攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

山崎の戦い の検索結果:

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(初日)

…ですが、こちらでは「山崎の戦い」と入った、長岡京市の勝龍寺城と、大山崎町の山崎城跡の御城印が販売されました。 我々、京都・長岡京おもてなし武将隊つつじも、サミット限定の武将印や春限定の武将印などを、販売させていただきました。 大変好評をいただいたようで、ステージの上から、多くの方が並んで下さっている様子が見られ、とてもありがたかったです! 亀岡市様では、なんといっても一日40枚限定の、余部丸岡城の御城印が大人気でした! こちらの御城印は抽選となっており、抽選券は森の京都DMO…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…とすぐさま引き返し、山崎の戦いで光秀を討ち果たします。その後、清須会議で織田家の今後について話し合いが持たれたものの、秀吉と柴田勝家が敵対し、賤ケ岳の戦い、つづく北ノ庄城の戦いで柴田勝家が自害。勝家と共謀した信長三男の信孝も自害しました。こののち、織田家旧領のうち信長の次男・織田信雄が尾張・伊賀・伊勢の三か国を領有し、美濃は池田一族に与えられ大垣城に池田恒興、岐阜城に息子の元助、美濃金山城に森長可が入りました。 一方で家康は、安土城を訪れたのちに立ち寄った堺で、本能寺の変の報…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…年)の中国大返しと「山崎の戦い」、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」、そして1585年の四国征伐と、秀吉の配下として各地を転戦したのだ。 また、こうした連戦の中で信長の居城として有名な安土城の築城にも関わっていたのだから、彼が大変に重宝がられていたことがよくわかる。そんな正勝の働きは実際にはどんなものだったのだろうか? 元「野党の親分」というイメージからは、合戦や諜報など、情報収集と腕力による活躍が想像される。もちろん正勝は戦場でも多くの武勲を上げているのだが、それ以…

【戦国時代の境界大名】伊東氏――二大勢力との死闘で滅亡するも……

…田信長の仇を討った「山崎の戦い」で戦功を上げ、500石を得ている。その後、次々と勢力を拡大していく秀吉の姿に、祐兵はその力を借りての島津打倒を夢見たのではないか。だが、義祐はその実現を見ることはなかった。瀬戸内のあちこちを転々とした末、自ら衰えを自覚したか、息子のいる大坂に向かったが、乗った船の者たちに見捨てられて堺の浜辺で行き倒れた。そこを息子の家のものが見つけ、そのまま大坂で死んだ、という。天正13年のことである。 死んだ父に代わり、祐兵が一族の本願をかなえたのは天正15…

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

…り。長宗我部交渉の最前線にいた利三もまた、明智家中で難しい立場になってしまったのではないか。 この四国問題が謀反につながったのであれば、利三が「本能寺の変」にも参加し、先鋒を務めたのは当然のことであろう。この時、主従は運命共同体であったはずだ。彼は「山崎の戦い」にも参加し、敗れた後は姿を消したが捕らえられ、処刑された。主君・光秀とともに磔になったことが知られている。なお、娘の福は母方の稲葉氏のもとで育てられ、のちに徳川家光の乳母になって徳川政権の安定化に尽力にすることになる。

明智光秀と筒井順慶ーーあるいは日和見は真実か否か

…誓った……が、実際に山崎の戦いへはどうも参加しなかったのではないか、と考えられている。最後まで様子見で終わったのが順慶の本能寺の変、山崎の戦いであったろう、というわけだ。 このような有様が世の人々の嘲笑を買い、「順慶は山崎の南、洞ヶ峠まで出たけれど、結局どちらにも味方せず、日和見だけして帰った」などという伝説が生まれるに至った。前述したとおりこれは史実ではないと考えられるが、順慶の態度が相当の日和見的なものであったのは間違いない。大和の名族の生まれであり、その支配圏を守ること…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…明智光秀をやぶった「山崎の戦い(山崎合戦)」では羽柴軍4万余騎、明智軍1万6000余騎と両軍あわせて5万6000人、柴田勝家をやぶって信長の後継者闘いに勝利した「賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳合戦)」では羽柴軍5万余騎、柴田軍3万余騎と両軍あわせて8万人とそれほど大規模ではありませんが、これは大名家同士の合戦だからでしょうね。 唯一、秀吉と家康が争った「小牧長久手の戦い(小牧長久手合戦)」は羽柴軍10万余騎、徳川軍3万余騎と両軍あわせて10万人をこえています。 家康といえば、秀吉亡き後…

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…彼の嫡子も、ほかの山崎一族も、その多くが同じ戦いで討死している。ところが吉家の弟・吉清の子の長鏡(改名して長徳)は生き延び、光秀の家臣になっているのだ! ただの偶然か、光秀が越前時代のことを懐かしんだのか、それとも吉家との間に何か約束があったのか……そこまではさすがに考えすぎであろうか。ともあれ、長徳は「山崎の戦い」を生き延び、晩年は前田利家に仕えて、最後には1万石を越える重臣にまでなった。彼の子供たちはいくつかに別れた前田家にそれぞれ仕え、長く山崎氏の家名を保ったのである。

2.譜代家臣団の成立

…えた。一方、光秀は「山崎の戦い」で羽柴(のちの豊臣)秀吉に倒される。家康と秀吉は天下統一に最も近い実力者同士として、互いを牽制し合いつつ、着々と勢力を拡大していった。やがて、家康は信長の子である信雄を支援して秀吉と対立することになる――「小牧・長久手の戦い」だ。しかし、信雄が秀吉と単独講和し、家康は戦う理由を失ってしまう。秀吉と正面から対決しても勝てないと判断した家康は、秀吉に従う道を選んだ。 1586年(天正14年)、家康は居城を駿府に移す。この頃には三河と遠江に加えて駿河…

明智光秀と藤田伝五ーーあるいは共に近江生まれ?

…七の藤田兄弟は近江に比較的縁の深い新参者であったのではないかという説があるのだ。現時点ではあくまで可能性に過ぎないし、伝七が伝五とは無関係であるとか、元亀4年の討ち死に時点で伝七が若かっただけとかの可能性も十分あるが、今後の研究に期待したい。ともあれ、明智家臣としての藤田伝五が活躍し、出世し、本能寺の変ごろまでには家中で重要な位置をしめたのは間違いないだろう。数々の合戦に参加し、「山崎の戦い」では手傷を負った。どうにか淀までは退いたものの、そこで自決して生涯を終えた、という。

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

… 本能寺の変からの「山崎の戦い」となると、後は光秀の死について書くことしか残されておりません。 光秀の最期としてよく耳にするのは「小栗栖で農民の竹やりで突かれ自刃した」というものです。これは「明智軍記」など後世の編纂ものによって語られた内容が巷間に広まったようです。京都市伏見区にある小栗栖に行ってみました。地下鉄東西線の醍醐駅、または石田駅から歩いて行けます。 小栗栖の明智藪 光秀の最期についても諸説ありますが、調べてみると当時は「小栗栖」と特定はされていなかったようで、最期…

一泊二日で大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの地をめぐってきました

…智光秀、最後の合戦「山崎の戦い」の際に秀吉が本陣を置いたとされる寺です。この戦いに勝利した秀吉はすぐに京都市内には城を築かず、まずこの天王山に山崎城を築城するのですが、この寺も城の一部に取り込まれています(そのため「宝寺城」の別名があります)。 境内にある三重塔は秀吉の命で建てられたと伝わっています。 本堂前には秀吉が腰かけたとされる「秀吉の出世石」があり、柵で囲ってありますが自由に座っていいそうですよ。 この日は時間の都合で山頂にある山崎城跡までは行きませんでしたが、見晴ら…

【戦国合戦こぼれ話】羽柴秀吉の中国大返し

1580年(天正10年)6月2日、天下統一を目指していた織田信長とその長男信忠が、突然重臣の明智光秀に襲撃され自決した。誰もが知る「本能寺の変」である。この緊急事態に対して、真っ先に動いたのは羽柴秀吉――のちに全国統一を果たす豊臣秀吉だ。 秀吉は事件当時、中国方面を制圧すべく毛利方の備中高松城を攻めていた。講和の交渉も始めていた3日夕方ごろ、信長自害の情報が秀吉の耳に入る。秀吉はこのことを毛利方に知られないようにし、講和締結を急いだ。毛利方としても、秀吉に増援がくることを知っ…

【戦国合戦こぼれ話】「山崎の戦い」で速度と手回しを利した秀吉

…激突した。いわゆる「山崎の戦い」である。――そしてこの戦いもまた、本コラムでいくつも紹介してきた「戦う前に終わっている」合戦の一つであった。 信長が死んだ時、秀吉は中国地方の備中高松城で毛利氏と対峙していた。しかしその一報を知るや(光秀が毛利氏に向けてはなった使者を捉えたのだとされる)速やかに和議をまとめると、驚くべき速度で中央へ取って返した。この時、秀吉率いる2万の軍勢はわずか7日間で近畿まで戻って見せている。うち1日は播磨姫路城で休息しているのだが、その際に大量の兵糧と金…

【戦国武将の御朱印集め】織田信長のお墓がある阿弥陀寺の御朱印をいただいてきました(京都・浄土宗)

…しまい、結果として「山崎の戦い」で光秀が敗れたことはご存知のとおりです。ちなみに当時のイエズス会の記録では「毛髪も残らず塵と灰に帰した」とあり、また『信長公記』では信長の遺体について明記されていません。 全国には信長の墓と伝わる寺社がたくさんありますが、なかでももっとも遺骸が眠る可能性が高いとされているのがこの阿弥陀寺です。門前にも「織田信長公本廟」という石碑があります。 阿弥陀寺はこんなお寺 『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によれば、事態を聞きつけた清玉上人が僧20人あまりを引…

ペーパークラフト「戦国の合戦 山崎の戦い」をつくってみました

…ラフト「戦国の合戦 山崎の戦い」ですが、攻城団にもサンプルとしてひとついただいたのでさっそくつくってみました。ひさしぶりに工作っぽいことをしてみましたが、楽しかったです。 まずは開封の儀 パッケージをあけるとA4サイズのシートが何枚か入っています。まず山崎の合戦の舞台となった乙訓周辺のベースマップ、そして武将や兵士が印刷されたシート3枚です。 パーツの切り抜きがちょっと大変 最初にやることは3つのシートに印刷されたパーツの切り抜きです。「戦国の合戦ジオラマ」シリーズの場合、パ…

【プレゼントあり】ジオラマペーパークラフト「戦国の合戦 山崎の戦い」のご紹介

…ラフト「戦国の合戦 山崎の戦い」が発売されます。 そこでこのペーパークラフトを企画提案された京都乙訓ふるさと歴史研究会の中西昌史さんと、じっさいに制作されたファセットの石原社長にお話を伺いました。(今回はメールインタビューです) なぜペーパークラフトを企画したのか、経緯を教えてください。 中西 私が主宰する京都乙訓ふるさと歴史研究会は、「京都乙訓地方の歴史について研究し、教材化することをとおして、ふるさとへの愛着と誇りを持った児童・生徒の育成を図るとともに、乙訓の歴史について…

毎年6月2日におこなわれる阿弥陀寺の「信長忌」にいってきました

…うです) ちなみに「山崎の戦い」で光秀に勝利した羽柴秀吉は何度も阿弥陀寺に信長の遺骨を引き渡すように命じたそうです。しかし遺骨を利用して後継者争いで有利な立場に立とうとする秀吉の行為は、主家を乗っ取ることに等しく「人の道にあらず」と住職の清玉上人は拒絶しつづけたそうです。 けっきょく秀吉が大徳寺でおこなった追善供養の際には遺骨の代わりに信長の木像を棺に納めることで乗り切ったのですが、阿弥陀寺は秀吉の怒りを買い、天下人となった秀吉に寺領の大半を没収されます。没収される前の阿弥陀…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…14日 #真田丸 「山崎の戦い」は「天王山の戦い」とも呼ばれ、そこから転じてプロ野球などの首位攻防戦を「天王山」といいますが、この合戦での天王山争奪は戦局にほとんど影響なかったようですね。https://t.co/UC2R8ExP9A pic.twitter.com/9gEivSoEQi — 攻城団 (@kojodanjp) 2016年2月14日 第7回「奪回」 タイトルの「奪回」は沼田城と岩櫃城を指しています。 一益が「神流川の戦い」で北条の軍勢に敗れ、その混乱に乗じて昌幸…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…横死。6月13日、「山崎の戦い」で羽柴秀吉が明智光秀を破る。6月27日、清洲会議が開かれる。10月29日、織田信雄の仲裁により北条氏直は徳川家康と和睦。和睦の条件として、上野国を北条氏が領有することを認め、沼田領は北条家に引き渡されることに。 1583年(天正11年) 17 徳川家の支援を得て上田城築城開始。 4月、「賤ヶ岳の戦い」で羽柴軍が柴田軍を破る。 1584年(天正12年) 18 昌幸、室賀正武を暗殺。 3月、「小牧・長久手の戦い」がはじまり、秀吉と信雄・家康連合軍が…

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