攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

会津藩 の検索結果:

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…いられている赤瓦は、会津藩・初代藩主の保科正之氏が、雪国ならではの低温や積雪に耐えられる瓦の開発を命じたことから生まれた。鉄分を多く含んだ釉薬を加えることで、瓦に水分を染み込ませない効果がある。現在、この赤瓦を用いた天守閣を見られるのは全国でも会津若松城だけ 優美な五層の天守を誇る、難攻不落の名城 会津若松城の始まりは至徳元(1384)年。葦名直盛氏が東黒川館を築いたことに由来する。その後、文禄2(1593)年に蒲生氏郷氏が入城し、天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名。以降、代々の…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…ていた長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職の松平容保らの排除を目指して挙兵。幕府方の勝利に終わる。長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討がおこなわれた 江戸時代 1865年(慶応元年) 乙丑の変(乙丑の獄) 福岡藩で起こった、藩主・黒田長溥による勤皇派弾圧事件。この結果、福岡藩は維新に乗り遅れることに 明治時代 1874年(明治7年) 喰違の変(岩倉具視遭難事件) 東京の赤坂喰違坂で起きた、右大臣・岩倉具視に対する暗殺未遂事件。征韓論争に敗れた西郷隆盛の支持者による犯行 明治時…

【クーデターで読み解く日本史】幕府の威信が失墜した鎮圧失敗劇――長州征討(長州征伐)

…京へ進軍したものの、会津藩・薩摩藩らと激突した禁門の変(きんもんのへん)で敗れ、ついに「朝敵」とされてしまった。 朝廷の命を受けた幕府は長州藩を攻撃するべく諸大名に通達し、朝敵を打ち倒すために長州へ向かわせた。これが第一次長州征伐である。しかし、長州藩は戦闘を行う前に降伏し、家老二人の首を差し出した。検分の後、幕府は兵を撤退させている。 ところが、この直後に長州藩内でクーデターが発生し、討幕派が主導権を握ったことで事態は大きく動き出す。攘夷は無理と悟った彼らはむしろイギリスと…

【殿様の左遷栄転物語】二重に抱えた複雑な事情 佐賀藩鍋島家

…れた末、ついに伯庵が会津藩預かりになることで、大きな問題にはならずに終わった。 このような鍋島・龍造寺の関係をベースとして創作されたのが、世に名高い「鍋島化け猫騒動」だ。龍造寺家の者にかわいがられていた猫が、主人が殺害されたことから化けて出て、敵である鍋島家の大名を苦しめるというのが大体のあらすじだが、もちろんこれはまったくのフィクションである。 鋼島三支藩に隠されたドラマ いわゆる「三支藩」を作り上げたのも勝茂の時のことである。勝茂の弟・忠茂を祖とし、後に勝茂の九男の直朝が…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…ら)を祖とするのが、会津藩加藤家である。もとは松平(徳川)家に仕えていたものの、嘉明の父・教明が三河一向一揆に加担して徳川家康に反旗を翻したため、国を離れることになった。その後は将軍である足利義昭、そして秀吉へと主君を替えた。しかし秀吉の死後、徳川家康に急接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦っている。 1627年(寛永4年)、陸奥国会津藩の藩主・蒲生忠郷が子のないままに死去したため、代わって嘉明が40万石を与えられ、会津に入ることになった。この地はかつて秀吉が五大老の1つであ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…た。その後、薩摩藩・会津藩の尽力によって朝廷の尊王攘夷派は主導権を失い、翌年には長州藩が武力によって逆転を狙うも失敗(禁門の変)。これに乗じるべく幕府は長州藩を攻撃して降伏させる。ところがその後、親幕府でまとまるかに見えた長州藩内部でクーデターが起き、討幕派が主導権を得てしまう。 このように一進一退を繰り返す情勢の中で、家茂は幕府の権威復活を目指して自ら兵を率い、第二次長州征伐を行う。しかし朝廷はなかなか長州への攻撃を認めなかったので、彼は大坂に足止め状態になってしまった。さ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…知はできなかった。これが後の会津藩主・保科正之で、4代将軍・家綱の側近として活躍する。女性関係では、こんな話もある。あるとき、家康が秀忠のところに美人の女中を1人送り込んだ。口実として菓子は持たせたが、目的はもちろん一夜をともにさせ、慰めることだ。ところが、現れた秀忠はきっちりとした正装で、かつ菓子だけ受け取ると娘はさっさと返した、という。ここまでくると女性嫌いなのか、それとも「家康の送り込んできた女性と関係を持ったら何があるかわからない」と判断したのか。どちらもありそうだ。

【江戸時代のお家騒動】米沢騒動 幕閣重鎮の後ろ盾でお家断絶を回避する

…4年(承応3年)に、会津藩主・保科正之の娘である媛姫(はるひめ)を娶った。彼女は1658年(万治元年)に亡くなってしまうが、この結婚によってできた保科家との繋がりが、上杉家改易の危機において重要なものとなってくるのだ。 1664年(寛文4年)、綱勝は江戸城に登城した後に義弟にあたる吉良義央の家に寄り、茶を飲んでから帰った。するとその夜、綱勝は酷い腹痛に見舞われ、その日の夜だけでも7、8回も嘔吐を繰り返した。そのまま約1週間、綱勝は苦しみ続けた挙げ句、息絶えてしまったのである。…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…(寛永4年)【舞台】会津藩、宇都宮藩【藩主】蒲生秀行、松平忠郷【主要人物】蒲生氏郷、蒲生秀行、松平忠郷、蒲生郷成、岡重政 信長、秀吉にも愛された蒲生氏郷が、会津藩の基礎を築く 蒲生騒動は戦国時代に起きたお家騒動だ。騒動の舞台となるのは、豊臣政権時代に活躍した大名・蒲生氏郷が亡くなった後の蒲生氏である。氏郷は近江出身で、はじめ織田信長に仕えていたとされる。信長は氏郷がまだ13歳であった頃から彼の力量を見抜いていたようで、自分のもとで元服させたり娘の冬姫を娶らせたりしている。 そ…

【江戸時代のお家騒動】浦野事件 加賀藩内の独立領を統合する

…新たな後見人となった会津藩主・保科正之と相談。話し合いを重ねた上で、裁定を下した。 まず事件を扇動した浦野には、その子や娘婿を含めて切腹が命じられた。保守派の中心として擁立された元連は蟄居を命じられ、保守派に与していた百姓、並びにその子らに対しても死刑が申し渡されている。また改革を推進し事件のきっかけをつくった連頼も無罪放免とはいかず、前田家の家老を罷免となり、さらに家督を子の時連に譲ることとなった。こうして藩の介入により事件は一件落着したものの、それから4年後の1671年(…

初代藩主と藩祖のちがい

…くはまたの機会に。 会津藩の藩祖はなぜ保科正之なのか このように藩祖や初代藩主というのは(そもそも「藩」の定義があいまいなこともあり)ややこしい話なのですが、次に会津藩祖・保科正之のケースを考えてみます。 会津藩は「関ヶ原の戦い」で敗れた上杉景勝が領有していた陸奥国会津郡周辺にできた藩で、初代藩主は家康の娘婿でもある蒲生秀行です。秀行は蒲生氏郷の嫡男で、氏郷は上杉家の前に会津の領主だったので、返り咲いたわけですね。なのでふつうに考えれば藩祖は初代藩主である秀行か、その父である…

4.出世と譜代大名

…守護職を務めたのは、会津藩主の松平容保と、途中でわずかな間だけ彼に代わった松平慶永の2人だけである。ほとんどの期間は、容保がこの役職に就いていた。京都の治安維持を目指した容保だったが、攘夷運動があまりに活発であり、当初の宥和路線から強硬路線へと転じ、攘夷志士を徹底的に弾圧した。彼の配下として活躍した武装集団・新選組の名前は、今も広く知られている。容保は長州征伐にも積極的な姿勢を示し、後に新政府軍から朝敵としてその名を挙げられることになる。大政奉還後も京都守護職は、慶喜が将軍職…

江戸城での控室は家格によってちがうらしい

…賀前田家。 溜の間 会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家のみ代々で、それ以外は一代かぎり。幕府の政治顧問を担う少数の有力譜代大名。 大広間 国持大名(国主)および准国持大名(准国主)、四品以上の官位を持つ親藩および外様大名。 帝鑑の間 「譜代席」とも呼ばれ、この部屋に詰める大名が譜代大名。ただし真田家など外様でもこの席に移った大名もいる。 柳の間 五位および無官の外様大名。交代寄合や高家などの旗本も。 雁の間 幕府成立後に新規に取立てられた城主大名。 菊の間 幕府成…

3.戦国大名から外様大名へ

…数えられた加藤嘉明の会津藩・加藤家は「叩き上げ大名の息子のボンクラ具合」が目立つ。嘉明の息子の明成は、地震で天守閣が傾いていた鶴ヶ城の大改築を行って幕府に危険視されたり、内政に失敗したりと暗愚な人物であったようだ。挙旬、重臣の堀主水と対立して幕府まで巻き込む大騒動を起こし、主水は処刑したもののこの事件の際の言質を取られる形で所領を没収されてしまった(その後、子孫は小大名として幕末まで残る)。 改易は幕府の権力を強化する最も手っ取り早い方法であったが、このような強権発動は大量の…

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