攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

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【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…が伺えます。 筑波大図書館所蔵の『蝦夷日記』(安政期)には「(松前の)根守(森)東、大筒鋳物師場多し、職人其処ニ住ミ居、四五十ポンド程鋳立ニなるよし二候鋳型等拵なり」とあり、当時ある程度の大型滑腔砲については自国生産可能な拠点を藩内に設けていた可能性があります。本編でも触れたとおり、藤原主馬は象山に師事していたころ大砲の鋳造係に自ら名乗り出ており、その技術も修得して国許に持ち帰っている可能性はあるでしょう。 図7.戸切地陣屋配備砲類の最大射程距離(国土地理院web公開の地図に…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…付』※北海道大学附属図書館北方資料室所蔵本のデジタルアーカイブに拠った。江川 英龍『砲術門人姓名簿』国文学研究資料館 伊豆韮山江川家文書データベース公開資料江差町史編集室1979『江差町史』資料編第三巻※『松前藩御達留』について、同書所収の翻刻を基準とし、北海道大学附属図書館北方資料室デジタルアーカイブ公開の同性質資料との照合を行いつつ参照した。また、『藤枝日記』は同書所収の翻刻に拠った。江差町史編集室1980『江差町史』資料編第四巻※『慶応二年御役人幷諸向勤名前扣帳』につい…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…台場之図』(函館中央図書館蔵)。半月堡を各稜堡間に設計し、防衛能力の補完と攻撃起点の増加を図っている。また外周全体に斜堤・覆道を設け、各攻撃起点と対応した優位斜地を構築しようとした形跡がみえる。 図29は武田斐三郎による五稜郭の初期設計図の写しです(なお先述しましたが、斐三郎と藤原主馬は佐久間象山塾の同期同門であり、サヴァール教本に基づく洋式軍学の素養は同じように持ち備えていたと考えられます)。五稜の稜堡の間にすべて半月堡(はんげつほ)が設けられ、さらに一部は堡障(ほうしょう…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

…楓軒年録』(国立国会図書館蔵)所収の赤松柔三郎書簡に見える、藤原正蔵に関する記述(部分・抜粋)。赤枠で囲った部分は右から「藤原正蔵」・「間宮倫蔵」・「蝦夷地側(測)量」・「魯西亜船」・「リコルド」。 図5(右)『亜魯西亜書翰』(国立公文書館蔵)奥書。 立原翠軒(水戸彰考館総裁)の名で「此書ハ赤松柔三郎門人藤原正蔵と申(す)松前之役人ニ成至者、右之訳本公儀ニ指出葉本を内々柔三郎写取、加之書成」とある。 図6.『尾薩漂民私記』草稿抜粋(北斗市郷土資料館戸切地陣屋展・展示パネルより…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…を探しに、たくさんの図書館や古書店を巡ったのは良い思い出です。ある時、偶然立ち寄った古書店でずっと探していた本を見つけられたり、またある時は今まで知らなかった復元案を偶然発見することができたりした時の喜びは今もはっきり覚えています。こうした中で、管見の限りではありますが、これまで発表されている安土城天主復元案は以下が挙げられます。 『絵本太閤記』挿絵案、(「天守指図」案)、奥村徳義案、鷗雨画伯案、土屋純一先生案、古川重春先生案、渋谷五郎先生案、櫻井成廣先生案、内藤晶先生案、宮…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…いのです。 加賀中央図書館が所有するものが第1部に展示されています。 「織田家の悪口に満ちている本」と西山学芸員は紹介されていましたが、Wikipediaにも「豊臣秀吉に関しては絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷評されている」と紹介されてますね。ゲームでは謎のキャラクターとしてよく出てくる幻術師・果心居士の記述もあるようで、たしかにうさんくさい系の本のようです。 現代でもフェイクニュースが拡散して、その訂正記事はまったく読まれず、まちがった情報だけが広まり定着し…

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

…方向の市街地を望む 「暴れん坊将軍」のロケでも使用された、はの門下坂 天守から南の大手前通りを望む 西の丸 「播磨姫路城絵図」(国立国会図書館デジタルコレクションより引用) 著者プロフィール 細川竜太郎1978年、福岡市生まれ。歴史研究家。九州大学大学院修士課程修了。主な著作「くろかんの歴史的ブログ1」「くろかんの歴史的ブログ2」「くろかんの歴史的ブログ3」(2021年欧文印刷株式会社)「写真で見ていく私の旅した城1」(2023年デザインエッグ社)細川竜太郎オフィシャルサイト

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…年江戸図」(都立中央図書館特別聞個室所蔵)に当時の城の姿を見ることができ、ここまでが家康が行った工事と考えられます。 家康時代の江戸城天守と本丸の構造 いま残っている天守台は家康時代のものではないが、その規模を体感することができる 家康創建の江戸城天守についての直接的な史料は残念ながらほとんどありません。しかしながら、当時のことを描いた資料などによって研究がすすめられており、復元想像図も多数出されています。天守台の石垣工事は黒田長政が担当し、石材は伊豆半島から運ばれました。天…

榎本秋先生の最新刊「超約版 家康名語録」の出版記念ライブを生配信しました

…野燭談(ぶやしょくだん)1709年(宝永6年)に成立した歴代将軍や老中など約100名の言行録。著者は木村高敦(たかあつ)が有力とされる。 武功雑記(ぶこうざっき)肥前平戸藩4代藩主・松浦鎮信(まつら しげのぶ)が記した武辺咄(ぶへんばなし)を集めた書物。1696年(元禄9年)頃に成立。 徳川実紀(とくがわじっき)江戸幕府の公式史書。35年ほどかけて、1844年(天保14年)に完成。 ほとんどが国立国会図書館デジタルコレクションで見れるのもびっくりですね。 kojodan.jp

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…きます。浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブで江戸時代に描かれた浜松城の縄張りを見ることができます。あわせてご覧ください。 浜松市 歴史資料 絵図 浜松城と城下の絵図 家康は武田信玄の遠江侵攻に備え、この引馬城の堀を西の高い丘まで延ばして城の面積を広げる形で城を大拡張しました。それが現在の浜松城の原型となっています。このとき、「引馬」という地名が「馬を引く=戦に敗れる」という縁起の悪いものだったために、古名の「浜松荘」にちなんで「浜松」に改めたといわれます。 …

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…州岡崎城図(国立国会図書館デジタルコレクション))をみると本丸の西側にある白山郭に馬出がありますが、元康が馬出を使い始めたのは浜松城時代以降のため、残念ながら家康が作ったものではなさそうです。先にも述べた通り元康在城時の城の遺構はほとんど残っていませんが、城の周りの複数の川が作り出す地形と低湿地帯を利用した中世の城であったことは間違いありません。天守や石垣がまだない時代の土造りの城が元康の原点なのです。 岡崎城の基本情報 築城者 西郷頼嗣 築城年代 1452年(享徳元年)~1…

「西方城跡シンポジウム~ここまでわかった西方城~」開催報告

…査からわかったこと」を行いました。 ロビーでは城館関連書籍の販売や、栃木図書館による郷土史関係資料の展示のほか、チラシコーナーを設け、会場は大変賑わいました。皆さまには今回のシンポジウムで、西方城についてより知っていただけたら嬉しいです! 攻城団の皆さま、攻城団の情報を見て足を運んでくださった皆さまに、心よりお礼申しあげます。本当にありがとうございましたm( * _ _)mぜひ、現地の西方城にも訪れて攻城してみてください! news.kojodan.jp kojodan.jp

上州に残る石田三成生存伝説

…後、10月9日に沼田図書館で薄根村誌の中に『石田三成の墓』を見つけ関ヶ原の戦い後の行動が細かく記載されていました。(後日この『石田三成の墓』を書いたのは先々代の正行院の住職さんだとわかりました) 図書館から画像転載と全文記載は遠慮してほしいと案内されたため、その内容を抜粋して紹介させて頂きます。薄根村誌によれば、 正行院に三成の石塔と単誓和尚の記念塔がある。これは慶長五年、関ケ原の戦いに敗れた石田三成の墓である。三成は腹臣林半助に後事を託して伊吹山伝いに京へ逃れ、かつて豊太閣…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…え)」(熊本大学附属図書館蔵)という2019年(令和元年)に発見された書状で、ようは石垣普請に参加した大名とそれぞれの担当エリアが記載されたリストなのですが、大変重要な資料でもあります。 一般に「名古屋城の天守台石垣は加藤清正が築いた」とよく言われていると思いますが、その証拠となったのがこの資料の冒頭「御天守」の欄に唯一の担当者として記載された「賀藤肥後守」(加藤肥後守=加藤清正のこと)の記述です。 名古屋御城御普請衆御役高ノ覚【部分】(熊本大学附属図書館蔵) 名古屋城は天下…

明智光秀と誠仁親王――あるいは「本能寺の変」の当事者

…るタイトルで国立国会図書館デジタルコレクションに収録されているので、興味をお持ちの方は是非ご覧いただきたい。なお「耶蘇会」はイエズス会の日本における古い呼び名である。それによると、誠仁親王は光秀の元へ使者を送り、「自分たちは切腹するべきか」と問うたらしい。これに対して光秀は「そこを出るように」と伝え、誠仁親王は脱出して内裏へ向かった、という。このやりとりは信忠に随行していた織田政権の京都所司代・村井貞勝の進言であったと記されている。 この話をどこまで信じていいかは怪しい。切腹…

江戸城での控室は家格によってちがうらしい

…向総絵図」(都立中央図書館特別文庫室所蔵)をお借りすることができたので、それぞれの部屋の位置を確認してみましょう。 該当部分を拡大します。御殿の玄関は左下にあります。玄関を入ったところは二条城二の丸御殿と同じように「遠侍」となっていますね。 将軍が控えている「中奥」にもっとも近かったのは黒書院「溜の間(たまりのま)」で有力譜代大名たちが詰めていました。その次が黒書院と白書院の間に位置する「雁の間」と「菊の間」でここにはあらたに取り立てられた譜代大名が詰めていました。さらに老中…

【戦国合戦こぼれ話】土木工事で勝つ(2)高松城の水攻め

…之図」(東京都立中央図書館蔵) 中国の覇者である毛利氏は、備前と備中の境目に7つの城を築いていた。これを「境目七城」という。その中心となったのが高松城であり、ここを攻め落とさなければ毛利領の奥深くに入ることはかなわなかった。そこで秀吉はまず、高松城以外の6城を攻め落とし、孤立させた上でいよいよ高松城攻略に取り掛かった。 高松城は平城だが盆地状の湖沼地帯に立っており、三方向は沼に囲まれ、残りの一方向には堀が掘られていた。これによってこの城は強固な防御力を誇っていたが、弱点もあっ…

天守の階数の数え方(3重3階と3層3階はちがうのか)

…5重7階 ねんのため図書館で(層・重・階についての記載がある)「復原 名城天守」を借りてきたところ、たしかに上記の通りの記載がありました。 (「復原 名城天守」P.205) 復原 名城天守―目で見る天守の構成と実像 (歴史群像デラックス版) 出版社/メーカー: 学習研究社 発売日: 1996/02 メディア: 単行本 この商品を含むブログを見る 一方、三浦先生の「城のつくり方図典」には なお、「層」を「重」の代わりに用いることもあるが、「階」の代用にもされ、曖昧なので使わない…

むぎさんの「城がたり」参加レポート

…おっしゃっていた国会図書館の利用もしてみたいものです。 大久保ヤマト先生とこうの団長とのトーク 後半は大久保先生とこうの団長のトークショーでした。 冬の丸岡城での取材の様子をスライドで見ながら、雪で埋もれた史跡を取材しているところのエピソードを披露してくださいました。 丸岡城のスーパーガイドさんの話も、私が丸岡城を訪れた時にもお話をしたことがあった方だったので名物ガイドさんなんだなと共感できました(丸岡城あるある)。ほかにも「お会いしたことある!」という団員さんもいたのでかな…

島津氏の本城、鹿児島城を訪問してきました

…館が、二の丸跡に県立図書館が建てられています。 石垣や堀の一部が当時のまま残っているので、中心部の縄張りは比較的わかりやすいです。 これが黎明館です。 このまま黎明館に入ってもいいですし、先に石垣や堀を見学してもいいと思います。 ぼくはあとで黎明館でちょっと座って休憩すればいいやと思って、まず先に外の写真を撮ることにしました。 しっかり残っているのがわかると思います。 堀には鯉(だと思います)がたくさんいました。 いま御楼門・御角櫓の復元工事中で、この入口は使えません。 ここ…

姫路城「平成の大修理」工事の全容を記録した「脇役のPRIDE」という写真集がすごい

…すが、この写真集とあわせて見るとより楽しめると思います。 ちなみにぼくはハガキを3回出してなんとか当選して工事現場に入れました。 (この頃はチョンマゲ結えるように髪を伸ばしてたんだった) これはほんとうにいい体験をさせてもらったなー。 この写真集も攻城団ライブラリーに追加して保管しておきますね。 なお姫路市内の図書館でも写真集が置いてあるそうです。姫路城の北側、兵庫県立歴史博物館の裏に「城内図書館」というのがあるので(兵庫県姫路市本町68−258)、ここで見られると思います。

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