攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

榎本秋 の検索結果:

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

「徳川家康はなぜ天下を取れた」のだろうか――本連載最後にふさわしい、そして非常に答えるのが難しい問いかけである。昔からみんなが好きな疑問であり、多くの答えが出されてきた。実際、なにかしら偉大な事業を達成した人に対して、「この人が事業を成し得たのは何か特別な理由があったからだ」と思いたくなるのは、人間として自然な心の動きと言えるだろう。では、家康に対して人々はどのような「理由」を見出したのだろうか? 代表的な理由のひとつは家康個人の性質に見出される。すなわち、「我慢強さ」「忍耐…

【家康の謎】家康の辞世の句は? 家康の遺訓は本物か?

己の死を前にして、家康はいくつかの遺言を残し、また辞世の句を書いて、死んでいったという。今回はその「家康が残した言葉」群をまとめて紹介しよう。この時代、武士には辞世の句を詠む、つまり人生の最期に俳句を詠んで残すという習慣があった。最期なのだから一句のはずなのだが、なぜか何句も残っている人がいて、家康もその中のひとりだ。まずひとつは「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」――再び目を覚ますことができて嬉しい。なぜ嬉しいのかと言えば、最期の眠りだと覚悟していたからだ。だ…

【家康の謎】家康の死因は?

大河ドラマ「どうする家康」はいよいよ大坂の陣による豊臣家の滅亡と、広義の意味での戦国時代の終わりへ向かっている。しかし、この連載ではあえてひと足さきに家康の死にまつわる幾つかの物事について紹介する形を取りたい。何しろ戦国時代を終わらせ、太平の江戸時代を招いた男であるから、その死の前後の事情については語るべきところが多すぎるのだ。今回はそのうちのひとつとして、家康の死因にまつわる話をしたい。 家康は豊臣家を滅ぼした直後の1616年(元和2年)、駿府城でその75年という当時からす…

【家康の謎】家康はどうして豊臣家を滅亡させたの?

大河ドラマ「どうする家康」はいよいよ最後のクライマックスイベント――大坂の陣を迎えようとしている。家康は関ヶ原の戦いおよびその後の戦後処理、さらには江戸幕府の創設によって、「豊臣政権の最大実力者」から「新たな政権のトップ」へとその立場を変えた。だが豊臣政権の継承者である豊臣秀頼は生きている。この状態を「江戸幕府・徳川将軍による単独政権」とみるか、「徳川・豊臣二重政権」と見るかについて議論があることは、すでに紹介した通りだ。その後、歴史は江戸幕府の攻撃による豊臣家の滅亡という結…

【家康の謎】家康はなぜ江戸に幕府を開いたの?

家康はなぜ幕府を開く場所、己の本拠地を江戸に定めたのか。室町幕府に倣って京都に移ったり、豊臣政権の大坂を乗っ取るという選択肢を選ばなかったのはなぜだろうか。そこに明確な理由はあったのだろうか。この問いかけに対する一番シンプルな答えは、「そもそも都市としての江戸がすでにそれなりに発展していたから」であろう。自分の本拠地を十分に発展させていたなら、わざわざ他の天下人が開いた都市を再利用する必要がない、というのは合理的な考え方である。 家康が東海地方から移ってきてそろそろ10年くら…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

天下分け目の関ヶ原の戦い――家康はその戦いに、どのくらいの勝算を持って挑んだのだろうか。通説では、決戦開始時には家康率いる東軍は劣勢であったと語られる。兵力こそほとんど互角であったものの、陣形としてはおおむね平地に陣取る東軍に対して、西軍の諸部隊はその前後左右を半ば包囲する形になっていた。家康が陣を置いた桃配山から見て左手に位置する松尾山の小早川秀秋や、後方に位置する南宮山・毛利氏の軍勢が一気に攻め込んできたなら、ひとたまりもなかったはずだ。 実際にはよく知られている通り小早…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

私たちは戦国時代(織豊・安土桃山含む)の合戦と言われると、どうしても両軍がぶつかり合う戦いのことばかりを考えてしまいがちだ。しかし『孫子』曰く「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む」――戦う前に勝ちを決めている方こそが勝つもので、負ける方はその逆というわけで、ぶつかり合う前の準備・工作こそが重要なのである。 では、準備とは何か。兵を集め、物資を整えるのも大事だが、味方を増やし、敵を減らすための外交交渉・調略はそれ以上に重要である。毛利輝元・石田…

【家康の謎】家康が直江状に激怒したのは本当?

いよいよ大河ドラマ『どうする家康』でも始まる天下分け目の決戦、関ヶ原の戦い。そのきっかけとなったのが家康による会津・上杉家討伐のための出陣であり、ひいてはその呼び水となったとされる「直江状」である。そもそもの始まりは、家康が五大老のひとり、上杉景勝にかけた謀反疑惑――「新しく城を築いたり、浪人を召し抱えたりしているのは、豊臣政権に逆らおうとしているのではないか」という主張であった。そこで家康は「誓詞を出せ」「弁明するために上洛せよ」と上杉家に要求した。 この疑惑に対処する立場…

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

豊臣秀吉の死後、豊臣政権内ではさまざまな問題が顕在化し、不協和音が加速していく。その中のひとつが、加藤清正・福島正則らを筆頭とする武断派と、石田三成ら文治派の対立であった。そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説にお…

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

豊臣秀吉は主君であった織田信長の死後、その政権を吸収して自らの豊臣政権を作り上げ、天下統一を達成した。そして、豊臣政権において東国の押さえを担当し、また群を抜く大大名として君臨したのが徳川家康であることは、すでにこの連載でも書いてきた通りである。では、家康の領地はどのような変遷で増え、各時期においてどのくらいの石高であったのか。推測の域を出ないところもあるけれど、追いかけてみよう。 独立大名としての家康のスタートはまだ松平元康だった頃、父祖の地である岡崎城主としてのものだ。の…

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

豊臣秀吉の生涯を代表する大事業といえば、ひとつは天下統一(及びそこに付随する太閤検地や石高制への移行など統治政策)であり、もうひとつは文禄・慶長の役――朝鮮出兵であろう。前者が華々しい成功であったのに対して、後者ははっきりと失敗に終わった。この大事業の失敗は豊臣政権に大小のダメージを与え、最終的な家康による天下取りへつながることになる。その意味で、徳川家康と江戸幕府の歴史においても重大な事件であるといえよう。 朝鮮出兵で派遣されたのは主に西国に所領を持つ諸大名であった。家康は…

【家康の謎】家康が関東に移ったときの江戸はどんな感じだった?

豊臣政権による北条攻めが終わると、家康は北条氏の旧領である関東を与えられた。こうなると、どこを徳川家の本拠地にするか、が大事になる。広大な関東を支配するために適切な場所を選ばなければ、行政に破綻をきたす恐れがあるからだ。常識的に考えれば、候補に上がるのは小田原、あるいは鎌倉であったろう。小田原は北条五代が本拠地とした都市であり、十分に発展している。一方、鎌倉は源氏ゆかりの地であり、鎌倉時代には鎌倉幕府が、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国統治の重要拠点であり続けた場所だ。このど…

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

大河ドラマ『どうする家康』では徳川・豊臣(羽柴)の対立が終わり、家康は秀吉の支配下に入ってその天下統一を支える立場に変わっていく。この豊臣政権において、家康は「五大老」――すなわち、五人の主要な大名の、中でも筆頭の存在として遇される。 では、なぜ家康は五大老の筆頭となったのだろうか。五大老の名前を並べてみると、徳川家康・前田利家(死後、嫡男の利長に交代)・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(死後、上杉景勝に交代)となり、このうち前田利家は織田政権時代から生き延びた大名であり、宇…

【家康の謎】家康はどうして関東に行かされたの?

大河ドラマ『どうする家康』でもそろそろ豊臣政権による北条攻め、そして家康の領地が東海・中部の五ヶ国から関東の八ヶ国へ移り変わる時期が近づいてきた。のちにこの関東の地こそが250年の大平を築いた江戸幕府の基盤になったわけだが、転封当時に家康とその家臣団は一体どのように受け止めていたのだろうか。 後世の私たちの目で考えると、五ヶ国が八ヶ国になったのだから大加増(石高としてはほぼ倍)ということになる。単純に喜んでいいように思える。しかし、一方で当時は京都こそが日本の中心であり、その…

【家康の謎】三河譜代ってなに?

今週は放送がお休みということもあって、久しぶりにちょっとストーリーから外れた解説をしてみよう。時代劇などでもしばしば出てくる「三河譜代」というワードを掘り下げてみたい。 そもそも「譜代」というのはどういう意味か。元々の言葉としては「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という一般名詞である。ただ、江戸時代に限定すると、この言葉にはもっと特別な意味が出てくる。つまり「譜代大名」の譜代だ。江戸時代の大名(いわゆる徳川大名、もしくは近世大名)は、大きく分けて…

【家康の謎】家康はなぜ上田城の戦いで自ら出陣しなかったのか?

真田氏は小規模な大名ながら、家康をはじめとする戦国時代末期の人物を主役とする大河ドラマでは欠かせない勢力になっている。2016年の『真田丸』の記憶がまだ新しい人も多いだろうし、今回の『どうする家康』でも、真田昌幸役には佐藤浩一氏が割り当てられているあたりからも、その役の大きさがよくわかるというものだ。では、どうして真田氏はここまで大きく扱われるようになったのか。それは三度にわたって徳川氏を痛い目に遭わせたからであり、その一度目が先週の放送回でも扱われた、いわゆる第一次上田城の…

【家康の謎】家康はなぜ石川数正に出奔されたのか

ここまで大河ドラマでも長く描かれてきた通り、石川数正は家康第一の側近として活躍してきた人物である。松平(徳川)と織田の同盟にせよ、今川氏との手切れを受けての家康嫡子・信康の奪還にせよ、またその後の徳川氏の外交・内政にせよ、数正の働きは抜群であったという。いわゆる「神君伊賀越え」にも同行しており、家康にとって数正以上に信頼できる側近はほとんどいなかったのではないか。 そんな数正が、小牧・長久手の戦い後の家康・秀吉の睨み合いの時期に、突如として家中を出奔。家康にとって宿敵であった…

【家康の謎】家康は武術の達人だったの?

徳川家康は学問好きの教養人だった、と以前この連載で紹介した。とはいえ、家康は戦国乱世を生きた武将である。彼にとってより近しいのは学問より武術であったはずだ。じっさい家康はさまざまな武術を学び、修めていたという話が現代に残っている。 まず、武士といえば剣術であろう。家康の剣術の師としては、奥山休賀斎(おくやま きゅうがさい)の名前がよく知られている。新陰流の祖である剣聖・上泉信綱(かみいずみ のぶつな)の弟子にあたる人物だ。家康は彼のもとで熱心に剣を学び、その秘伝を外に出さない…

【家康の謎】家康のブレーンにはどんな人たちがいたの?

戦国大名、ひいては天下人にもなると、求められる知識や交流は莫大な範囲になる。とてもひとりの人間がフォローできる範囲ではない。そうなると「ブレーン」、つまり相談役や顧問などと呼ばれるような、知識や助言、交流・コネの分野で活躍する人が必要になる。これは現代の政治家や実業家と同じことだ。当然、家康にもブレーンはいた。 戦国大名のブレーンといえば、まず名前が上がるのは僧侶である。この時代、僧侶は公家と並んで希少な知識階級であり、領地の運営や法律の制定などに欠かせない人材だった。家康も…

【家康の謎】家康は信長の姉妹を娶ったのか?

大河ドラマ「どうする家康」では序盤から現在描かれている中盤に至るまで、北川景子演じるお市が活躍している。お市は家康の同盟者・織田信長の妹で、浅井長政のもとに嫁ぐも、織田・浅井の同盟関係が破綻して長政が死ぬと織田へ引き戻された。さらに信長の死後に織田の重臣・柴田勝家のもとへ再嫁するも、その柴田が滅亡する際に運命を共にした、という女性だ。彼女と長政の間に生まれた3人の娘がそれぞれ有力大名のもとに嫁ぐなど、お市は戦国時代を語るにあたって欠かせない存在ではある。しかし、家康とお市の間…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

織田信長は本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、自害した。本能寺の変である。以後、織田家中は主君の仇討ちと実質的後継者の座をめぐる大混乱に巻き込まれていくことになるわけだが、同時期に人生最大のピンチに追い込まれていた人物がいた。誰あろう、徳川家康である。この時の家康のピンチは、後世「三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。 本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の…

【家康の謎】本能寺の変での家康黒幕説ってどんな説?

本能寺の変――それは日本史上最大のミステリーのひとつ、と言っていいだろう。天下取りまで後一歩と迫っていた織田信長が、ある日突然、重臣のひとりである明智光秀に討たれてしまう大事件だが、なぜこうなったのか理解し難いところがある。 信長が英雄とみなされるのに対して、光秀はその素性もよくわからない人物であり、英雄を討つのには(あえて言えば)格が低い。そこで「光秀を操っていた黒幕がいるのではないか」という考え方が数多く唱えられてきた。例えば「朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」などは、光秀と…

【家康の謎】家康は戦に強かったの?

家康は戦に強かったのか――この質問に答えるためには、まず重大な定義をしなければいけない。それは「戦(いくさ)に強いって何?」である。果たしてどのような条件を達成していたなら、「戦に強い」と言えるのだろうか。これが「信長の野望」や「太閤立志伝」といったゲームなら「統率」や「武勇」と言った数字で戦の強さをパッと見ることができる。ちなみにこれらのゲームで家康の戦関連能力はあらかた90台後半で、ゲーム制作者たちが家康の戦の強さを高く評価していることがわかる。 とはいえ実際のところ、戦…

【家康の謎】徳川四天王は誰が決めたの?

家康ものの大河ドラマでは必ず活躍する「徳川四天王」といえば、本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政の4人である。「四天王」というのは仏教世界観の話で、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)という東西南北=四方を守護する天(仏の一種)のことである。ここから転じて、なんらかのグループにおける傑出した4人の実力者のことを「四天王(○○四天王)」と呼ぶようになった。徳川四天王という名付けも、その流れを受けてのものである。しかしこの…

【家康の謎】家康は倹約家だったの?

家康のことを倹約家――すなわち「ケチ」だと思っている方は多いのではないか。実際にどうだったのかはよくわからない。このイメージは、主に江戸時代に語られた各種の逸話の影響によるものが大きいと思われるからだ。ウェブ上では「譜代家臣たちに大きな所領を与えていないのは家康がケチだったからだ」などという主張も見られるが、これはどちらかというば政治上の問題だったのではないか(幕政を取り仕切る譜代大名の所領は小さくして独走・暴走を抑え、幕政にかかわらせない外様大名は所領を大きくして不満を持た…

【家康の謎】いわゆる「三英傑」って誰が決めたの?

徳川家康といえば、織田信長・豊臣秀吉と並んで愛知出身の「三英傑」のひとり――とスムーズに答えられたあなたは、もしかしたら東海地方の人かもしれない。愛知のテレビ局が最近調査したところによると、この呼び名は東海地方だけで流通している可能性がある。新幹線の駅ごとに調査したところ、東は静岡で、西は岐阜と滋賀の境目あたりが限界で、それより先ではそれぞれ調査した10人のうち過半数が三英傑の名前を答えられないという結果が出た、という。とはいえ、近年は大河ドラマで戦国時代後期をテーマに扱うた…

【家康の謎】家康が尊敬していた人物は?

家康は中国・日本の歴史書を好んで読み、歴史を学んだと記録に残っている。そして、私たち現代日本人が歴史上の人物たちを崇敬し、憧れるように、家康もまた彼にとっての歴史上の人物を尊敬した、という。ここで名前が上がるのは、まず中国の人物として「周の文王・武王・周公旦(しゅうこう たん)、前漢の劉邦、唐の太宗(たいそう)、太公望、張良、韓信、魏徴(ぎ ちょう)」である。以下、簡単に紹介しよう。 周の文王・武王・周公旦:悪政を行ったとされる殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を倒し、周の国を作…

【家康の謎】家康は勉強熱心だった?

家康は名のある戦国大名の中でも屈指の教養人、学問好きというイメージがある。各種のドラマでも自家製の薬を作って飲んでいるシーンがしばしば描かれているが、これらに象徴されるように趣味的な教養よりは教訓的・実学的な方向へ興味が強かったようだ。これに対して、詩・文章、和歌・連歌といった芸術的なことにはあまり興味を持たなかったとされる。 よほど文明が発展するまで、学問を深める手段は大きく分けてふたつ。すなわち、人に会って教えを乞うか、書物を通して知識を増やすか、だ。家康はこのどちらに対…

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

家康は生涯で16人、内訳としては十一男五女をもうけた。現代的な常識からすればとんでもない子だくさんだ。ただ、戦国時代の大名、というよりも近代以前の有力者にとって子だくさんは別に珍しくもない話だった。例えば伊達稙宗は男女合わせて20人以上の子を作っている。もちろん、現代のように一夫一婦制でこれだけの子を為すのは難しい。大勢の側室がいたからこそ可能であったわけだ。 では、どうしてそんなに子を作るのか。武家をはじめ、有力な家というものは存続のために当主の血を残すことを至上命題とする…

【家康の謎】家康の正室・側室は何人いたの?

家康の正室はふたりいる。ひとりはもちろん、ドラマでも初期から登場している築山殿(瀬名姫)である。今川家の重臣である関口氏純の娘であり、またその母は今川義元の妹とされる(諸説あり)ことから、家康と今川家を深く結びつける意味を持っていたことはここまでにも見てきた通りだ。 その築山殿が悲劇的な死を迎えた7年後、家康は新たな正室を迎え入れた。それが朝日姫――豊臣秀吉の実の妹である。この人は佐治日向守という武将に嫁入りしていたとされるが、他ならぬ兄・秀吉の命令によって離婚させられ、改め…

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