攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【10大戦国大名の実力】島津家③――島津四兄弟による九州統一戦

三州の覇者となった島津家はそのまま九州統一に動きます。個性の異なる兄弟が各方面で活躍することで大友氏や龍造寺氏を倒し、勢力を拡大しましたが、彼らが得意としていたのが「釣り野伏せ」と呼ばれる囮戦術でした。

【10大戦国大名の実力】島津家②――島津忠良の相州家継承と貴久の島津宗家継承

島津家中興の祖・島津忠良は島津氏の分家である伊作家の出身です。彼が息子・貴久を島津宗家の養子にしたことで島津家の躍進が始まります。忠良が息子を後見するため出家して日新斎を名乗ったのはまだ33歳だったんですね。

【10大戦国大名の実力】島津家①――リーダーシップはどうあるべきか

鎌倉時代から江戸時代まで薩摩を支配しつづけた島津家の歴史は戦乱からはじまります。一族内の争い、周辺の伊東氏や相良氏、肝付氏らとの争いと常に戦いの中にあった印象です。

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

長宗我部元親ははたして信長の言うとおり「鳥なき島の蝙蝠」にすぎなかったのか、あるいは秀吉や家康という鳥が大きすぎたのか、いずれにせよ(信親を失う不運もありましたが)土佐から天下を狙うには少し遠かったのかもしれませんね。

【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの

信長との対立から二度目の滅亡待ったなしの長宗我部家でしたが、本能寺の変により九死に一生を得ます。立て直した元親は四国統一に向けて再スタートしますが、羽柴秀吉が大軍を差し向けたため降伏することになります。 その後に起きた嫡男、信親の討死も不幸…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家②――姫若子から鬼若子へ

父・国親は「野の虎」とまで称された武将でしたが、その子どもである長宗我部元親は当初「姫若子」と軽視されていました。しかし初陣で活躍すると家中の評価も一変し、その後は父以上の才覚を見せて勢力を拡大していきます。

【10大戦国大名の実力】長宗我部家①――イノベーションの遅れは致命傷①

始皇帝の子孫という説もある長宗我部家は、一度滅亡しながらも戦国時代に再興して土佐を統一し、さらには四国を平定するまでに復活したドラマチックな武家です。 長宗我部元親が有名ですが、じつはそのお父さんの長宗我部国親もすごい人でした。

【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

勢力を拡大せず、むしろ関ヶ原の戦いによって大幅に削減されてしまった毛利家ですが、とはいえ吉川広家らの貢献や犠牲により家を潰さなかったからこそ、幕末のリベンジがあったわけで、家を遺すというのはほんとうに大事なことなんだなと思いますね。

【10大戦国大名の実力】毛利家④――元就の死後

急拡大した勢力が包囲網にさらされるというのはのちの織田信長に似てますね。元就が存命であれば対処できたかもしれませんが残念です。 またその孫の輝元が信長包囲網に加わるというのもおもしろいですね。

【10大戦国大名の実力】毛利家③――厳島の戦い

桶狭間の戦い、河越夜戦と並び、日本三大奇襲のひとつとされる厳島の戦いは3つの中でもっとも入念に準備された奇襲だといえます。ターゲットの陶氏(大内氏)以外に、尼子氏、少弐氏、村上海賊などにも策を講じて万全の状態で決戦を挑みました。

【10大戦国大名の実力】毛利家②――安芸の国衆から戦国大名へ飛躍

尼子氏と大内氏にはさまれた国衆にすぎなかった毛利氏が元就の才覚によって戦国大名になっていく流れは見事ですね。 とくに1550年(天文19年)におこなった毛利両川体制の確立と井上元兼とその一族の排除は大きな転換点となりました。

【10大戦国大名の実力】毛利家①――組織を守るために何をすべきか

毛利元就が大江広元の子孫であることを知らない方も多いかもしれませんね。 元就は兄・興元の嫡男・幸松丸がわずか2歳で家督を継いだ際にその後見人をつとめたのですが、その幸松丸が9歳で死去したため、27歳で家督を継ぐことになります。

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

榎本先生が結論で述べられているように、武家や国衆ではない庶民の出で大名化したのは斎藤家や豊臣家くらいで、戦国時代は下剋上の時代とはいってもそれなりの基盤がないと成り上がることはむずかしいのですね。 斎藤家4代の物語は非常に興味をそそられます。

【10大戦国大名の実力】斎藤家②――父殺しの義龍

武田家などの例もあるように、親子の対立は戦国時代ではさほど珍しくないのですが、追放ではなく殺してしまったという点が斎藤家の特徴であり異端な点だと思います。 その義龍は信長の暗殺を企てたと『信長公記』に残っていますが、父・道三に目をかけられた…

【10大戦国大名の実力】斎藤家①――下克上の行く末

斎藤道三の国盗りが父親との親子二代にわたるものであったとする発見は、北条早雲=素浪人説の否定と同様に近年における大きな定説の転換ですよね。 歴史研究家のみなさんのおかげですが、こうした定説が上書きされる時代を生きるのは幸せなことです。

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