攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

加藤清正 の検索結果:

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

…。その中のひとつが、加藤清正・福島正則らを筆頭とする武断派と、石田三成ら文治派の対立であった。そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説における「七将襲撃」の事件である。 ところで、近年ではこれらの一連の出来事について…

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

…れないが、そうはならなかった。朝鮮出兵は一度の休戦を挟みつつ泥沼の状態で戦いが進み、ついに秀吉が死んで中止されるまで、状況が好転することはなかったのである。また、秀吉に代わる朝鮮での指導者としても豊臣政権生え抜きである石田三成が派遣されたため、家康の出番はなかった。結果、石田三成は加藤清正ら武断派諸将との関係が悪化(例えば、加藤清正は三成らに「朝鮮との講和を妨害している」と讒言され、一時的に蟄居の処分を受けている)し、のちの関ヶ原の戦いへつながる種が蒔かれることとなったのだ。

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…ろがあります。まずは加藤清正像。 熊本や熊本城のシンボル的な存在の銅像で、ここに来たら熊本城に来たなと、過去に来た熊本城の記憶がよみがえり、新たな熊本城の思い出が紡がれていくような気持ちにさせられます。まさに熊本城の記憶のハブ的存在。熊本城に来た時にはここにきて、「熊本城の記憶をまたつながせてもらいます。」と挨拶しています。さらに、備前堀。 熊本城唯一の水堀といわれる名所。奥には奇跡的に一本の石垣で耐えた飯田丸五階櫓のあった飯田丸も見えます。またさらに遠くに熊本城天守も見るこ…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…で、秀頼を支えていた加藤清正が1611年(慶長16年)に、浅野幸長と池田輝政が1613年(慶長18年)に、前田利長が1614年(慶長19年)に相次いで亡くなり、豊臣に近い大名は福島正則が残るのみとなりました。 家康は将軍になると天下普請(公儀普請ともいう)によって各地に大城郭を築いていきました。二条城、越前福井城、美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包…

知ってる? 水野勝成

…黒田長政、小西行長、加藤清正など、そうそうたる武将のもとへ仕官。一番首プレーヤーとして怒涛の活躍をする。しかし、いずれの職場も定着することなく、輝かしい戦績を残しては、間も無く逃亡を繰り返す。さすらいのスーパーフリーランスの名をほしいままにする。 その7. 虚無僧? 姫谷焼きの器職人? 謎の経歴 戦国フリーランスとしての1000石のセレブ生活を蹴ってふたたび放浪の生活へ戻った勝成。この時代の逸話も多く、虚無僧になった、姫谷焼の器職人になった、など様々な真偽不明の伝聞が残されて…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…1年(慶長16年)に加藤清正死去、1613年(慶長18年)に浅野幸長死去と仲裁してくれる有力大名がいなくなっていた 大坂城には牢人が集まり籠城軍は10万に 11月、20万人の徳川方が大坂城を包囲、大坂冬の陣 大坂冬の陣で和睦する? 和睦後も大坂からの退去(大和・伊勢が提案)、浪人の召し放ちを迫る @外堀?総堀? 大坂方も納得していたと思われる 1615年(元和元年)、74歳 5月、大坂夏の陣 5/8、秀頼・淀殿が自害して豊臣家滅亡 秀頼と千姫には二人の子がいたが、嫡男・国松(…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…によると、毛利秀就、加藤清正、黒田長政、福島正則、生駒正俊、加藤嘉明、蜂須賀至鎮、浅野幸長ら豊臣恩顧の西国大名20家が担当しています。西国大名に担当させた意図としては諸大名の財力をそぐためとか、豊臣政権を見限らせるためなどと考えられていますが、石垣築造は主に西国で行われていたために技術力が高く、逆に徳川をはじめとする東の大名は技術力に乏しかったことも要因のひとつです。本丸の北西隅には巨大な天守が建てられました。天守一階は15間×17間もあり、16間×18間と言われた江戸城天守…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…公儀普請が本格化し、加藤清正、福島正則らの西国外様大名28家に石垣に用いる石材調達を命じます。石材は伊豆半島や相模湾沿岸の地域から運び込まれました。このような分担による工事は名古屋城築城にも引き継がれる国家プロジェクトで、公儀普請のシステムとなったのです。本丸の工事は1606年(慶長11年)から開始され、1611年(慶長16年)には西の丸の石垣工事が実施されました。縄張りは築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎は家康の信頼が厚く、これまでに天下普請の近江膳所城や家康在城の伏見…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…が危険にさらされる。加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料によっては蜂須賀家政)、浅野幸長ら七将が三成の大坂屋敷を襲撃したのだ。そこで三成は奇策に出る。なんと、最大の政敵である家康の屋敷に逃げ込んで庇護を求めたのだ。豊臣政権を弱らせることを考えていた家康にとって、今はまだ武断派と文治派に対立してもらわないと具合が悪かった。そこで家康は彼を匿って七将を思いとどまらせた。 この策を考えたのが、実は三成ではなく勝猛だったという説がある。大義名分や建前を重視…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…て石田三成ら文治派と加藤清正・福島正則ら武断派が分裂し、その隙を突いて実力者の徳川家康が動き始めた。家康は東北の雄・上杉景勝を攻めるために諸大名に呼びかけて兵を挙げ、一方で三成は自分と同じ五奉行の増田長盛(ました ながもり)、毛利の使僧の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)らと語らい、また本来東軍につくつもりだった大谷吉継(おおたに よしつぐ)を説得して西軍を組織する。 この時、三成は自分自身が総大将の地位に就くつもりだったが、その横柄な性格を気にした吉継の勧めによって、毛利輝元…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…めとする築城の技術を加藤清正をはじめとする子飼の諸大名に教え、各地で壮麗な近世城郭を築かせたとされる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで天下の実権を握った徳川家康は、江戸城、名古屋城、二条城といった城々を、諸大名たちを動員する「お手伝い普請」「天下普請」によって石垣の城として築く。 またこの江戸時代初期には、全国の諸大名も本拠地の拡張・支城の建設に励み、ある種の築城ラッシュの時代が訪れる(ただし、東国では石材の確保が難しく、石垣の城は珍しかった、とも)。徳川家康と彼が作り上げた江戸幕…

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

…国人もいない。だから加藤清正や福島正則、石田三成といった若者たちを育て、生え抜きの家臣として自らの政権を任せようとした。ところが、彼らは立場の違いから反目し合い、秀吉の死後に相争って徳川家康が躍進する隙を作ってしまった。同じように、一から成り上がって主家を乗っ取った斎藤家には、地盤がなかった。だから不安定で、滅亡の原因になった。そういうことなのだろう。 実際のところ、一般のイメージと違って戦国大名には守護や守護代出身が多く、最低でも国人として代々の領地や家臣がいるのがほとんど…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…古屋城の天守台石垣は加藤清正が築いた」とよく言われていると思いますが、その証拠となったのがこの資料の冒頭「御天守」の欄に唯一の担当者として記載された「賀藤肥後守」(加藤肥後守=加藤清正のこと)の記述です。 名古屋御城御普請衆御役高ノ覚【部分】(熊本大学附属図書館蔵) 名古屋城は天下普請で築かれていることもあり、尾張藩に資料は残っておらず、このように参加した各藩の大名家に伝わっているんだそうです。幕府が工程管理するために用意していてもおかしくないと思いますし、あまりに性善説で放…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…文治派(ぶんちは)と加藤清正・福島正則ら武功派(ぶこうは=武断派)が対立しており、これを利家が押しとどめていたのだが、彼がいなくなったせいで武功派七将が三成を襲撃したのである。この時三成は家康の屋敷に逃げ込んで難を逃れたが、その代わりに政権の中枢を離れて謹慎することを余儀なくされてしまう。 その後、家康は豊臣政権の本拠地である大坂城の西の丸に移住し、天守閣を築造した。このことは「家康は秀頼と匹敵する力を持つ存在だ」と周囲に知らしめる効果があった。しかし、家康が真に自らの天下取…

熊本城天守閣完全復旧記念チャリティグッズを購入して熊本城を支援しませんか

…。 熊本城を築城した加藤清正の家紋である蛇の目紋、加藤家改易以降、幕末まで代々肥後熊本藩を守り続けた細川家の細川九曜紋と熊本城特別公開記念の焼印が入っています。 天然木の5枚板を広げて自分の好みに合わせて調整できるようになっています。あおいだ時に木の香りがふわっと香るので、癒されますよ♪ kojodan.shop つづいて「木枡」。 こちらも扇子同様、蛇の目紋と細川九曜紋の焼印(写真右)に、もう片面には復活した熊本城の大天守をあしらった特別公開ロゴの焼印(写真左)が入った一合…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…、豊臣政権においても加藤清正・福島正則ら武断派と石田三成ら文治派の派閥争いが発生し、結果的に家康が暗躍する隙を作って、政権崩壊につながっている。現代風にたとえるなら、注文をとってくる営業部と、実際に商品を作る製造部が、それぞれ「あいつらは俺たちの苦労がわかっていない」と不満を溜め込んで仲が悪くなるようなものだろうか。 忠隣が庇護して姓を授けた重臣、大久保長安にまつわる疑惑も、彼の足を引っ張ったようだ。大久保長安は金銀山の開発や各地の民政によって幕府の財政に大きく貢献し、「天下…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…頼される 福島正則や加藤清正と同じく豊臣秀吉のもとで活躍し、七本槍にも数えられた加藤嘉明(かとう よしあきら)を祖とするのが、会津藩加藤家である。もとは松平(徳川)家に仕えていたものの、嘉明の父・教明が三河一向一揆に加担して徳川家康に反旗を翻したため、国を離れることになった。その後は将軍である足利義昭、そして秀吉へと主君を替えた。しかし秀吉の死後、徳川家康に急接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦っている。 1627年(寛永4年)、陸奥国会津藩の藩主・蒲生忠郷が子のないままに死…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…代表格とされるのが、加藤清正である。彼はまた、築城術の名手としても名高く、熊本城はその代表作のひとつといえる。 藤原北家道長を祖とする加藤家は、その子孫が美濃に下った際に「加藤武者」と称したのが始まりとされているが、確証はない。その後、11代・清忠が秀吉の母の従姉妹と結婚したため、息子の清正が秀吉のもとに預けられ、子飼いの家臣となったという。秀吉との姻戚関係についてもハッキリとわかっているわけではないのだが、清正が幼少期から秀吉に従い、成り上がり者であるために先祖代々の譜代を…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…功をあげた。後述する加藤清正と並んで、秀吉子飼いの家臣といえば彼らの名前が挙がる。ふたりとも、特に賤ヶ岳の戦いで活躍した「七本槍」のひとりとして有名だ。 関ヶ原の戦いでは正則と清正はともに東軍についた。西軍の実質的なリーダーである石田三成と以前から不仲であったことがその原因であるらしい。特に正則は関ヶ原における決戦で先鋒として戦ったし、そもそも豊臣系大名を家康の味方につけるにあたっても大きな働きをした。戦後はその功績によって、安芸・備後両国に49万8千石余を領する広島城主とな…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…東軍に加担した熊本の加藤清正だけでなく家康自身も、思い直すよう呼びかけた、とされる。にもかかわらず宗茂が西軍についたのは、前述したような秀吉の寵愛に対する恩返し、および豊臣家との結びつきがあったのかもしれない。 とはいえ、宗茂は美濃国は関ヶ原での決戦には参加しなかった。東軍側についた京極高次(淀殿の妹・お初の夫として有名)の籠もる大津城攻略に参加していたからである。この城が落ちたのと関ヶ原の戦いの終結は同日(9月15日)であった。三成が敗れたことを知った宗茂は豊臣家の本拠地で…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…は厳しい政権運営から加藤清正・福島正則ら豊臣政権内部の武断派とも対立しており、家康は彼らを味方につけて反家康派に対抗していく。 そして1600年(慶長5年)、家康が「謀反の疑いがある」として五大老のひとり・上杉景勝討伐の兵を挙げると、その隙を突いて三成も同じく五大老の毛利輝元を旗印に挙兵。両軍は美濃国・関ヶ原で激突した。天下分け目の「関ヶ原の戦い」である。このときは兵力で三成方(西軍)が勝り、兵の配置でも家康方(東軍)を取り囲んで圧倒的に有利と思われた。しかし、実際に戦いが始…

【戦国時代の境界大名】相良氏――大大名に挟まれながらも、九州の動乱のなかで戦い続ける

…への出陣を命じられ、加藤清正の指揮下で戦った。しかし、2度ともに義陽を補佐する2人の重臣が対立し、大きな混乱をもたらした。 1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」直前、徳川家康が上杉景勝の会津攻めを企てると、長毎はこれに参加するべく出陣していた。ところが畿内ではすでに石田三成が挙兵し、徳川家臣の籠る伏見城(京都市伏見区)を攻めている。長毎はあくまで家康に味方することを望んだが、畿内は三成ら西軍の勢力が圧倒的だったので諦め、しかたなく西軍に与した。しかし心中ではあくまで家康の…

明智光秀と細川忠興――あるいは太平のための裏切り

…臣家臣としての忠興は加藤清正・福島正則らとともに武断派の主要人物として数々のいくさで活躍し、国内での戦いだけでなく朝鮮出兵にまで参加している。しかしそれゆえにか石田三成ら文治派と対立することになった。結果として忠興たち武断派は徳川家康に味方して「関ヶ原の戦い」で東軍につき、家康による江戸幕府成立に力を貸すことにもなったのだった。なお、この戦いに先立って忠興が最愛の妻・たまを失ったのは以前紹介した通りである。 関ヶ原後、細川家は北九州に四十万石弱の領地を与えられ、さらに忠興が隠…

【江戸時代のお家騒動】牛方馬方騒動 豊臣恩顧の加藤家改易のきっかけとなる

…頼の後見人をも務めた加藤清正。関ヶ原の戦いでは東軍につき、肥後一国を賜った清正だったが、1611年(慶長16年)に秀頼と徳川家康の二条城会見を実現させた後、その帰国途中に亡くなった。 清正の跡を継ぐことになったのは、子の虎藤である。しかし、虎藤はこの時まだ11歳。しかも相続人としての将軍への謁見をまだ果たしていないなどの不安材料があり、幕府が家督相続を認めない可能性もあった。そこで加藤家の重臣らが駿府まで赴き、虎藤の家督相続を認めて欲しいと嘆願したのである。 これに対し大御所…

【お城の基礎講座】76. 江戸時代・慶長期(けいちょうき)の築城ブーム

…挙げてみましょう。 加藤清正が作った熊本城(くまもとじょう) 細川忠興が作った小倉城(こくらじょう) 毛利輝元の萩城(はぎじょう) などが挙げられます。 徳川幕府による天下普請の城としては、 江戸城 駿府城(すんぷじょう) 彦根城(ひこねじょう) 名古屋城(なごやじょう) 加納城(かのうじょう) 福井城(ふくいじょう) などがあります。 これらの多くは今でも城跡として残されており、近世城郭として我々は目にすることができます。 加納城跡(岐阜県)には当時の石垣が残されている 福…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…って郷安は退けられ、加藤清正のもとへ身柄を預けられることに。また、秀隆はこのような内紛を引き起こしたことを秀吉に咎められ、宇都宮への転封が決まったのだった。 しかし、秀隆の転封についてはじつは別の理由があったとされる。それが、亡くなった氏郷の妻・冬姫に関するものだ。信長の娘である冬姫は、若い頃から美人であったことで知られており、秀吉は夫をなくした彼女を側室として迎えようとした。しかし冬姫はこれを強く拒み、秀吉から使者が送られてくるとその目の前で髪を切り、尼になる決意を見せたと…

【お城の基礎講座】63. 石垣の反りと勾配

…名なのは熊本城です。加藤清正が築いたため清正流石垣(せいしょうりゅういしがき)とも呼ばれています。石垣にソリをつける場合は、石垣の最下部から1/2までは緩やかな直線で残りの1/2にそれを入れるのが通常とされます。なぜなら頂部だけ急にするのが目的だからです。このような急勾配の石垣は登りにくく、武者返しや忍び返しの役割を果たします。 丸亀城の石垣。石垣の高さの約半分から反りだし、頂部で垂直になる 反りのない石垣 寺勾配(扇の勾配)とは対照的に、最後の垂直に立つ部分がない緩やかなま…

【お城の基礎講座】62. 石垣の仕上げ

…栄えをよくしたのは、加藤清正と言われています。この仕上げのことお化粧と言ったりしますが、目的は見た目です。石の表面を美しく見せるために化粧が施されたのです。 化粧の方法 やり方 石垣表面の化粧の方法は、少しずつ鉄ののみで打ち欠く方法です。これを「はつる」とか「はつり」と言います。のみで少しずつはつっていくため、とても根気のいる仕事です。 はつり仕上げ 1 cmほどの小さなはつりをまんべんなくするのを「はつり仕上げ」と言います。細いはつり仕上げの石垣は、風化によって現在はほとん…

初代藩主と藩祖のちがい

…ルだと熊本藩の藩祖は加藤清正じゃなく細川家になるわけですが、熊本藩細川家の初代藩主は細川忠利です。藩祖はその父の忠興? あるいは祖父の幽斎? ネットで「熊本藩 藩祖」で検索してもいずれの名前でも藩祖として紹介されています(神社のサイトもいくつかヒットしました)。またわからなくなったので榎本先生に聞いたら「熊本藩の場合、三人とも正解で難しいのですが、一般的には幽斎でしょうか。幽斎・忠興連名もありますね。」とやはり断定できない様子。 ともあれ、初代藩主が言葉のとおり立藩時の最初の…

【プレゼントあり】「名城の石垣図鑑」のご紹介

…城の名手として名高い加藤清正が築いた扇の勾配と呼ばれる石垣と、藤堂高虎が築いた反りを持たない直線的な高石垣のように、築城者の個性が大きく反映されたものもあります。いったいこの城の石垣は誰が、どのような技法で築いたのか。そういった情報を事前に得てから石垣を見ると、城巡りの楽しさが増すこと請け合いです。 本書では北海道から沖縄まで計75城の石垣について紹介しています。名城を支える石垣がどのように築かれているのか、どのような特色があるのかなどを細かく解説しておりますので、本書を読ん…

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