稲葉山城 の検索結果:
…城記念証 城御朱印 稲葉山城バージョン 岐阜城(岐阜県岐阜市) ぎふ金華山ロープウェー山麓駅売店 300円 印刷 2020年7月4日 竹中氏陣屋跡 御朱印 竹中陣屋(岐阜県垂井町) 垂井町観光協会 300円 印刷 2020年7月1日 墨俣一夜城(墨俣城) 御城印 墨俣城(岐阜県大垣市) 墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館) 300円 印刷 2020年7月1日 村上城 御城印 村上城(新潟県村上市) 藤基神社 500円 直書き、書置き 縦15.6cm、横11cm 2020年6月 …
…てのけたのが、少数で稲葉山城を乗っ取って見せるという離れ業だった。これによって半兵衛の名は大いに高まった。その後、彼は浅井家のとある家臣を頼って隠居し、稲葉山乗っ取りの話を聞いて出仕を求めてきた信長の誘いも断る。 そんな彼を信長の部下の木下藤吉郎(後の秀吉)が口説き落とし、臣下としたのもやはりすでに述べたとおりだ。秀吉はまず自分も浪人のふりをして「ともに信長に仕えよう」と誘い、これを見破られても合計で三度も訪問して粘り強く説得する。そしてついに三度目、半兵衛が「信長ではなくあ…
…7年(永禄10年)の稲葉山城攻めの際に秀吉の配下となり(一説には秀吉摩下となったのは1573年(元亀4年)のこととも)、以後大きな戦いにはことごとく参加して活躍する。1570年(元亀元年)の越前出兵とそれに続く金ヶ崎撤退戦、そして「姉川の戦い」、1573年(天正元年)の小谷城攻め、1574年(天正2年)の伊勢長嶋一向一揆討伐、1578年(天正6年)からの中国地方攻め、そして1582年(天正10年)の中国大返しと「山崎の戦い」、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」、そして…
…の両兵衛……すでに「稲葉山城乗っ取り」で紹介した竹中半兵衛と、のちに秀吉に警戒された黒田官兵衛の2人が共に秀吉の配下にいた時期がごく短かったことはあまり知られていない。半兵衛は秀吉が織田信長の命で中国地方を攻撃している際に病に倒れており、一方の官兵衛が秀吉の配下に加わったのは、まさにその中国攻めの中でのことだったからだ。 この戦いの中で秀吉は幾つもの強固な名城・堅城を相手取り、見事な策略によってそれらを陥落させている。そのために「城攻めの名人」という異名で呼ばれてもいるのだが…
…ばれた斎藤家の居城・稲葉山城を乗っ取ってしまっているのだ。動いた兵は少数で、起きた戦闘もごく小規模だが、だからこそのドラマチックさが目立つ。 なぜ半兵衛がこんな事件を起こしたのか、については幾つか説がある。まず当時の斎藤家当主・龍興(たつおき)が酒に溺れて悪政を行い、これを諫めるために行ったという説。また、半兵衛は龍興の側近から常日頃嫌がらせを受けており、特にある時、頭の上から小便を掛けられたのが腹に据えかねたのだという説。さらに彼は美濃3人衆と呼ばれた重臣のひとり、安藤守就…
…城である。もともとは稲葉山城という名前で、斎藤氏の城だった。築城されたのは1201年(建仁元年)と古く、鎌倉幕府の吏僚であった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が築城主である。これが美濃守護代の斎藤氏の居城となり、その家臣である長井氏の城となって、長井氏・斎藤氏を下剋上で滅ぼした斎藤道三の居城となる、という経緯をたどった。 ところがこの斎藤氏は道三の孫・斎藤龍興(さいとう たつおき)の代に、道三の娘婿にあたる織田信長によって攻め滅ぼされてしまう。信長は稲葉山城に入ると、この城…
…4年(永禄7年)の「稲葉山城乗っ取り事件」である。なんと、わずか十数名の兵を率いた家臣に居城を奪われて、しかも1年取り返せなかったうえに、最終的にその家臣の手から返してもらった――というのだから、これは戦国大名として失態中の失態といえる。どうしてそんなことになったのかを見てみよう。 元々の発端は半兵衛と龍興側近の対立にあったらしい。軍略の才能に恵まれた代わりに多分に頑固なところのあった半兵衛はいじめやからかいの対象になり、時に小便をひっかけられることさえあった。これに激怒した…
…して、道三は織田軍が稲葉山城の城下町に攻め込んだ後、勢いが衰えたタイミングで強烈な反撃を加え、これを撃退することに成功する。道三と信秀はライバルといっていい関係だった。しかしこの対立関係も道三の娘・帰蝶(濃姫)が信秀の息子・信長に嫁入りすることで終了し、道三が死ぬまでの間、斎藤家と織田家は同盟関係となる。 この際のエピソードとして、聖徳寺(しょうとくじ)の会見がある。あまりにも「うつけ」と評判の悪い信長を一度自分の日で確かめてやろうと会見を申し込んだ。そして当日、道中の小屋に…
…だ僧侶だ。織田信長が稲葉山城を岐阜城に改名した際にこの案を出し、さらに「天下布武」の言葉を贈った人物でもある。 信長は配下に有力な武将を多く擁しながらも、参謀的な存在である軍師をおかなかった戦国大名とこれまで言われてきた。しかし最近の説には、この沢彦こそが信長の師として様々なことを教えた人物であり、また軍師として桶狭間の奇襲を始めとする作戦を進言した人物である、とするものがある。一向一揆を根絶やしにして本願寺を焼きつくした信長の背後に僧侶がいた、というのはなかなか興味深いもの…
…われる斎藤家の居城・稲葉山城(現・岐阜城)にも機会があれば訪れてみて下さい。 天下布武 | 石垣と天守[岐阜城] 岐阜城へはJR岐阜駅または名鉄岐阜駅から高富行きや長良橋方面行きのバスに乗り「岐阜公園・歴史博物館前」で下車、岐阜公園内から金華山ロープウェーで山頂まで行きます。見晴らしも良い人気の観光スポットでもあります。この景色を明智光秀も見ていたと思うと感慨深いです。もちろん織田信長の居城としても有名です。 所在地 岐阜県岐阜市金華山天主閣18 アクセス JR岐阜駅・名鉄岐…
…お城のシーンとしては稲葉山城だけでしたので、基本的には地図やセリフでの登場となります) 古渡城――織田信長が元服したお城―― まず冒頭のシーンで地図が表示されていましたが、美濃に攻め込む織田信秀の軍勢のスタートになっていたのが古渡城です。 第2回、ご覧いただきありがとうございました!よりドラマを楽しんでいただくための『トリセツ』を毎週投稿していきます。・斎藤軍と織田軍はどこで戦ったの?・道三と土岐氏との関係は?#麒麟がくる▼「第2回トリセツ」はこちら▼ pic.twitter…
…マに登場した明智城や稲葉山城で検索されていて、今年は攻城団にとっても麒麟と追い風がやってきそうな予感がします。せっかくなので、ドラマに登場したお城について少しだけ紹介しましょう。 明智城――明智光秀出生地の候補地のひとつ―― 「麒麟がくる紀行」でも岐阜県可児市が紹介されていましたが、この「麒麟がくる」では明智光秀の出身地を可児市瀬田長山の明智城(明智長山城)としています。榎本先生のコラムでも紹介されているとおり、土岐明智氏は鎌倉時代後期に可児市周辺に土着し、東美濃に強い影響力…
…、斎藤氏の拠点である稲葉山城が攻め落とされた際のことである。信長は7年の月日をかけて相手を追い詰め、ついにこの宿敵を倒すことに成功したわけだ。 これ以前にも信長にとって好機はあったように思われる。たとえば1561年(永禄4年)には優れた手腕で信長と対立してきた斎藤義龍が病に倒れ、代わって息子の龍興が家督を継承している。この龍興は祖父や父と違って凡庸な人物であったとされ、のちに家臣によって居城を一時的に占領されるという醜態も演じている。実際、信長はこの代替わりの隙をついて美濃へ…
…し、その居城であった稲葉山城を奪い取った際、新たな地名をつけることにした。この時、沢彦が信長の命を受けて新しい地名案を考えることになり、「岐阜」「岐山」「岐陽」という三つの案を提出した。その中から信長に選ばれた「岐阜」の名が、現在に至るまでこの地域の名前として残っている、というわけだ。また、信長は同時期から「天下布武」の印判を使い始めている。これは「天下を武力によって制する」というスローガン的なものであったと考えられているのだが、その言葉を信長に提案したのも沢彦であったという…
…、斎藤氏の本拠である稲葉山城を乗っ取る快挙を果たすが、その後はあっさり龍興に城を返し、自らは野に下ってしまう。やがて尾張の織田信長が龍興を倒して美濃へ入ってくるとこれに仕え、織田家中の出世頭である木下藤吉郎——後の秀吉に仕えるようになったのだ。 そんな半兵衛は非常に奥ゆかしい人柄で、でしゃばることが少ない人であったという。しかし進言は非常に的確で、姉川の戦いなどでも彼のお陰で秀吉は活躍できたというし、その後の中国出兵でも調略などを中心に大いに働いたという。もう一人の「両兵衛」…
稲葉山城は美濃国(岐阜県)にある金華山山頂の山城(山の地形を利用して建てられた城)で、眼下には長良川が流れている。城が築かれたのは鎌倉時代の1201年(建仁元年)のこと。二階堂守行という人物によって築城されたと伝わっている。かつてこの城を舞台にして、斎藤家家臣の竹中半兵衛が少人数で、君主の城を乗っ取る事件が起きた。 さか | 天守と十五夜[岐阜城] 当時の城主は斎藤竜興。彼は美濃一国を手にした斎藤道三の孫にあたる。道三は元々油の行商をしていたが、戦国の世で身を立てようと美濃へ…