなく力を失ったのだ。他にも、恥を忍びながらも行列を作らず、徒歩で移動して財政負担を軽くした涙ぐましい例もあったようだ。一方で、大規模な大名行列が通過・滞在すれば宿代などの形で地元にお金が落ちたため、その経済効果で潤った藩もあったという。 そんな中、譜代大名は江戸を守るため、関東近郊に領地を持っている場合が多い。図抜けた大大名も基本的にいないので、権…

1.譜代大名の定義

…間と呼ばれた。名高い徳川四天王(井伊、榊原、本多、酒井)の家のうち、別格というべき溜間を使用する井伊家を除く三家もここを控えの間としていたことからも、この帝鑑間の格の高さがよくわかるのではないだろうか。 柳間 外様大名のための殿席。従五位下以下の官位など、他の間に入れない外様大名が使用した。 雁間 譜代大名のための殿席。城主(居城を持つが、国持でも親藩でもない)格の譜代大名が使用した。帝鑑間と区別して、御取立之御譜代(後から徳川家に取り立てられて譜代となった家)の席ともされる…

井伊直政の抜け駆け

…だろうか。その主役が徳川四天王のひとり、井伊直政である。知勇兼ね備えた名将であり、家康の四男である松平忠吉の舅(妻の父)という地位も占め、徳川家臣団の中でもこの人あり、という人物だった。 さて、関ヶ原の戦いにおいて、東軍の先鋒を務めるはずだったのは福島正則だった。彼は東軍側についた豊臣系大名の重鎮というべき存在であり、また真っ先に東軍への参加を宣言したことから、家康としてもこれは当然の判断だったといえる。 しかし、直政はあえて抜け駆けを敢行した。晴れつつある霧に紛れながら関ヶ…

武勇に彩られた本多忠勝の生涯

…えられる人物として、徳川四天王のひとり・本多忠勝がいる。彼を賞賛する言葉や逸話は数多く、それは忠勝が戦場でいかに華々しい活躍をしたかを証明するものに他ならない。そこで、今回は本多忠勝の剛勇を示すエピソードと言葉をいくつか紹介したい。 代々松平家(のちの徳川家)に仕えてきた忠勝の初陣は13歳とほんの少年のときのことだが、その2年後のエピソードとして「手柄を譲ってくれようとした叔父を制し、手柄は自分で取るものと大言して敵へ突っ込むと、言葉通り武将首を持って帰ってきた」というものが…

舅を追い返した小松姫

…いだろう。 小松姫は徳川四天王のひとりに数えられる猛将・本多忠勝の娘で、上野に勢力を持つ真田氏に嫁入りしている。そのきっかけは徳川氏の真田氏が争ったことだった。このときに徳川氏は小勢力である真田に随分手を焼かされ、結局講和で戦いが終わる、ということがあった。その後、小松姫は家康の養女になったうえで、昌幸の長男である信之の妻になったのである。背景には、真田氏を危険視した家康の、婚姻政策によって身内に取り込もうという思惑があったのではないかと考えられる。当時としては珍しくない政略…

【戦国を彩る名軍師たち】本多正信と徳川家康の「水魚」関係

…に仕えており、同族に徳川四天王のひとりである本多忠勝がいる。彼と同じく、正信も若い頃から家康に仕えていたのだが――その徳川家臣としての経歴は突如として途絶える。三河一向一揆の武力反乱が起きた際、多くの徳川家臣が主君への忠誠と信仰心の間で揺れた末に後者を取って反乱に参加したのだが、正信もそのひとりだったのだ。一揆が鎮圧された後、正信はすぐには帰参せず、各地を放浪している。一向一揆の重要拠点である加賀にいたというから、よほど信仰心が強かったのだろうか。 その後、時期は不明だが家康…

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