攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

真田昌幸 の検索結果:

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

…でいたものの、途中で真田昌幸らとの戦いに足止めされて進軍が遅れ、ついにこの決戦に間に合わなかったのである。戦力面でも家康は不安だった、というわけだ。これらの通説に基づくなら、家康はかなり不安な思いで当日を迎えたはずだ。勝敗は五分五分と思っていたのではないか――となるのだが、実際のところ、近年の説では「家康はかなりの部分で勝ちを確信していたのでは」と考えられる。 まず、最大の不安要因である小早川秀秋については、「実は秀秋は関ヶ原の決戦前日には西軍を見限っていて、実質的に東軍側の…

【家康の謎】家康はなぜ上田城の戦いで自ら出陣しなかったのか?

…どうする家康』でも、真田昌幸役には佐藤浩一氏が割り当てられているあたりからも、その役の大きさがよくわかるというものだ。では、どうして真田氏はここまで大きく扱われるようになったのか。それは三度にわたって徳川氏を痛い目に遭わせたからであり、その一度目が先週の放送回でも扱われた、いわゆる第一次上田城の戦いである。 そもそも、真田氏は徳川に従属する大名だった。もっと遡れば武田氏の家臣であったのが、まず武田が織田によって滅ぼされ、続いてその織田も信長の死で混乱したため、独立大名化したの…

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…就を名乗っていたし、真田昌幸も武藤氏の養子となって武藤喜兵衛を名乗っていました。毛利元就や真田昌幸はいろいろあって実家を継ぐために名字を戻していますが、それ以外にもいろんな理由で名字を変えることがありました。 詳しくは動画を見ていただきたいのですが、ざっとこんな感じになります。 権威を借りる、あるいは奪う 独立したことを対外的に示す 家臣への権威付けとして名跡を継がせる 毎度のことですが台本にない話もたくさん出ました。斎藤義龍が一色を名乗ろうとしたとき、全国の一色さんからの苦…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…ればならなかったが、真田昌幸は矢沢頼綱に沼田城を死守させる 家康は対上杉の最前線とするため、上田城の築城を支援している しかし督姫と氏直の婚姻が成立して同盟が結ばれると徳川・真田の関係は悪化する(氏直が家康に沼田城・岩櫃城の引き渡しを要求してきたため) 家康からの引き渡し命令を昌之は拒否、徳川から上杉に乗り換える 閏8月に上田城攻めが行われるが、徳川方の大敗 井伊直政が増援部隊として派遣されるが石川数正が出奔したため撤退する →真田昌幸も運がいい 石川数正は秀吉との外交路線の…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり」のご紹介

… 真田幸綱(幸隆)、真田昌幸、真田信之、真田信繁に関連した城や砦、城館、史跡のガイドブック。真田家の敵の城、真田家臣の城、真田家が人質を出した城など、真田一族が関係した城跡や史跡を掲載しています。■長野県/上田城・染屋城・矢沢城・砥石米山城・真田氏本城・真田氏館・松尾古城・小諸城 ・松代城■群馬県/沼田城・箕輪城 ・下小屋城 ・松井田城 ・白井城 ・長野原城、丸岩城 ・羽根尾城 ・嵩山城 ・横尾八幡城 ・岩櫃城 ・雁ヶ沢城 ・中山城 ・尻高城 ・鎌原城 ・名胡桃城 ・猿ヶ京城…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…の戦いで死んでいる。真田昌幸の兄二人もこの時に死亡した。勝頼は人事の再編に奔走しなければならなかった。また、三河から追い出され、東美濃の岩村城を取り返され、遠江でも押し込まれ、と織田・徳川連合軍との戦いが厳しかったのも事実である。・しかし、勝頼は内政・外交の再編に奔走し、関東の北条氏(信玄時代の後期に同盟が復活していた)に加えて越後の上杉氏とも同盟を結んでいる。ただ、上杉謙信が亡くなった後の上杉内部での後継者争いにおいて、北条出身の景虎を支援するべく一時は出陣したものの撤退、…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

…)」と呼ばれた謀将・真田昌幸(さなだ まさゆき)と、その子で徳川家康を後一歩までに追いつめ「真田日本一の兵」と讃えられた勇将・真田幸村が有名だ。しかし、ここで紹介する昌幸の父親・真田幸隆(さなだ ゆきたか。正しくは幸綱(ゆきつな))もその活躍では彼らに負けていない。忍者を使っての情報戦や裏切り工作などの謀略を得意とし、武田信玄の軍師として活躍した彼は、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受けており、家中でも「攻め弾正」の異名で一目置かれていた。 真田氏は信濃(現在の長野県…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…信濃を進軍中に西軍・真田昌幸が籠もる上田城を攻撃したものの、昌幸とその子の幸村(これは通称で、実際の名は信繁)の知略に翻弄されて攻め落とせず、ここで時間を浪費したこともあって決戦に間に合わなかったのだ。 この遅刻に関しては、家康は最初から主力部隊を温存するつもりだったという説や、命令や天候のタイミングから考えて、元々間に合うはずがなかったといった秀忠を弁護する説もある。しかしいずれにせよ、大軍に囲まれながら真田親子が果敢に戦ったのは間違いない。 この時の戦いはまず、秀忠の軍が…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑨――徳川本隊を釘付けにした城――上田城(第二次上田合戦)

…に立ちふさがったのが真田昌幸であり、上田城であった。昌幸は会津の上杉討伐軍には参加していたが、三成の挙兵後には離れ、西軍に加担する準備を始めていた。これに対し、秀忠はまず使者を送って東軍に付くよう求める。しかし昌幸は返答を先延ばしにし、その間に城の防備を強硬なものにして、再び使者が送られてきた時にはわざと挑発的な回答で、開戦の意思を見せる。 まだ若く、しかもこれが初陣であった秀忠はすっかり頭に血が上ってしまい、放置してもよかったはずの上田城を攻めるのに躍起になってしまった、と…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ②――徳川の大軍を押し返した城・上田城(第一次上田城の戦い)

…11年)、武田家臣の真田昌幸が城郭として整備したと伝えられる。それ以前にも昌幸の父である幸隆(砥石城の攻略で知られる)がもともとこの地にあった常田氏の居館を整備しているが、城郭としての上田城は昌幸の手によるものだ。山を背にした平城で、かなりの規模であったと考えられるが、詳細はわからない。 しかし、上田城は完成してすぐに戦火に晒されることになる。この時期、武田氏の滅亡に本能寺の変での織田信長の死と大事件が頻発し、中部地方は実質的な空白地帯となってしまったからだ。結果、上杉氏・北…

上州に残る石田三成生存伝説

…過ぎて上田に到着し、真田昌幸の元へ。三成の夫人は宇田下野守頼忠の娘で、大谷刑部の養女であり昌幸夫人とは姉妹である。 一度此処に落ち着いた三成も、徳川の捜索の厳しさを気遣った昌幸の計らいで父幸隆の建てた上州沼田の正行院に送られることとなり、十月半ば頃、正行院に落ち着いた。続いて途中散り散りになった人達も集まり将来について協議した。 三成は落飾して寺の住僧となり、他は野に下り百姓となった。 三成は正行院22世となったのである。三成の佩刀は四天王の中村三郎兵衛に残し、夫人の懐刀と三…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…ついた信濃上田城主・真田昌幸・信繁(幸村)親子の挑発に乗って城攻めに狂奔し、あげくに落とせぬまま時間を大きく浪費してしまったのである。これが罠であると気づいたときにはすでに遅く、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。 当然、家康は激怒する。先述したように、関ヶ原の戦いで家康の東軍は数的劣勢に立たされたのだが、これは秀忠の率いた3万8千の軍勢が間に合わなかったから、という部分が大きかったのだ。一説には、ただ遅参したことが問題ではなく、「家康が敗れた場合には復讐戦をするためにきちんと軍…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…人であるし、その父・真田昌幸の徳川氏を相手にとっての大立ち回りに憧れる人も多いだろう。加えて2016年度NHK大河ドラマ『真田丸』が大変な評判になったからだ。 ただ、境界大名としての真田氏を語ろうと思うと、少々前置きが長くなる。真田氏は独立した大名であった時期が短いからだ。もとはごく小さな地域を支配する国人でしかなった真田氏が、戦国の動乱に巻き込まれるなかでその運命を転変させ、ついには近世大名として落ち着くまでの物語を紹介することにしたい。 真田氏は、信濃国小県郡の真田郷(長…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…城(長野県上田市)の真田昌幸攻め、小田原攻めといった家康にとって主要な戦いにはことごとく参加した。とくに天下分け目の「関ヶ原の戦い」においては敵中突破を試みる島津軍と戦い、島津豊久を討ち取っている。また、家康は宿敵であった武田氏滅亡の際、旧武田家の家臣団を自家に吸収したのだが、その武田の旧臣のかなりの部分を直政の支配下においている。本項冒頭で紹介したいわゆる「井伊の赤備え」も、こうした武田軍団の吸収のなかで、武田の重臣・山県昌景の赤備えを取り込むことで構成されたものである。 …

八王子城 戦国の終わりを告げた城

…上杉景勝、前田利家、真田昌幸らに豊臣秀吉の軍勢、投降した北条方の武将が加わり、5万ほどの大軍が向かった。対する八王子城は氏照家臣、横地吉信、狩野一庵、中山家範、近藤綱秀らを中心に農兵などを含めた3千人ほど。戦う前から結果はわかっているような状況であった。 6月23日の夜明け、前田利家は総攻撃を前に被害を減らすため降伏を呼びかけたが、北条方の意志は固かった。寅の刻(午前4時ごろ)に総攻撃の合図がなされ、豊臣勢が城に攻めかかった。北条方は必死に抵抗したが、数で勝る秀吉方に押しきら…

武将印集めの魅力について、takubomayさんに聞いてみました

…度山は関ヶ原で敗れた真田昌幸、信繁(幸村)親子が、流罪になった地で、ここから15年間という月日を信繁(幸村)が過ごし、その名を轟かせた大阪の陣へ出陣することになるのです! 他にも、毛利元就は自分の子供(次男、三男)を両川家(吉川、小早川)に嫁がせてその勢力を盤石のものとしました。武将印と御城印を組み合わせて地図を作製すると、どう支配していたかもわかります! これから武将印集めをはじめられる方にメッセージをお願いします takubomay ただいま、攻城団様のブログで、『御城印…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…コンプリートセット 真田昌幸さなだまさゆき 真田吉兵衛昌幸 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 墨将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 2020年6月22日 月曜日 第2弾コンプリートセット 毛利元就もうりもとなり 毛利 元就 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 墨将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 2020年6月22日 月曜日 第2弾コンプリートセット 加藤清正かとうきよまさ 加藤虎之助清正 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 …

大坂の陣、真田幸村の三段突撃

…吉に重用された謀将・真田昌幸の次男である彼は、「関ヶ原の戦い」で父とともに徳川秀忠の軍勢を翻弄したことから、戦後は九度山に幽閉されていた。それが幕府と豊臣家の関係が険悪化すると脱出、浪人として大坂城に身を寄せ、「大坂の陣」に参加することになったのである。 まず幸村は「大坂冬の陣」で大活躍して見せた。大坂城の弱点ともされる南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、幕府方の大軍を見事に防いで見せた。このときまで幸村はほとんど無名の存在であり、家康は「大坂城に入ったのは幸村で、父親の昌…

【戦国合戦こぼれ話】家康が苦戦したわけは第二次上田合戦にあり!?

…上田城にこもっていた真田昌幸・幸村の親子に苦戦し、時間の空費をしたことにあるとされる。これに先立つ1585年(天正13年)の「第一次上田合戦」と区別するため、この戦いは「第二次上田合戦「と呼ばれる。 昌幸・幸村親子は徳川軍を挑発して戦闘状態に引きずり込むと、あるときは場内におびき寄せてこれを痛めつけ、またあるときは自ら打って出て敵を混乱させた。秀忠の率いる3万8000という軍勢はついに上田城にこもる真田の小勢を屈服させることができず、むしろ城攻めを諦めるまでに1週間という時間…

【戦国合戦こぼれ話】小田原攻め―未曾有の大軍と万全の準備

…吉は傘下の大名である真田昌幸と北条氏が領土争いを起こしたことをきっかけに、一気に殲滅することを決める。「小田原攻め」などと呼ばれることの戦いこそは、秀吉が築き上げた圧倒的な戦力・経済力の力を誇示するものに他ならなかった。 小田原攻めに際して秀吉がかき集めた諸大名の軍勢は、総計で20万とも21万ともいう未曾有の大軍で、大きく分けて三方向から関東に迫る。圧倒的な兵力の前に、関東各地の北条方拠点は次々と陥落していく。 一方、北条氏は小田原城に戦力を集め、篭城戦の構えを取った。この城…

【戦国を彩る名軍師たち】いくさを取り仕切ることができなかった真田幸村

… 幸村は信濃の謀将・真田昌幸の次男として戦国時代終盤に誕生した。彼の父は武田滅亡後に豊臣家に仕えたため、幸村も秀吉の小田原攻めなどで活躍したとされる。しかし、彼が勇名をあげたのは何と言っても「関ヶ原の戦い」の時だ。この時、彼と昌幸が立てこもった上田城は、徳川秀忠が率いる徳川本隊の攻撃を受け止め、大いに苦しめた。秀忠たちが関ヶ原本戦に参加できなかったのはそのせいと言われるほどの活躍である。 残念ながらこの戦いでは幸村たちが与した西軍が敗れ、戦後に家康の手によって江戸幕府が開かれ…

【受験にご利益あり?】全国にある「落ちない城」一覧

…紹介した上田城です。真田昌幸が徳川家康に援助を依頼して築城したにもかかわらず、1585年(天正13年)の第一次上田合戦、1600年(慶長5年)の第二次上田合戦と徳川軍が二度とも惨敗したことは大河ドラマ「真田丸」でも大きく扱われたのでみなさんもご存知のとおりです。上田城は合戦では腐敗でしたが、昌幸と幸村(信繁)が九度山に配流されたあと徳川軍に破却されました。現在は本丸跡に眞田神社(真田神社)が建立されており、以前から受験生の祈願が多いことで有名でした。 kojodan.jp 唐…

「戦国武将細川藤孝とその周辺」参加レポート

…とです。「真田丸」で真田昌幸が秀吉の命により、家康の与力に組み入れられていましたが、国衆や小大名は地域の有力大名(エリアマネージャー)の与力になることが通常でした。 なお信長の上洛に伴い、光秀は足利義昭の家臣でもあり、信長の家臣でもある「両属」になります。両方から扶持をもらう身分でした。一方、藤孝は義昭直属の家臣であり、この判断の差がのちの関係に影響することになります。つまり当初は藤孝のほうが圧倒的に立場が上でしたが、光秀が織田家の中で出世することにともない、また義昭が追放さ…

上田城 徳川氏の猛攻を二度も凌いだ堅城

…川家康の許しを得て、真田昌幸によって築城された。それ以降、代々真田氏によって継承されている。城は現在の長野県上田市の、千曲川の河岸段丘の上にあった。さらに千曲川の分流である尼ヶ淵に面しており、天然の堀の役割を果たしていた。 YUSUKE | 西櫓・南櫓(尼ヶ淵から)[上田城] 真田氏は武田氏、上杉氏、北条氏、徳川氏と有力な大名に挟まれ、主を変えながら戦国の世を生き抜いてきた。そのため、領地に関する問題も起きやすい。一度目の争いが起きた時にも、それが発端だった。 1585年(天…

【協賛:東吾妻町】「真田氏上州の拠点 岩櫃物語」のご紹介

…『真田丸』の第1話で真田昌幸が「御屋形様、ぜひわが城へお越しくださりませ」と武田勝頼を招こうとしたのが岩櫃城です。 昌幸は岩櫃城を「鉄壁の守り」であると豪語しましたが、オープニングに使われた岩櫃山の映像(山頂の天守と滝はCG合成でした)を見ても天然の要害であることはよくわかります。ちなみに岩櫃城は江戸時代まで存続して、最後の城主(城代)は真田信之の家臣となった出浦昌相でした。『真田丸』の役者さんたちがどんどん目に浮かびますよね。 『真田丸』の思い出話はこのくらいにして、では真…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

… 草刈正雄さん演じる真田昌幸のコメディパートも初回からばっちり入ってて、「武田が滅びることはけっしてない!」からの「武田は滅びるぞ」とか、表裏比興とうたわれた昌幸をこんなふうに描くのかと爆笑しながら感心した人も多いんじゃないでしょうか。 (その後も昌幸の二枚舌っぷりは鉄板のギャグになってますよね) また武田勝頼を悲劇の主人公として描いた点もよかったですよね。 新府城を捨てて小山田信茂の居城・岩殿城へ向かった勝頼が、信茂に裏切られたシーンは印象的でした。 第2回「決断」 信繁た…

唐入りの前線基地、名護屋城はめちゃくちゃ広かった(そして名護屋城博物館はすごかった)

…のそばには織田秀信や真田昌幸がいますね。秀信はこの位置なのに、織田信雄はけっこう離れた内陸部にいます。 徳川家康は名護屋浦という内湾部の両側に陣がありました。ほかにも藤堂高虎も2カ所に名前が書いてありますね。 このすべての陣跡をまわろうと思ったら数日はかかりそうです。 ほかにも安宅船と亀甲船の模型もありました。 これだけの展示が無料で見学できて、しかも一部をのぞいて撮影可となっています。 それではいよいよ城址に向かいます。 いちおう帰りのバスの時間もチェックしておいたほうがい…

関白と征夷大将軍はどっちがえらいのか

…に推任されていますからね。 おまけ:三英傑は朝廷の序列でどこまでのぼりつめたのか 信長、秀吉、家康――いわゆる「三英傑」がどの官位にまでのぼりつめたかを一覧にしてみました。朝廷の序列としては「太政大臣・関白」「左大臣」「右大臣」「内大臣」で、信長は右大臣が最高位でした。 ちなみに真田昌幸の官位は「従五位下、安房守」で、真田信繁は「従五位下、左衛門佐」です。 心眼寺にある信繁のお墓には「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」とあります。信繁は秀吉から豊臣姓を下賜されてますからね。

よくわかる第一次上田合戦

…。 ご存知のとおり、真田昌幸は上田城で二度、徳川軍を撃退しています。その最初の合戦が今回の「第一次上田合戦」で、たんなる籠城戦ではなく撤退する徳川軍を城外まで追撃してることから地名をとって「上田・神川(かんがわ)の合戦」や「神川合戦」とも呼ばれます。 ざっくりと合戦の経緯をまとめました。 (いうまでもなく「諸説あり」満載の経緯なので、事実と異なる部分があるかもしれません) 信幸が一隊を率いて戸石城に布陣 徳川軍が上田城を攻撃 二の丸門まで攻めこまれたところで昌幸が反撃 信幸の…

リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

…となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。父昌幸は慶長十六年六月四日に九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長十九年十月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。 幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが「真田丸」で、幸村は慶長十九年十二月四日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。 「真田丸」の…

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