攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

堀 の検索結果:

お城のガイドツアーに「対話型鑑賞」を取り入れていきたい

…様だけでなく、 この堀幅はすごい! 大手門はなぜこの位置に? 和歌山城は虎伏山の西峰に連立式天守が、東峰に本丸御殿があるけどこんな構造の城ってほかにある? などなど、見学中に浮かんだ疑問や、目にしたものへの感想を述べ合うことができたら楽しそうだと思いませんか。さらに参加者が過去に訪問したお城と比較したり、本やテレビで見聞きした情報があれば(たとえば「ブラタモリでは○○と言ってた」とか)補足をしてみんなで理由などを推理して考えることで、より豊かな時間を過ごせるとぼくは思うのです…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…球場の周囲に土塁や空堀を見つけることができます。特に弓道場の的の位置あたりから入っていける空堀の底は、山の中にある深い堀の城を彷彿させる情景を見せてくれます。球場の姿とは一変、城の面影に興奮することは必至でした。この空間にしばらくいるだけで力がみなぎりそうです。 また鹿沼市役所が新しく建てられた際に発掘調査されたみたいで、いろんなものが出て来ているようです。粘土の中から保存状態のよい漆椀とか出てきていて、なんだかワクワクします。 www.nhk.or.jp 小田原城の城もなか…

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…22年11月1日 小堀城 御城印 小堀城(兵庫県小野市) けやき焙煎所 300円 印刷 2022年11月1日 明知城(白鷹城) 御城印 全国山城サミット恵那大会限定 明知城(岐阜県恵那市) 明智文化センター(おしろ横丁) 500円 印刷 縦15cm、横10cm 2022年10月23日 下小川城 御城印 まるごとしすい、寺嶋陶苑、道の駅 水の郷さわら 300円 印刷 2022年10月22日 小田城 御城印 通常版 小田城(茨城県つくば市) 小田城跡歴史ひろば案内所 300円 印…

2023年に訪問して良かったお城

…します) 土塁! 空堀!! 土橋!!! とおそろしいほどの土木工事です。 もちろん自然地形を活かした部分もあるのでしょうが、削平地の広さや土塁の高さなどを見るかぎり大部分は人工だと思います。 一般的にこの城は「賤ヶ岳の戦い」の際に柴田勝家が本陣とした陣城として知られていますが、さすがに即席で整備するには大規模すぎるので、それより前、清州会議で長浜城が秀吉から柴田方に譲渡された際に、勝家の居城・北ノ庄城とのつなぎの城として整備されていた可能性が指摘されていて、ぼくもそっちに一票…

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…坂家は、譜代の名門(堀田家)から養子を招いたことから譜代になっている。この脇坂家を含む六家が幕府に対して願い出をしたことで譜代になった「願譜代家」として記録に残っていることから、譜代と外様はやはり明確に分かれていたことがわかる。 さて、譜代・外様は基本的には時期の扱いという話をした。人間はおもしろいもので、ひとつのグループができると、そのグループの中でも小さなグループに分かれていくものだ。こうして、譜代の中でも「いつ仕えたか」の時期ごとに小さく分かれていったのである。 すなわ…

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…の天守外観をはじめ、堀、縄張りなどを見て回ったり、石垣を構成する石をじっくり観察していました。あっという間に天守の入城可能時刻である9時になったので、天守内部に入って中の展示を見ました。親子でも楽しめる体験型展示もあって充実しています。 中の展示の一番のお気に入りは、雌雄一対の「迎え虎・送り虎」の絵です。迫力がすごいし、かっこいい! 小倉城のマスコットキャラクター「とらっちゃ」の元になった絵でもあります。写真撮影OKなのもよかったです。しろテラスで販売している枚数限定の高級プ…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…に、土を掘って作る「堀」や、土を盛って造成した「土塁」を持ち、自然地形を巧みに活かした土の城です。 城は、敵の侵入を阻むために堀や土塁を設けて区画した砦を起源に持ち、吉野ケ里遺跡(佐賀県)のような弥生時代の環濠集落も城の起源と言われています。1467年(応仁元年)から始まった応仁の乱を契機に、室町幕府の権威は揺らぎ、日本各地で戦国大名が登場します。戦国大名は自身の力で領国を広げるため、天然の要害である山に山城を築き、そこを戦闘拠点に戦を繰り広げました。時代が進むにつれ、城は「…

二条城で開催中の「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の見どころを写真と動画で紹介

…しいですよ。 本丸内堀 プロジェクションマッピング花火大会 今回のいちばんの目玉がおそらくこのプロジェクションマッピング花火大会です。去年もここでは同じようにプロジェクションマッピングで花火が上がる仕掛けがあったのですが、今回は手拍子や「たーまーやー」という掛け声に反応して、花火の数が変わるようになっています。 考案されたディレクターの山王堂さんは「ようやく声を出せるようになったので人の賑わいを作品に反映させたい」というような話をされてました。ぼくは恥ずかしくて声は出さなかっ…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…。瓦奉行小川孫一郎、堀田左内、青山助一也。御細工請取数多在之、致見物生前思出、忝次第中々申ハ愚候。 【筆者の一言】 安土城天主復元を行う際、様々な文献資料の信憑性を確認していくこととなりますが、筆者が個人的に気になった諸資料の注目点を挙げていきたいと思います。 ・「天守指図」の信憑性 「天守指図」(『國華』第987号 安土城の研究(上)朝日新聞社 1976年より引用) 「天守指図」は宮上先生以降信憑性が疑問視される場合が多いですが、筆者の個人的な見解としては、「『天守指図』は…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…く美しい御三階櫓と水堀の構図が写真映えする。天気が良ければさらに良い。必ずと言っていいほど、写真を撮るポイント。 行田市郷土博物館の一部でもあるこの櫓。郷土博物館に入館すれば、櫓の中にも行けます。ただし、櫓の中ではあるけれど博物館の展示室ですのでご留意ください。展示室ではあるけれど、本館に対する離れ的な別館なので、渡り廊下を渡っていくところが、渡櫓を進むようで、ちょっとワクワクします。 石垣の石の展示は、御三階櫓とは反対側にあるので博物館の片隅にひっそりと並んでいます。立て看…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…ヶ城城址公園」も、内堀より内側のエリアはほぼ戊辰戦争当時の遺構を残しているため、散策しながら面影を探すのもおもしろい。また、公園内には千利休の子・少庵ゆかりの茶室「麟閣」や、鶴ヶ城をモデルに歌詞が書かれたという唱歌「荒城の月」の歌碑もあり見どころは多い。2023年4月28日㈮からは、リニューアル工事を終えた天守閣がグランドオープン。城の歴史にまつわる貴重な資料の展示はそのままに、壁面グラフィックやデジタル技術を駆使した見せ方で、より五感で楽しめる内容へと生まれ変わった。合わせ…

城葱さんの「城もなか」道中記【千葉県編】

…道にある両サイドの空堀が特に注目ポイントだった。空堀の内部に入ることもできたので、その高さを下から眺めると、堀底で木々に囲まれ、公園から一気に森の中へ迷い込んだような気分になります。また、国立歴史博物館も隣接していて、その付近の馬出し空堀も美しく見応えがありました。 その他の佐倉城の城菓子 欧風菓子工房カーメルさんの「佐倉城本丸」 194円 城もなかの皮を用いた、最近台頭してきている、城もなかの新たなる進化系というか新しい城もなかの道ともいうべき、和菓子洋菓子のコラボ「城もな…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…休好みの「待庵」、小堀遠州好みの「密庵」とともに国宝三茶室のひとつですが、その扁額(犬山にあるものではなく正伝永源院に伝わるもの)や、多くの茶道具が展示されています。 千利休や武野紹鴎が作った茶杓もあれば、有楽斎自らがつくった「落葉」と名付けられた茶杓も展示されていました。 また茶碗のコーナーには「有楽井戸」と呼ばれる大井戸茶碗のほか、徳川美術館やマスプロ美術館から借りてきた有楽好みの茶碗が展示されています。 そしてこの特別展の目玉はなんといっても狩野山楽が描いた「蓮鷺図襖」…

福井城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…にふさわしい見事な水堀と石垣と桜がとても美しかったです。 福井城の本丸跡には県庁と県警本部が建てられているのですが、週末でも自由に散策できますし、とくに天守台跡は花見に来られている地元の方も多く、地域に愛されているお城だなと感じました。(観光客目線だと全面を公園化してほしいと思うのですが、そもそも江戸時代の城は政庁であったことを踏まえれば、いま県庁があるのは自然なことですよね) 丸岡城周辺のスタンプ設置場所をまわる 今回スタンプは以下の5か所に設置されています。台紙御城印の販…

「歴史遺産ウォーク in 那珂川『二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー』」開催レポート

…ては土塁を囲むように堀が掘られていたと思われ、みなさん興奮状態でした。 熱心に堀の説明を聞く参加者 次に松野氏の菩提寺である「松林寺」へ。松林寺は曹洞宗の寺院で、1590年(天正18年)に創建されたと。松林寺の裏山は松野城跡となっていて、「城間」の谷を挟んで松野南城と松野北城と呼ばれる城郭が築かれています。現地にその遺構が残っていて、みなさん興味津々でした。 (左)熱心に耳を傾ける参加者(右)松林寺山門前で記念撮影 あるき回りお腹がペコペコ、お楽しみの昼食の時間。奇岩で有名な…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#4】

…るようになってます。堀切や虎口のほか、櫓台のようなものもあり、城跡感はビシビシ感じる。ぐるりといけるけど、先は続いておらず、道はありません。(山城慣れしている城好きさんなら降りれないこともないとは思いますが……)あくまでも、ここはお寺の敷地、来た道を引き返して戻るようにとお寺の方に案内されたので、言われた通りに帰ります。 いつまでも、みんなが安全に、小山田城を楽しめるように。 大庭城の城もなか 「大庭城最中」(丸寿) 税込180円 皮は、三層角中央型。またしても、大庭城には、…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…丸・三の丸の破却と惣堀の埋め立てを条件として加えていたと考えられます。つまり、堀を埋め立てた大坂城は裸城であるため、牢人衆が大坂城を離れることを想定していたようです。 俗に徳川方が一方的に堀を埋めたとのイメージがありますが、現在では、豊臣方も合意の上で、しかも堀の埋め立ては大坂方も行うこととなっていたとの認識になっています。 <大坂冬の陣での和議5条件>・豊臣方の牢人たちは不問とすること・秀頼の身の安全と本領を安堵すること・淀殿の人質としての江戸在住は不要であること・大坂城を…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…家康が改修した土塁と堀が復元されている 1584年(天正12年)3月6日、信雄は秀吉に通じたとして家老3人を殺害しました。これは秀吉に対する事実上の宣戦布告です。これに先立って家康は前年の1583年正月には星崎で信雄と会見しており、この年1584年の2月には使者を伊勢長島城に派遣して何やら密談をしています。おそらく秀吉対策を協議していたものと思われ、3月6日以降の動向がそれを物語っています。つまり、家康は信長・信忠亡き後の「織田政権」に対しては一貫して信雄を支持しており、連携…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#3】

…、その向こうに大きな堀切もあるし、富士見台まで行けば、天気が良ければ、ひょっこり富士山もちょっと見えます。時間があればぜひ行っておきたいところ。 甲斐上野城の城もなか 「雪の椿城」(瓦屋) 雪の椿城は、甲斐上野城の城もなかで、甲斐上野城が「椿城」と呼ばれたことから雪の椿城というネーミング。ふつうなら「〇〇城もなか」と名付けたくなるところを、あえて「雪の椿城」と生菓子のような名前でカッコいい!!雪がついているのは、なぜなのか……。 税込152円 椿がより美しく輝くシーズンの冬を…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…れたり、応戦する中で堀に落ちてしまい、十箇所近くを槍で突かれてしまったそうです。気を失った半蔵殿を見て、家臣が討ち死にされたと家康様に伝えますが、亡骸を回収しようと戻ったところ、なんと息があったそうです。半蔵殿を介抱しながら、共に帰ったと伝わっております。このお話を聞くだけでも、伊賀越えの恐ろしさを感じますね。 その後、この伊賀越えの際に協力した者達を家康様が召し抱え、半蔵殿はその伊賀同心の頭領に。さらに茶屋殿は、家康様お抱えの御用商人となったそうです。 そんな「神君伊賀越え…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…「信長公記」によれば堀江城を目指していたようで、つまり浜松城は素通りされたわけです。 この動きを受けて家康は、背後から信玄を狙うために浜松城から出撃して追いかけました。武田軍が三方ヶ原台地から祝田(ほうだ)坂を下り始めたところを攻撃しようと考えていましたが、信玄は下ると見せかけて全軍を三方ヶ原に展開させて徳川軍を待ち構えていたのです。武田軍は石つぶてを投げて徳川軍を挑発し、戦闘に引きずり込みました。午後4時ごろ開戦。徳川軍は鶴翼の陣、武田軍は魚鱗の陣で布陣したと言われています…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…召し放ちを迫る @外堀?総堀? 大坂方も納得していたと思われる 1615年(元和元年)、74歳 5月、大坂夏の陣 5/8、秀頼・淀殿が自害して豊臣家滅亡 秀頼と千姫には二人の子がいたが、嫡男・国松(8歳)は六条河原で斬首、長女(7歳)は鎌倉の東慶寺に出家 閏6月、一国一城令 @一国一城令は元々法令として交付されたものではなく、毛利・島津・黒田など西国大名に対して酒井忠世・土井利勝・安藤重信3人の連署奉書で個別通達されたものだが、受け取ってない大名も忖度して城を破却したらしい …

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…本丸を置き、周囲を空堀で囲っています。本丸の南西に西の丸、北西に御深井丸(おふけまる)、北西に塩蔵構、南東に二の丸を配置しています。これらを堀(北と西は水堀、東と南は空堀)で囲って中堀としています。さらに台地が連なる東面と南面を大きく囲っているのが三の丸です。城の北側は低湿地帯であるため、敵の侵攻のリスクは低いと考えられ、南側の防御を強化する作りです。名古屋城の縄張りの特徴はいくつかあります。そのひとつは、曲輪を方形にしてずらすように配置していることです。曲輪と曲輪の間は細い…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…郭で、周囲を石垣と水堀が取り囲んでいました。現在の二条城の二の丸東側部分にあたると考えられており、天守は北西隅にありました。単郭とは長方形の本丸のみからなるもので、城の本質部分だけのきわめて単純な構造です。東側には巨大な櫓門がありますが、これが東大手門で堀川に面しています。洛中洛外図屏風は複数あって細かい描写が異なりますが、おおむね、北側にも櫓門があってこの西に土塀が続き、北西隅に五重天守が描かれています。この天守は大和郡山城天守を移築したものです。徳川氏の京都における本拠と…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…というと、本丸及び空堀で仕切られた二つの曲輪があった程度で、城の改修は必要最低限に留めたと言われています。大きく築城を行うのは1603年(慶長8年)の将軍宣下を受けてからになります。つまり、将軍になった後にその城としてふさわしい形に大きく作り替えていったのです。 国家プロジェクトでの築城 江戸城にも最先端技術が導入され、国家プロジェクトで築城された 最初の工事は、神田山を切り崩して日比谷入江を埋め立て、前島を堀割して道三堀や平川へと接続させる工事で70家の大名に手伝い普請を命…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…(いのお)氏・見付の堀越氏らが反乱する。いわゆる「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」「遠州錯乱」だ。一応引き締めには成功したものの、足元が相当揺らいでいたのは間違いない(その背景に武田や徳川の干渉があったとも)。→「遠州忩劇」については歴史ファン的には井伊氏の名前も思い浮かぶことだろう。『おんな城主直虎』でも描かれたように、この出来事の発端になったのは、井伊直親が徳川に内通し、今川に対して謀反を企んだことがあったとされている。しかし、本当に謀反があったのか、「遠州忩劇」とどのく…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…駿府城公園にみられる堀をはじめとする遺構や復元された門・櫓などは慶長期以降のものです。慶長期以降のものは後述するとして、ここでは天正期に駿府城を築城するに至った経緯について書いていきます。 家康は1585年(天正13年)に駿府城を築城し、浜松城から移ったといわれています。徳川家康時代のことが良く書き記されている「家忠日記」を見てみると、天正13年8月14日に「駿府府中普請のために」駿府に出かけ、20日に「石引普請をした」とあります。さらに、天正15年1月26日に「駿州普請のた…

「三管四職」の延長戦(復習回)を攻城団テレビで生配信しました

…が、管領・細川政元は堀越公方・足利政知の子、清晃(のちの11代・足利義澄)を推挙していたため最初から関係が悪い。さらに義材が後ろ盾だった日野富子との関係が悪化したので孤立した。義材は政元が六角征伐と河内征伐に反対したのに無視した。とくに河内征伐は畠山政長が畠山氏を再統一するために畠山基家(義就の子)の討伐を要請したことにはじまっており、義材は細川氏への依存度を下げるために元管領の畠山政長に接近、恩を売ろうとした。一方で政元はライバルの畠山家は内紛をつづけてほしいので反対する。…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…城域は100m四方で堀や土塁で囲んだ4つの曲輪がある並立的な館城(やかたじろ)だったと想像されます。現在でも土塁などの痕跡が残り、地籍図によっても堀跡が確認できます。浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブで江戸時代に描かれた浜松城の縄張りを見ることができます。あわせてご覧ください。 浜松市 歴史資料 絵図 浜松城と城下の絵図 家康は武田信玄の遠江侵攻に備え、この引馬城の堀を西の高い丘まで延ばして城の面積を広げる形で城を大拡張しました。それが現在の浜松城の原型とな…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…の城跡に見える石垣や堀などは、家康が関東へ移ったのちに入城した田中吉政が城を拡張したのにともなって築いたとされ、それ以後の城主によって整備がすすめられたと考えられています。したがって、元康時代の痕跡をたどることも困難な状態です。しかし、家康は浜松城に居城を移すまでのおよそ10年の間をこの城で過ごしており、三河平定を成し遂げています。 いまとは違う土造りだった岡崎城 清海堀はいまでも残っている中世の遺構 清海堀は元康のころにもあった 元康時代の城の様子はほとんどわかっていません…

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