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【10大戦国大名の実力】織田家⑥――天下人の資質とセルフプロデュース

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「恐怖のカリスマ」信長

最後に、信長の外部イメージとカリスマ性について触れておきたい。
彼はしばしば「魔王」といった畏名で語られ、恐怖の対象として見られる。そもそも、本人の性格が非常にエキセントリックで、しばしば家臣を過剰に責めたという。比叡山焼き打ちや長島一向一揆の皆殺しなどの虐殺エピソードも多い。火縄銃で暗殺を狙った犯人を鋸引きでじっくりと処刑した、なんて恐ろしい話もある。
このイメージは現代もなお有効で、フィクションの類では時に「本物の魔王」として大暴れさえする(人気ゲームシリーズ『戦国無双』などでのオーラをまとった信長がその好例だ)。

その一方で、信長には「裏切られた男」というイメージも付きまとう。
家督を継ぐと同時に父に従っていた勢力のほとんどは離反し、弟も謀反を企んだ。中央へ進出して多くの大名を傘下に加えたが、そのうちの幾人かはのちに信長に反旗を翻した。
そして本能寺の変で重臣・明智光秀に殺された。確かに、信長は何度も裏切られているように見える。

ところがじつは彼、家督継承すぐの時期を除き、譜代の家臣にはあまり裏切られていない男なのである。
裏切った大名は皆織田家の勢力拡大後に従ったものばかりで、信長は裏切った者たちをすべて倒し、状況を安定化させている。光秀(彼も外様である)のケースだけが例外だったわけだ。

これを実現させたのは、信長が持つ恐怖のイメージだったのではないだろうか。
織田家臣は等しく信長を畏怖していた。それはそうだ、裏切ったら一族もろとも皆殺し、などと言い出しそうな主君に軽々しく背けるはずがない。

となると、信長のエキセントリックな振る舞いもある程度は計算ずくだったのかもしれない。若き日の信長は「大うつけ」とさげすまれた。その振る舞いにも信長なりの計算はあったのだろうが、一方で家臣たちの反発を買い、反乱を誘発させた部分もあったろう。
この経験を活かして、信長は「魔王」になったのではないか? 自らを恐怖のカリスマと化すことで、織田軍団をまとめ上げたのではないだろうか?

そう考えると、後継者候補たちにはやはり資質がなかった、と言わざるを得ない。
信雄も、信孝も、後継者の地位を醜く争うことでマイナスのイメージを周囲に発散してしまい、結果として秀吉にすべてをもっていかれてしまった。彼らには信長が狂気の仮面の奥に隠していた冷徹な計算高さがなかったのである。

存在感を失って

こうして概観してみると、信長がいなくなった後の織田家は、かつてあれほど持っていた存在感を完全に失ってしまったかのようである。
それはすべて豊臣家へ、のちには徳川家に受け継がれ、織田家は歴史の陰にひっそりと生きていくことになる。

結局、信長の子にせよ、孫にせよ、弟にせよ、誰ひとりとして信秀以来の「織田家の後継者」たるべき資質を示せなかった。
むしろその資質――「経済力を活かす」という能力が、商業都市と金銀山を押さえて莫大な財産を築き上げた秀吉にこそ見られるのは、皮肉ではあるもののごく当たり前のことである。秀吉は信長の有能な家臣だったのだから。

このあたりは現代でもしばしば見られる現象であろう。会社の業績を一気に伸ばしたカリスマ社長の手法を正しく受け継いでいるのは、息子でも同族でもなく長年つき従っていた部下なのだ。
何もなければそのまま一族のなかで社長の座は継承されるかもしれないが、本来社長になるはずだった長男がいなくなってしまうと内紛が起き、いつの間にやらちゃっかり部下がトップに立っている――というわけである。

そのような末路をたどらざるを得なかったのは、日本史に燦然と輝く「織田信長」を生みだした代償だったということなのか、それとも経済力を活用する思想ごと秀吉に存在感を奪われてしまったのか。
なんにせよ、実力ある後継者を育てられなかった組織の運命など、そんなものであろう。

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