攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

織田信秀 の検索結果:

【家康の謎】家康のお母さんはどんな人だったの?

…繋がりを作ろうとする織田信秀の指示によるものだったという説もある)。 ともあれ、於大の方は広忠の正室になり、彼の嫡男を産んだ。幼名・竹千代。すなわち徳川家康である。ところが1543年(天文12年)になると忠政が病で亡くなってしまい、信元が当主になって水野氏の方針が転換した。彼は織田氏側につくことを選び、父の死の翌年に於大の方(及び、その妹で形原城主・松平家広(まつだいら いえひろ)に嫁いでいた於上の方(於丈の方))を松平から引き戻してしまうのである。織田・今川の対立が激化した…

【家康の謎】家康のお父さんはどんな人だったの?

…には尾張にまで進出。織田信秀(信長の父)とも戦っている。 ところが、清康はその戦いの中で突如として死んでしまう。尾張・守山城を攻めている最中、家臣・阿部弥七郎(正豊)に殺されてしまったのだ。これを「守山崩れ」と呼ぶ。弥七郎が突然主君を殺したのは、陣中で馬が逃げる事件があり、その騒ぎを「父が処刑される!」と勘違いしたのが原因であったという。なお、この事件の背景には、清安と松平の家督を争っている桜井松平氏の松平信定(清康の叔父)の陰謀があったという説もある。そもそもこの両者の争い…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…を果たす 水野信元が織田信秀についたので、今川への忠義を示すために於大の方と離縁→離縁の理由は別の説もあるが、いずれにせよ政略結婚その後、広忠は田原城の戸田康光(初名は宗光で松平清康の偏諱を受ける)の娘を娶る 今川義元が助けなければ松平家は広忠の代で滅亡していた 義元の評価は昔の公家趣味のダメ大名から優秀な人物に改められてきたけどそれでも悪役感が強い。 でもじっさい義元がやったことはいわゆるホワイトナイトでいい人(戦国大名の範疇でだけど) 1547年(天文16年)、6歳 織田…

【家康の謎】家康はなぜ織田家にいたの?

…に、松平広忠が尾張の織田信秀(おだ のぶひで)に打ち破られて岡崎城が落ち、広忠は降伏してどうにか許された、というのである。通説ではこの頃の広忠は今川と結びついて織田と戦っていたはずだが、新史料によればもう敗れていたことになる。だから、家康が尾張へ行ったのは誘拐ではなく正式な人質、ということになるわけだ。 さらに「じつはこの時点の広忠(松平)は織田だけではなく今川も敵にしてしまっており、両者の連携により挟み撃ち状態だった」という説も存在する。背景には、今川寄りの人物である松平信…

【10大戦国大名の実力】斎藤家②――父殺しの義龍

…た。そもそも、道三と織田信秀(信長の父)は同時期に驚異的な躍進を遂げたという意味では共通しているが、主君を倒した道三と、清洲・岩倉の織田本家筋やさらにその主君にあたる斯波氏とほとんど対立せず、下克上をしなかった信秀――という視点で見ると、対極にある人物ともいえる。 1544年(天文13年)、「土岐氏支援」の大義名分を掲げた信秀は、越前の朝倉氏と呼吸を合わせる形で美濃へ侵入し、道三を攻める。これに対して、道三は織田軍が稲葉山城の城下町に攻め込んだ後、勢いが衰えたタイミングで強烈…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…に勢力を伸ばしたのが織田信秀(おだ のぶひで)、信長の父の時だった。 信秀は本来の主君である清洲織田家や同僚の三奉行などと対立する一方で、古くから尾張中部に勢力をもつ那古野今川氏を倒して那古野城を奪取。さらにその手は尾張国外へまで延び、東は三河へ進出して松平氏や今川氏と戦い、北は美濃で斎藤氏との勢力争いを繰り広げた。しかし、残念ながら信秀自身はそうした勢力拡大が大きな成功を収める前に42歳で死去した。 信長の活躍と死 信秀の死後、いよいよ信長の活躍が始まる。信秀は生前に国内の…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…と尾張国の新興勢力・織田信秀(信長の父)との両勢力に挟まれた弱小勢力として、今川氏の支配下に収まることでどうにか存続しているに過ぎなかったのである。 松平氏をめぐる複雑な状況を受け、家康の幼少期は人質生活と同義だった。6歳のときに今川氏の人質になることが決まり、移送される最中に身柄を奪われ、織田方の人質とされた(この時期、信長との接触があったのでは、という見方もある)。1549年(天文18年)、父が家臣によって殺害されると、今川・織田の人質交換によって改めて今川方の人質になっ…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…代家の家臣筋にあたる織田信秀・信長父子だ。 ところが、尾張の広範に支配力を及ぼしたその信秀も、知多半島には支配力を行使した形跡が見受けられない。これは、信秀の権力が斯波氏・織田氏と受け継がれたものであって、その支配下になかった知多半島を手に入れるのには大義名分が足りなかったのではないかと考えられる。とはいうものの、重要拠点である知多半島がいつまでも空白地帯でいられたはずもない。東には三河の松平氏がおり、西には尾張の織田氏が日の出の勢いとなっていた。二大勢力の境界に位置する水野…

【戦国軍師入門】安祥城の戦い――軍師僧・太原雪斎の交渉術

…現在の愛知県西部)の織田信秀(信長の父)は虎視眈々と三河を狙っている。 信秀は広忠が今川に息子の竹千代(後の家康)を人質として送ると、護送していた武将を寝返らせて自分の手元に連れてこさせ、松平を味方にしようとするが上手くいかない。そこで1548年(天文17年)に軍を起こして三河に攻め入り、一方義元も松平を救援するために、自分の軍師である僧侶・太原雪斎を出陣させる。この時の戦いは「第2次小豆坂の戦い」と呼ばれ、今川・松平軍の勝利に終わる。しかし、この後に問題が起きる。翌年に広忠…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…印刷) 発売日未定 織田信秀おだのぶひで 織田信秀 城山八幡宮(愛知県名古屋市) 神社・寺院 300円 御朱印 書置き(印刷) 縦15.3cm、横10.0cm 織田信行おだのぶゆき 織田信行 城山八幡宮(愛知県名古屋市) 神社・寺院 300円 御朱印 書置き(印刷) 縦15.3cm、横10.0cm 織田信長おだのぶなが 織田信長 城山八幡宮(愛知県名古屋市) 神社・寺院 300円 御朱印 書置き(印刷) 縦15.3cm、横10.0cm 織田秀孝おだひでたか 織田秀孝 城山八幡…

明智光秀が京都から東海各地をウロウロしていた頃、東北では内戦が終わろうとしていた

…の調査に出かけたり、織田信秀の軍勢が美濃を攻めたり、あるいは織田と今川が小豆坂で戦って、それを光秀が偵察に出たりしていた1548年(天文17年)までの時期に、東北地方では長年続いた戦いがようやく終わろうとしていた。「伊達氏 洞の乱(うつろのらん)」、あるいは「伊達氏 天文の乱」とも呼ばれるこの戦いは、名前の通り伊達氏の内乱であった。ところがこの争いはある一族内部の戦いに収まらず、東北地方に広くまたがる大乱になってしまっていた。 原因は伊達氏の事情にあった。この一族はもともと鎌…

明智光秀と柴田勝家ーーあるいは一線を引かれた同僚?

…ら無理もない。そう、織田信秀が死んだ際、織田家の重臣であった勝家は、信長ではなく弟の信勝についたのである。どうしてそうなったのか。従来の物語では信勝の方が優秀とされていたから……という理屈で説明されることが多かったが、近年の研究では「信秀死後、彼についてきていた家臣団・織田一族が東の今川氏との融和路線へ傾いたが、信長がこれを拒否したので、弟の信勝が家臣団・一族の支持を得た」のではないかと考えられている。こう考えると織田重臣の勝家が信勝についたのは当然のことといえる。 ともあれ…

2.譜代家臣団の成立

…35年(天文4年)、織田信秀(信長の父)を討つために尾張森山(守山)へと出兵した際、清康は家臣によって殺されてしまう。これが「森山(守山)崩れ」と呼ばれるできごとだ。 清康を失った松平家は、急速に衰退してしまう。家督を継いだ広忠は、織田家の脅威から家を守るため、今川家に従う道を選んだ。その人質として差し出されたのが子の竹千代、のちの徳川家康だった。家康はその後、19歳になるまで今川家、織田家の人質として辛酸をなめることになる。その間に元服し、元康と名を改めて松平家の家督も継い…

「麒麟がくる」第14回に登場した緒川城はどんなお城か

…砦の戦い」です。父の織田信秀が存命中には(ドラマでは光秀が必死になって将軍に直訴して)今川氏との和議を締結したわけですが、信秀が死ぬとこの休戦は反故となり、織田と今川の戦いは再開します。のちの「桶狭間の戦い」にも通じるのですが、この時期に信長と今川義元の間では尾張と三河の境界に位置する城主の調略(と威圧)が本格化し、寝返りによって敵味方の勢力図と境界線が刻々と変化しています。 緒川城を守る水野信元は織田方についていましたが、今川方の侵攻により城は孤立し、すぐそばに村木砦を築か…

「麒麟がくる」第9回に登場した那古野城と刈屋城、末盛城、妻木城はどんなお城か

…たんですけど。 その織田信秀が末盛城(末森城)で信長と会うシーン、後ろに龍の絵(水墨画?)が描かれていました(ここに巨大な金碧画が描かれるようになるのは秀吉の時代です)。その爪の数は3本でしたが、こういう細かいところもきちんとこだわってるんですよ。龍の爪の数はもともと3本が基本でしたが、中国の皇帝の宮殿などに描かれる場合は5本です。紫禁城の九龍壁に彫られた龍は5本爪です。親王や地方の王は4本爪の龍を描くことが許され、たとえば琉球は中国の属国だったので琉球王の居城である首里城正…

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」キャスティング一覧

…ちに光秀の主君に。 織田信秀 高橋克典 織田家当主。信長の父。 帰蝶(濃姫) 川口春奈 信長の正室。道三の娘。 土田御前 檀れい 信秀の継室。信長の母。 織田信勝 木村了 信長の弟。 平手政秀 上杉祥三 織田家家臣。信長の守役。 織田信光 木下ほうか 信長の叔父 柴田勝家 安藤政信 織田家家臣。筆頭家老。 斎藤道三 本木雅弘 斎藤家の当主。帰蝶の父。 斎藤義龍 伊藤英明 道三の嫡男。光秀とは学友。 深芳野(みよしの) 南果歩 道三の側室で元は土岐頼芸の愛妾。 小見の方 片岡京…

明智光秀と帰蝶(濃姫)ーーあるいは歴史の陰の女

…長年敵対関係にあった織田信秀と和解するため、帰蝶と信秀の息子・信長を結婚させた。1549年(天文18年)ごろのことである。典型的な政略結婚であり、この時代いくらでも見られた話だ。その後、帰蝶の存在は歴史の陰に消えてしまう。史料に名前が出てこず、どこで何をしていたのかわからないのだ。 数少ない手がかりとして、1554年(天文23年)に那古野城内で誕生した信長の子・信正のエピソードがある。彼を生んだのは織田家臣の妹であったが、「御台(正室)」の反発によって城内で養育することは叶わ…

「麒麟がくる」第2回に登場した古渡城と田代城、小熊城、大桑城はどんなお城か

…もしろかったですね。織田信秀の軍勢に熱田神宮の大宮司・千秋季光(せんしゅう・すえみつ)が同行していたのはよかったですね。季光は「加納口の戦い」で戦死したので、彼の息子の千秋季忠(せんしゅう・すえただ)は信長に仕えましたが、「桶狭間の戦い」で討死しています。親子そろって織田家に振り回されて命を落としていますね。 なお刀剣好きな人は季光が平景清が所持していたという名刀「癬丸(あざまる、蘚丸とも書く)」を持っていたというエピソードで知ってるかもしれませんね。この話は『信長公記』に出…

明智光秀と斎藤道三ーーあるいは伝説に語られた男たち

…光秀もまさにそのようにキャラクター性が出来上がっていったのはすでに紹介した通りだ。 なお、道三伝説にはまだ続きがある。頼芸を追い出して美濃を完全に支配し、何かとちょっかいをかけてくる尾張の織田信秀と話をつけた後(具体的にどんな形になるかはここからのお楽しみ)、息子の義龍に後を譲る。だがその息子と仲が悪くなり、ついに追い詰められて殺されてしまう。この悲しい結末もまた道三伝説を彩る重要な色彩となっているのだが、このあたりは後ほど義龍の話をする時にとっておかせてもらえれば、と思う。

「麒麟がくる」第1回に登場した明智城と稲葉山城はどんなお城か

…は1547年(天文16年)の設定で、利政(道三)が城郭を整備してから10年近く経過しています。この年には織田信長の父である織田信秀が稲葉山城下まで攻め込んできます(加納口の戦い)ので、おそらくドラマでもこの攻防戦が描かれるのではないでしょうか。明智光秀がこの戦いに参加した記録はないものの、参加しなかった記録もないので(参加していたとしても記録されるほどの地位になく、また手柄も挙げていないと考えることもできる)、池端さんがどんな脚本にされるのか楽しみです。 kojodan.jp

【戦国合戦こぼれ話】安祥城の戦い――戦後交渉こそが重要だった

…河の今川義元と尾張の織田信秀の争いの舞台となっていた。元々、この地に大きな力を持っていたのは松平氏だったが、絶頂期を築いた松平清康が家臣によって殺害されて後はすっかり衰退し、今川氏の支配下に入っていた。つまり、織田vs松平(のバックにいる今川)という状況になっていて、たびたび両者が激突していたのだ。 そんな中、義元の軍師として、また外交僧としても名高い太原崇孚(雪斎)の率いる軍勢が安祥城を攻撃した。ここは元々松平氏の城であったが、織田氏に奪われて三河攻略の拠点とされていた。今…

【戦国を彩る名軍師たち】信長に軍師がいた!? 沢彦宗恩

…ったのが、隣国尾張の織田信秀に仕える平手政秀という武将である。信長の生涯について知識のある人ならこの人物が何者か知っているだろう――そう、信秀から彼の嫡男である信長の傅役(もりやく)を任せられた男だ。 この縁から、沢彦は「三郎」と呼ばれていた若き日の信長のためにその諱(いみな)を選ぶ役目を任せられた。また政秀が死んだ際(信長の奇行に頭を悩ませた末、諌めるために自決したと伝えられるが、近年の研究では疑問視されている)には後事を託された、とも言われている。 信長と沢彦の関わりはこ…

【戦国を彩る名軍師たち】東海一の弓取りを育て、支えた軍師・太原雪斎

…た。小豆坂の戦いでは織田信秀(信長の父)を打ち破り、また安祥城を攻め落とした際には織田信広(信長の庶兄)を捕らえて人質交換の材料にした。これによって織田から今川へ渡されたのが松平氏の竹千代、のちの徳川家康で、もともと今川氏の支配下にあった松平氏はいよいよ今川に逆らえなくなった、というわけである。崇孚はただ兵を動かすだけでなく、このように政治とも絡めることができる非常に賢明な人物であった。 ところが、崇孚死後の今川氏は急速に衰退を遂げていく。義元は桶狭間の戦いで信長に討ち取られ…

「戦国武将細川藤孝とその周辺」参加レポート

…よる諸大名間の調停→織田信秀と今川義元の抗争の仲裁など1559年(永禄2年)の長尾景虎(上杉謙信)上洛の際、藤孝が奏者 「永禄六年諸役人付」で藤孝は「御供衆」 この時代の京において三好長慶はキーマンだとおっしゃってました。来年の大河ドラマでも登場するとかしないとか。 足利義昭擁立に奔走 1565年(永禄8年)5月19日、三好三人衆らに襲われて義輝横死 藤孝が義輝の弟・覚慶を救出、覚慶が還俗して義昭に 近江(和田惟政)→若狭(武田義統)→越前(朝倉義景) 一乗谷で明智光秀と出会…

毎年6月2日におこなわれる阿弥陀寺の「信長忌」にいってきました

…)に、信広が父である織田信秀の側室の子ども(つまり信広の弟)を救ったそうです。信広によって育てられたこの子どもがのちに僧侶となり、阿弥陀寺を開いた清玉上人になったとか。 信広自身は1574年(天正2年)の伊勢長島一向一揆攻めで命を落としていますが、彼のお墓もここ阿弥陀寺にあります。 10時から法要がはじまり、ぼくら参拝者もお焼香をさせていただきました。この頃にはざっと200人以上がいたと思います。 信長の廟所は裏手にあります。 手水鉢にも「織田木瓜」の家紋が刻まれていますね。…

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