攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

東海道 の検索結果:

【現在1764城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…城(滋賀県甲賀市) 東海道伝馬館、民芸・茶房 うかい屋 300円 印刷 2022年3月1日 泊崎城 御城印 初版 泊崎城(茨城県つくば市) パンドラ 330円 印刷 縦15cm、横10.5cm 2022年2月27日 布川城 御城印 第二版 布川城(茨城県利根町) 酒のたかつや 330円 印刷 縦15cm、横10.5cm 2022年2月27日 遠山城 御城印 初版 ミート・デリカなかじま 330円 印刷 縦15cm、横10.5cm 2022年2月27日 東林寺城 御城印 第三版…

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

…れるほど近くもない。東海道によって文化や知識、物資が行き来していることのメリットもあったろう。そして何より、まず隣国尾張の織田信長が天下人として立ち、そして高転びに転んだ際、「その同盟者」というポジションにいたことは、家康のその後にとって絶大なプラスになったはずだ。これもまた三河を拠点としていたからこその話である。 誤解しないで欲しいのだが、家康が寿命や立地だけで天下を取ったなどというつもりはない。戦国末期の動乱の中で滅びることなく立ち回ったこと、いくつかの合戦で生き残ったこ…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…含め、家康に先んじて東海道を西へ進んでいた東軍諸将に当てた手紙は全体の半分を占めており、家康が前線から離れた江戸より東軍全体をコントロールしようとしていたことがわかる。関ヶ原の戦いが豊臣政権の主導権をめぐる内紛であることを思えば、連絡を強化して内部に不和・動揺が生まれないようにするのは当然の心遣いであったろう。 また、東海道の諸将宛の手紙の中でも、注目するべきものとして黒田長政宛の8月8日付書状がある。この手紙からは長政を仲介役として吉川広家との交渉が行われていたことがわかり…

【家康の謎】家康はどうして関東に行かされたの?

…入っていなかったが、東海道でしっかり結ばれている場所だ。そこから関東へ移ることは格落ちである、という考え方もあったろう。 何よりも、家康傘下で五ヶ国を支配していた諸武将たちは、基本的には先祖代々その土地に結びついていた武将たち(国衆)である。加増の可能性が高かったとしても、父祖の土地から引き剥がされることへの苦しみも多分にあったのではないか。実際、家康も家臣団も秀吉の命令に逆らえず、泣く泣く三河をはじめとする東海地方から離れ、関東へ移ったと言われている。ではどうしてそのような…

【家康の謎】家康は武術の達人だったの?

…ぼりゅう)の達者で「東海道で一番だった」などという話があり、弓をとっては三方ヶ原の戦いで浜松城へ逃げる最中、自らの弓で武田の兵を次々射抜いて道を開いたという。また、砲術も戦国時代きっての砲術の達人、稲富一夢斎(いなとみ いちむさい)に学んだとされている。ここまでくるといろいろ「盛った」のではないかという疑問もあるが、家康が戦国乱世の人らしくきちんと武術を学んでいたのは間違いないだろう。 ただ、家康(あるいは後世に残る家康伝説)の面白いポイントは、そのような優れた武術を必ずしも…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…に、城の南側をのちの東海道が通っており、主要街道を監視する要衝としても機能しました。 諏訪原城地形図 また、諏訪原城には、「丸馬出」と呼ばれる防御装置が城内の各所に見られ、現在も良好な状態で現存しています。馬出とは、虎口(城の出入口)の前に堀を隔てて設けられた曲輪※のことを指し、曲輪の形が半円形のものを丸馬出、四角形のものを角馬出と呼びます。武田氏の築城術には丸馬出を多用する特徴があります。丸馬出を設けることで、攻めてくる敵はまっすぐに虎口に攻めることができず、敵の侵攻経路を…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

…賀越えだけではない。東海道を通るなり、堺から海路で紀伊半島をぐるっと回るルートなりもあったろう。歴史において「どうしてこの選択肢を取らなかったか」を探るのは難しいが、大きな道については明智の追手や街道封鎖を恐れたのだろうと考えられる。海路についてはこの時期の堺は織田軍による四国征伐に備えて船が払底していたり、あるいはそもそも長期航海そのものの危険性を考えたのだとも推測できよう。 ともあれ、家康一行は陸路で険しい伊賀越えを選択した。ただ、実際にどんなルートを辿ったのかは史料によ…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(初日)

…町歴史資料館は、JR東海道線・山崎駅下車、徒歩5分、阪急電鉄京都線・大山崎駅下車すぐと、駅からとても近くなっております。またお車では、名神高速道路・大山崎ICから約7分と、こちらもアクセスが大変よろしくなっております。 大山崎町歴史資料館にて、山崎の戦いに関する大変貴重な展示をご覧くださり、山崎城跡にて、山崎の戦いの息吹を感じていただきたいです。 www.youtube.com 15時からは二回目となる、京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの演武を披露させていただきました。実は…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石川貞清の犬山城、竹ヶ鼻城を前線として軍勢が集結しました。このように尾張・美濃の境目で対陣したのが、関ヶ原の戦いの始まりです。しかし、このとき家…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…、信長は甲府を出立、東海道を通って帰国 4/13江尻城、4/14田中城、4/15掛川城、4/16浜松城、4/17吉田城、4/18知立城に寄って、その後清洲城、岐阜城を経て安土城へ 家康は休憩所や食事にも万全を尽くした 領内で信長を殺す? 5月に安土城を訪問、その後信長の勧めで京都・大坂・堺の見物へ 5/29、家康は堺に入り、翌6/1に津田宗久の茶会に参加 6/2、京に戻ろうとしていたところ、本能寺の変について茶屋四郎次郎から聞く 家康は当初、そのまま上洛して知恩院で追腹(殉死…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…西国大名の抑えとして東海道・美濃路の追分に位置する名古屋に城を築いたのです。名古屋城築城にあたっては家康自身が地選をおこなったり、指示を細かく出すなど、家康肝いりの城ともいえます。1612年(慶長17年)に天守、1615年(慶長20年)には本丸御殿が完成しました。城主の義直はこの年に婚儀を行ったといわれていますが、その最中に大坂夏の陣が勃発するのです。 室町時代に尾張の守護所=中心だった清須城は、政治・経済・物流の中心であり、織田信長・信忠・信雄、豊臣秀次、福島正則らが城主を…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…引馬城がありました。東海道と天竜川本流が交差する要衝に築かれた引馬城は、江戸時代の絵図によれば浜松城の北東部にあり「古城」と記されています。その城域は100m四方で堀や土塁で囲んだ4つの曲輪がある並立的な館城(やかたじろ)だったと想像されます。現在でも土塁などの痕跡が残り、地籍図によっても堀跡が確認できます。浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブで江戸時代に描かれた浜松城の縄張りを見ることができます。あわせてご覧ください。 浜松市 歴史資料 絵図 浜松城と城下の…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…(〔日本古城絵図〕 東海道之部(2). 42 三州岡崎城図(国立国会図書館デジタルコレクション))をみると本丸の西側にある白山郭に馬出がありますが、元康が馬出を使い始めたのは浜松城時代以降のため、残念ながら家康が作ったものではなさそうです。先にも述べた通り元康在城時の城の遺構はほとんど残っていませんが、城の周りの複数の川が作り出す地形と低湿地帯を利用した中世の城であったことは間違いありません。天守や石垣がまだない時代の土造りの城が元康の原点なのです。 岡崎城の基本情報 築城者…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…に「海道一の弓取り(東海道で一番の武将の意味)」と呼ばれ、「天下に最も近い男」とも呼ばれていた男、と言えば彼がどれほどの人物であったのかが伝わるだろうか。その今川義元の師であり、軍師でもあったのが太原雪斎(たいげん せっさい、崇孚(そうふ))だ。 義元は駿河の名門今川家の当主・今川氏親(いまがわ うじちか)の五男で、本来は家督を継ぐべき人物ではなかった。そのため出家させられた彼には、同時に教育係がつけられた。それが雪斎だった。彼は今川家の重臣の息子で、最初は駿河の、次は京都の…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…城に入る一方、東軍も東海道を進んでいた先発隊が岐阜城を落として、家康も江戸城を出る。これとは別に家康の三男・徳川秀忠が、徳川軍の主力を率いて中山道を進んでいたが、なんとこの兵力が関ヶ原の決戦に参加することはなかった。信濃を進軍中に西軍・真田昌幸が籠もる上田城を攻撃したものの、昌幸とその子の幸村(これは通称で、実際の名は信繁)の知略に翻弄されて攻め落とせず、ここで時間を浪費したこともあって決戦に間に合わなかったのだ。 この遅刻に関しては、家康は最初から主力部隊を温存するつもりだ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑨――徳川本隊を釘付けにした城――上田城(第二次上田合戦)

…央へ進めた。諸大名は東海道を先発させ、自らは江戸に寄った後にゆっくりと進軍。そして、後継者と決めていた息子の秀忠には徳川氏の本隊ともいえる大軍を預け、中山道を西上させた。信濃方面の西軍派勢力を平定させたのちに、京に向かうのが秀忠の役目であった。 その前に立ちふさがったのが真田昌幸であり、上田城であった。昌幸は会津の上杉討伐軍には参加していたが、三成の挙兵後には離れ、西軍に加担する準備を始めていた。これに対し、秀忠はまず使者を送って東軍に付くよう求める。しかし昌幸は返答を先延ば…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…う、ということだ。 しかし、幕府としても加藤家を潰してしまうのはためらったらしい。嘉明の徳川家への貢献もプラスに働いたのだろうか、明成の息子・明友が石見国に1万石を与えられたため、ここに吉永藩が成立した。明友は銅山や新田の開発、飢饉の時の粥の支給など善政を施し、それが評価されて近江国水口に2万石を与えられた。この地は東海道の要所であり、そこから水口藩は将軍家と深いかかわりを持った。その後、1度は壬生藩に転封となった加藤家だったが、再び水口藩に戻り明治維新まで藩主を務めている。

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…ある。ある時、幕府が東海道の浜名湖のほとり、「荒井(新居)の渡」と呼ばれる場所に橋を架けたのが問題になった。秀忠がここは古くから戦略上の要所として知られる場所で、防衛のことを考えれば橋がないほうが有利なのだ、と激しく怒ったのだ。困った老中たちは宗茂を呼び出し、どうにか機嫌をとってくれないか、と頼み込んだ。そこで宗茂は「たしかに戦乱の時代には荒井の渡は重要な場所でしたが、今は2代将軍である上様の御威光によって天下はこれまでにないほど泰平なので、橋を架けないでいる必要がないのです…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…は尾張。三河をつなぐ東海道の途上であるとともに、その陸路と伊勢湾の海路を結ぶ場所でもあった。この海路は伊勢(三重県)から紀伊半島をまわって畿内べ至る重要なものであるため、自然と知多も栄え、また商船を警護するための水軍も発達することとなる。その知多半島が短期間とはいえ巨大勢力による支配にさらされなかったのには、理由があった。 本来、尾張の守護は名門武家である斯波氏であったが、じつはそれ以前より三河守護である一色氏が、『半田市史』に従うならば、「知多郡守護」というべきポジションを…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…、木曾木材の集散地と東海道の宿場町を兼ね、堺や博多と並ぶほど発展していた。徳川家が全国支配の基礎を固めるためには必要不可欠な都市だった。 こうして徳川家は旧来の所領であった東海地域を取り戻し、御三家のひとつである尾張徳川家による支配体制を築く。関東から東海地域までを固めたことで、西へ進出する地盤もできた。ただ、大坂にはまだ豊臣家が残っており、紀伊にも豊臣方の外様大名の浅野家がいて、この時点では徳川家も手を出すことができていない。さらに北方への対策として、磐城平に鳥居忠政、館林…

明智光秀と今川義元――あるいは貶められたイメージ

…の弓取り」。これは「東海道地方で一番の武将」の意味である。のちには徳川家康の呼び名になったが、当時は義元こそがこう呼ばれていた。ただの公家かぶれにそんな異名がつくはずもない。義元は武田信玄や北条氏康らとも張り合った、戦国時代を代表する名将の一人であったのだ。 そもそも、今川家は源氏の名門である。室町幕府で将軍職を継承した足利家の分家、吉良家のさらに分家で、「足利が絶えなば吉良が、吉良が絶えなば今川が将軍を継ぐ」と言われたほどの家だ。本拠地は駿河で、戦国大名としての躍進を始めた…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…。 電車の場合:JR東海道本線「早川駅」からタクシーで10分 kojodan.jp 長谷堂城跡 そんな豊臣秀吉が死を迎えます。 政宗と徳川家康は天下人であった秀吉の私婚を禁じる遺言を破り、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させてしまいます。豊臣家恩顧の石田三成らは猛反発したようです。さらに家康は会津の上杉景勝を討伐するためと軍を発し、政宗もこれに従い戦が勃発します。家康が機内から離れている隙をついて日頃から家康に反感を抱いていた石田三成らが毛利輝元を総大将として…

【戦国合戦こぼれ話】家康が苦戦したわけは第二次上田合戦にあり!?

…つは家康自身の率いる東海道を近畿へ進んだ部隊。そして最後のひとつが家康の三男で後継者と目されていた徳川秀忠の率いる部隊で、中山道を進んでやはり近畿へ向かうことになっていた。この秀忠隊は徳川家の譜代家臣が多く参加しており、「徳川本隊」とも言うべき軍勢であった。 ――にもかかわらず、秀忠隊は関ヶ原での決戦に参加していない。間に合わなかったのだ。その主原因は、西軍側について信濃の上田城にこもっていた真田昌幸・幸村の親子に苦戦し、時間の空費をしたことにあるとされる。これに先立つ158…

新幹線から見える城(オススメ座席)

…考にしてください。 東海道新幹線(東京〜新大阪間)から見える城とオススメ座席位置 城名 A席 E席 目安 小田原城 ○ 下り 小田原駅手前から次のトンネルまでの間上り 小田原駅手前のトンネル通過後 掛川城 ○ 上り・下り 掛川駅の前後 名古屋城 ○ 下り 名古屋駅を出たあと、ビルの隙間から上り 名古屋駅手前の庄内川を越えたあと、ビルの隙間から 清洲城 ○ 下り 名古屋駅を出て庄内川を渡ったあと、キリンの工場通過後上り 木曽川を渡ってしばらく走り、東海道本線が近づいてきたあたり…

京都⇔東京とほぼ同じ料金で、京都→東京→金沢→京都を経由する「大回り」で城めぐり(EX予約やe5489を使えばさらにお得に!)

…ビスです。あとこれは東海道新幹線だけなので、山陽新幹線とか北陸新幹線、九州新幹線についてはJR西日本がやってる「e5489」というサービスも使っています。「e5489」なら新幹線だけじゃなく、特急サンダーバードも予約できます。 窓口では「京都から、東京、金沢経由で京都に戻る乗車券をお願いします」といえば大丈夫でした。東京や金沢から購入する場合は適宜読み替えてくださいね。 その際、「新幹線の特急券はどうしますか」と聞かれるので、その場であわせて買ってもいいですし、ぼくのように別…

上田城 徳川氏の猛攻を二度も凌いだ堅城

…かっている。 家康は東海道を辿って、決戦の地となる関ヶ原へと向かった。家康の息子・秀忠は3万数千の兵を率いて中山道を通って関ヶ原を目指す。その道中、秀忠は昌幸と幸村が籠る上田城から降伏の申し出があった。ところが待てど暮らせど、城から兵は出てこない。苛立った秀忠は城の攻撃を命じた。ところが、戦果を挙げられず、伏兵による損害を出すばかりで、内輪揉めが始まってしまう。秀忠は攻撃をやめて、先を急いだ。 そもそも待たせたこと自体が昌幸と幸村の作戦である。3万近い兵が上田城に釘付けにされ…

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