攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

伊達氏 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…して収録しましたが、伊達氏とか島津氏とかほかの大名家についてもやりたいなと思いました。江戸までは続かなかったですが千葉氏とかも知らないことだらけですし、全国各地の歴史を知って、そこへ出かけるきっかけにもしたいです。盛岡と弘前には行ったことがあるのですが、根城や聖寿寺館にはまだ行ったことがないので、「学び」と「旅」を両方楽しみたいなとあらためて思いました。 YouTubeの動画を見る 参考文献等 監修 帆船ハッカさん こちらのツイートに大変感銘を受け、監修をお願いしました。 陸…

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

…政実の乱の鎮圧、また伊達氏の知行割といった重要な問題について、家康は秀吉の命で東北へ赴いているのだ(実際に軍事行動は行なっていないにしても、派遣されているということには大きな意味がある)。 さらに、秀吉は自らの死を前にして、家康には東日本を、毛利輝元には西日本を任せると言い残している。ここだけを見ると家康と輝元は対等の存在と言えるが、当時の大名はそのような政治的権力とはまた別の、「格」の点においても差別化される。格を示す要素はいろいろあるが、中でも大きいのは官位だ。豊臣政権に…

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…って、大規模な内乱で伊達氏を衰退へ導いてしまっている。 では、家康はどうだったのか。正室との間に生まれた長男・信康は跡を継ぐ予定であったが、その前に死ぬことになる(詳しくは以前のコラムを参照)。次男・秀康は豊臣秀吉のもとへ養子として送られ、のちに結城晴朝の養子になる。家康の跡を継いだのは三男・秀忠だ。その秀忠と同母弟の四男・忠吉はのちに関ヶ原の戦いで活躍するも、間も無く病に倒れてこの世を去った。五男・忠吉は武田家を再興させてその当主に据えられるも、彼もまた若くして亡くなってい…

「分国法ってなに?」の動画を公開しました

…う意志が感じられる。伊達氏の「塵芥集」なども自力救済を禁止しようとしている。 大名が法治国家を目指していたかはともかく、秩序を重んじようとしていたことは感じられます。一方で合戦になれば刈田狼藉や乱取りなどの略奪行為は認められていたわけで、二枚舌というか自国内だけルールを守らせようとするのは無理があるんじゃないかと思いました。そもそも今日の常識が明日の非常識となる時代において、公正さを目指すことに意味があったのかも個人的には疑問でした。 六角の「六角氏式目」には「審理もしないの…

「藤原氏の歴史」の動画を公開しました

…の実家も藤原氏なら、伊達氏も織田氏もみんなルーツをたどれば藤原氏なのです。ほかにも日野富子の実家の日野氏とか、公家にも武家にも藤原さん一族はめちゃくちゃいます。もちろんだからといってお互いがどのくらい認識してたかは微妙ですし、おそらく便宜を図ったりすることもなかったでしょうけど、ぼくらのまわりにもいる藤原さん(もしかしたらこれを読まれてる方のなかにもいらっしゃるかもしれませんね)の歴史をもっと知りたいなと思いました。 あと収録中に何度も「昨日撮った『変と乱の』」と話してますが…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…して対立を続けてきた伊達氏が伊達政宗のもと勢力を拡大したので、蘆名氏は圧迫される。・蘆名義広(あしなよしひろ)の頃の天正17年、蘆名一族の猪苗代盛国(いなわしろもりくに)が伊達側に裏切り、伊達軍が蘆名領内へ侵入。摺上原(すりあげはら)で両軍が決戦し、戦いは伊達側の勝利に終わった。戦いに敗れた義広は本拠地である黒川城へ戻ったが、城に篭って徹底抗戦の構えを取ることはなく、同盟者である佐竹氏のところへ逃げることになった。理由は、城内の意見が「伊達氏への降伏」へ傾き、義広は城を明け渡…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…国時代まで残ったが、伊達氏によって勢力を吸収され、最終的には豊臣秀吉により取り潰されている。→さらに別れた流れが出羽に入って「羽州管領」を名乗り、戦国大名最上氏となった。伊達政宗のライバルとして有名な最上義光(よしあき)の家である。豊臣秀吉によって取り潰されることもなく、関ヶ原の戦いで東軍につくなどして江戸時代へ入ったが、家臣団に内紛があり、そのせいで五十数万石の所領は一万石へ減らされた後、結局五千石の高家になってどうにか残った。※奥州管領・羽州管領は室町幕府の構造のところで…

ガイドブック「国指定史跡 柏木城跡」のご紹介

…、会津蘆名氏が米沢の伊達氏による会津侵攻への領国防衛を目的として整備されたとみられる山城です。東西500m南北450mの城域を有していますが、遺構の残りが良く、石積を多用し複雑な形状の虎口を有するなど戦国期最新の築城技術を採用していることや、会津と米沢を結ぶ街道をおさえる構造を有し領国防衛の考え方を知るうえで貴重な史跡であることなどが評価され、今年3月15日に国指定史跡となりました。そして今回、国史跡指定を記念して、当時の歴史背景や発掘調査の結果、城跡の特徴などを盛り込んだガ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑤――独眼竜の攻撃に晒された城・二本松城

…により、危険を察して伊達氏に属することを表明した。しかし政宗はこれを受け入れなかった。彼の父・輝宗の説得によってなんとか政宗は態度を和らげて両者の間に交渉が行われることになった。ところがその後、義継はお礼を言うためにと輝宗のもとに行くと、彼を拉致して二本松城に逃げ帰ろうとしたのである。政宗が彼に突きつけた条件が「今の畠山氏の領地のうち、五つの村だけ保有を許す。さらに、人質として息子を差し出す」という非常に厳しいものだったのが原因だったのだろうか。ともかく、当主の父親を拉致され…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は③――落ちなかった支城・長谷堂城

…いるうちに、東軍方の伊達氏が救援に駆けつけたため、戦いはいよいよ膠着状態に陥ってしまった。 そこに、中央より「関ヶ原で西軍敗北、東軍勝利」の一報が入る。負けを知った上杉軍はあわてて撤退を開始した。これに対し、一日遅れてその報せを受け取った最上・伊達連合軍が激しい追撃を加えた。この戦いもまた非常に激烈なものとなったが、直江兼続の見事な指揮もあって、上杉軍は無事撤退する。だが、長谷堂城はついに落城することなく、「北の関ヶ原」における主戦場として重大な役割を全うしたのである。 ko…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…後期になると北条氏や伊達氏が勢力を伸ばし、また上杉氏や武田氏もたびたび手を伸ばした。 そんな中、新羅三郎義光を祖先とする名門・佐竹氏はたびたび襲い来る外圧と内紛という荒波を切り抜け、どうにかその勢力を維持して平和な江戸時代を迎えた。そこに代々の佐竹氏当主の奮闘と、優れたバランス感覚があったのはここまで見てきたとおりだ。巨大勢力の圧力を退けるために、ある時は別の巨大勢力によしみを通じ、またある時は他の中小勢力をまとめて連合を形成することによって、佐竹家の繁栄は成立したのである。…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

…た。佐竹氏は南進する伊達氏から身を守る盾を失ったのである。 また、伊達家はこの時期に北条家と同盟を結んでいる。その主目的は中央で勢力を拡大し続ける豊臣政権への対抗であったと考えられるが、同時に政宗の南進を阻み続ける宿敵・佐竹家を両側から挟み打ちしようという意図もあったはずだ。こうした情勢において、義重はまず織田信長と、彼が倒れるとその勢力を引き継いだ豊臣秀吉とよしみを通じ、北条家や伊達家といった強敵を抑え込もうとしていた。このことが、北と南からそれぞれ強力に圧迫されて所領を失…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…17年) 天文の乱(伊達氏) 伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも 戦国時代 1550年(天文19年) 二階崩れの変 豊後の戦国大名・大友氏の内紛。勝利した義鎮(のちの宗麟)が家督継承 戦国時代 1551年(天文20年) 大寧寺の変 戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により自害させられた事件。大内氏が実質的に滅亡 戦国時代 1565年(永禄8年) 永禄の変 室町幕府13代将軍・足利義輝が、三好義継…

【10大戦国大名の実力】伊達家①――地方勢力の栄光と悲哀

…みることにしよう。 伊達氏の起源と「いだて」氏 藤原氏を起源としてもつ伊達氏がこの名となったのは、源頼朝の奥州合戦の頃である。この時の功績によって、伊佐もしくは中村朝宗と名乗っていた開祖が陸奥国伊達郡を与えられ、以後「伊達氏」を称するようになった。 ちなみに、「伊達」は現在は「だて」と呼ぶのが普通だが、古くは「いだて」と呼んでいたようだ。戦国時代・江戸時代にもこの読み方は残っていたようで、政宗がローマ法王に送った手紙や、母・義姫に送った手紙などに、「いだて」の読みを見ることが…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…とくに相馬氏は北西に伊達氏、西に蘆名氏、南に佐竹氏と大勢力に挟まれ、誰と結び、誰と対立するか、慎重に対応しなければいけない立場にあったのだ。 とはいえ、戦国時代の東北が、常にそこかしこで火が吹きそうな状況だったかといえば、かならずしもそうではなかった。名門武家が多く、古くからの因縁もあるためか、まずは婚姻・養子政策を中心とした外交交渉こそが第一の手段として用いられたようだ。実際、戦国時代における奥州第一の実力者たる伊達氏を躍進させた伊達稙宗は、多大な贈り物をすることで朝廷から…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…宗の母で実家最上氏と伊達氏が争った際、興で戦場に押し掛け争いを止め、「鬼姫」と呼ばれた保春院(義姫)。 さらに、伝承と思しきものも含むが戦場に出た女武者の例もある。瀬戸内の女武者で、彼女が使ったとされる甲冑が残る大三島(今治市)の鶴姫。小説『のぼうの城』で有名になった、小田原攻めにおける忍城攻防戦で名を挙げた甲斐姫。しかし、女の身で城主として武家の頭になった人物となると、ほとんど例がない。本書の遠山氏の項にはおつやの方という実質的な城主を務めた女性が登場する。しかし、彼女も「…

【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立

…め上げることによって伊達氏などとも互角に戦える大勢力になった、という経緯がある。こう考えると、一代の英雄である義光の死後、最上家が崩壊へ向かうのは必然だったのかもしれない。 さて、義光は豊臣政権下にあった大名だが、豊臣秀吉がまだ生きていた頃からすでに徳川家康に傾倒していた。豊臣秀次の側室になったばかりの自分の娘が秀次事件に連座して処刑されると、家康への傾倒はより一層強くなり、秀吉死後の「関ヶ原の戦い」では上杉方の直江兼続の部隊と戦い、これを破った。 この関ヶ原の戦いでの功績が…

【マンガ】伊達家ゆかりの地 大和町 御仮屋物語

…人なんですが、仙台藩伊達氏について学ぶ際にこうした藩主の出身地めぐりをするのも楽しいと思います。 最後に、このマンガを制作した榎本事務所からコメントをいただけたのでご紹介します! 榎本事務所からのメッセージ 竹亭のご主人と打ち合わせをさせていただいた結果、歴史はもちろんのこと、大和町の自然、七ツ森の風景も紹介したいと考えました。 メインテーマである歴史ドラマを紹介する前に、あえて車で移動するシーンを入れ込んだのはそのためです。あの光景を見た主人公の感動があったからこそ、その後…

長谷堂城 最上氏を守った堅牢な城

…点であった。隣国には伊達氏がおり、いざこざが絶えなかったからだ。1514年(永正11年)には伊達稙宗によって落城させられ、翌年の和議によって返還された。しかし、1521年(大永元年)には伊達氏は再び兵を出しており、両者は再び争った。それは稙宗のひ孫、政宗の時代でも変わらなかった。両者は1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で激突する。 CLAD | 直江兼続の本陣跡を望む[長谷堂城] 「関ヶ原の合戦」は天下統一を果たした豊臣秀吉の死後、秀吉存命中に生じていた文官と武官との確…

明智光秀が京都から東海各地をウロウロしていた頃、東北では内戦が終わろうとしていた

…わろうとしていた。「伊達氏 洞の乱(うつろのらん)」、あるいは「伊達氏 天文の乱」とも呼ばれるこの戦いは、名前の通り伊達氏の内乱であった。ところがこの争いはある一族内部の戦いに収まらず、東北地方に広くまたがる大乱になってしまっていた。 原因は伊達氏の事情にあった。この一族はもともと鎌倉時代以来の名門であり、特に戦国時代になって急成長していた。その立役者となった伊達稙宗(たねむね)は大変な子沢山で、自分の息子や娘を周辺諸大名のところへ嫁入り、あるいは養子として送り込むことで影響…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…米沢城は室町時代から伊達氏が支配し、秀吉により蒲生氏郷が一時支配し、家康が世を治めると移封された上杉氏が廃藩となるまで支配しました。 上杉神社の鳥居には上杉謙信の軍機である「毘」と「龍」の文字が風にはためいており、入口に立つだけで感慨深いものがあります。鳥居をくぐるとすぐ謙信公の銅像が迎えてくれます。上杉神社は紆余曲折あり、上杉謙信のみを祀る神社となったそうです。 大河ドラマ「天地人」放映後に上杉景勝と直江兼続の銅像も仲良く並んで建てられたようです。 CLAD | 上杉謙信像…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…区にある亀岡八幡宮は伊達氏の始祖である伊達朝宗(ともむね)が福島県伊達郡に鶴岡八幡宮を勧請して建立し、その後に現在の地に遷宮されました。昭和20年の仙台空襲により社殿は焼失したため、今では石鳥居と長く急な石段のみに昔の面影が残されています。 緑が日一日と深まっていく季節に、1年の日数と同じ365段の苔むした石段を登ると、往時のたたずまいを偲ぶことができます。 所在地 宮城県仙台市青葉区川内亀岡町62 アクセス 車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で20分。 電車の場合:地…

【戦国合戦こぼれ話】伊達政宗、度胸と決断の小田原参陣

…のである。 もともと伊達氏は中央権力である豊臣氏の束縛に対して不服従であり、自由な態度を示していた。その上で、同じような立場にある東海の徳川・関東の北条とある種の連合を組んだ形になっていた(のちに徳川は豊臣へ臣従)ため、むしろ本来、政宗は北条側に味方するべきだったといえる。実際、北条氏としては伊達氏による援軍を期待して天下の名城・小田原城にこもった節もあるようだ。 それでも、政宗は北条を見捨てて豊臣氏に味方することを決断し、小田原へ向かった。小田原を包囲する未曾有の大軍、また…

【戦国合戦こぼれ話】小手森城の撫で切りが示した若武者の決意

… 政宗が父・輝宗から伊達氏の家督を継承したのは1584年(天正12年)、わずか18歳のときのこと。それから間もなく、小浜塩松城主・大内定綱が政宗への臣従を申し出たが、時をおかず伊達氏のライバルである蘆名氏方へ「転向」するという事件が起きた。基本的に戦国大名は絶対君主ではなく、半ば独立勢力である中小国人たちをいかに自分の支配下に留めて置くかということに腐心しなければならない。 定綱の短期間での裏切りは、他の国人たちに伊達氏を軽視させる原因になりうるものであり、無視できない問題で…

【戦国合戦こぼれ話】人取橋の戦い―家臣の献身と敵側の事情が政宗を救う

…力者である佐竹氏や、伊達氏にとって南奥州をめぐるライバルである蘆名氏らをはじめとする周辺諸勢力による総勢3万の連合軍が結成され、二本松城救援にやってきた。 対する伊達軍はせいぜい7000から8000あまりで、圧倒的不利な状況であったが、とにかく戦わないわけにはいかない。要所である観音堂山に本陣を移し、連合軍を迎え撃った。この戦いの激戦地となったのが山のふもとの人取橋だったので、「人取橋の闘い」と呼ばれるようになったのである。 このとき、窮地に陥った政宗を救ったのは家臣団の献身…

【戦国を彩る名軍師たち】独眼龍に助言を与え続けた片倉景綱

…神主の子であったが、伊達氏の跡取りである政宗の教育係になる。義姉が政宗の乳母という縁及び彼自身の才覚が評価されてのことだった。この時期の景綱と政宗には有名なエピソードがある。 政宗は天然痘の後遺症で飛び出た右目を嫌い、そうして醜くなった自らの容貌にコンプレックスを感じて「この目を潰せ」と近くの者達に命じた。これに唯一応え、短刀をもって目を潰したのが景綱であったという。景綱は容貌とそこからくる内気な性格のせいで低く評価されがちだった政宗の才覚を高く評価していたというから、彼が痛…

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