攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

池田輝政 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…日 吉田城 御城印 池田輝政(通常版) 吉田城(愛知県豊橋市) 豊橋市 三の丸会館、豊橋市美術博物館、豊橋市役所 300円 印刷 2019年8月1日 種里城 御城印 発行記念 種里城(青森県鯵ヶ沢町種里町) 光信公の館 300円 印刷 縦16cm、横10.8cm 2019年7月13日 九戸城 御城印 九戸城(岩手県二戸市) 二戸市埋蔵文化財センター 300円 印刷 2019年7月13日 聖寿寺館 御城印 聖寿寺館(青森県南部町) 史跡聖寿寺館跡案内所 300円 印刷 2019…

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなった。 家康晩年に生まれた九男義直、十男頼宣、十一男頼房はそれぞれ尾張・紀伊・水戸に家を建てられ、これがのちの徳川御三家になった(水戸は御三家に含まないという説も)。一方、五人の娘については多くが政略結婚をした。長女の亀姫は奥平信昌に、次女の徳姫は北条氏直に(北条との関係破綻後、池田輝政に)、三女の振姫は蒲生秀行に(のち浅野長晟に)、という具合だ。ただ、四女の松姫と五女の市姫はそれぞれ夭折している。

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

…いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治維新時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代が城主を務めた。現存12天守の1つである。 大天守と西小天守 備前丸からみる大天守 天守の鯱 大天守から化粧櫓のある西方向の市街地を望む 「暴れん坊将軍」のロケでも使用された、はの門下坂 天守から南の大手前通りを望む 西の丸 「播磨姫路城絵図」(国立国会図書館デジタ…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…6年)に、浅野幸長と池田輝政が1613年(慶長18年)に、前田利長が1614年(慶長19年)に相次いで亡くなり、豊臣に近い大名は福島正則が残るのみとなりました。 家康は将軍になると天下普請(公儀普請ともいう)によって各地に大城郭を築いていきました。二条城、越前福井城、美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。 そんな折、1614年(慶長19年)に…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…黒田長政、田中吉政、池田輝政、藤堂高虎、加藤喜明、山内一豊らが西上し、8月中旬には尾張に集結します。井伊直政や本多忠勝などの直臣も尾張に在陣し、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料によっては蜂須賀家政)、浅野幸長ら七将が三成の大坂屋敷を襲撃したのだ。そこで三成は奇策に出る。なんと、最大の政敵である家康の屋敷に逃げ込んで庇護を求めたのだ。豊臣政権を弱らせることを考えていた家康にとって、今はまだ武断派と文治派に対立してもらわないと具合が悪かった。そこで家康は彼を匿って七将を思いとどまらせた。 この策を考えたのが、実は三成ではなく勝猛だったという説がある。大義名分や建前を重視する、良い意味ではキッチリとした、悪い意…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく③――支城を潰され、草木も食い尽くした城・三木城

…ちに、東軍に味方した池田輝政が播磨に入った際、その家老。伊木忠次(いぎ ただつぐ)が三木城主となった。 長治と秀吉の関係は当初は良好だった。秀吉が織田氏の中国方面司令官として播磨に入ってすぐ、彼の味方に付く姿勢を取ったからだ。播磨でも名の知れた別所氏が織田の傘下に入ったことが、秀吉の中国侵攻にとって大きな助けになったのは間違いない。しかし1578年(天正6年)、秀吉から毛利攻めを先導するよう求められた長治はこれを拒否、毛利方に転じて三木城に籠城してしまう。反旗を翻した理由につ…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…興は「羽柴越中守」、池田輝政は「羽柴三左衛門」と「名字+官職名」で書かれています。(上述のとおりじっさいに忠興は名古屋に来ていないのですが、あくまでも藩主の名が記載されるのでしょう) 秀吉や家康は上下関係を明らかにして、自らのファミリーに取り込むために「羽柴」や「松平」の名字を与えているのでこの絵図には大量の羽柴さんと松平さんがいます。かなり字が細かいので単眼鏡などを持参するといいと思います。 絵図の横の壁に実名と記載名の一覧がありますので、これを確認するのがいいでしょう。 …

【殿様の左遷栄転物語】「神君の婿」 池田輝政の子供たち

「西国将軍」「姫路宰相100万石」 岡山藩・鳥取藩池田家の例はちょっと変わっている。他のケースと違って徳川家ゆかりの子は家督を奪わず、新たな藩を建ててもらったのである。 池田家の発祥は諸説あるが、戦国時代においては池田恒興が織田信長の乳兄弟として、また側近として活躍したのが有名である。信長の死後は羽柴秀吉についたが徳川家康との戦いの中で息子とともに討ち死にし、生き残った次男の輝政が跡を継いだ。この輝政が徳川家康の娘。督姫を継室にもらって「神君の婿」と呼ばれたのはすでに紹介した…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…豊臣恩顧の大名である池田輝政(家康の娘を妻に迎え、「神君の婿」と呼ばれた)に幕府による自分たち外様大名の扱いを愚痴ったことがある。城作りに酷使されて大変だ、お前は家康の婿なんだからどうにか話してくれないか、と。輝政としても豊臣家と関係が深いために微妙な立場であり、どうこういえるはずがない。そこに、横で聞いていた清正が「そんなことをいうなら、国に帰って謀反の準備をしろ」といった、と伝わる。 つまり、外様大名たちに江戸城をはじめとする徳川家の城作りをさせるのは、彼らの力をそぐため…

【お城の基礎講座】70. 白い城と黒い城

…く見られます。例えば池田輝政の姫路城天守や尾張徳川家の名古屋城天守が有名です。豊臣恩顧の大名である毛利氏の萩城天守や島津氏の鹿児島城天守なども白壁の天守です。 姫路城天守は白い天守 名古屋城天守(外観復元天守)は白い天守 黒は豊臣、白は徳川はウソ 黒い天守は豊臣の城、白い天守は徳川の城とよく言われますが、それはウソです。確かに豊臣政権下での築城は白漆喰の壁が多く見られますが、徳川の城でも徳川家康が誕生した城である岡崎城天守や、徳川家の葵の御紋が瓦に入っている松山城天守などは黒…

戦国末期の駿府城の瓦について

…あると考えられる。 池田輝政の吉田城や山内一豊の掛川城・堀尾吉晴の浜松城等、三河・遠江で中村一氏と同じ豊臣秀次配下の大名(関白様御家中衆)による同時期に織豊化された城郭においては、石垣の使用は城外から見える主要部のみと部分的なものである(吉田城は未完成)。また、これらの諸将は名護屋在陣・朝鮮出兵は免除されたが、大坂城普請などを担わされている。『駒井日記』文禄3年正月20日・正月23日条には大坂城普請において、中村一氏は三千人を動員することを命じられた記述がある。三の丸で新たに…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…前名島52.3万石 池田輝政 三河吉田15.2万石 播磨姫路52万石 加藤清正 肥後隈本25万石 51.5万石(加増) 小早川秀秋 筑前名島35.7万石 備前岡山51万石 福島正則 尾張清洲24万石 安芸広島49.8万石 細川忠興 丹後宮津17万石 豊前小倉39.9万石 浅野幸長 甲斐府中22.5万石 紀伊和歌山37.6万石 田中吉政 三河岡崎10万石 筑後柳河32万石 堀尾吉晴 遠江浜松12万石 出雲松江24万石 山内一豊 遠江掛川5.1万石 土佐浦戸20.2万石 藤堂高虎…

築城の名手(3)黒田官兵衛が築いた城

…路城は、さらにそれを池田輝政が江戸時代に大改修して築かれたものです) そして姫路城を秀吉にあげちゃったので、官兵衛自身は父親の黒田職隆と一緒に妻鹿城(めがじょう)に移ります。この妻鹿城も姫路市内にある山城で、古くは1333年(元弘3年)に『太平記』にも登場する妻鹿孫三郎長宗が築いた城だそうです。別名として「国府山城・功山城・袴垂城」といろんな名前があります。 kojodan.jp ただし1585年に職隆が没した後、妻鹿城は廃城となったので、5年ほどしかいなかったことになります…

日本三名城(日本三大名城)

…したりもしてますが)池田輝政の手によるものなので含まれないということです。ちなみに名古屋城は加藤清正がつくったとされますが、天守台の石垣を築いただけです。また藤堂高虎の大坂城も再建(修復)なので、厳密には「築城したお城」とは呼べないかもしれません。 いろいろな三名城 もちろん姫路城が入った「三名城」もあります。江戸時代に実在していた天守を選んだもので、大坂城は1665年(寛文5年)に天守が落雷で焼失していたため、そのかわりに著名な姫路城を入れたそうです。 いまの名古屋城は外観…

姫路城の紋瓦をデザインした「紋瓦石鹸」をプレゼント!

…羽柴秀吉の五三桐紋 池田輝政の揚羽蝶紋 酒井忠恭の剣酢漿 から希望の紋瓦を選んでくださいね。どのデザインが人気になるのかも気になります。 「平成の大修理」で姫路城の瓦を作った瓦師(かわらし)の方が原型を製作されてるので、クオリティがすごいです。 最後に、しらさぎ化粧品の羽山さんからコメントをいただけたのでご紹介します! 羽山さんからのメッセージ 子供の頃から姫路城が見える場所で暮らしてきたこともあり、姫路城に対する思い入れが大きいのかもしれません。企業名も姫路城の別名「しらさ…

アゲハチョウの家紋

…。 姫路城主となった池田輝政(池田恒利の次男)は徳川家の信任も厚く、たとえば長男の利隆は榊原康政の娘で徳川秀忠の養女となった鶴姫を正室に迎えています。 次男忠継は、備前28万石を与えられ、岡山藩主となった(じっさいには利隆が藩主として執政したそうです)。さらに3男忠雄は淡路一国6万3千石を与えられ洲本藩主となっています。 輝政の死後は播磨の遺領は利隆が相続し、10万石分だけ弟忠継に分与されました。これにより忠継の領国は備前岡山藩38万石となったのですが、ここから備前岡山池田氏…

【京の冬の旅】妙心寺天球院で狩野山楽・山雪の「竹虎図」等を見てきた

…将軍」の名で知られる池田輝政の妹、天久院の菩提寺です。建立者とか名前の由来とか謎が多いので、それは後述するとして、このお寺の方丈(ほうじょう)を飾る障壁画は、「京狩野」の始祖である狩野山楽とその娘婿・山雪によって制作されています。近年の研究ではおもに山雪が描いたっぽいですね。 妙心寺塔頭寺院 #天球院 では特別公開を行なっています。#狩野山楽・山雪 の代表作である「竹虎図」、「梅に遊禽図」、「籬草花図」などをご覧いただけます。豪華絢爛とはまさにこのこと……本などでしか見たこと…

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