攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

田原城 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…和洋折衷のお店で、小田原城の城もなかはひとつは商品名が「もなか」という王道感あふれるお店で、もうひとつは今風の洒落た餡を使ったこのコラムではおなじみのお店でした。どれも甲乙つけがたい魅力的な城もなかばかりです。おいしそうな城もなかの写真とあわせてじっくり楽しんでください!! 今回は栃木県・鹿沼城の城もなかと進化系城もなか、そして新たな小田原城の城もなかと出会う旅に、城めぐりをしながら行ってきました。 小田原城を本拠地としていた北条氏の支配領域の北東の端に位置する鹿沼城から、本…

【現在1759城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…2020年7月7日 田原城 御城印 田原城(愛知県田原市) 田原市博物館 300円 印刷 2020年7月7日 赤穴瀬戸山城 御城印 広瀬和紙版 赤穴瀬戸山城(島根県飯南町) 道の駅 赤来高原 300円 印刷 2020年7月4日 岐阜城 登城記念証 城御朱印 稲葉山城バージョン 岐阜城(岐阜県岐阜市) ぎふ金華山ロープウェー山麓駅売店 300円 印刷 2020年7月4日 竹中氏陣屋跡 御朱印 竹中陣屋(岐阜県垂井町) 垂井町観光協会 300円 印刷 2020年7月1日 墨俣一夜…

2023年に訪問して良かったお城

…いっしょに訪問) 小田原城と江戸城(11月にトーハクを見学するついでに訪問) このほか二条城は学芸員解説会と、「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の取材で2回訪問していました。初めて訪問したお城は前橋城と玄蕃尾城だけで、あとは再訪ですね。 合計すると9城(11回)という結果で、「攻城団の団長がその数字でいいの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ぜんぜんOKです。むしろこれは前年比で倍増しています。攻城団はもともとライフワークとして生涯楽しめる趣味とし…

城葱さんの「城もなか」道中記【福山城編】

…が(研究が必要)、小田原城の城もなか(福来すずめ(小田原種秀))の白あんの城もなかや、姫路城の城もなか「城白もなか」(なかの)などで白い皮は使われている。また、黒い皮は過去に松本城で黒いもなかの皮を見たことがあります。(2019年現在はないのかもしれない。最近の目撃情報がない……) 参考:松本城チョコ最中 烏城と別名のある岡山城の進化系城もなかの城パフェで使われているとの情報もあります。(これは私は現物は見たことがなく、最近のネット情報)白と黒の城もなかの皮を作って、合わせる…

全国各地で城もなかが進化中! 城もなかの可能性は無限大!

…388 城ソフト 小田原城の「城コーン」(和桜) 530円 城もなかの皮(三層正面型)の片面が添えられている城ソフトクリーム。ソフトクリームは、甘糀ソフトクリーム。粒あんをトッピングでき、粒餡があると一気に和風なテイストになる。 ソフトクリームのコーンと城もなかの皮は、どちらもよく似た素材だけど、ソフトクリームのコーンは、小麦粉、城もなかの皮は、餅と材料が違う。しかし、どちらもソフトクリームにはあうんですねー。 ・和桜(神奈川県小田原市栄町1丁目1番15号 minaka(ミナ…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#4】

…れを家に飾りたい。小田原城下町もなかの風月堂さんにもあったよな……どこかで専門に作ってんだろうか……また新しい探究のターゲットができました。 また、この店を代表する銘菓だけに、大きな看板、各種認定証が飾られていて大変目立つ。お店の誇りが、城もなかって最高だよね。 丸寿さんへは最寄駅が辻堂駅です。辻堂駅のほか、藤沢駅からもバスに乗って行くこともできるようです。辻堂駅から丸寿さんまでは徒歩20分です。辻堂駅から北東に迎えば、丸寿さん、そしてさらに北に徒歩35分で大庭城があります。…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

… 家康様一行は、宇治田原城主の山口甚介殿の助けを受け、無事に通過することができたそうです。交通の要所である、宇治田原。その入口、郷之口に山口城(宇治田原城)があります。この城は信長様の命で築城されました。山口甚介殿は家康様らが向かっていることを知り、配下を向かわせたそうです。ともあれ家康様一行は何とか対岸へ渡り、山口甚介殿の待つ山口城へと向かったそうです。 kojodan.jp 木津川で船を渡し終えたときのこと。忠勝様が、渡し終えた船の船底を槍で突き破壊したそうです。追手が船…

城葱さんの「城もなか」道中記【岩村編】

…、よく見る正面型の小田原城モデルではない!独特な皮のオリジナリティとこだわりに、ビビッときました。一層目から三層目まで屋根先が末広がりに並ぶ、比較的バランスの良い形状で、岩村城の石垣もしっかり石のひとつひとつを表現しています。切妻破風の小窓が印象的! パッケージは、柔らかな印象と肌触りの紙のような袋に、岩村城の毛筆文字がカッコいい。御城印みたいです。左上にうっすらピンクで、岩村城の太鼓櫓? と思われるイラストがあり、またピンク文字で右側に、井戸に蛇骨投入して霞が城を包んだ伝説…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…の拠点である吉田城や田原城、牛久保城などを攻め取り、1565年(永禄8年)ごろまでに制圧して三河をほぼ平定することに成功したのです。 桶狭間の戦いの後、すぐに今川から独立したかのように語られることが多いですが、今川から独立して三河を平定するのにおよそ5年の年月がかかっています。今川と織田に挟まれた状態でどちらに組するべきかに奔走しながら、時間をかけて三河を手中に収めていったのが本当の姿なのです。その後、徳川姓に復姓することができ、徳川家康として歩んでいくのです。 まとめ 今川…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…略結婚その後、広忠は田原城の戸田康光(初名は宗光で松平清康の偏諱を受ける)の娘を娶る 今川義元が助けなければ松平家は広忠の代で滅亡していた 義元の評価は昔の公家趣味のダメ大名から優秀な人物に改められてきたけどそれでも悪役感が強い。 でもじっさい義元がやったことはいわゆるホワイトナイトでいい人(戦国大名の範疇でだけど) 1547年(天文16年)、6歳 織田家の人質 @戸田康光の裏切りで拉致されたのではない。織田に降伏した広忠が差し出した →ただし日記を書いた日覚は当時越中にいた…

【家康の謎】家康はなぜ織田家にいたの?

…家康の一行は、途中で田原城の戸田康光(とだ やすみつ)のもとを訪れる。康光は広忠の後妻の父であり、広い意味では身内に入る。その康光が密かに今川・松平を裏切り、五百貫とも一千貫ともいう銭と引き換えに家康を織田方へ売り渡した、という。哀れ家康は東ではなく西へ送られ、尾張で二年を過ごすことになったのである。なお、この時にのちの同盟者である織田信長と出会う……というのがエンターテインメントでは定番だ。 さて、以上の通説はどこまで信じていいのであろうか。家康と信長がじつは会っていた、と…

城葱さんの「城もなか」道中記【犬山編】

…三層正面型は多くが小田原城モデルを使用していることが多いが、こちらはオリジナルの型で作られる犬山城モデルです。それだけで価値のある皮! 犬山城の特徴的な望楼の欄干や一層二層目のサイズ感に対する三層目や破風の配置までそっくりだ。ただ気になるのは、破風が唐破風ではなく、千鳥破風であること。そこは再現が難しかったのか…まてまて、唐破風のある南東から見た方向だとすると、最上階の屋根の形が90度異なる。ははーん、これ南西ないしは北東側から見たものなのか? と考えてみるが、そうすると今度…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…田原北条氏が滅んだ小田原城の戦い(秀吉による小田原征伐)や豊臣氏が滅んだ大坂冬の陣・夏の陣などが典型だ。→そのようなケースでは、戦いの舞台が敗北した方の本拠地になっている。そしてまた、逃げる場所(単に大名が生き延びるだけでなく、勢力を復活・再興させられるような場所)がなかったり、敵による包囲が現状で逃げようがなかったりという事情も大きい。→小田原城にせよ、大坂城にせよ、大名たちが包囲を切り抜けて再興を目指せたとはちょっと思えない。それゆえに滅亡するしかなかったわけだ。・他のケ…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…される小田原の地!小田原城の周囲に多くのお店があるため、まさに総構えのような鉄壁の布陣。城もなかのあんこ同様、写真もたっぷりの超大作となってますのでじっくり楽しんでください!! 今回は小田原の城もなかと出会う旅に、城めぐりをしながら行ってきました。小田原は、小田原城の城もなかが小田原城周辺に囲むように存在していて、まさに城もなかの総構え。そんな城もなかの大聖地、一大産地である小田原の城もなかを制覇してきました。城もなかにご興味ある方は一度は訪れていただきたい場所です。 「城も…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…しかし、移動の最中に田原城主・戸田康光が裏切り、尾張の織田家へと送られて2年間人質となります。その後、織田信広と竹千代との人質交換により駿府へ送られて今川の人質となりました。今川家のもとで元服して松平元康となった後、今川義元軍の先陣として桶狭間の戦いに出陣します。この戦いによって義元が打ち取られて今川が敗走すると、今川の手に渡っていた岡崎城に入城しました。さらには今川より独立していきます。その後は、今川義元を打ち取った敵であり、元康にとっても敵方となっていた織田信長と和睦して…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#2】

…んが、この皮の型、小田原城の城もなか「城もなか」(最中工房 小田原種秀さん。minaka小田原「福来すずめ」で購入可)と同じ型です。 きっと小田原種秀さんから城もなかの皮を購入して使用していると思われます。いまや特殊な城もなかの皮をオリジナルで作り、お店で焼いて使っているという昔ながらのお店はかなり数は少なく、どこかの皮専門のお店や企業から皮を買って使用するのが普通です。 あんは、粒あん。あんのペースト感が少なく、あんこ玉を皮で挟んでいるスタイル。あんと皮の接する面積が少ない…

城葱さんの「城もなか」道中記【東北編】

…あります。富山城、小田原城、犬山城、姫路城、小倉城などでは、パフェやアイスといったスイーツを城にちなんで映える形にするために添えられています。とくにわが地元・富山城のパフェは富山城に行かれた際にはぜひ味わっていただきたい自慢の逸品です。 もなかの皮については、城もなかの皮を使っているので「三層角右寄り型」といえるでしょう。 サブレの味はプレーン、ごま、くるみ、ホワイトチョコの4種あります。サブレともなかの皮のコラボレーション。食感はサブレの少ししっとりしたホロっという感じと、…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…は、北条の本拠地・小田原城を攻めている秀吉軍に合流することになったのだが、他国の勢力圏を迂回する必要もあって、どうにか辿り着いた頃には戦いももう終盤にさしかかっていた。秀吉は参戦が遅れたことにひどく立腹しており、なんとか秀吉の怒りを和らげなくてはならない。そこで再び景綱が知恵を出した。まず最初に秀吉の陣地を訪れた時、政宗は髪を短く切りそろえて垂らし、甲冑の上に白い陣羽織を着た、いわゆる死に装束の姿をしていた。ここでは秀吉と会うことができなかったが、数日後に彼の使者がやって来た…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…国征伐・九州征伐・小田原城攻めといった大きな戦いでも諸勢力の説得や敵方武将の調略などで活躍する。ところがこうした功績ゆえにかえって秀吉は官兵衛を警戒するようになり、小田原の北条攻めが終わると政治の中心から外されてしまうのだ。 この警戒の原点は、どうも「本能寺の変」の際のあの一言にあったようだ。主君が謀反にあって殺された場合は秀吉のように悲嘆にくれる方が普通であり、官兵衛のように冷静にその後のことを考えられる者は貴重だが、同時に油断のならない、いつ自分に逆らうかわからない人物と…

【戦国軍師入門】宇佐美定満――軍神・謙信に兵法を授けた謎の軍師

…0年(永禄3年)の小田原城攻めの際には、敵方の攻撃をいち早く見取って謙信に進言している。さらに、翌年の「第4次川中島の戦い」の時にも謙信の軍師として彼の傍らにいた。山本勘助の「啄木鳥戦法」を見破り、これを打ち破るために妻女山を下りて敵を攻めるように進言したのもまた彼だったのである……。 彼の最後を飾るのが、野尻湖での変死だ。彼について語った本では、駿河守は主君の潜在的な敵である政景を消すために船遊びに誘い、明確に殺意をもってこれを殺し、自分も命を落とした。軍神とも呼ばれる上杉…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話②――秀吉の一夜城(その2)・石垣山城

…のうちのひとつが、小田原城を攻めた際に築いた「石垣山一夜城」、相模の石垣山城(神奈川県小田原市)である。秀吉は全国各地の諸将に命じて小田原城を包囲させた。しかし、かつて上杉謙信・武田信玄の攻撃を撥ね返したこの城が堅固なことは当然知っており、長期戦になるだろうとあらかじめ読んでいた。 そこで秀吉は、小田原城の西方に位置する丘に陣城を築くよう命じた――それが石垣山城であるわけだが、これは先の墨俣城のようなにわか作りのものでは断じてなかった。複数の曲輪と穴太衆による石垣を備えた、立…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

…落の城」といわれた小田原城だが、どれだけの名城でも、それ以上の力で押し込まれれば守りきれないものである。ことの始まりは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が発した上洛命令に、北条氏が背いたことにある。姻戚関係にあった徳川家康の仲介があり、北条氏政・氏直父子のどちらかが上洛するという約束を取り付けたものの、同年北条氏が上野の名胡桃城を真田氏から奪ったという報せが入る。これは秀吉の定めた惣無事令を違反しているとして、ただちに諸大名に北条氏討伐のため出陣を命じた。 かくして1590…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

…る。北条氏の居城・小田原城はその形で二人の大大名の攻撃を撥ね返した天下の名城である。かつての相模の小田原城、今も神奈川県小田原市に残るこの城の歴史はなかなか古い。1180年(治承4年)に小早川遠平(こばやかわ とおひら)という早川荘の地頭となった武将が築城したのが始まりだといわれている。戦国時代の黎明期、1495年(明応4年)には北条早雲が当時この城を居城としていた大森氏を攻め滅ぼし、以後小田原城は戦国時代を通じて北条氏の居城となった。 北条氏の時代、小田原城は幾度にもわたっ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…る北条氏の本拠地、小田原城救援のため城を留守にしていた。残されていたのは氏長の夫人およびわずかな武将と兵に過ぎなかったのだが、豊臣軍はこの城を見逃してはくれなかった。長囲にあたってはまず周囲の支城を落として本城を孤立させるのが常道であったから、これは仕方がない。 しかし、忍城側も易々と攻め落とされようとはしなかった。氏長夫人が実質的な城主として防衛の指揮を執ることになったのである――そして、彼女はまさに「女傑」という言葉が相応しい傑物であった。氏長夫人はまず兵糧を集め、城下の…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…し、相模に進出して小田原城を奪い、二代目の氏綱の代には武蔵に出て扇谷上杉氏の本拠である河越城まで奪ったのである。しかも、氏綱は古河公方・足利晴氏に接近し、「あなたを関東管領にする」という命令まで取り付けていた、という。 これを本来の関東管領である山内上杉氏の当主・上杉憲政が放置できるはずがない。「新参者のくせに私を無視して関東管領を名乗るとは、ふざけている!」と思っただろうし、もしかしたら「このままでは関東はすべて北条氏のものになってしまう!」とさえ思ったかもしれない。なんと…

【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

…要所への城の増築や小田原城を取り囲む総構えの建設、兵士の増員などの対策を取っている。北条家は北条家でできるかぎりの対策をした、と考えるべきだろう。 しかし、秀吉の力は北条家の想像の遥か上をいっていた。豊臣軍は各地の支城を次々と攻め落とし、小田原城を大軍で取り囲んだ。北条側としては先の上杉謙信による関東遠征の際のように兵糧切れを期待したかっただろうが、秀吉はその莫大な経済力によって物資も充実させており、かつ兵農分離によって農業の時期に左右されず長期間遠征できる軍勢を調えていた。…

【10大戦国大名の実力】北条家④――関東に覇権を築いた氏康の時代

…南進、ついに居城・小田原城を包囲してしまう。しかし氏康はこの攻勢を1ヵ月余りにわたって耐え、ついに上杉軍を士気減退と兵糧切れに追い込んだ。 小田原城が包囲されたのはこの時だけではない。今川義元の死によって今川氏が衰退すると武田信玄によって三国同盟が破られ、これに対して氏康は謙信と同盟を組んで信玄に対抗しようとした。結果、1569年(永禄12年)に信玄の軍勢が小田原城を取り囲むが、この堅城を攻め落とすのは難しいと判断するや速やかに兵を引いてしまった。またしても氏康は強敵を退けた…

【10大戦国大名の実力】北条家③――誰が北条を名乗ったのか

…という事実もある。小田原城に移ったのも氏綱の時代以降のことなのだ。どちらにせよ、北条家がこの名前を必要とした理由が、大義名分を求めてのことであったのはほぼ間違いない。戦国大名は私たちが考えるよりもはるかに名分にこだわった。これは、彼らの家臣団や国人衆に対する支配力が弱く、明確な正義や目的を提示しなければ自在に動かすことができなかったからだ。早雲の時代、北条家は主君である今川家や室町幕府、あるいは「北条」の名前でこの大義名分を補おうとした。だが、これにも限界がある。そのため、二…

【10大戦国大名の実力】北条家②――関東に進出する北条早雲

…か――と考えることができるわけだ。すでに述べたようにもともと早雲は幕府と深い関係を持っているわけだから、この説にも説得力がある。 その後、早雲は相模に進出して1495年(明応4年)には後に北条氏代々の居城となる小田原城を奪い、ここを拠点としてさらに勢力を伸ばす。この地域に大きな勢力をもつ三浦氏と戦いを繰り返し、1516年(永正13年)にはこの一族を滅ぼして相模を制圧している。その2年後には嫡男の氏綱に家督を譲り、さらに翌年に病没。88歳の大往生であった。 kojodan.jp

【10大戦国大名の実力】上杉家③――関東出兵の目的は?

…度々関東へ遠征し、小田原城を取り囲むなどして北条氏を脅かした。また、憲政の求めに応じて山内上杉家の家督と関東管領の地位を継承した。ここから江戸時代の米沢藩につながる上杉家の歴史が始まるため、以後を「米沢上杉家」とも呼ぶ。ちなみに、彼が「謙信」を名乗るのは出家後なので、さらに先のことである。 関東出兵に隠された思惑? 通常、戦国大名の遠征は土地を得るために行われるものである。それは大名の勢力を拡大するものであると同時に、家臣団を満足させるための褒美でもあったからだ。にもかかわら…

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