攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

藤堂高虎 の検索結果:

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

…須賀家政、福島正則、藤堂高虎、加藤清正、浅野幸長、黒田長政であるとされる。彼らは三成を武力によって襲撃はしなかったが、その代わりに訴訟を起こした。 内容については「朝鮮出兵時、三成の讒言によって黒田・蜂須賀・加藤・藤堂らが秀吉によって強く叱責を受けた」というものである(これに関係のない細川・福島らは別の件で訴訟を起こしたともいう)。この時、三成が自分の屋敷に立てこもって睨み合うなどの出来事はあったようだが、少なくとも後世言われるような武力襲撃はなかった。襲撃されていないのだか…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…入路である天王寺口に藤堂高虎を配置、家康は10月11日に駿府より出陣、秀忠は10月23日に江戸を出陣しました。二条城に入った家康は11月15日に京を出発、大和路に沿って奈良・法隆寺方面を経由して大和口から大坂へ。秀忠は淀川に沿って南下し、枚方を経由して河内口から大坂へ進軍し、11月18日に合流。茶臼山で軍議を開きます。 豊臣方は撃って出るか籠城するかで揺れますが、最終的には籠城策を取りました。大坂城に立てこもる豊臣方と、それを包囲した徳川軍とで各地で激戦が繰り広げられます。1…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…田中吉政、池田輝政、藤堂高虎、加藤喜明、山内一豊らが西上し、8月中旬には尾張に集結します。井伊直政や本多忠勝などの直臣も尾張に在陣し、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石川貞清の犬…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…の厚かった築城名人・藤堂高虎の技術です。内堀は弓矢で攻撃できる距離に幅を狭めており、多門櫓からの総攻撃によって敵を寄せ付けない構造となっています。さらに枡形門は内枡形ではあるものの少しだけ堀に出張った形の最新式枡形です。駿府城でこの技術を用いた枡形門が作られていますが、駿府城より後に築城した名古屋城にもこの最新式の枡形門を配置しています。このように、家康は武田流築城術や高虎流築城術を余すところなく利用し、巨大城郭・名古屋城としたのです。 石垣と天守は全国屈指 天下人の天守の正…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎は家康の信頼が厚く、これまでに天下普請の近江膳所城や家康在城の伏見城の再建などを担当してきました。 当初は西国大名が主に工事を行っていましたが、このころから関東、奥羽、信越方面の大名、つまり伊達政宗、蒲生秀行らも加わって急ピッチで工事がすすめられることになります。本丸御殿が完成して2代将軍・秀忠が移り住み、天守を含めた本丸主要部が完成して将軍の城としての体裁が整いました。あわせて、西の丸龍ノ口から外桜田門、貝塚堀、半蔵門などの南西側の整備…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…打ち合わせをしていた藤堂高虎・黒田長政(黒田官兵衛の子)らの裏工作があったという。 彼らは福島正則を始めとする大名たちに接近し、「豊臣の家のために動かなくてはならない」「三成をこそ打倒するべきだ」と焚きつけて回ったのだ。元から三成を嫌って家康を信用していた彼らはすっかりこの話に乗せられてしまい、軍議の席で福島正則が家康との打ち合わせ通りに三成打倒を叫んで先鋒を志願すると、ほとんどがそれに従うことになった。 さらに東軍の策謀は続く。家康は諸将を西進させる一方で、自分は江戸にとど…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…賀の二国を与えられた藤堂高虎がこの城に入り、津城として大改築を行った。高虎は築城の名人として知られる人物であり、城を拡張したのはもちろん、城下町も整備した。これによって津(安濃津)の町は再び隆盛を見せることとなったのである。 関ヶ原の戦いの頃の城主・富田信高(とみた のぶたか)は、もちろん豊臣家臣だ。しかし、どうやら西軍の中心人物である石田三成との間に確執があったらしく、家康に従って東軍に属し、謀反の疑いをかけられた上杉氏の征伐にも参加している。三成が挙兵をすると、信高ら伊勢…

40年ぶりの特別公開、古田織部ゆかりの興聖寺を見学してきました

…磨大師の像で、これは藤堂高虎によって寄進されたものだそうです。高虎と織部の関係ってなにかありましたっけ?また天井に描かれた「雲龍図」も立派でした。※建物内はほぼ撮影不可 撮影可だったのが方丈内の障壁画で、この珍しいデザインの襖絵は写真だそうです。(海中写真家・杏橋幹彦さんの作品) 天井の絵は檀家のみなさんで描いたとか。桜・竹・紅葉・松(雪)と四季を描いているんですけど、きれいでした。 興聖寺、いちばんの見所はこの中庭にある「降り蹲踞 (つくばい)」です。「まいまいず井戸」のよ…

【殿様の左遷栄転物語】「したたかな男」藤堂高虎の息子 藤堂高吉

…勢国津藩の藩祖である藤堂高虎の出自は諸説あってよくわからないが、近江にルーツがあるようだ。高虎はもともと近江の有力大名である浅井家に仕えたが、その後幾度も主人を替え、1576年(天正4年)に羽柴秀吉の弟である秀長に仕えるようになった。やがて秀長が死ぬとその嫡子・秀保の後見を務めるも、彼もまた死んでしまったので、しばらく高野山に入っていた。 だが、高虎の才覚を惜しんだ秀吉が呼び戻したため、伊予に7万石(後に8万石)を与えられ、水軍の将として活躍した。こうして秀吉から深く信任され…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…府によって派遣された藤堂高虎が後見人を務め、藩政は五人の家老による合議制で執り行われることになった。 しかし、秀吉の下で苦労を重ねながら戦ってきた清正ならばともかく、忠広には熊本藩54万石を維持するのはやはり無理があったらしい。その後、この藩では次々と事件が起きることになる。1618年(元和4年)、内紛が起きた。家老の加藤美作派と、同じく家老の加藤右馬允派が主導権をめぐって対立したのである。これを「牛方馬方騒動」という。しかも、右馬允派は美作派に謀反の疑いがあるとして幕府に訴…

【お城の基礎講座】88. 三大湖城(さんだいこじょう)

…当したのは築城の名手藤堂高虎(とうどうたかとら)です。本丸部分は当時は陸続きではなく、琵琶湖の中に石垣を築いて島のようにし、本丸の西の隅には四重四階の天守が設けられたそうです。現在は膳所城跡公園として整備されており、石垣などがわずかに残っていて見ることができます。また城門は膳所神社などに移築現存されていますので、合わせて見学すると良いでしょう。 高島城(たかしまじょう) 長野県諏訪市にある高島城は、諏訪湖に突き出した形で作られています。江戸時代の初めに諏訪湖の干拓が行われたの…

【お城の基礎講座】87. 三大海城(さんだいうみじろ)

…長7年(1602)に藤堂高虎が築城を開始し、慶長13年(1608)に完成しました。本丸には日本初の層塔型の五重天守が建てられました。現在の天守は昭和55年(1908)に建てられた復興天守です。 右手が復興天守、左手が平成2年に建てられた山里櫓。今治城と言えばココという写真だ 宇和島城(うわじまじょう) 宇和島城は、藤堂高虎が慶長元年(1596)から6年とかけて築いた海城です。藤堂高虎が創建した天守は望楼型だったが、寛文6年(1666)に建てられた2代目の天守は3重の層塔型天守…

【江戸時代のお家騒動】筒井騒動 改易のウラには家康による深謀遠慮があった!

…された後に外様大名の藤堂高虎が入れられたことも見逃せない。高虎は外様でありながらも、家康への忠勤ぶりから厚い信頼を寄せられていた。豊臣系の大名でありながら信頼のおける高虎を、大坂にほど近い伊賀に配置することは、大坂城を攻略するにあたって大変心強い拠点となる。つまり、そのために邪魔となった定次は、改易に追いやられたということだ。 これらの理由を見ると、定次の改易は家康の天下統一のための犠牲だったのではないかと見ることができる。重臣の讒言による改易、といういち大名家のお家騒動の裏…

【江戸時代のお家騒動】生駒騒動 バカ殿様と家臣団の対立に幕府が絡む複雑怪奇な構図

…生駒高俊【主要人物】藤堂高虎、藤堂高次、生駒将監、前野助左衛門、石崎若狭 外祖父の藤堂高虎のもとで動く高松藩政 藤堂高虎は豊臣秀吉に仕えた武将であり、関ヶ原の戦いでは東軍に属したために徳川家康からの信頼も厚かったことで知られている。江戸幕府の成立後は伊勢国津藩の初代藩主となった高虎だったが、実は津藩の藩政を執り行う一方で、讃岐国高松藩主である外孫・生駒高俊の後見人も務めている。いや、後見人というよりもむしろ、高虎が主導して高松藩を動かしていたといっても過言ではなかった。 高俊…

【お城の基礎講座】63. 石垣の反りと勾配

…直線の勾配のものは、藤堂高虎が好んで使ったと言われています。藤堂高虎は築城の名手と言われた一人です。特に有名なのは伊賀上野城、今治城、津城などです。急勾配をつけるよりも一直線で高く積んだ方が効率的とも考えられ、効率を重視した藤堂高虎の築城術の最たるものかもしれません。 伊賀上野城の石垣。石垣が一直線に伸びている 津城の石垣。高さはあまりないが、隅部が一直線になっているのがよくわかる まとめ 石垣を高く積むためには適度な勾配が必要となりました。また防御力を高めるために反りを設け…

【プレゼントあり】「名城の石垣図鑑」のご紹介

…配と呼ばれる石垣と、藤堂高虎が築いた反りを持たない直線的な高石垣のように、築城者の個性が大きく反映されたものもあります。いったいこの城の石垣は誰が、どのような技法で築いたのか。そういった情報を事前に得てから石垣を見ると、城巡りの楽しさが増すこと請け合いです。 本書では北海道から沖縄まで計75城の石垣について紹介しています。名城を支える石垣がどのように築かれているのか、どのような特色があるのかなどを細かく解説しておりますので、本書を読んで、先人の知恵に思いを馳せていただければ幸…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…、紀伊岩倉城セット 藤堂高虎とうどうたかとら 藤堂与右衛門高虎 紀州九度山真田砦、ネット通販(紀州戦国屋) 店舗/通販 1200円 武将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 虎の城・高虎セット 村松殿むらまつどの 村松殿 紀州九度山真田砦、ネット通販(紀州戦国屋) 店舗/通販 600円 武将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 内助の功セット 竹林院たけばやしいん 竹林院 紀州九度山真田砦、ネット通販(紀州戦国屋) 店舗/通販 600円 武将印 書…

【お城の基礎講座】3.望楼型天守(ぼうろうがたてんしゅ)と層塔型天守(そうとうがた天守)

…うな形の天守です。 藤堂高虎が生み出した 層塔型天守は、藤堂高虎が慶長9年(1604年)に建てた今治城が最初といわれています。その後、慶長の築城ラッシュの時には層塔型天守が広まり、たくさん建てられることになりました。層塔型天守は、造る時にとても効率が良く、それが理由で広まったと考えられます。構造が単純で規格化されたため工期が短く、また、望楼型天守のような屋根裏部屋がないため、間取りが広くとれました。層塔型天守の一階平面は正方形か正方形に近い長方形です。二階以上はその一階平面を…

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…ては城づくりの名手、藤堂高虎が縄張りを務めました。五重の立派な天守が造営され、明治初期に撮影された古写真で当時の姿を見ることが出来ます。 明治維新の後には廃城処分となって所有者が転々としますが、紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人が入手し現在に至ります。宗教施設なので気軽に見学するにはちょっと入りずらい雰囲気ではあるのですが、すれ違う方に挨拶すると挨拶を返してくれたのでおそらく大丈夫なのでしょう。 心配な方は受付できちんと見学を申し込むと内堀跡や本丸付近の石垣なども見学する…

琉球における築城の名人・護佐丸が築いた座喜味城を取材してきました

…。 築城名人というと藤堂高虎や加藤清正が浮かびますけど、じつは琉球にも築城名人がいたことをご存知ですか。その名を護佐丸(ごさまる)といいます。護佐丸は、三山を統一し琉球王国を成立させた尚巴志の家臣として今帰仁グスク攻略(北山討伐)で武功をあげた人物です。彼は第一尚氏王統建国の功臣として、今回訪問した座喜味グスクを築城し、のちには中城グスクを改築・拡張しています。「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に指定された5つのグスクのうち、ふたつが護佐丸の手によるものだという…

若武者・木村重成の討ち死に

…した。 奇襲によって藤堂高虎の軍勢は打ち破れたものの、続く井伊直孝の部隊にはかなわず、打ち破られてしまった。このときに重成も戦死してしまったわけだ。その後、重成の首は家康のもとに運ばれ、首実検の対象になった。 そして、その首の美しさに家康が感動した、という逸話が伝えられている。自らの死を覚悟していた重成は出陣前に湯で自らを清め、髪を洗い、香を焚き染めていた。誰かが自分の首を見るときがあっても見苦しくないように、という配慮だったのだろう。また、兜を固定する緒も意図的に解けないよ…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…佐浦戸20.2万石 藤堂高虎 伊予板島7万石 伊予今治20万石 中村忠一 駿河府中14.5万石 伯耆米子17.5万石 京極高知 信濃飯田10万石 丹後宮津12.3万石 京極高次 近江大津6万石 若狭小浜8.5万石 仙石秀久 信濃小諸5.7万石 所領安堵 いずれにせよ、大坂城に豊臣秀頼がいる状態で、これらの豊臣恩顧の大大名たちが結託すればせっかく勝利したことも水の泡なので、相当な警戒心を持っていたと思います。 そこで家康は娘婿である池田輝政に姫路城を大改修させて大坂城包囲網を構…

築城の名手(3)黒田官兵衛が築いた城

…はこれまでに紹介した藤堂高虎や加藤清正と並んで「築城の名手」としても知られており、居住した中津城や福岡城のほか、以下のお城について縄張りや助言を行ってかかわったとされています。 黒田官兵衛がかかわったとされる城 妻鹿城(1577年、天正5年)※秀吉に姫路城を譲った後に、自らの居城として修復 篠ノ丸城(1580年、天正8年)※信長から山崎1万石を与えられ、自らの居城として修復 大坂城(1583年、天正11年)※秀吉の命により縄張り 中津城(1587年、天正15年)※秀吉から豊前…

築城の名手(1)藤堂高虎が築いた城

藤堂高虎といえば「築城の名手」として有名ですが、じっさいどれだけのお城を築城したのでしょうか。ちょっと気になったので調べてみました。 前に見たテレビ番組では次の18城だと紹介されていましたね。 (番組名は忘れてしまいましたが、情報元は『藤堂家記録』のようです) そのほか『今治城見聞録―四百年の歴史を紡ぐ海のお城の物語』などを参考に、調べてみてわかった情報をまとめてみました。 藤堂高虎がかかわったとされる城 出石城(1583年、天正11年) 大和郡山城(1585年、天正13年)…

日本三名城(日本三大名城)

…といわれた加藤清正と藤堂高虎が普請した城のうち、とくに機能美にすぐれた城として選ばれました。姫路城は(秀吉が改修したりもしてますが)池田輝政の手によるものなので含まれないということです。ちなみに名古屋城は加藤清正がつくったとされますが、天守台の石垣を築いただけです。また藤堂高虎の大坂城も再建(修復)なので、厳密には「築城したお城」とは呼べないかもしれません。 いろいろな三名城 もちろん姫路城が入った「三名城」もあります。江戸時代に実在していた天守を選んだもので、大坂城は166…

唐入りの前線基地、名護屋城はめちゃくちゃ広かった(そして名護屋城博物館はすごかった)

…ありました。ほかにも藤堂高虎も2カ所に名前が書いてありますね。 このすべての陣跡をまわろうと思ったら数日はかかりそうです。 ほかにも安宅船と亀甲船の模型もありました。 これだけの展示が無料で見学できて、しかも一部をのぞいて撮影可となっています。 それではいよいよ城址に向かいます。 いちおう帰りのバスの時間もチェックしておいたほうがいいですよ。 大手門跡も石垣はしっかり残っています。 きれいに整備されているので歩きやすいです。 見晴らしもいいですしね。 奥に橋がかかっていますが…

リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

…松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。 「真田丸」の場所については、元禄年間(一六八八年〜一七〇四年)に作成された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。 平成二十八年一月 天王寺区役所 協力 大阪明星学園 題字 脇田龍峯 この坂は「心眼寺坂」とい…

大阪城や名古屋城が鉄筋コンクリートな理由

…きないんでしょうね。藤堂高虎もびっくりです。 ちなみに1991年(平成3年)に白河小峰城の実質的な天守であった三重櫓が木造で復元されたのが、この木造復元のはじまりだそうですね。 これまで大阪城(1931年、昭和6年)や名古屋城(1959年、昭和34年)が鉄筋コンクリートで復元されていて、がっかりされた方も多いんじゃないかと思います。エレベーターもありますしね(まあエレベーターはバリアフリー化なんでしょうけど)。 じっさい木造で復元されている掛川城(1994年、平成6年)や大洲…

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