江戸時代の軍学者による分類はけっこういい加減なものも多い上に、どっちにも含まれるような曖昧なものがけっこうありますが、お城とその歴史を体系だって整理しようとする心意気みたいなのはよくわかるし強く共感します。
軍事拠点から政治拠点という流れは、かつての城柵への回帰へと見れなくもないのですが、象徴としての天守の存在が決定的に異なります。天守を見せることを考えると山頂にあるよりも、城下町と同じ地平面からそびえ立たせたほうがインパクトが強いですね。
織田信長が農繁期も合戦できるよう常備軍をつくったというのは近年では異論も提示されていて、むしろ武田信玄・上杉謙信・北条氏康といったひと世代前の大名たちも年中、戦をしていたとされます。ただこのあたりも「兵農分離」の定義によるところが大きく、…
大名の支配領域が増え、最前線となる支城網が整備される反面、それは兵力分散となり敵国からの攻撃目標が増えてしまいます。そこで迅速かつ効率的に救援しやすい平城にシフトしていったという説はおもしろいかも。
鉄砲が合戦のカタチを変え、合戦が変われば主要な攻撃目標であるお城も変わるよね、という話。 なるほどと思いつつ、どちらかというと攻撃側の動員兵力と守備側の保護すべき領民の数が巨大化していく中で詰城に逃げ込むことが現実的ではなくなったのではない…
近世城郭の条件として、城下町の形成・拡張が可能かどうかというのはよく聞きますね。 支配領域が広くなれば攻城戦(籠城戦)の機会も減り、むしろ経済を重視せざるを得なくなったという背景もあるでしょうし、増加する人口を受け入れるためにも城下町の発展…
農民の城というのは知りませんでしたが、村長が城主ってことになるんでしょうか。 攻城団のデータベースに登録していくかはさておき、城の定義はほんとにむずかしいなと思いました。
付城や陣城など、小規模で一時的なお城の名称はいろいろあるのですが、おおまかには攻撃側か守備側か、またその役割などによって変わるようです。 (とはいえぼくはぜんぜん覚えられないのですが)
本城と支城――支配領域が広がるにつれて、戦国大名は領国全域をカバーするために支城網を整備します。スムーズに援軍を送れるよう街道を整備したり、緊急時の連絡がすぐにできるよう狼煙台(烽火台)なども設けられました。
戦国時代の城は「平時の居館、戦時の詰城」というセットで運用されることが多かったのですが、これは攻め込まれることを想定したリスク対策でもありますね。全国には山城の麓にあった居館跡が城主の菩提寺になっていることも多いので、訪問時にはチェックし…
土に成ると書いて城――という説明を聞いことがある人も多いと思いますが、城とは基本的に土塁と空堀によって築かれていました。ただそう単純な話ではなく、城の歴史を振り返ってみると、環濠集落・古代山城・城柵といった城のルーツにあたるものから、鎌倉時…
家を遺す上でもっとも大切なことは「強者に目をつけられない」ことです。権力者に媚びるために偏諱を賜うとともに、権力者が交代してしまうとその子を廃嫡するというのはなんとも残酷な話ですが、それが戦国の世を生き抜く術だったのでしょうね。
こうして島津家の歴史を振り返ってみると、島津忠良(日新斎)にせよ、島津忠恒にせよ、本家・嫡流以外が宗家を継いでいるんですよね。嫡子がいなかったとはいえ、一族を見渡して優秀な人材を後継者に任命してきたからこそ幕末まで生き残れたのかもしれませ…
朝鮮の役で朝鮮・明軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられ、関ヶ原の戦いでは見事な退き口で東軍に衝撃を与えた義弘でしたが、もし当初の予定通り彼が伏見城に入っていたら、籠城する鳥居元忠たちと討死していた可能性が高そうです。
この時点の秀吉に対抗できる勢力はもはや日本国内には存在していなかったと思いますが、それでも島津家はかなり激しい抵抗をしています。 それもあってか降伏後の秀吉の処遇は次の北条氏と比べるとかなり差がありますね。