攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

小早川秀秋 の検索結果:

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

…手に位置する松尾山の小早川秀秋や、後方に位置する南宮山・毛利氏の軍勢が一気に攻め込んできたなら、ひとたまりもなかったはずだ。 実際にはよく知られている通り小早川に対しては寝返りの交渉が進んでおり、毛利に対しては先鋒の吉川広家との間に不戦の約束が結ばれていたものの、果たして裏交渉の通りに話が進むのか、家康は大いに不安であったはずだ。彼がイライラしている時の癖であった爪噛みの仕草をしていたこと、また戦の途中で松尾山に対して鉄砲を撃ち込ませる(いわゆる「問鉄砲」)暴挙に挑んでいたこ…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…いが毛利勢の不戦や、小早川秀秋の裏切り(近年はそもそも東軍側で、状況的に西軍につかざるを得なかっただけという説も有力だが)によって決着したことを思えば、家康はこの時の手紙攻勢によって天下を掴んだといっても過言ではあるまい。 ちなみに、通説では7月24日に家康が「小山評定」と呼ばれる会議を行ったとされる。これは上杉征伐に参加した諸将に西軍の挙兵を伝え、「諸将の中には妻子を大坂に残したものもいるので、誰に味方するかは任せる」と宣言したというものだ。諸将は家康の意気に応じて東軍参加…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…の細かい描写、例えば小早川秀秋の動きなどはザクっと省いてしまいましたが、家康はどういった立場でこの戦いを迎えたのか、どんな心境だったのかなど、違った目線で関ヶ原の戦いを見てみました。これまでの関ヶ原の戦いのイメージと少し違ったかもしれません。戦いそのものよりも、なぜその戦いが起こるに至ったのか、そしてその戦いの結末によってその後にどう影響したのかを見てみるのも面白いかと思います。家康が公儀から外され、大義がなくなってしまった中、戦いが勃発してしまったというのが家康の本当の関ヶ…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…場所、問鉄砲の有無(小早川秀秋が裏切ったタイミング)、松平忠吉の抜け駆けの有無、など論点があるらしい 9/25、毛利輝元が大坂城を退去 9/27、家康は大坂城へ入り、秀頼に戦勝報告 @あくまでも豊臣政権内部の政争 論功行賞。豊臣系大名は大幅加増となるも遠方へ。畿内と江戸を結ぶ東海道や要衝には重臣や一門を配置(結城秀康=越前北庄、松平忠吉=尾張清洲、本多忠勝=伊勢桑名、井伊直政=近江佐和山など) →徳川家臣は秀頼から見れば陪臣なのに? その後も大坂の陣や島原の乱などは起きたが、…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…で三成と仲が悪かった小早川秀秋を口説き、さらに元から東軍に参加するつもりだった毛利の親族・吉川広家と内応して、毛利軍が決戦の際に動かないようにと要請する。また高虎は脇坂安治(わきざか やすはる)、小川祐忠(おがわ すけただ)、赤座直保(あかざ なおやす)、朽木元綱(くつき もとつな)の四将を「小早川秀秋も東軍に寝返るから」と口説いて裏切りを勧めた。 もちろん、西軍も自らの戦力を高めようと様々に動き出していた。まず、先ほど述べたように安国寺恵瓊を通じて毛利輝元を総大将に担ぎ上げ…

【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

…たままついに動かず、小早川秀秋が東軍に寝返ったのと合わせて、東軍勝利の大きな要因となった。こうした行動の背景には、毛利家存続のために徳川家康と内通した吉川広家(元春の三男、病死した兄に代わって吉川家を継承)の暗躍があったとされる。 戦後、輝元は「毛利の領国には手をつけない」という約束を信じ、速やかに大坂城を出て家康への恭順を示す。ところが、家康は「輝元が積極的に西軍側として活躍していた証拠が見つかったため、約束は無効である」として領国の没収およびうち周防・長門の二ヵ国を功労者…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…軍であった。西軍側の小早川秀秋が裏切り、また吉川広家ら毛利軍(輝元は大坂城にいた)が戦いに参加しなかったからだ。 家康と三成、その勝敗を分けたのは何だったのか。家康は戦いに先立って諸大名に数多くの書状を出し、恩賞を餌に味方へ引き入れた。合戦での裏切りも、こうした事前工作の賜物である。対して三成が出した手紙は分かっているだけで数通だという。古代中国の兵法書『孫子』は戦争は戦う前に結果が見えるものだとし、事前準備の重要性を説いているが、関ヶ原の戦いはまさにそのとおりの結果に終わっ…

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

…母・春日局の元夫で、小早川秀秋の家老を務めたことのある人物)が家老としてついていて、彼もまた付家老のひとりといえるだろう。ところが正成は忠昌の北ノ庄行きに従わなかった。そのため、彼が付家老だったのは5年ほどのことである。のち、正成は再び大名として取り立てられ、稲葉家は老中なども輩出しつつ何度か転封を繰り返し、淀藩に定着して明治維新を迎えた。 一方、成重は譜代大名として取り立てられ、加増もあって4万6千石余の丸岡藩主となった。ところが4代目の重益(しげます)は仏教と酒色に夢中に…

【殿様の左遷栄転物語】波乱万丈の再興 木下勝俊と滝川雄利

…いの趨勢を決定付けた小早川秀秋だ。勝俊は若狭国小浜城を拠点とし、6万2千石の大名であった。 関ヶ原の戦いにおいて、家定は妹であるおねを守る形で戦いには参加せず、家康もこの人には特別手出しをしていない。これに対し、子の勝俊は家康から伏見城の防衛を命じられていたにもかかわらず、三成方の軍勢が攻めてくると役目を放棄して逃亡している。この時、家康らの軍勢は上杉征伐に向かっていたため、伏見城は孤立した状態にあり、留守を任せられた徳川家臣の鳥居元忠は奮戦したものの、ついには討ち死にした。…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…、横を突くはずだった小早川秀秋の軍勢は味方の西軍に向かって突撃、それで決着がついた。家康はあらかじめ裏切り工作を仕掛けていたのである。 ついに神となった男 戦後、家康は西軍側についた大名を改易・減封し、東軍側の大名の所領を増やす名目で、諸大名の配置を大きく変更した。これによって親豊臣の大名は数を減らし、あるいは中央の要地から遠隔地へ飛ばされ、実質的に家康が天下を取ったことになる。家康が征夷大将軍の職を得て、江戸幕府を開くのは数年後、1603年(慶長8年)のことである。しかもさ…

【江戸時代のお家騒動】黒田騒動 忠臣の中の忠臣・栗山大膳、命懸けの直訴

…自身も関ヶ原の戦いで小早川秀秋を寝返らせて東軍の勝利に大きく貢献するなど、名の知られた武将である。 その関ヶ原の戦いでの功によって長政は筑前一国を与えられ、ここに福岡藩を成立させた。総検地を行うなど藩の基盤を整えることに力を尽くした長政は、領土を分散させて自分の息子たちにそれぞれ相続させることで、福岡藩の支藩を成立させ、黒田家による支配をより一層強固なものにしようとしていた。 しかしそんな長政にも、憂慮しなければならない事柄があった。わがままで不行跡が目立つ嫡男・忠之のことだ…

特別展「桃山─天下人の100年」の後期展示を見てきました

…長の陣羽織に代わって小早川秀秋の陣羽織とか、どちらもテンションが上りまくる作品ばかりなので、前期展示をご覧になられた方もきっと楽しめると思います。 一部変更とはいえ、かなりの量の作品が入れ替わっていました。それは(全会期にあたる)2ヶ月間も置いておけないくらい人気の作品ばかりということの裏返しなのだろうと思いますし、桃山文化を代表する作品を一度に展示しきれないくらい集めたトーハクのすごさでもありますね。 会期は11月29日(日)までですので、前期を見た方も、まだ未訪問の方も、…

毛利元就ゆかりの地おすすめ19選

…、1595年に養子・小早川秀秋に家督を譲ると三原城に戻って隠居しました。天主台の西側のバスターミナルの真ん中にある「隆景広場」には小早川隆景の銅像があります。 湯築城・道後温泉・米山寺 さらに隆景は四国攻めの功績により秀吉から伊予一国を与えられ独立大名として扱われましたが、それを拒み一度毛利家に伊予を与えてから改めて受領する形で毛利家の一武将としての体裁を保つという毛利家への忠誠を示しました。その後「湯築城」に入城した隆景は「大洲城」に秀包を配置するなど伊予の統治に力を入れ、…

大谷吉継、関ヶ原にて奮戦す

…ヶ原の戦いにおいては小早川秀秋が陣取った松尾山と、笹尾山に本陣を敷いた石田三成との間に挟まるような位置に入った。どうも、吉継は早い段階から秀秋の裏切りに気がついていたらしい。そのため、もしもの時には防波堤になるつもりだったのだろう。 実際に秀秋が裏切り、彼の軍勢が松尾山を降りて西軍に襲い掛かった際には大谷勢が頑として立ちはだかり、複数回にわたって押し返してみせたのだ。この奮戦がそのまま続けば、もしかしたら秀秋の裏切りは戦況に大きな影響を与えなかったかもしれない。 しかし、秀秋…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原、島津義弘の前進撤退

…。 そんな中、西軍の小早川秀秋が東軍を裏切ったのを皮切りに、東軍が総攻撃をかけた。西軍は総崩れとなり、三成の隊も粘ったが敵わず、敗北が決まる。島津勢は西軍の中で最後まで陣を崩さなかったが、ついには包囲されてしまう。ここで島津軍のとった選択が、前進での退却である。 退却とは普通、敵陣とは反対の方向に進んでいくものである。しかし島津勢は逆に、敵陣に突っ込んでいくかのように前進したのだ。立ちはだかった武将は松平忠吉と井伊直政。忠吉は島津勢の武将の首を一つとったが、島津勢の銃による攻…

【戦国合戦こぼれ話】九州の関ヶ原――暗躍・黒田如水

…関ヶ原の決戦に参加、小早川秀秋らへの内通工作で成果を挙げている。黒田家の兵はほとんど彼が連れて行ってしまったから、本来は関ヶ原の余波が九州で戦いを起こしたとしても、如水には何もできなかったはずだ。 ところが如水は自らの資産を潤沢に用いて兵をかき集め、あっという間に九千もの軍勢を用意すると、次々に西軍方の武将を倒していく。そしてついには、北九州の名門・大内氏の復興を図る大内義統を石垣原の戦いで破り、九州の情勢を一気に東軍有利としたのである。 このように九州における如水の活躍は東…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原の戦い――始まる前に終わっていた!?

…るはずだった松尾山の小早川秀秋や南宮山の毛利秀元といった軍勢は動かない。それでも西軍側の奮戦によって戦況は一進一退で推移したが、ついに小早川の軍勢が動くや、事態は一挙に終局へ向けて動き出した。 小早川軍は本来味方であるはずの西軍に向けて殺到し、これによって西軍は総崩れと相成ったのである。毛利軍は最後まで動かなかった。この両軍は戦いが始まる前から東軍側と内通し、三成を裏切っていたのである。 これこそ冒頭で紹介した「根回し」に他ならない。東軍が不利な状況にあえて突っ込んだのも、こ…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…1.5万石(加増) 小早川秀秋 筑前名島35.7万石 備前岡山51万石 福島正則 尾張清洲24万石 安芸広島49.8万石 細川忠興 丹後宮津17万石 豊前小倉39.9万石 浅野幸長 甲斐府中22.5万石 紀伊和歌山37.6万石 田中吉政 三河岡崎10万石 筑後柳河32万石 堀尾吉晴 遠江浜松12万石 出雲松江24万石 山内一豊 遠江掛川5.1万石 土佐浦戸20.2万石 藤堂高虎 伊予板島7万石 伊予今治20万石 中村忠一 駿河府中14.5万石 伯耆米子17.5万石 京極高知 …

大津城 開城がわずかに早かった城

…午前7時すぎに戦いは始まった。東軍9万余、西軍8万余がぶつかったが、家康がかつてから内応を促していた小早川秀秋の裏切りによって西軍は瓦解。午後2時ごろに東軍の勝利で幕を閉じた。あと少し待てば......と、高次には悔やまれる結果となったろう。 とはいえ、勝ったのは東軍である。また、高次が大津でがんばって西軍が足止めしたのは、全体的にみれば十分な貢献だ。そこで家康は敗北を恥じる高次を説得して高野山から降ろすと、若狭小浜8万5千石(のちに加増して9万2千石)の大名にしたのだった。

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