攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

本多正信 の検索結果:

攻城団テレビで忍者の話をしました

…までのことかと」や、本多正信の三河より追放されたけど、遠江からは追放されてないという屁理屈も最高でした。 そんな「どうする家康」で「忍者考証」を担当されている三重大学人文学部の山田雄司先生と、「ぶらり徳川家康の城跡+忍びめぐり」(マコト出版)を編集された佐藤強志さんをゲストにお招きして、忍者についてお話を伺いました。 www.youtube.com すでにレギュラー化している榎本先生を別にすれば、攻城団テレビ初のゲスト収録回となります(生配信ではたかまる。さんにも出演いただい…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…分されて戦うことに 本多正信を除き、基本的に各家の嫡流は家康方についた(これも一族内の下剋上か?) @一向一揆像の見直し 現在伝わる「死をも恐れぬ」といった過激派のイメージは江戸時代に西本願寺と東本願寺が武勇伝をPRし合った結果 1565年(永禄8年)、24歳 2月に一揆勢と和睦、しかし家康は和睦条件(一揆参加者の赦免、不入特権の保証)を反故にする 本多正信らほとんどの者は追放、本願寺教団から離反しない寺院は破却 「三河物語」では起請文の「前々のごとく」を更地という意味に曲解…

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

本多正信といえば、家康の戦いを支えた譜代の名門・本多家の出身であり、彼自身も家康の腹心として内政や謀略の分野で大いに活躍した人物だ。「徳川の知恵袋」「家康の懐刀」などと呼ばれ、家康が彼を「友」と呼んだことからも、彼が徳川家の中で重要な人物であったことがよくわかる。 家康が正信を寵愛したことを物語る、こんな話がある。家康が大御所として天下を支配していた時代、町で「雁どの、佐渡どの、於六どの」という言葉が流行った。これは家康が愛した3つのものを示していて、雁とは鷹狩りのこと、於六…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…をあげている。 彼は本多正信とも交流があり、その息子の本多政重を一時養子にしていた。上杉家の安泰をはかってのことだったとされている。しかし、兼続はなぜかのちにこの縁組みを解消し、さらに実の息子も早くに亡くなっていたため、直江家は彼の病死と共に断絶してしまう。 一説では、これは上杉の減俸の原因を作ってしまったことの罪滅ぼしのため、また財政的に厳しい上杉家のために財政の負担を減らそうとして、わざと直江家を断絶させたのだとも言われる。生涯をかけて上杉のために戦い続けた直江兼続らしい…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…い落としたと思われる本多正信の家も、その息子・正純の代になって明らかな陰謀によって改易に追い込まれている。 本多家もまた古くから徳川(松平)家に仕えてきた譜代の名門で、藤原北家の流れであるという。この一族は大きく「定通系」と「定正系」に分かれ、本流である定通系の代表的な人物としては、立花宗茂の項で紹介した本多忠勝がいる。そして、定正系の代表こそが正信・正純親子である、といっていいだろう。 この正信もまたなかなかに数奇な運命をたどった人物である。彼は家康の幼い頃からの側近であっ…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…く、彼の政敵であった本多正信によって仕掛けられた周到な罠の結果であった。 本多正信の名前は本連載のここまででも繰り返し出てきたが、家康から深く信頼されて外交・内政の両面で活躍した能吏である。その正信と忠隣の対立については、「関ヶ原の戦いにおいて忠隣の家臣が抜け駆けをして、それを正信が処罰した」「家康の後継者選びの際、正信は秀忠ではなく次男の秀康を推した」「忠隣の嫡男・忠常が病死し、忠隣がショックのあまり政務に手がつかなくなった時、正信が公私混同と批判した」などの数々のエピソー…

【殿様の左遷栄転物語】コネに救われた2人の大名 新庄直頼と久留島長親

…はり徳川の重臣である本多正信に接触することができた。これに加えて豊臣家の重臣である片桐且元の協力も得られ、長親は豊後国森藩で大名としての再興にこぎつけたのである。1601年(慶長6年)のことであった。 その後、1616年(元和2年)には「久留島」と名を改めたが、まもなく波乱があった。1619年(元和5年)、お家再興に大きな力となってくれた福島正則が改易となってしまうのだ。久留島家も連座で処罰を受ける可能性もあったが、さまざまな工作の末、幸運なことにこの危機は回避され、森藩主と…

【殿様の左遷栄転物語】本領にこだわり続けた執念 相馬利胤

…衛の口利きを得る形で本多正信に訴状を出し、またちょうど下野国で狩りを行っていた正信の下に使者を送って、彼から働きかけてもらえるように説得した。 将軍の近くより、領民のそばを選ぶ その熱意と「徳川には敵対しない、その命には従う」という主張が家康・秀忠をはじめ幕府中枢に届き、相馬家は本領をそのまま安堵されることになったのである。このように鎌倉時代以来の先祖代々の土地を守り抜いて江戸時代の大名になったのは、島津家などごくまれな例に過ぎず、しかも一度は没収されたにもかかわらず再びその…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…康の参謀として名高い本多正信の家臣となる。彼の下で大坂の陣にも出陣し、その戦功によってついに1616年(元和2年)、信濃国は川中島に1万石の所領を与えられ、大名に戻ったのである。改易から15年の月日が経過していた。この再興については、当時の主君である本多正信の回添えがあったのかもしれないし、このころには和解していて資金援助などもしてくれたという兄・義宣も後押しをしてくれたのかもしれない。家康のブレーンとして活躍した僧侶・天海と縁があり、そこから働きかけてもらった、という説もあ…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…1年)に江戸へ出て、本多正信の手引きを受けて時の将軍・徳川秀忠に謁見したことからだった。まず5千石を受けて旗本の書院番頭となり、その後、陸奥棚倉に1万石(後に3万石へ加増)を与えられて大名に復帰したとされるが、この過程については諸説あるのが実際のところだ。もともと積極的に敵対していたわけではないこと、宗茂の武名を惜しんだこと、各方面からの働きかけ(加藤や黒田といった諸大名はもちろん、冒頭に紹介した本多忠勝との親交なども有利に働いたかもしれない)があったことなどが再興の要因だっ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…だろう。大久保忠隣・本多正信・井伊直政・本多忠勝・平岩親吉・榊原康政ら重臣を集め、「後継者を誰にしたものか」と聞いた。能吏・本多正信は次男の秀康を推した。知略と武勇が理由であった。徳川四天王のひとり・井伊直政は四男の忠吉を推した。関ヶ原の戦いで活躍したことを挙げたのだろう。これに対して、大久保忠隣の挙げた名前が秀忠だった。 昔から秀忠に仕えてきた彼は、武勇を理由とするほかの候補者に対して「乱世なら確かに武勇が一番ですが、これからは平和な時代なので、必要なのは文の徳です。秀忠さ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…・謀臣として知られる本多正信は三河一向一揆において家康に背き、その後多くのものたちが徳川家に戻ったのに長く放浪を続けた変り種であるが、家康とは深い信頼関係で結ばれ、息子・正純とともに活躍した。 一方、家康も彼らの信頼に応えていたことがよくわかるエピソードが『徳川実紀』にある。豊臣政権時代、諸大名が自慢の煌びやかな宝物の数々を自慢しあう流れになった際、家康はどんな財宝も示さなかった。自らを「三河の田舎大名」と断った上で、「徳川で一番の宝は、水にも火にも恐れないと誓いを立てている…

【江戸時代のお家騒動】大久保長安事件ーー幕府中枢の権力闘争が原因?

…川家康、大久保忠隣、本多正信 徳川政権の金庫番・大久保長安の“陰謀”が死後発覚 1613年(慶長18)、徳川家康の側近を務めた大久保長安という男が、中風(脳梗塞・脳出血)のため69歳で亡くなった。長安は黎明期の江戸幕府において、財政や交通、産業などの分野でその敏腕を発揮し、幕府の創立に多大な功績を残した人物である。特に産業面において、石見や佐渡、伊豆の金銀山を開発して歴史的な増産に成功しており、その有能ぶりに同じ幕閣からも脅威的な存在として恐れられていた。 その長安の死後にな…

4.出世と譜代大名

…て幕府を支えたのは、本多正信と大久保忠隣だ。2人は「年寄」という役職で幕政にかかわっていたが、まだ老中という呼称がなかっただけで、実質的にはのちの老中と変わらない立場にあった。この時期は戦国時代から関ヶ原の戦いに至るまで、家康と苦楽を共にして数々の戦功を立てた腹心が重用されていた。また、幕府の制度も調整されていく段階であり、他の譜代大名が割り込むような隙間はなかった。 2代将軍・秀忠の時代 家康の死後、2代将軍・秀忠は酒井忠世、本多正純、安藤重信、土井利勝の4名を幕政の中心に…

【戦国を彩る名軍師たち】本多正信と徳川家康の「水魚」関係

…智謀を大いに振るった本多正信を紹介したい。 (加賀本多博物館所蔵) 正信の本多一族は古くから松平氏(徳川氏)に仕えており、同族に徳川四天王のひとりである本多忠勝がいる。彼と同じく、正信も若い頃から家康に仕えていたのだが――その徳川家臣としての経歴は突如として途絶える。三河一向一揆の武力反乱が起きた際、多くの徳川家臣が主君への忠誠と信仰心の間で揺れた末に後者を取って反乱に参加したのだが、正信もそのひとりだったのだ。一揆が鎮圧された後、正信はすぐには帰参せず、各地を放浪している。…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…岡江雪斎、徳川からは本多正信、真田からは信繁がそれぞれ名代として出席して「沼田裁定」がはじまりました。セットも洋風で裁判所っぽい感じでしたね。 こうした会話劇は三谷さんの十八番でもあるので、めちゃくちゃおもしろかったです。信繁の「だまし取り、かすめ取り、勝ち取りました!」とか最高でしたよね。 また豊臣秀次がたんなる愚鈍な人間ではないことが描かれたのも印象的でした。 「ずっと気になっていたのだが、『譲り渡す』にせよ、『奪いとる』にせよ、それは沼田城が真田の城であることを、暗に認…

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