攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

越中 の検索結果:

【家康の謎】家康はなぜ石川数正に出奔されたのか

…った。この頃、秀吉は越中の佐々成政攻めを進めていたが、家康が成政に味方するという噂が流れる。そこで秀吉は家康に「家老の中から人質を出せ」と要求し、家康の動きを抑え込もうとしたのである。 「秀吉何するものぞ」と燃え上がる徳川家中において、ただ秀吉との交渉担当(取次)を務める数正だけが秀吉との再びの正面衝突を嫌い、人質を出すべきだ、と主張したのではないかと考えられている。しかし家康は北条氏との同盟によって改めて秀吉に対抗する道を選び、人質は出さないと決断する。その直後、数正は出奔…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…のほかの分国、河内や越中などでも遊佐氏が守護代をつとめていて、畠山=遊佐のセットで当時の日本の何分の一かは支配されていたというのはすごいことですよね。なお「三管四職」の回で紹介したとおり、畠山家は越中・河内・紀伊・能登などの守護をつとめ、室町幕府の管領家の一角を占めた名門武家です。一時期、山城の守護をつとめたりもしてます(詳しくは「三管四職」の延長回で膨大なリストをつくってますのでご覧ください)。 ・畠山氏の重臣として遊佐(ゆさ。「ゆざ」が正しいともいうが、国史大辞典がゆさな…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…記を書いた日覚は当時越中にいたので伝聞 その後、今川義元の三河侵攻に伴い、あらためて広忠は今川方に(嫡男を見捨てた?) 尾張人質時代がなかったとする説もあるとか 1549年(天文18年)、8歳 父・広忠が死去 →最近は岩松弥八による暗殺ではなく病没説もあり 「生母とはすぐに離別し、幼少時に父も暗殺されてしまったので兄弟がいません。」(狸親父さん) 弟・信勝は殺したけど、お市や有楽斎など兄弟が多かった信長 右腕として生涯自分を補佐してくれた秀長や家康に嫁いだ朝日姫がいた秀吉 広…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…わらず、加賀・能登・越中を結ぶ要所に位置する末森城に向かった。一方、籠城側からの救援要請を受け取った織田方からは、北陸方面司令官の柴田勝家を主将とする部隊が七尾城の救援のため出陣した。うまく彼らが七尾城にたどり着いていれば、能登畠山氏にも生き残りのチャンスがあったかもしれない。しかし、この軍団にはトラブルが絶えなかったらしい。 まず加賀に入った辺りで、羽柴(豊臣)秀吉と勝家の意見が対立し、秀吉が勝手に抜けてしまう。しかも、七尾城の情報が全く入らなかったので、なかなか迅速な行動…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台①――女性が支えた城・末森城

…咋郡)は加賀・能登・越中の三国を結ぶ要所に位置する。織田政権において加賀・能登を与えられた金沢城主・前田利家が、本能寺の変後に織田家臣団同士が相争うようになると、越中の佐々成政の侵攻に備えるためにこの城を築いたとされる(それ以前、能登畠山氏の時代からあったとも)。1584年(天正12年)、いよいよ成政が来襲する。これに立ち向かうことになったのが末森城とその城主・奥村永福(おくむら ながとみ)である。末森城を落とされると加賀・能登間の連絡が断たれるため、永福らは決死の戦いを挑む…

【10大戦国大名の実力】上杉家②――長尾為景の成功と失敗

…耐えかねた為景は一時越中に逃れたが、翌年には舞い戻って顕定を打倒。弟と同じく自害させてしまった。さらに自身が守護とした定実とも対立し、実権を奪い取った。 こうして見事に下克上を達成したにもかかわらず、為景による越後統治はなかなか安定しなかったようだ。その原因は、越後国内に大小存在する勢力がすべて為景の忠実な家臣というわけではなく、上杉氏、長尾氏、そして各地の国人たちが度々「反為景」の動きを見せたことにある。特に阿賀野川より北、下越に領地を持つ国人たち――「揚北衆」には半独立の…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…2年(永正19年) 越中永正の乱 領内を混乱させた越中守護代・神保慶宗を越中守護・畠山尚順の命を受けた畠山義総(能登守護)と長尾為景(越後守護代)が討伐した戦い 戦国時代 1523年(大永3年) 寧波の乱(寧波争貢事件) 日明貿易(勘合貿易)の利権をめぐって大内義興と細川高国が明の寧波で争った事件 戦国時代 1532年(天文元年)〜1535年(天文4年) 天文の乱(本願寺) 本願寺勢力と細川氏・畠山氏の戦い 戦国時代 1533年(天文2年)〜1534年(天文3年) 稲村の変(…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…」、細川忠興は「羽柴越中守」、池田輝政は「羽柴三左衛門」と「名字+官職名」で書かれています。(上述のとおりじっさいに忠興は名古屋に来ていないのですが、あくまでも藩主の名が記載されるのでしょう) 秀吉や家康は上下関係を明らかにして、自らのファミリーに取り込むために「羽柴」や「松平」の名字を与えているのでこの絵図には大量の羽柴さんと松平さんがいます。かなり字が細かいので単眼鏡などを持参するといいと思います。 絵図の横の壁に実名と記載名の一覧がありますので、これを確認するのがいいで…

【クーデターで読み解く日本史】源平合戦の背後で蠢く地方武士の思惑とは?――治承・寿永の乱

…って京に迫り、加賀と越中の国境に位置する倶利伽羅峠(くりからとうげ)では平氏の軍勢を奇襲によって破っている。しかもこのように平氏政権が危機の只中にあった時、これまで一族を主導してきた平清盛が病で亡くなるというさらなる衝撃が平氏を襲った。強力なリーダーを失った彼らは有効な対策を打てないまま義仲の圧力に押される形で都落ちをする。平氏にとって勢力基盤である西国に落ち延び、態勢を立て直そうとしたのである。 代わって京に入ったのが義仲だった。彼は平氏の元から逃げ出していた後白河法皇と手…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府10代・足利義稙――念願叶い将軍職奪還! しかし…… 1466年~1523年

…98年(明応7年)に越中を出発。越前の朝倉氏のもとへ赴いた。名前を義尹に改めたのは、この頃だとされる。 また、かつて義尹とともに戦った畠山政長の息子・尚順(ひさのぶ)が、共同戦線を張らないかと話を持ちかけてくる。憎き仇・細川政元を挟み撃ちにしようということだった。義尹はこれに乗り、翌年越前を発ち敦賀を経て近江の坂本に陣を構えた。しかし政元が出陣させた大軍に敗北して河内に逃れ、その後周防の大内義興(おおうち よしおき)を頼って山口に下った。義尹はここに8年間とどまり、西国の諸氏…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府10代・足利義材――幕府崩壊劇の主役となった「流れ公方」 1466年~1523年

…そのことを知った彼は警固番を殺害して脱出し、越中へと向かった。ここから、将軍への再就任を目指した義材の流浪の旅――「流れ公方」の苦難が始まるのだが、詳しくは次次項に譲る。この一件を「明応の政変(めいおうのせいへん)」と呼ぶ。仮にも将軍の地位にあるものが、部下によってその座を追いやられてしまったことで、ただでさえ応仁の乱で大いに揺らいでいた将軍と幕府の権威は完全に地に落ちた、といっていい。全国で加熱していた小競り合いを止めるものはもはやなく、世は戦国時代へ突入していくのだった。

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府3代・足利義満――南北朝の統一を果たし室町幕府の最盛期を築く 1358年~1408年

…令し、次の管領として越中守護の斯波義将を任命した。これが1379年(康暦元年)のことで、いわゆる「康暦の政変」である。 将軍権威確立を目指し、ときには悪辣な手も 康暦の政変後、義満はさらに守護大名を押さえ込み、自らの権限を強化するために奔走することになる。一度は失脚した頼之を呼び戻し、その養子である細川頼元を管領に据えたのもその一環である。最初のターゲットとなったのは、康暦の政変でも対立した土岐氏である。頼康が没し、息子の康行が美濃・尾張・伊勢の守護職を継承したものの、義満は…

【歴代征夷大将軍総覧】宗良親王――転戦の苦難から守戦の日々へ 1311年~1385年

…る。その後は、越後・越中・武蔵の各地に出陣して、北朝・室町幕府と戦い続けることになった。 征夷大将軍にはなったけれど 1352年(正平7年)、そんな宗良親王を、弟・後村上天皇(1339年=延元4年の後醍醐天皇の死去を経て即位)が征夷大将軍に任じる。この時期、室町幕府は「観応の擾乱」と呼ばれる内紛(詳細は後述)によって大いに混乱しており、尊氏が(名目上ではあったものの)南朝に対して一時大きな譲歩を示しつつ降伏、内部の争いに集中しなければいけないほどであった。 そこで南朝方はこれ…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…) 加賀国、能登国、越中国の三令制国で二城(金沢城、小松城) 鳥取藩(池田家) 因幡国、伯耆国の二令制国で三城(鳥取城、米子城、倉吉城) 福井藩(越前松平家) 越前国に三城、のち二城(北ノ庄城(のち福井城)、丸岡城(のち丸岡藩として独立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。幕府にうその報告をした例である。 …

【戦国軍師入門】九頭竜川大会戦――30倍の勢力差を逆転

…一揆が起きると加賀、越中(現在の富山県)、能登(現在の石川県北部)の一向宗門徒たちが続々と越前の国に流れ込んで合流する。ここにかつて朝倉家に敗れた越前甲斐氏の残党まで参加し、軍勢は30万を超える規模にまで膨れあがったという。 これに対して朝倉軍の総大将となったのが教景だった。彼の元に集まったのは1万程度。九頭竜川を挟んで対峙した両軍は兵力数に相当の差がある。しかし、敵は所詮鳥合の衆だ。突く隙は十分にあった。 それでも味方に30倍する敵の兵力に教景はかなり悩むが、使者が朝倉家当…

新発田城 上杉謙信に背いた男

…。さらに雪で覆われる越中の地の利を生かし、景勝は援軍が身動きのとれない冬に景虎を倒して家督を得た。 この戦いで景勝を味方したひとりに新発田重家がいる。だが、彼は景勝が家督を相続した後に反旗を翻している。その理由は戦功が認められなかったこと、景勝の家臣・直江兼続が重用されて家臣団の地位が相対的に低くなったなどの不満があったと言われる。重家は尾張・美濃の織田信長、会津の蘆名盛隆とひそかに結んで後ろ盾を得ていた。両者には越後進出や景勝を排除するという目的があり、利害が一致したのであ…

七尾城 上杉謙信の猛攻に耐えた城

…の道を確保するため、越中ついで能登へと侵攻していた。12月には能登のほとんどを平定し、最後に七尾城攻略を残すのみとなった。謙信は城下の天神川原に陣を置き七尾城の攻略を進めたが、堅牢な城は簡単には落城しなかった。そのまま正月を迎え、2月に総攻撃が予定された。しかし、関東で北条氏が、能登で畠山氏の重臣・長綱連が、上杉方を攻撃したため対応に追われることとなった。 一方の七尾城では事態が急変している。伝染病が広まっており、城主の畠山春王丸をはじめ、多くの者が病死してしまった。城主不在…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…す。 織田信長らとの越中や越前の争奪戦だけでなく、北条氏康らと関東でも戦うなど日本各地で転戦を繰り返していたことがうかがえます。 謙信の関東侵攻は実に13回を数え、うち8回は戦地で年を越すという忙しさだったようです。 各地で転戦した合戦の全てを紹介すると膨大な数になってしまいますので、ほんの一部だけ簡単に紹介させて頂きます。 所在地 新潟県長岡市栃尾町 アクセス 車の場合、関越自動車道「長岡IC」から40分。 電車の場合、JR信越本線「長岡駅」から「栃尾車庫」行きバスで50分…

【戦国を彩る名軍師たち】信長に気づいた軍師――朝倉宗滴

…たほか、加賀・能登・越中といった一向一揆の軍勢との戦いで総大将になり、朝倉氏を滅亡の縁から救ったことでよく知られている。一向一揆との戦いにおいては特に1506年(永正3年)に九頭竜川でぶつかり合った戦いが著名で、越前における合戦として最も規模の大きいものであったという。 宗滴の活躍の場は戦場だけではなかった。古代の兵法者・孫子曰く「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず」というが、彼もまた情報の重要性をよく知っていた。そのため、国内をたびたび視察しては地形を確認し、それどころ…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する