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【10大戦国大名の実力】武田家④――源氏の名門のプライド

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源氏の名門のプライド

ここでもう一度脱線して、「名家」としての武田家に話を戻してみよう。
先述したように、武田家は新羅三郎由来の血筋を誇る源氏の名門である。そして、この一族はその名家としてのプライドを、自らのアイデンティティーとしていたらしい節がある。
その証拠として挙げられるのが、史料で頻繁に見られる「御当家(ごとうけ)」という言葉だ。戦国時代、大名たちの多くは自分の支配領域を国家と称し、家臣や国人に「国家へ忠誠を誓うように」と命じてきた。

しかし、信玄とその子・勝頼の時期、すなわち戦国時代武田家の史料においてはこの「国家」がほとんど登場せず、代わって「当家」――すなわち武田の家を示す言葉が置かれている。
この背景にあるのは強烈な名族意識であり、そのプライドこそが信玄・勝頼期の武田家を取りまとめる力として作用していたのではないだろうか。
「足利氏の室町幕府が乱世を治められない今、源氏の名門である自身こそが京へ赴いて織田信長を倒し、天下を統一するのだ」――もしかしたら、病を押して西へ向かった信玄の脳裏には、そうした思いがあったのかもしれない。

勝頼の苦悩と最期

信玄の跡を継いだのは、もともと諏訪氏を継いでいた四男の勝頼だった。
彼が家督を継ぐことになったのは、本来跡を継ぐはずだった長男の義信(よしのぶ)が、父・信玄との対立の末に死んでしまったからである。
そのきっかけになったのは、先述した今川家との同盟破りだった。弱体化した今川家を攻めるのは戦略上当然の行為だったが、今川義元の娘を妻に持つ義信としてはどうしても納得できないことだった。

この一件が父子のあいだに対立を呼び、ついに1565年(永禄8年)、義信は謀反のかどで幽閉され、多数の重臣が処罰。義信自身も2年後には自害へ追い込まれた。
はたして本当に義信が謀反を企んでいたかは確かではないが、方針をめぐる対立が家臣団の思惑を巻き込む形で肥大化し、ついには謀反へ――というのはまさに信玄自身がかつてたどった道だ。謀反計画が実在していても驚くには値しないだろう。

こうして武田の家督を継いだ勝頼は、信玄以来の方針を引き継いで三河・遠江方面に積極的な攻勢を掛けた。
とくに信玄の死の翌年、父も落とせなかった遠江の高天神城を攻め落としたことは、彼の武名を高くし、家康を追いつめることになった。

だが、勝頼は次第に織田・徳川連合軍の圧力に負けて勢力を衰退させていく。
その大きな要因としてよく語られるのが、1575年(天正3年)の長篠の戦いだ。三河の要所・長篠城を攻めた勝頼は、援軍としてやってきた信長・家康両雄の軍勢と対決。多勢の敵に対して果敢に攻めかかる。
しかし、大量の新兵器・鉄砲と、柵や堀を活用した戦術を展開する信長の前に敗れ、「武田二十四将」に数えられるような重臣たちを多く失いながらもどうにか撤退した――という。

また、勝頼の失態としてもうひとつ有名なのが、上杉家の家督争い――「御館の乱」への介入である。
上杉謙信の死後に景勝・景虎という二人の養子によってその後継者の座が争われた際、勝頼は同盟者だった北条氏政の要請を受けて景虎に味方していた。
だが、のちに景勝側に寝返ったことから、北条氏との同盟を決裂させる。結果として、三方向から攻撃を受けることになった勝頼は遠江の領地を失い、駿河や上野でも北条氏の圧迫によって領地の維持が難しくなった。

そして1582年(天正10年)、いよいよ武田氏を取り巻く状況は悪化する。一門衆の木曾義昌や穴山信君といった重臣たちが次々と裏切り、これに呼応して織田・徳川連合軍が信濃・甲斐ヘとなだれ込んだのである。
追い詰められた勝頼は躑躅ヶ崎館に代わって建設中だった新府城を放棄して、一門衆の小山田信茂を頼って逃げ延びようとするがかなわず(信茂が裏切って入城を拒否したともいう)、ついに天目山の麓で自刃へと追い込まれた。
ここに名門・武田家は滅亡したのである。

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