攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

大坂城 の検索結果:

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…り、幕府は大敗する。大坂城で病に倒れていた家茂がこの世を去ったのは、まさにそんな劣勢の中でのことだった。精神的なショックが大きかったのだろう。また脚気の症状が見られたほか、後世に行われた遺骨の鑑定によると「虫歯だらけだった」ともいい、体調悪化の一因だったのでは、と考えられている。 未亡人となった和宮は頭を剃って静寛院宮となり、京には戻らず江戸に残った。数年後に訪れる徳川将軍家の危機に奔走し、亡くなる際には夫と同じ墓に入ることを望んだ。公武合体政策は破綻したが、家茂と和宮には深…

大阪城で公開されている豊臣時代の石垣を見てきました

…有しますね。 豊臣期大坂城の石垣 石垣の技術が急速に発展するのは関ヶ原の戦い以降、江戸時代に入ってのことなので、まだ秀吉の時代は自然石を積んだ「野面積み」と呼ばれる積み方です。お城好きの中にはこの野面積みがいちばん好きだという方もけっこういらっしゃいますね。 いまの大阪城は本丸を囲う石垣など、びしっと整形されたブロック状の石垣が美しく積まれているので、その差がよくわかると思います。直方体に整形されているのもそうなんですけど、石のサイズがぜんぜんちがいますね。 余談ですけど「算…

【戦国時代の境界大名】宗氏――朝鮮半島との交渉・貿易を独占した一族

…らであったが、本人が大坂城に残ったとはいえ、伏見城攻めや関ヶ原本戦に重臣が代理で参戦したにもかかわらず、改易の憂き目に合うことはなかった。これは、朝鮮との和睦、関係復活を狙う家康にとって、宗氏は必要な存在だった、ということがありそうだ。 そして1601年(慶長6年)、ようやく義智らの手によって、朝鮮との交渉が再開された。この際、朝鮮側としても関係復活は望むところであったが、あまり性急に行うとやっとこの頃朝鮮から兵を引き上げたばかりの明から「朝鮮は日本と手を結ぼうとしているので…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…応じて九度山を出ると大坂城(大阪市中央区)に入り、大坂冬の陣・夏の陣の二度の戦いを浪人衆の代表的人物として戦っている。冬の陣では大坂城に「真田丸」と呼ばれる出城を築いて幕府の大軍を防ぎ、そして夏の陣では三度に渡る突撃によって家康の本陣まであと一歩と迫った末に討ち死にしてしまう。その奮戦ぶりには幕府方の諸将も感嘆し、「真田日本一の兵なり」(『後編薩藩旧記雑録』)、「古今にこれなき次第に候」(『細川家記』)と大いに讚えた。 一方、信幸はもともと自分が持っていた沼田2万7千石に父の…

【江戸時代のお家騒動】越前騒動 市川雷蔵主演映画にもなった史上名高い殿ご乱行

…)の首級をあげ、また大坂城一番乗りを果たす大活躍を見せた。これには祖父・家康も忠直の功績を称え「参議に昇格させ、恩賞は後ほど伝える」と口約束をした。 だが翌1616年(元和2年)、家康が亡くなってしまったのでこの口約束はうやむやになり、彼が本当に期待していたであろう領地の加増はなかった。参議への昇進だけでは「戦果をあげた部下に褒美を渡すことができない」と不満を感じた忠直は、幕府および徳川宗家に対して強い反発心を覚えるようになる。もしかしたら「父・秀康は将軍・徳川秀忠の兄として…

【江戸時代のお家騒動】牛方馬方騒動 豊臣恩顧の加藤家改易のきっかけとなる

…う嫌疑だった。密かに大坂城に援兵を送ろうとしたり、城内と連絡をとろうとしていたというのだ。この訴状の内容が将軍・秀忠の勘気にふれ、牛方は敗訴。加藤父子をはじめとする牛方の者らは、多くが流罪に処せられた。 しかし、藩主である忠広はこの事件に関して罪を問われなかった。それは忠広がまだ実質政治に関わっていなかったことに加え、彼の正室が秀忠の養女であったことも大きい。 その後、右馬允正方や棒庵らが忠広を支える形で政権の中心となっていったが、1632年(寛永9年)に加藤家は突然改易とな…

【江戸時代のお家騒動】筒井騒動 改易のウラには家康による深謀遠慮があった!

…ではなかった。定次は大坂城に登城して秀頼に会い続けていたり、筒井家の家臣には未だに豊臣家を支持する者たちがいたりと、豊臣家を警戒する家康にとって不安材料だったのだ。 また、定次が改易された後に外様大名の藤堂高虎が入れられたことも見逃せない。高虎は外様でありながらも、家康への忠勤ぶりから厚い信頼を寄せられていた。豊臣系の大名でありながら信頼のおける高虎を、大坂にほど近い伊賀に配置することは、大坂城を攻略するにあたって大変心強い拠点となる。つまり、そのために邪魔となった定次は、改…

【江戸時代のお家騒動】古田騒動 “乗っ取り陰謀阻止”説と藩主“暗君”説

…恒は、2度にわたって大坂城の普請を手伝い、1637年(寛永14年)には死没した松江藩主・京極忠高の後を引き継いで、松江城の在番を任されている。ところが1646年(正保3年)、重恒に嫡子がいないことが原因となり、彼の跡目を巡ってお家騒動が起きた。これが古田騒動と呼ばれるものだ。 「藩主乗っ取りの陰謀を阻止」説 この事件の流れには、いくつかの説がある。まずは、特に有力だと思われる説から見ていくことにする。事件の始まりは、江戸藩邸に入っていた重恒が中風を患ったことにあった。重恒が病…

【お城の基礎講座】79. 江戸時代の築城

…で焼け落ちてしまった大坂城の再建工事や、二条城の拡張工事、江戸城の増築工事などです。 現在の大阪城の堀や縄張は江戸時代になってから徳川幕府によってつくられたものだ 外様大名(とざまだいみょう)による築城 今までのものは外様大名への備えのための幕府としての築城でした。しかし一方で、外様大名による築城もいくつかあったようです。例えば、丹羽長重が寛永4年(1627年)から白河小峰城(しらかわこみねじょう)を建てました。また慶安元年(1648年)には浅野長政が赤穂城を着工しています。…

【お城の基礎講座】75. 織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)

…すが、秀吉が築城した大坂城や朝鮮出兵のために作られた名護屋城(なごやじょう)などは諸大名を動員した天下普請(てんかぶしん)によって築かれています。これが近世城郭の普及や築城技術の発展に大きな影響を及ぼしました。近世城郭の築城の仕方を知らない諸大名が天下普請によって実際に城を作ることによって、城の作り方や考え方などを学んでいったのです。また朝鮮で作られた倭城(わじょう)など戦いのための城が朝鮮出兵の後に逆輸入されるということもあり、発展を遂げていきました。例としては毛利輝元の広…

【お城の基礎講座】56. 土塁(どるい)の構造

…ね坂」と呼びます。 大坂城の雁木。大阪城には雁木が多く残されている。 まとめ 城を守るために土を盛り上げて作った土塁の構造と名称についてみてみました。武者走り、犬走、雁木などの土塁の構造によってできる部分なども城巡りのときに見てみると面白いかもしれませんね。ということで、城を守る土塁の構造のお話でした。じゃあね🖐️ このコラムが毎日メールで受け取れます 以下のページからメールマガジン(無料)に登録すれば、このコラムの第1回からメールで読むことができます。 【無料】たかまる。メ…

【お城の基礎講座】54. 空堀(からぼり)

…が残されています。 大坂城の内堀には大きな空堀がある 名古屋城内堀。堀幅の広い空堀が現存する。鉄砲の射程を考えた堀幅だ まとめ 中世城郭は山城が主だったため、空堀が多用されました。近世になって巨大な平城に変化していきましたが、それにあわせて空堀も進化していきました。ということで、敵の侵入を防ぐための空堀のお話でした。じゃあね🖐️ このコラムが毎日メールで受け取れます 以下のページからメールマガジン(無料)に登録すれば、このコラムの第1回からメールで読むことができます。 【無料…

【お城の基礎講座】53. 水堀(みずぼり)

…かもしれませんね。 大坂城の内堀。たくさんの水がためられた水堀で堀幅も広い 何重もの堀 近世の城郭では堀を何重にも巡らすことが多かったです。二重の場合は内側から内堀(うちぼり)、外堀(そとぼり)と呼ばれました。三重の場合は内側から内堀、中堀(なかぼり)、外堀と呼ばれました。総堀(そうぼり、惣堀とも書く)というのは一般的に外堀のことを示しますが、城によっては外堀のさらに外側に作られた城下町を囲う堀のことを指すことがあります。これを総構え(そうがまえ、惣構えとも書く)と呼ぶことが…

nanoblock(ナノブロック)から首里城が新発売!

…リーズとして姫路城や大坂城、熊本城などが販売されてきました。大河ドラマ「真田丸」放映時には「上田城櫓門」という渋い限定商品も販売されていました。 kojodan.jp 今回の「首里城」は840ピースのブロックを組み合わせて正殿と守礼門が作れるとか。 提供:株式会社カワダ 提供:株式会社カワダ さらにこの守礼門のパーツを組み替えて「龍柱」も再現できます! 提供:株式会社カワダ(ピンセットは別売りです) 提供:株式会社カワダ nanoblockの完成度にはいつも驚かされますが、今…

【お城の基礎講座】36.高麗門(こうらいもん)

…見られる形式です。 大坂城大手門の高麗門は旧式。 新式 新式の高麗門は元和年間(1615年~1624年)以降に改良された形式です。鏡柱が高く伸ばされたのが特徴です。鏡柱が屋根まで伸びて冠木は鏡柱の横に突き刺すようになりました。そのため冠木の上に小さい壁ができます。門の上の高さが土塀より高くなるため、カッコ良くなりました。 江戸城大手門の高麗門は新式 まとめ 高麗門は薬医門の欠点を改良した機能性の高いもんです。慶長年間に出現しその後はお寺の山門に使われるなど広まっていきました。…

【お城の基礎講座】30.最高格式の三重櫓(さんじゅうやぐら)

…城には、江戸城、徳川大坂城、姫路城、岡山城、熊本城、高松城などがあります。 大きさ 最大の三重櫓は熊本城・宇土櫓 最小の三重櫓は弘前城の三基 ▲ 江戸城の富士見櫓。(写真:たかまる。) 現存する三重櫓のうち最も大きいものは熊本城の宇土櫓です。宇土櫓はもともとは天守だったという説もあるほど大きく、規模で言えば、姫路城天守、松江城天守に次ぐものです。一方で、現存する三重櫓のうち最も小さいものは弘前城二の丸辰巳櫓(たつみやぐら)、未申櫓(ひつじさるやぐら)、丑寅櫓(うしとらやぐら)…

【お城の基礎講座】28.再建された天守の再建年代

…てられました。 ▲ 大坂城天守。「太閤の城」と思われがちだが、徳川時代の天守台の上に建ち、外観も大きく異なる復興天守だ。 模擬天守の建築 模擬天守とは、位置や規模も外観も史実と異なって再建したものを指します。最も古いものは洲本城(兵庫県)です。昭和3年(1927年)に昭和天皇の即位を記念して、展望台として建てられました。それ以外には、 郡上八幡城(岐阜県) 伊賀上野城(三重県) 富山城(富山県) 浜松城(静岡県) 中津城(大分県) 平戸城(長崎県) 伏見城(京都府) 横手城(…

【お城の基礎講座】27.復興天守(ふっこうてんしゅ)と模擬天守(もぎてんしゅ)

…されています。 ▲ 大坂城天守。「太閤の城」と思われがちだが、徳川時代の天守台の上に建ち、外観も大きく異なる復興天守だ。 模擬天守(もぎてんしゅ) 天守の規模や位置、外観などが史実と大きく異なる場合や、天守が実際にあったかどうか分からないのに再現したもの、天守がなかった時代の城郭に天守を建ててしまったものを「模擬天守」(もぎてんしゅ)と言います。お城再建ブームの時にこのような模擬天守が沢山作られました。 三戸城 横手城 上山城 忍城 関宿城 久留里城 館山城 富山城 勝山城 …

【お城の基礎講座】24.籠城のために

…いの前哨戦にて 豊臣大坂城:大阪冬の陣夏の陣にて 会津若松城:戊辰戦争にて などがあります。もっと他にもあるかもしれないので、いろいろと探してみてください。 備えあれば 戦国の世ではいつ籠城戦になるかわからないため、城郭全体だけでなく天守にも籠城戦に必要な設備が備えられたところがあります。※ここでは天守の籠城への備えだけに絞りました。 畳敷き 籠城戦において多くの人々が天守に詰めることになれば、そこは一転して生活の場にもなります。天守の床は現在では板張りになっていますが、創建…

【お城の基礎講座】22.鯱(しゃち・しゃちほこ)

…せんが、安土城、豊臣大坂城、広島城、岡山城にも挙がっていたと思われます。 ▲ 大坂城復興天守には金の鯱が上げられている。かつての豊臣大坂城天守にも金シャチが上げられていたらしい。 ▲ 岡山城外観復元天守。金の鯱が上げられている。かつてもこのような姿だったのだろうか ▲ 清洲城模擬天守。信長の居城だったためか、模擬天守にも金の鯱が輝く。 まとめ 鯱は頭が虎、体が魚の空想上の生物ですが、火除け・守り神として天守に付けられています。その素材は瓦製がほとんどですが、金の鯱で有名な名古…

【お城の基礎講座】20.懸魚(げぎょ)と蟇股(かえるまた)

…ついています。 ▲ 大坂城天守には三花蕪懸魚が良く似合う 兎毛通(うのけどおし) 唐破風に取り付けられる懸魚は兎毛通しと呼ばれます。横に広がっていて厚みもあります。なぜこのような名前になったのかは定かではありませんが、装飾としてはとても美しいものです ▲ 丸亀城天守の唐破風の兎の毛通し 下手すると見逃がしそうな懸魚ですが、形に注目してみたり比較してみたりすると面白いかもしれませんね。 蟇股(かえるまた) 蟇股とは 蟇股(かえるまた)は妻壁に付けられる装飾で、カエルが足を開いた…

【プレゼントあり】「名城の石垣図鑑」のご紹介

…城(愛知県岡崎市) 大坂城(大阪府大阪市) 姫路城(兵庫県姫路市) 彦根城(滋賀県彦根市) 丸亀城(香川県丸亀市) 熊本城(熊本県熊本市) 二条城(京都府京都市) 大和郡山城(奈良県大和郡山市) 和歌山城(和歌山県和歌山市) 備中松山城(岡山県高梁市) 岡山城(岡山県岡山市) 広島城(広島県広島市) 鳥取城(鳥取県鳥取市) 松江城(島根県松江市) 萩城(山口県萩市) 高松城(香川県高松市) 伊予松山城(愛媛県松山市) 宇和島城(愛媛県宇和島市) 観音寺城(滋賀県近江八幡市) …

5.譜代大名の出世頭「老中」

…頼りに寺社奉行兼務、大坂城代、京都所司代、西の丸老中と、出世コースをまっしぐらに突き進んだが、確実に本丸老中となるため、水野忠成に徹底的にお金をつぎ込んだ。唐津藩のときの財政的特権は、このときすでに失われていたはずだから、ずいぶんな負担だったろうが、おかまいなしだったのである。屋敷に招いて宴席を持てば50から100両、隔月に進呈した物品は20両から50両、多いときは、やはり100両。とにかく出費をいとわずに払い続け、念願の本丸老中の座を射止めたのである。昇進のためでなくても、…

4.出世と譜代大名

…。初代は奥平信昌。 大坂城代(おおさかじょうだい) 大坂城を守り、西国の大名の動静を監視する役職。豊臣家滅亡後、大坂が幕府の直轄地となって伏見城代の内藤信正が転任されたのが始まりとされる。2万石から15万石の石高の譜代大名まで選任され、1万石が俸禄として与えられた。また、赴任の際に従四位下の官位も授けられた。大坂は畿内の軍事的中心であり、大坂城代の責任は重い。任期は1年ないし3年の交代制の時期もあったようだが、結局はまちまちで、のべ70人ほどが任命されている。 大坂定番(おお…

日本全国の桜の名所なお城、花見にオススメなお城一覧【2020年版】

…325 大阪城公園(大坂城) 大阪府大阪市中央区大阪城 姫路城 兵庫県姫路市本町68 明石公園(明石城) 兵庫県明石市明石公園1-27 郡山城址公園(大和郡山城) 奈良県大和郡山市城内町 久松公園(鳥取城) 鳥取県鳥取市東町2丁目 松江城山公園(松江城) 島根県松江市殿町 鶴山公園(津山城) 岡山県津山市山下135 徳島中央公園(徳島城) 徳島県徳島市徳島町城内 松山城山公園(松山城) 愛媛県松山市丸之内1 小城公園(小城陣屋) 佐賀県小城市小城町185 熊本城 熊本県熊本市…

キミは「城もなか」を知っているか? 全国城もなかマップのご紹介

…代の堺という点から「大坂城」としている。) 城下町もなか 岸和田城 大阪府 小山梅花堂 150円 手作りタイプ。粒あん。 五層もなか 姫路城 兵庫県 五層もなか本舗(なかの株式会社) 194円 五層の城の皮。刻み栗が入った粒あん。S31昭和の大改修記念で誕生。 城白(shiro shiro)モナカ 姫路城 兵庫県 五層もなか本舗(なかの株式会社) 250円 平成の大改修記念で地元高校生とコラボして誕生。クリームチーズ入り白あん(チーズあん)にホワイトチョコチップが入り、皮は白…

南山王の居城・南山グスクと、沖縄最南端の具志川グスクを取材してきました

…」の際に全国の浪人が大坂城に集まってきたみたいですね。 郷土史によれば、南山軍の勢いは中山軍を押し返すほどで、尚巴志の右腕だった弟もこの戦いで討死しています。 「南山グスクは遺構も石垣くらいで、見学できるエリアも限定的なので、こうして歴史の話や人物の話をして楽しんでもらうようにしてるんです」と中川さんはおっしゃっていましたが、ほんとに楽しくてずっと聞いていたいと思うほどでした。お手製のフリップも攻城団としても見習いたいですし、今後のガイドツアーのヒントにもなりました。 なお小…

琉球版・麒麟がくる!? 阿麻和利の居城・勝連グスクを取材してきました

…に使うというのは豊臣大坂城や忍城はじめ、本土のお城でもよく見られたアイデアですね。 ふだんは田んぼとして稲作をしていたようで、じっさい明治初期まで田んぼとして使われていたそうです。なお湿地帯があるということは水が豊富ということでもあり、後述しますが、城内には井戸もたくさんあります。 階段をのぼると四の曲輪に出ます。 四の曲輪 城内でもっとも広いのがこの四の曲輪です。約2000坪あるとか。 上の写真の右側、つまり三の曲輪側に重臣の居住区が、反対側にはノロ(神女)や鍛冶屋など職人…

家のためか、信仰のためか? 細川ガラシャの死

…する大名の家族たちは大坂城下の屋敷に住まわせられていた。実質的な人質である。そして、家康不在を好機と見た石田三成が挙兵し、関ヶ原の役が始まる。 三成はさっそく彼女たちを人質として活用するべく、まず最初にガラシャに対して「大坂城にくるように」と使者を送った。名門・細川氏を押さえることの意味も大きかったろう。これに対し、ガラシャは断固拒否の態度をとった。出発前の忠興が「人質にならないよう気をつけろ」と注意を促していた、ともいう。 家臣は脱出も促したがガラシャは首を振らず、ついに三…

若武者・木村重成の討ち死に

… しかし、天下無双の大坂城に篭もることができた先の戦いと違い、幕府方の謀略によって城の濠を埋められてしまったこの戦いでは、豊臣方は積極的に打って出るしかない。結果、多くの犠牲者を出すことになる――その中の一人に、重成もいたのである。1615年(慶長20年)の5月6日、重成の率いる一隊は河内方面の幕府軍を攻撃した。 奇襲によって藤堂高虎の軍勢は打ち破れたものの、続く井伊直孝の部隊にはかなわず、打ち破られてしまった。このときに重成も戦死してしまったわけだ。その後、重成の首は家康の…

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