攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【10大戦国大名の実力】毛利家④――元就の死後

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

毛利家の躍進、そして元就の死

ここで少し脱線し、元就の策士らしさを思わせるエピソードをひとつ紹介しよう。
ある時、酔った元就がこんなことを漏らした。曰く、「智に優れ、天下に心を配る者に、心から許しあえる真の友などいない」と。
「国家に真の友人はいない」はアメリカの国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャーの言葉で、外交の難しさを語るのにしばしば引用されるものだが、元就の言葉と相通じる要素をもっている。元就はリアリズムをもってあらゆる人に対応する必要を知っており、その通りに行動したからこそ成功をつかみ取ったのである。

話を戻そう。
厳島の戦いの後、元就はまず大内氏を、続いて尼子氏を滅ぼして中国地方の覇者となった。さらに九州へも進出、元春と隆景を派遣して大友氏と戦ったが、この際はなかなか勢力を拡大できないでいるうちに、尼子の残党が活動を始めるなど複数の勢力による包囲網が形成されたため、九州進出は諦めざるを得なくなった。
そして、「毛利包囲網」の打破ができずにいた1571年(元亀2年)、病に倒れる。75歳の大往生であった。

さて、元就の跡を継いだのは孫の輝元だ。
元就は1546年(天文15年)にはすでに息子の隆元に家督を譲っていたのだが、実権は引き続きもちつづけた。それでも将来的には隆元を毛利氏の中心に据える計画であったろうが、彼が1563年(永禄6年)に急死してしまったため、それは叶わなかった。
結果、隆元の子の輝元が元春・隆景の両叔父に補佐されながら毛利氏を指揮していくこととなったのである。

この輝元に対して、元就は「天下を望んではいけない、自分の国を守らなければいけない」といった趣旨の遺言を残したとされる。
遺言自体の真偽は不明だが、実際「元就生前」と「元就死後」(もしくは九州撤退前と後?)では毛利家の行動方針自体が大きく変わったように見える。すなわち、「拡大」から「現状維持」に、だ。
元就の時代にはあれほどのバイタリティに満ちた行動をとり、策謀をめぐらせ、次々と強敵を討ち果たした毛利家が、その死後にはあくまで中国地方の覇権を守ることにばかり苦心するようになる。その背景に「国を守れ」という元就の遺言があった――というのはいかにもありそうな話ではないだろうか。

輝元時代――織田軍団との戦い

輝元の時代、毛利家を取り巻く情勢は急激に変化していく――いや、この言葉は正しくないかもしれない。実際には、戦国時代というもの自体が、終焉に向けて急速に変化を始めていたのだから。
北九州への再侵攻は行われなかったものの、尼子残党の鎮圧に成功し、備前や讃岐にまで手を伸ばす。しかし、ちょうど同時期に隣接する播磨へ織田信長の軍勢が流入していたのである。

当初、毛利家と織田家の関係は緊張感をはらみつつも中立的なものであったようだ。
実質的に元就一代で地方の覇者にまで急成長を遂げた毛利家には、まず地盤固めが必要であり、信長と喧嘩をしている暇などなかったのだ。
しかし、織田家との緩衝地域になっていた但馬・播磨・備前の諸勢力が織田側に傾きつつあったこと、織田の支援によって尼子残党の活動が再び活発化したことが毛利氏の立場を抜き差しならないものにした。

当時の史料によると、毛利内部では最後まで信長との対決回避の方策やその場合の対応が考えられていたらしい。
しかし、最終的に輝元は1576年(天正4年)、京を追われて自らの勢力範囲に逃げ込んでいた将軍・足利義昭の要請に応じ、上杉謙信や石山本願寺と足並みを合わせての包囲網形成をはかる。
毛利氏と織田軍の中国方面司令官・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の戦いは、ここから6年にわたって続いた。毛利軍は元春・隆景の「両川」が指揮をとり、各地の要害に籠もって秀吉軍の攻撃を撥ね返そうとしたがしだいに押し込まれ、備中の高松城も危機に陥った。

他の反信長勢力に目をやれば、上杉謙信は織田軍を破るも病に倒れ、石山本願寺は毛利水軍による補給を受けるも、その水軍が織田の鉄甲船に敗れたことなどもあって窮地に追い込まれ、ついには和睦の道を選んだ。
そのまま戦いが続いていれば、毛利氏もまた降伏か壊滅のどちらかを選ばなければならなかったかもしれない。

豊臣政権と「両川」の死

しかし、歴史は動いた。
1582年(天正10年)、本能寺の変にて織田信長死す。この報を受けた秀吉は急遠毛利家と和睦をまとめ、急ぎ中央へ帰還。信長の仇・明智光秀を倒し、織田家中をまとめて、自身の天下取りへ向けて動き出した。
この際、秀吉軍との和睦が成立した直後に「信長死す」の一報を受けた毛利軍内部では、和睦を破って攻撃するか否かで意見が対立したとされる。元春は断固攻撃を主張し、隆景は和睦を守ることを主張した。
もしも毛利軍が動いていれば、中央の混乱はなお長く続き、それがついには毛利家の天下取りに結びついていた可能性も十分にありうる。しかし、輝元が元春の積極策に首を縦に振ることはついになかった。

以後、毛利家は隆景や外交僧の安国寺恵瓊を窓口に、秀吉との協力関係を深めていく。
四国・中国攻めにも従事し、輝元には豊臣政権の重鎮として112万石という大領が認められた。いわゆる文禄・慶長の役――朝鮮出兵では輝元自身が渡海して軍勢の指揮をとり、さんざんに苦労することにもなったが、「五大老」のひとりとして大きな発言権を獲得していたのも事実である。

輝元を支えた「両川」も、この頃に亡くなっている。
豊臣政権に組み込まれることを嫌った元春は早い時期に引退していたが、秀吉の意向を断りきれずに九州遠征に参加、その途中の1586年(天正14年)に陣中で病没している。負け知らずの名将として武勇で知られただけでなく、読書など文化的教養にも恵まれた人物であったと伝わる。

積極的に豊臣政権に交わった隆景は筑前に領地を与えられて九州遠征でも活躍したが、1597年(慶長2年)に病没した。
一説には、彼が秀吉一族にあたる秀秋を養子として迎え入れたのは、毛利本家に秀秋が送り込まれようとしているのを察知して先回りしたのだという。
真偽は定かではないが、秀秋が凡愚な人物として知られていることを考えると、隆景は最後に小早川家を犠牲にして毛利家を守ったのだとも思える。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する