攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

直江兼続 の検索結果:

【家康の謎】家康が直江状に激怒したのは本当?

…のが、上杉家の重臣・直江兼続である。彼は後世に「直江状」として知られる一通の手紙を認め、家康に送った。それを読んだ家康は激怒したという。なぜなら、直江状において兼続は家康の要求を完全に拒否し、「武具を整備したり道を整えたりしているのは武士・統治者として当然のことです」など自分たちの立場を堂々と書き連ねた上で、「家康様あるいは秀忠様がやって来られるのであれば準備を整えて待っています」とまで書いた。これはつまり、攻めてくるなら迎え撃つ、という宣戦布告に相応しい言葉だったのである。…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…た上杉景勝が、執政の直江兼続に築城を命じた城『神指城(こうざしじょう)』である。完成すれば日本有数の規模を誇る平城となるはずだった。方形二重の輪郭式平城で「回」の字状の縄張りに、本丸と二の丸、各郭外側を堀が囲む。大手口は石垣を産する慶山へ続き、人夫らが切り出された石を運び出したという。景勝がこの地に城を求めた理由は諸説あるが、水運に適した阿賀川をすぐ西に、周辺の13村を移転させて大がかりな町割を描いており、会津に壮大な新・城下町が誕生していたかもしれない。だが天下人・豊臣秀吉…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…備の智将と讚えられた直江兼続(なおえ かねつぐ)である。この人は兜の前立てに「愛」の1文字をあしらっていたことでも有名だ。 兼続は景勝を支えて軍事・内政・外交といった各分野で活躍し、豊臣秀吉からは「天下の器」と絶賛された。一方で当代一流の文化人であると同時に蔵書家としても知られ、さらに秀吉の側近・石田三成や、前田利益(慶次郎)などの牢人衆とも親交があり、人付き合いの広い人物だった。 そんな彼は上杉家に仕えた樋口兼豊(ひぐち かねとよ)の子として誕生する。長じてからは景勝の側近…

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

…下人だった頃の話だ。直江兼続の項でも触れるが、秀吉は各大名家の優秀な武将を愛し、「豊臣」姓を与えて懐柔しようとした。直茂も兼続らと同じように秀吉に気にいられ、豊臣姓をもらったのだが、秀吉なりに彼らについては言いたいこともあったようで、ある時こんなことを言った。「天下を取るためには大気・勇気・知恵が必要だが、この3つを兼ね備えたものはいない。ふたつを持つ者はいるが、上杉の直江兼続には知恵がなく、毛利の小早川には勇気がなく、龍造寺の鍋島直茂には大気がない」、と。まさに大気(野心)…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…綱(六)島左近(七)直江兼続(八)鍋島直茂大名のブレーンといえば僧侶(九)太原雪斎天下人にナンバー2はいたか(十)明智光秀(十一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は③――落ちなかった支城・長谷堂城

…勝の命を受けた側近・直江兼続は山形城を目指して突き進み、まず支城のひとつである畑谷城を抜いた。この際、畑谷城に入っていた江口五兵衛は撤退を命じる主君の命に反して城に籠もり、熾烈な籠城戦の末に玉砕している。そして、この次のターゲットになったのが長谷堂城であった。 この城を抜かれれば後はない――城を守る最上方の武将、志村高治(光安)は決死の思いで上杉軍を迎え撃ったことであろう。彼らの奮戦があり、長谷堂城はなかなか落ちなかった。これに対し、上杉方も周囲の畑を刈り取るなどしておびき出…

【10大戦国大名の実力】織田家①――後継者の実力で組織の命運は決まる

…伊達政宗、石田三成に直江兼続といった「ヒーロー風」キャラの人気が高い。 それでも、戦国武将人気ナンバーワン、もしくは仮に「戦国武将といわれて誰を思い浮かべますか」というアンケートをとった時のナンバーワンには文句なく織田信長の名前が出てくるはず。「戦国の覇王」「第六天魔王」「革命的先見の明の持ち主」あるいは「狂人」「戦国時代を終わりに導いた男」――信長の異名は数限りなく、それは同時に彼が戦国日本に与えた影響の大きさを表している。数多い戦国時代のカリスマのなかでも、ずば抜けた一人…

【10大戦国大名の実力】上杉家⑥――その後の上杉家

…治を取り仕切っていた直江兼続の出した手紙「直江状」が、関ヶ原の戦いのきっかけになってしまう。この戦いにおいて景勝は西軍側として最上家、伊達家などと戦うも、西軍は敗北。上杉家はどうにか米沢30万石への減封で許され、以後は米沢藩として幕末までその血をつなげることになる。 江戸時代においては、関ヶ原後の減封時に積極的なリストラを行わず、家臣の多くをそのまま残したことなどから、深刻な財政難に襲われた。しかし、「生せば生る 成させねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬなりけり」という…

【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

…、上杉家の重鎮である直江兼続の活躍もあって、「東国の関ヶ原」などと呼ばれたりもする。 この功績によって、義光は57万石を有する大大名となる。だが、そもそも彼の登場まで長く内乱を続けてきたことからもわかるように、最上家はとても一枚岩とはいえない状況であった。義光は一代の英雄ではあったが、「小規模勢力の寄せ集め」という戦国時代的大名家である最上家を、システムによって統制する近世大名に昇華させることはできなかった。これが後の悲劇につながることになる。 義光はなぜ次男を選んだのか 本…

【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立

…の戦い」では上杉方の直江兼続の部隊と戦い、これを破った。 この関ヶ原の戦いでの功績が認められ、57万石の領地を安堵された義光によって成立されたのが、山形藩である。義光は山形城の築城や城下町の整備などに取り組み、特に治水工事に力を尽くした。しかし1613年(慶長18年)頃から義光は体調を崩し、寝こむことが多くなった。死期を悟った義光は、最後の挨拶として駿府の大御所・家康と江戸の将軍・秀忠のもとへ赴き、自分の死後の最上家のことを託してから、1614年(慶長19年)に息を引き取った…

【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

…えば上杉景勝に仕えた直江兼続や、伊達政宗の教育者でもある片倉景綱のような人物こそが名軍師と呼ばれるに相応しい。 ただ、こうした軍師はどうしても目立つし、絶大な権力を持たされることにもなる。そのために、大名からのゆるぎない信頼と本人の自制心がないと、大名によって抹殺されたり、逆にその大名を滅ぼして自分が取ってかわるといった、ある意味で不幸な結末に辿り着く例も少なくない。 仕える大名が進言を聞き入れてくれず、失意の中で死んだ者がいる。大名の暴挙を止められず、衰退の道を辿る主家を最…

新発田城 上杉謙信に背いた男

…たこと、景勝の家臣・直江兼続が重用されて家臣団の地位が相対的に低くなったなどの不満があったと言われる。重家は尾張・美濃の織田信長、会津の蘆名盛隆とひそかに結んで後ろ盾を得ていた。両者には越後進出や景勝を排除するという目的があり、利害が一致したのである。 1581年(天正9年)に重家の反乱は一族だけではなく、景虎の遺臣を巻きこんで越後のいたるところで決起した。重家は水上交通の要衝である新潟に城を築き、阿賀野川、信濃川の物資を支配した。景勝にこれを止めることはできなかった。越中の…

長谷堂城 最上氏を守った堅牢な城

…る。 CLAD | 直江兼続の本陣跡を望む[長谷堂城] 「関ヶ原の合戦」は天下統一を果たした豊臣秀吉の死後、秀吉存命中に生じていた文官と武官との確執、徳川家康の野望によって起こったと言える。戦いの3ケ月ほど前、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐するために伏見城を出陣している。景勝が上洛命令に応じないため、豊臣政権への反逆の疑いを持たれたためだ。上杉方もそれを回避するために動いたが、家康は邪魔な上杉氏をつぶすために上杉方の申し開きを受け入れず、征伐に動きだした。戦いは止められないも…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…倉小十郎(伊達家)・直江兼続(上杉家)・鍋島直茂(龍造寺家)・伊集院忠棟(島津家)といった各大名を補佐する優秀な重臣に接近し、知行を直接与えたり、「この武将にこれだけの知行を与えるように」と大名に指示したりした。その理由としては、外様の大大名から腹心を切り離すことで勢力の分断を狙い、優れた武将を取り込もうとしていたのだと考えられている。急激に成り上がったために直臣が少ない豊臣家の台所事情も関係していただろう。これらは露骨な内政干渉であり、もともとは独立した勢力であった諸大名は…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…さんが上杉家の家臣、直江兼続を演じて話題となった2009年の大河ドラマ「天地人」で知った方も多いかと思います。 実はこの上杉謙信というお方、知れば知るほど面白く、不思議な魅力を放つ戦国武将としては異色の存在だったりします。 トップに立ちたい、大名になりたい、というような欲や野心がなく、ひたすら義のために戦う人だったりします。 人が困っていたり助けを請われると断れずに出陣し人のために戦うことが多く、自己犠牲の精神を持つ人だったようです。 そのくせ戦はめっぽう強く、ほぼ負け知らず…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…である愛の兜の名将、直江兼続と戦っていました。 長谷堂城は最上義光の山形城にとって最も有力な支城である防衛の要で、関ヶ原の戦いの際に発生した慶長出羽合戦では怒涛のごとく上杉勢が攻め寄せました。慶長出羽合戦で最大の激戦となりましたが関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)が勝利したことにより直江軍は撤退し伊達政宗側の勝利となりました。 syama1957 | 長谷堂城址碑[長谷堂城] 長谷堂城の別名は「亀ヶ崎城」と言い、亀のような形に見えた山城でもあることから「亀の甲羅の如き堅城」という意…

大ふべん者・前田利太

…上杉景勝の重臣である直江兼続との縁から、上杉家臣として最上氏らとの戦いに参加していた。 この際、利太は「大ふへん者」と書かれた旗と、優れた武士しか持つことを許されぬ朱柄の槍を持参していたとされる。これが上杉家臣団からの大反発を食らった。旗の文字は「大武辺者(=武勇に大変優れた人物)」と読めたため、槍とあわせて「新参者の癖に生意気だ」となったわけだ。利太は笑って「これは『大ふべん者』と読むのだ。浪人の自分は金もなければ妻もなく、ただただ不便だということである」と煙に巻いてしまっ…

【サイン本プレゼントあり】「太田資正と戦国武州大乱〜実像と戦国史跡〜」のご紹介

…名かもしれませんが、直江兼続に「わが国の大小の武将中で主君(上杉)謙信と太田三楽に及ぶ者はない。」と言わしめたほどの戦国武将です。 このたび、まつやま書房から出版された「太田資正と戦国武州大乱〜実像と戦国史跡〜」のサイン本を中世太田領研究会のメンバーであり、第2章「太田資正と武州大乱」を担当された柴田さんから3冊お預かりしていますので、うち1冊を攻城団のライブラリに保管して、残りの2冊をこの記事をご覧くださった方に抽選でプレゼントさせていただきます!(サイン本プレゼントの応募…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原前哨戦に隠された真実―上杉征伐と幻の前田征伐

…して景勝の側近である直江兼続が家康を非難する手紙を送ったため、激怒した家康は上杉征伐の軍勢を起こした。そうしてがら空きになった近畿で石田三成が挙兵し、これを知った家康もまた軍勢を率いて取って返し、東西両軍が関ヶ原の地で激突したわけだ。 実のところ、家康は自分が上杉征伐に出れば三成が挙兵するであろうことを知っていたらしい。それどころか、三成を挙兵するためにこそ出陣したのだ、とさえ考えられている。三成をはじめとする自らに反発する勢力を決戦によって排除し、豊臣政権を完全に乗っ取るた…

【戦国を彩る名軍師たち】主君の信頼を得て大いに働いた直江兼続

…。今回紹介する軍師、直江兼続などはまさにその主君とのつながりを得て、大きな仕事を果たした人物と言っていいだろう。いわゆる「愛」の前立て(兜の前飾り)で有名な人である。 もとは上杉家臣の樋口という家に生まれた兼続は、若くしてその才覚を認められ、重臣である直江家を継ぐことになった。彼もその抜擢に応え、大いに活躍していくことになる。 (米沢市上杉博物館蔵) 上杉家では絶対的カリスマである上杉謙信が亡くなった後に後継者争いが起きるが、兼続は謙信の養子の一人の景勝を助け、彼の勝利に貢献…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…い、新しい上杉景勝と直江兼続が描かれました。 過去の大河ドラマ、たとえば『天地人』などでは景勝は無口で何を考えているかわからず、兼続がその達者な弁舌でフォローにまわるという描かれ方が一般的でしたが、今回三谷さんはお人好しで安請け合いする景勝、そんな主君にうんざりしながらもしっかり支える兼続という、いままで見たことのないふたりのキャラ付けをしましたね。 遠藤憲一さん、村上新悟さんの演技も見事で、いまではこの主従のやり取りを見るのが楽しみでなりません。 解説画像は景勝の人生グラフ…

唐入りの前線基地、名護屋城はめちゃくちゃ広かった(そして名護屋城博物館はすごかった)

…上杉景勝のとなりには直江兼続の名前があります。そのそばには織田秀信や真田昌幸がいますね。秀信はこの位置なのに、織田信雄はけっこう離れた内陸部にいます。 徳川家康は名護屋浦という内湾部の両側に陣がありました。ほかにも藤堂高虎も2カ所に名前が書いてありますね。 このすべての陣跡をまわろうと思ったら数日はかかりそうです。 ほかにも安宅船と亀甲船の模型もありました。 これだけの展示が無料で見学できて、しかも一部をのぞいて撮影可となっています。 それではいよいよ城址に向かいます。 いち…

よくわかる第一次上田合戦

…き上げました。昌幸が直江兼続に宛てた11月17日付の書状では「なんか家康が軍勢を呼び戻したっぽいんだけど、理由がよくわからんのですよ」と書いてあります。草刈さんが目に浮かぶ。 じつはこの背景には家康の重臣であった、石川数正が突如、豊臣秀吉のもとに出奔したという事件がありました。 かつては織田信長と交渉を行ない、清洲同盟の成立に大きく貢献するなど、家康の懐刀として活躍していた重臣中の重臣がいきなり出ていったわけですから大事件です。第2回で家康に対して「徳川家中は一心同体。心配ご…

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