攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

前田家 の検索結果:

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…す。 金沢城は加賀藩前田家の居城であることは有名ですが、どんなお城だったかについては意外と知らない方も多いと思います。ぼくも今回までよく知らなかったのですが、もともとは多くのお城と同じように本丸に天守と御殿があったそうです。それが(これもあるあるですが)天守は落雷で焼失、またその後に本丸御殿も火災により焼失したため、3代・利常の代に二の丸を拡張して、メインの執政エリアとして二の丸御殿を新たに造営しました。 これが1631年(寛永8年) のことです。二条城二の丸御殿が後水尾天皇…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…の人)。信長の死後は前田家臣となり、江戸時代になってもそのまま前田家重臣として仕えた。 能登の事情については「マンガでわかる七尾城」に詳しいのでぜひご一読ください。 kojodan.jp kojodan.jp 佐渡守護代 ・ごく短期間ながら、畠山氏が佐渡守護だったこともある。この時の守護代は本間(ほんま)氏。 ・本間氏はもともと相良の武士で、鎌倉時代に佐渡で地頭になり、やがて守護代になるが、当初は年に一度、佐渡へ訪れていた。その後、土着して佐渡の各地に家が分かれ、国衆化してい…

【殿様の左遷栄転物語】将軍のブレーン・新井白石

…かけたのは、加賀国は前田家への出仕であった。前田家はいわずと知れた「加賀百万石」の大藩であり、また学問への傾倒が深い家でもあったから、これは学者としては垂涎の就職先であった。 ところが、これを聞きつけた同輩の中に加賀へ母を残している者がおり、白石に頭を下げて自分にその話を譲ってくれるよう頼んだ。白石はこれを快諾、その同輩は無事に前田家に仕えて、順庵は白石の心ばえを涙ながらに喜んだ、と伝わる。このことは白石の人間性を示すエピソードでもあるが、同時にある種の「強運」を感じさせるも…

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

…だったと思われる――前田家は全国でも有数の大藩であり、また関ヶ原の戦い直前に家康から謀反の疑いをかけられ、人質を差し出して危機を切り抜けた、という経緯があった。この前田家とのつながりを持ち続けることは、細川家にとってよくない、と感じたのだろう。そのうえ、忠利は秀忠の養女(しかも実際には家康のひ孫に当たる)と結婚していて、ふたりの間には男子も生まれていた。前田家との関係を切り、徳川家との関係を近づける一挙両得の手だった、ということなのではないか。 もうひとつの理由があったのでは…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…。だが、正信・正純親子の貢献に対する評価があったのか、本多家という名門を絶やさないためか、あるいはそもそもこれが陰謀によるものであったためか、正純の孫にあたる正之は旗本に取り立てられて、その血筋が幕末まで続いている。 また、正信の弟・正重によって継承された分家は、一時期、寄合旗本(ふつう無役で3千石以上。名門とされる)に落ちていたことがあるが、やがて大名に復帰し、明治維新まで存続した。正純の弟・政重は宇喜多・福島など諸家に仕え、最終的には前田家中の重臣として厚く遇されている。

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…スケープゴートとして前田家に目をつけたのだとされる)家康に味方して先鋒に立とうとした。ところが、その後、今度は会津の上杉家が標的となり、それを契機に関ヶ原の戦いが始まった際には出陣しなかったため家康の「敵」と見なされ、その後の戦いにおいて家康側についた前田家と争ったのである。 これについては、利長から「家康の味方をしよう」と呼びかけられて長重もこれに応えたものの、家臣同士のいさかいから合戦に発展してしまった――という説がある。もしそうだとするならば、かつて秀吉に所領を大きく減…

【江戸時代のお家騒動】加賀騒動 30年以上にも及ぶ江戸三大お家騒動のひとつ

…るこの事件は、加賀藩前田家の家臣・大槻朝元(おおつきとももと)を中心に勃発したものだ。他のいくつかのお家騒動と同じように、この事件も脚色されて人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となっている。その場合、大槻は加賀藩乗っ取りを企む奸臣として描かれることがほとんどだが、実際のところはどうだったのだろうか。 まず、大槻の簡単な経歴を紹介していく。彼は「伝蔵」「内蔵允」などの通称で知られており、14歳の時から当時の加賀藩主・前田綱紀の子である吉徳に、居間坊主として仕え始めた。大槻は才知に恵まれた…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…ましょう。 加賀藩(前田家) 加賀国、能登国、越中国の三令制国で二城(金沢城、小松城) 鳥取藩(池田家) 因幡国、伯耆国の二令制国で三城(鳥取城、米子城、倉吉城) 福井藩(越前松平家) 越前国に三城、のち二城(北ノ庄城(のち福井城)、丸岡城(のち丸岡藩として独立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。幕府にう…

【江戸時代のお家騒動】浦野事件 加賀藩内の独立領を統合する

…浦野事件は加賀藩主・前田家の家臣である長連頼・元連父子の対立が、主家をも巻き込み勢力を二分する騒動に発展したものである。加賀藩では五代藩主・前田綱紀の時に、後見人の前田利常によって改作法と呼ばれる農政改革が実施された。この改革は、検地による収益の推定、給人による直接支配の禁止、税率の決定などを含んだもので、家臣と農民を救うために実施された改革として知られている。 しかし鹿島半郡と呼ばれる加賀藩鹿島郡の西南部は、1592年(文禄元年)以来検地が行われていなかった。この地を統治し…

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…彼の嫡子も、ほかの山崎一族も、その多くが同じ戦いで討死している。ところが吉家の弟・吉清の子の長鏡(改名して長徳)は生き延び、光秀の家臣になっているのだ! ただの偶然か、光秀が越前時代のことを懐かしんだのか、それとも吉家との間に何か約束があったのか……そこまではさすがに考えすぎであろうか。ともあれ、長徳は「山崎の戦い」を生き延び、晩年は前田利家に仕えて、最後には1万石を越える重臣にまでなった。彼の子供たちはいくつかに別れた前田家にそれぞれ仕え、長く山崎氏の家名を保ったのである。

初代藩主と藩祖のちがい

…誰か答えられますか?前田家は江戸時代の大名としては珍しく、265年間一度も国替えされることなく加賀藩主をつとめた大名家ですが、その初代藩主は前田利長です。利長の父である前田利家は1599年(慶長4年)に死去し、江戸時代を生きてないので加賀藩主とはなっていません。そのため、加賀藩では利家を「藩祖」としています。 同様に福岡藩も初代藩主は黒田長政ですが、藩祖はその父である黒田孝高(官兵衛)となっています。官兵衛は1604年(慶長9年)まで生きていますが、豊臣政権下の1589年(天…

けっきょく江戸時代に藩はいくつあったのか

…かも厄介な問題です。前田家や島津家のように豊臣政権下での大名を「豊臣大名」と呼びますが、彼らは「関ヶ原の戦い」前後で国替えがありませんでした。この場合は江戸幕府から存続を許された時点(所領安堵の朱印状=領知朱印状が発給)で江戸時代における藩となるわけですが、それはだいたい「関ヶ原の戦い」翌年の1601年(慶長6年)頃のようです。 このケースよりもさらに厄介なのが、いわゆる譜代大名と呼ばれる家康の家臣団の扱いです。彼らは家康自身が豊臣大名として関東入封した1590年(天正18年…

江戸時代をデータベース化する

…1:N」となります。前田家のように江戸時代の最初から最後まで加賀藩主をつとめたケースなら「1:1」ですが(しかし前田家は富山藩や大聖寺藩に分家を立てています)、明石藩の場合は小笠原家にはじまり、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家(の分家)、越前松平家(の分家)と6家が藩主をつとめています。 これも単に文字で一覧にするよりも、藩主をつとめた「期間」がわかるようにしました。江戸初期はいろんな大名家が入れ代わり立ち代わりで藩主をつとめたものの、中期以降は越前松平家(の分家の明…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…といった関東の北には前田家や伊達家といった外様大名の中でも際立って有力な家がいた。江戸幕府の設立当初、まだ諸大名への支配が確立していなかった頃には、こうした外様大名の存在は幕府にとって脅威だったのだ。 その後、「大坂の陣」によって豊臣家が滅亡すると、幕府は畿内を譜代大名で一気に固める。1617年(元和3年)には、姫路に42万石の勢力を持っていた池田家を鳥取へと移し、本多忠政を配置している。さらに、周辺の明石や龍野も本多家と姻戚関係にある譜代大名で固めた。実際、姫路は西国の押さ…

2.譜代家臣団の成立

…っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳川直系の保科家や越智家、紀伊徳川の一族になった鷹司家、松井家にも松平の姓が与えられている。さらに家臣でも目覚ましい功績のあった柳沢家や、有力な外様大名の前田家、島津家、伊達家、黒田家、浅野家、毛利家、鍋島家、池田家、蜂須賀家、山内家などにも松平を名乗ることが許されている。これらは毛利家を除いて、明治維新まで松平姓を使い、本来の姓を使わなかったという。 次回「(3)江戸幕府における譜代大名の役割」につづきます。

1.譜代大名の定義

…多い。実際、加賀藩の前田家(102万石)や薩摩藩の島津家(77万石)など、譜代大名よりはるかに高い外様大名が各地にいたが、徳川家は自分たちの手足となって働いてくれる譜代大名を政治の中心におき、幕政を安定させたのである。外様大名はいくら石高が高く、力が強かろうと――いやむしろ力が強いからこそ、幕閣への道は閉ざされていた。 江戸時代は高度な地方自治が成立していた時代であり、中央政権である江戸幕府が地方自治体である諸藩に過度の干渉をすることは少なかったが、一方で諸藩が中央政権の専権…

5.支配者としての大名たちの苦悩

…家もあった。黒田家や前田家などが有名な例なのだが、この二家は御家騒動を起こしながらもどうにか家を存続させている。悲劇の家となったのが、東北の雄として戦国時代に名をはせた最上家だ。この家は江戸時代初期のトラブルの末に、ついには大名ではいられなくなってしまったのだ。 最上家を躍進させた最上義光は、伊達政宗の叔父にあたる人物で、内乱の続く最上家をまとめると、たびたび甥の政宗と戦いながら勢力を広げていった。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、西軍の上杉勢による攻撃にさらされながらもよく守りき…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

…。 たとえば加賀藩・前田家は2千5百人、薩摩藩・島津家は1千2百4十人もの大行列で江戸と所領の間を移動したというから、相当の出費になったであろう。もちろん、これらは大大名の場合。より規模の小さい大名はそれなりの人数でよいことになっていた。にもかかわらず人数が少しずつ増加して財政が悪化する藩が続出し、幕府がこれをたびたび戒めている。大名たちの見栄が見え隠れするが、それで首を絞めているのだから世話はない。 金がかかって仕方がない江戸屋敷 江戸に屋敷を構えることも大名にとって大きな…

江戸城での控室は家格によってちがうらしい

…三家、御家門)、加賀前田家。 溜の間 会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家のみ代々で、それ以外は一代かぎり。幕府の政治顧問を担う少数の有力譜代大名。 大広間 国持大名(国主)および准国持大名(准国主)、四品以上の官位を持つ親藩および外様大名。 帝鑑の間 「譜代席」とも呼ばれ、この部屋に詰める大名が譜代大名。ただし真田家など外様でもこの席に移った大名もいる。 柳の間 五位および無官の外様大名。交代寄合や高家などの旗本も。 雁の間 幕府成立後に新規に取立てられた城主大名…

3.戦国大名から外様大名へ

…場合によっては外様の前田家・島津家・蜂須賀家も) 溜の間(徳川一族や譜代の名門など) 大広間(御三家の庶流や、伊達・島津・毛利などの外様の大大名) 帝鑑の間(基本的には譜代大名だが、時には外様も) 柳の間(外様で5万石程度の小大名が主) 雁の間(譜代の大名たち) 菊の間広縁(譜代の小大名、時には外様も) 無席(詰所のない大名たち) 大名たちにとってはこの控室の場所の違いが明確に「身分の差」と映ったことはいうまでもない。 また幕府が仲介して諸大名が獲得した官位は、幕府の典礼・儀…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…高は62万石で加賀の前田家、薩摩の島津家に次ぐ全国第3位の石高でした。 徳川幕府からは重宝され、松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称するほどでした。ここから徳川幕府参加として仙台での政宗の生き方が始まります。 仙台城と城下町を全面的に開発することにした政宗は、のべ100万人を動員する大工事を行いました。 仙台に残る多くの史跡がこの時のもので、それらを訪れることで政宗公の想いや意気込みを感じることが出来るかもしれません。 政宗は海外にも目を向け積極的に欧州、いわゆるバテレンら…

【京都】2019年秋に開催される歴史好き向けの特別公開・特別拝観・ライトアップイベントまとめ

…、以後は畠山家に加え前田家の菩提寺ともなっています。本堂、表門、唐門が室町時代創建で禅宗建築の代表作で、重要文化財に指定されています。また「昭和の小堀遠州」と謳われた作庭家・中根金作が復元した桃山風の荘厳な石組みを持つ方丈庭園や、茶室「涵虚亭」も見どころです。 大徳寺 総見院 秋季特別公開 期間:2019年10月12日(土)~11月30日(土)10:00~16:00※11月3日、10日は11:30から公開※11月21日は15:00受付終了※11月22日は終日休止※その他、法務…

全国にある織田信長の墓所

…て尾張を所領とした織田信雄が父を弔う為に建立、江戸期に名古屋に移転 総見院 愛知県清洲町 供養塔がある 長興時 愛知県豊田市 一周忌に描かれた信長の肖像画と位牌がある 織田剱神社 福井県織田町 織田家が神官を勤めた神社 泰厳寺 熊本県八代市 細川忠興が丹後の宮津に建立し江戸期に移転 瑞龍寺 富山県高岡市 前田家の菩提寺で前田利家と並んで信長・信忠父子の供養塔がある 本門寺 静岡県芝川町 本能寺の変の際に信長の首が密かに持ち出され、この寺の柊の木の下に埋められたという伝説がある

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