攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

足利義満 の検索結果:

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…戦乱が多いのですが、足利義満の時代に「明徳の乱」や「応永の乱」が起こり、足利義教の時代に暗殺事件「嘉吉の変」が起こり、足利義政の時代に「応仁・文明の乱」が起こり、ほかにも多数の事件が起こっています。そのたびに有力守護家である畠山氏にも大きな影響があり、分国や守護代にも変化が生じています。あるいは「応仁・文明の乱」においてはそもそものきっかけをつくったのが畠山氏の家督争いだったとも言われており、この場合は対立する派閥同士がそれぞれ守護代を任命するなど、やはり守護代も無関係ではあ…

「三管四職」の延長戦(復習回)を攻城団テレビで生配信しました

…義弘が起こした反乱。足利義満は畠山、斯波の軍を率いてこれを討ち、守護大名に対する将軍権力を確立した。堺までは行ってないけど、じつは義満も出陣している。(将軍自ら出陣しなければならない時点でまだ権力基盤は安定していない?) 1408年(応永15年)「天下の美挙(びきょ)」 応永13年(1406年)に畠山基国が亡くなると将軍・義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄・満家に代わって、弟の畠山満則(みつのり)が畠山家の家督を継いだが、応永15年(1408年)に義満が死去すると、満則は家督を…

三管四職の延長番組(復習回)をやります

…げたにもかかわらず、足利義満の怒りを買ったため弟の満慶(満則)が家督を継ぐことになります。しかし義満が死ぬと満慶は兄に家督を返上して「天下の美挙」と称えられました。このとき満慶は兄から能登一国をに与えられ、能登畠山家が創設されたというわけです。 kojodan.jp 室町時代は後半は戦国時代と重なっているし、前半は南北朝時代と重なっているように、これまでの知識の点と点がつながりやすい時代でもあります。ぜひみなさんもこの表を見て気づいたことや、質問などをお寄せください。事前の場…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…しますが「3代将軍・足利義満が三管領家や四職を定めた」というエピソードは江戸時代初期に書かれた「南方紀伝(なんぽうきでん)」が出典なので真偽不明とのこと。 最初の管領は誰か、というのはけっこうややこしくて、文献上は義満の時代に細川頼之が管領をつとめた記録が残っているのが最初らしいです。ただ実態としてはその前の斯波義将(よしゆき)の頃から「足利家の執事」から「室町幕府の管領」に移行していったと考えられていて、斯波義将が初代管領と書いてあることが多いです。そもそも管領という名称も…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…れた事件。3代将軍・足利義満は有力守護大名の弱体化と将軍権力の強化を図っていた 室町時代 1391年(明徳2年) 明徳の乱 山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱。結果、11か国の守護領国を誇り「六分一殿」と呼ばれた山名氏の所領はわずか3か国に 室町時代 1395年(応永2年)〜1396年(応永3年) 田村庄司の乱 田村則義・清包父子一族によって起こされた鎌倉府に対する反乱。「小山氏の乱」の一環とみなされている 室町時代 1399年(応永6年) 応永の乱 守…

【クーデターで読み解く日本史】南朝の残党を隠れ蓑にした実力者の暗闘――禁闕の変

…朝の動乱は3代将軍・足利義満の代に南北朝の合一で決着したが、この時に取り交わされた約束を義満が反故にしたため、南朝残党による反抗運動は継続していた。たとえば大和永享の乱においても彼らの動きがあったのはすでに紹介したとおりだ。 そして1443年(嘉吉3年)9月、前代未間の事件が起きる。禁裏の別名から禁闕の変(きんけつのへん)と呼ばれる事件だ。後鳥羽天皇の後裔を称する尊秀(たかひで/そんしゅう)と、名門日野氏の庶流で今は亡き義教との折り合いが悪かったという日野有光(ひの ありみつ…

【クーデターで読み解く日本史】手を休めない義満の実力者つぶし――応永の乱

…一が果たされた後も、足利義満による守護大名統制の手は止まらなかった。そこでターゲットにされたのが九州の有力守護大名、大内義弘(おおうち よしひろ)である。南朝との戦いおよび合一の仲介に奔走し、また明徳の乱でも活躍したことから、この頃には周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉の6ヶ国守護になっていた。 さらに彼の場合、重要だったのは、九州という対外問題の要地にあったことだ。対明貿易を模索していた義満にとって、すでに朝鮮との貿易を独占していた義弘は邪魔になりうる存在だったのである。再…

【クーデターで読み解く日本史】義満が巧妙に張り巡らせた同志討ちの計略とは?――明徳の乱

… ×山名氏清・満幸 足利義満の時代、山名氏は丹波・丹後・因幡・伯者・美作・但馬・和泉・紀伊・出雲・隠岐・備後と、西国に11ヶ国もの守護職を独占する有力守護大名一族であった。これはなんと全国66ヶ国の6分の1という途方もない数であったため、人々は彼らのことを「六分の一衆」と呼んだ。また観応の擾乱に際しては足利直義(あしかが ただよし)側について後に帰順したという経歴もあったので、義満としては警戒するべき対象であった。 しかし、この山名氏も、一族の長であった山名時義(やまな とき…

【クーデターで読み解く日本史】有力守護大名を弱体化させた義満の策略――土岐康行の乱

…のための下地を作った足利義満は、独自の思惑で動く有力守護を抑えるために動き出した。最初に狙われたのが、康暦の政変(こうりゃくのせいへん)において反細川頼之(ほそかわ よりゆき)で積極的に行動した土岐氏だった。 当主の土岐頼康(とき よりやす)が亡くなり、息子の康行(やすゆき)が亡くなった父から美濃・尾張・伊勢の守護職を継承する予定だったところ、義満がこれに首をつっこんで、尾張守護のみ弟の土岐満貞(とき みつさだ)のものとしたのである。こんなことをすれば、兄弟が争わないはずがな…

【クーデターで読み解く日本史】幼い将軍の成長が呼んだ守役の悲劇――康暦の政変

… 室町幕府3代将軍、足利義満は南北朝時代を終わらせた男である。彼はその頃すでに挽回しようがない劣勢に立っていた南朝に働きかけ、「南北朝から交代で天皇を出す」という約束で和睦を実現させた。結果、南北朝の合一が果たされた――ただし義満が約束を果たすことはなかったので、本書でこの後にも紹介するような南朝残党の反乱が室町時代を通じて何度も起きることになる。 また、京にある室町の地に住居と政庁の役割を果たす「花の御所」を建てて「室町幕府」と呼ばれる由縁を作ったのも義満だし、明との貿易を…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府11代・徳川家斉――40人の側室、55人の子をもうけた好色家 1773年~1841年

…正室の父である島津重豪(しまづ しげひで=栄翁)、そしてこのお美代の方の養父・清茂(碩翁)の三翁はそれぞれ家斉の「父」的存在であるわけだが、彼らがあまりにも豪奢な生活を送っていたので、人々は彼らを「天下の楽しみに先立って楽しむ」と評したという。結局、家斉は50年にわたって将軍職に居座った。太政大臣の栄誉にも輝き(生前にこの地位を得たのは足利義満や徳川家康・秀忠などごくわずか)、1837年(天保8年)に子の家慶に譲った後も大御所として、亡くなるまでその発言力を保持し続けたのだ。

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府8代・足利義政――応仁の乱を引き起こした文化人 1436年~1490年

…たもので、3代将軍・足利義満の金閣寺を真似て銀箔をはるという計画が立てられていたが、その前に義政が死去してしまうため、それはかなわなかった。 しかし彼の活動は、単なる趣味として終わっただけでない。この東山殿を中心として栄えた文化が「東山文化」として歴史に名を残したのだ。優れた才能や技術を持つ者を傍に置き、さらにそこに日明の貿易で工芸品などが輸入されたため、それらの多様な芸術や文化が融合し、新しい文化が生まれたのである。 このようにして趣味に没頭する日々を送っていた義政だったが…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府4代・足利義持――父を否定し、政策を転換 1386年~1428年

…しもち)は3代将軍・足利義満の嫡子だが、父との折り合いは悪かった。それが影響してか、明との貿易に代表されるような義満時代の政策をことごとく否定し、破棄していったことで知られる。しかし彼の統治が悪かったというわけではなく、有力守護大名との力関係に均衡が取れて比較的平和な時代であったようだ。 南北朝の合一がなされたのは、義持が6歳のときのことである。動乱の時代は過ぎ去り、幕府の体制を強化し、安定を図ることが求められる時代であった。義持が征夷大将軍に就任したのは9歳のとき。しかしそ…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府3代・足利義満――南北朝の統一を果たし室町幕府の最盛期を築く 1358年~1408年

細川頼之の活躍と失脚 義満は4歳のころ、南朝軍によって京を追われた父、義詮が近江に逃れたため、播磨白旗城の赤松則祐によって養育されることとなった。7歳になったころには京都の情勢が落ち着いたので京に戻っている。その途中、摂津の琵琶塚で宿泊した際に、その地の素晴らしい景色を気に入った義満が「この地を担いで京都に持って帰れ」と近臣たちに命じたという。まだ幼い義満の、スケールの大きさを窺うことが出来るエピソードだ。その後、1367年(貞治6年)に父が死去したため足利氏の家督を継いだ。…

【歴代征夷大将軍総覧】足利将軍――室町時代

…もあった。三代将軍・足利義満の代には南北朝の合一が成り、以後しばらくは全盛期が続く。しかし、やがて将軍の権威が低下して幕府内部での争いが加速していく。10年あまりにわたって争われた「応仁の乱」や、時の将軍・足利義材がクーデターによって失脚させられた「明応の政変」によって将軍と幕府の権威は完全に失墜し、時代は下剋上へ、戦国の動乱へと進んでいくこととなったのである。 鎌倉幕府+建武の新政=室町幕府? 足利氏は源氏(清和源氏)の一族であり、源義家の子・足利義国(よしくに)を祖とする…

【歴代征夷大将軍総覧】後醍醐天皇の皇子たち――建武の新政・南北朝時代の将軍

…室町幕府の三代将軍・足利義満のころになると情勢はすっかり北朝有利に傾いていた。結果、1392年(明徳3年)南朝の後亀山天皇(後醍醐の孫)が北朝の後小松天皇に譲位するという体裁を整えて、ふたりの天皇が並び立つ時代は終わりを告げたのである。 建武の新政は「公家幕府」? さて、天皇親政によって新たな政治を行おうとした建武の新政およびその後継である南朝だが、その実態は「公家幕府」ともいうべきものだった、という指摘がある。実際、建武の新政における組織機構のうち、武士の統制をする武者所は…

戦国時代の足利将軍についてざっくり理解する

…。(まあ前半も3代・足利義満のあとは知名度が低いのですが、こっちはまた別の機会にやります) 戦国時代の足利将軍のプロフィール 9代将軍・足利義尚(よしひさ) 足利義政の子で、「応仁の乱」は彼が生まれたから起きたともいえます。もともと義政には実子がいなかったため、弟の義視(よしみ)を養子に迎えて将軍職を譲る予定でしたが、正室・日野富子が義尚を生んだため、将軍後継問題が発生し、それが畠山氏の家督争いや、細川勝元と山名宗全の権力争いとあいまって起こったのが「応仁の乱」です。ともあれ…

南山王の居城・南山グスクと、沖縄最南端の具志川グスクを取材してきました

…01年(応永8年)に足利義満が遣明使を派遣して、勘合貿易がはじまった」と習いましたが、そのことによって琉球に影響が出ていたこと、ひいては尚巴志による三山統一を後押ししていたというのは意外な結びつきでした。歴史というものが相互に影響を与えあいながら紡がれていくということをあらためて認識することになりました。 ちなみに中川さんは他魯毎を主人公にした小説「金の屏風とカデシガー」を書かれています。2016年(平成28年)に「第11回おきなわ文学賞」第二席を受賞された作品で、「唐船ドー…

九十九髪茄子のゆくえ

…十九髪茄子はもともと足利義満が所有した唐物茶入ですが、その後松永久秀の手にわたり、さらにそれを織田信長に取り上げられました。信長は九十九髪茄子をとても気に入ったそうで、「本能寺の変」のときも持参していたそうです。 堺の豪商であり、千利休の弟子である山上宗二がその所在を記録しています。 そしてここからが謎なのですが、本来いっしょに本能寺で焼けたはずの九十九髪茄子が、その後なぜか豊臣秀吉の手にわたっているんですね。 秀吉はその九十九髪茄子を秀頼に譲り、今度は「大坂夏の陣」で再び戦…

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