攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

秋 の検索結果:

平賀源内という男

平賀源内は日本のエジソン、稀代の天才発明家というイメージでしたが、じっさいは不器用な器用人というかすごいんだかすごくないんだかよくわからない人だったようです。エジソンよりも「万能の天才」と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチに近かったのかもしれません。そんな平賀源内について今回は榎本先生に解説していただきました。 平賀源内のイメージ 平賀源内。江戸時代に活躍した学者である。テレビ時代劇か漫画、アニメなどでしばしば登場したり、あるいはモデルにしたキャラクターが作られてきたので、名前…

城葱さんの「城もなか」道中記【鳥取・島根編】

… 1800円 地元の秋の味覚がふんだんに使われた期間限定の城パフェ。抹茶とバニラアイスを囲むように、羊羹、わらび餅、巨峰、ポン菓子、さつまいもが石垣に見立てて並べられています。また、底に黒蜜が隠されています。まぁガラスの器で横から丸見えですが、あるのを知っているのと知らないのでは食べ方も違ってくると思います。 尼子氏のフラッグ(旗指物)が刺さっているのが城好き、戦国好きにはたまらないパフェですね。写真にしても映えます! メインである城もなかの皮、三層角右寄り型の片面が抹茶アイ…

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…23年11月23日 秋月城 御城印 秋月鎧揃え版 秋月城(福岡県朝倉市) 朝倉市立秋月博物館、秋月駐車場管理組合 観光案内所、筑前秋月 和紙処、朝倉市観光案内所 ほとめく館 500円 印刷 A6 2023年11月21日 十河城 御城印 十河城(香川県高松市) 十河の郷 昭和おもひで館 300円 印刷 はがき大 2023年11月19日 片野城 御城印 片野城(茨城県石岡市) 銅山堂 330円 印刷 縦15cm、横10.5cm 2023年11月19日 府中城 御城印 府中城(茨城…

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

「徳川家康はなぜ天下を取れた」のだろうか――本連載最後にふさわしい、そして非常に答えるのが難しい問いかけである。昔からみんなが好きな疑問であり、多くの答えが出されてきた。実際、なにかしら偉大な事業を達成した人に対して、「この人が事業を成し得たのは何か特別な理由があったからだ」と思いたくなるのは、人間として自然な心の動きと言えるだろう。では、家康に対して人々はどのような「理由」を見出したのだろうか? 代表的な理由のひとつは家康個人の性質に見出される。すなわち、「我慢強さ」「忍耐…

【家康の謎】家康の辞世の句は? 家康の遺訓は本物か?

己の死を前にして、家康はいくつかの遺言を残し、また辞世の句を書いて、死んでいったという。今回はその「家康が残した言葉」群をまとめて紹介しよう。この時代、武士には辞世の句を詠む、つまり人生の最期に俳句を詠んで残すという習慣があった。最期なのだから一句のはずなのだが、なぜか何句も残っている人がいて、家康もその中のひとりだ。まずひとつは「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」――再び目を覚ますことができて嬉しい。なぜ嬉しいのかと言えば、最期の眠りだと覚悟していたからだ。だ…

【家康の謎】家康の死因は?

大河ドラマ「どうする家康」はいよいよ大坂の陣による豊臣家の滅亡と、広義の意味での戦国時代の終わりへ向かっている。しかし、この連載ではあえてひと足さきに家康の死にまつわる幾つかの物事について紹介する形を取りたい。何しろ戦国時代を終わらせ、太平の江戸時代を招いた男であるから、その死の前後の事情については語るべきところが多すぎるのだ。今回はそのうちのひとつとして、家康の死因にまつわる話をしたい。 家康は豊臣家を滅ぼした直後の1616年(元和2年)、駿府城でその75年という当時からす…

【家康の謎】家康はどうして豊臣家を滅亡させたの?

大河ドラマ「どうする家康」はいよいよ最後のクライマックスイベント――大坂の陣を迎えようとしている。家康は関ヶ原の戦いおよびその後の戦後処理、さらには江戸幕府の創設によって、「豊臣政権の最大実力者」から「新たな政権のトップ」へとその立場を変えた。だが豊臣政権の継承者である豊臣秀頼は生きている。この状態を「江戸幕府・徳川将軍による単独政権」とみるか、「徳川・豊臣二重政権」と見るかについて議論があることは、すでに紹介した通りだ。その後、歴史は江戸幕府の攻撃による豊臣家の滅亡という結…

【家康の謎】家康はなぜ江戸に幕府を開いたの?

家康はなぜ幕府を開く場所、己の本拠地を江戸に定めたのか。室町幕府に倣って京都に移ったり、豊臣政権の大坂を乗っ取るという選択肢を選ばなかったのはなぜだろうか。そこに明確な理由はあったのだろうか。この問いかけに対する一番シンプルな答えは、「そもそも都市としての江戸がすでにそれなりに発展していたから」であろう。自分の本拠地を十分に発展させていたなら、わざわざ他の天下人が開いた都市を再利用する必要がない、というのは合理的な考え方である。 家康が東海地方から移ってきてそろそろ10年くら…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

…する松尾山の小早川秀秋や、後方に位置する南宮山・毛利氏の軍勢が一気に攻め込んできたなら、ひとたまりもなかったはずだ。 実際にはよく知られている通り小早川に対しては寝返りの交渉が進んでおり、毛利に対しては先鋒の吉川広家との間に不戦の約束が結ばれていたものの、果たして裏交渉の通りに話が進むのか、家康は大いに不安であったはずだ。彼がイライラしている時の癖であった爪噛みの仕草をしていたこと、また戦の途中で松尾山に対して鉄砲を撃ち込ませる(いわゆる「問鉄砲」)暴挙に挑んでいたことが知ら…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…勢の不戦や、小早川秀秋の裏切り(近年はそもそも東軍側で、状況的に西軍につかざるを得なかっただけという説も有力だが)によって決着したことを思えば、家康はこの時の手紙攻勢によって天下を掴んだといっても過言ではあるまい。 ちなみに、通説では7月24日に家康が「小山評定」と呼ばれる会議を行ったとされる。これは上杉征伐に参加した諸将に西軍の挙兵を伝え、「諸将の中には妻子を大坂に残したものもいるので、誰に味方するかは任せる」と宣言したというものだ。諸将は家康の意気に応じて東軍参加を決めた…

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…ただき、現在開催中の秋季特別展「御殿の美」を学芸員の中村さんに案内していただきました。取材の動画はこちらです。 www.youtube.com このブログでは取材を通じてぼくが感じたことや、取材のための予習で学んだことなどを書こうと思います。 金沢城に豪華な御殿が? そもそもなぜ御殿をテーマにした特別展が企画されたのかという話になるのですが、それは現在石川県で金沢城二の丸御殿の復元計画が進んでいるからです。これまでも河北門や橋爪門、玉泉院丸庭園に鼠多門と江戸時代の金沢城を蘇ら…

【家康の謎】家康が直江状に激怒したのは本当?

いよいよ大河ドラマ『どうする家康』でも始まる天下分け目の決戦、関ヶ原の戦い。そのきっかけとなったのが家康による会津・上杉家討伐のための出陣であり、ひいてはその呼び水となったとされる「直江状」である。そもそもの始まりは、家康が五大老のひとり、上杉景勝にかけた謀反疑惑――「新しく城を築いたり、浪人を召し抱えたりしているのは、豊臣政権に逆らおうとしているのではないか」という主張であった。そこで家康は「誓詞を出せ」「弁明するために上洛せよ」と上杉家に要求した。 この疑惑に対処する立場…

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

豊臣秀吉の死後、豊臣政権内ではさまざまな問題が顕在化し、不協和音が加速していく。その中のひとつが、加藤清正・福島正則らを筆頭とする武断派と、石田三成ら文治派の対立であった。そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説にお…

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

豊臣秀吉は主君であった織田信長の死後、その政権を吸収して自らの豊臣政権を作り上げ、天下統一を達成した。そして、豊臣政権において東国の押さえを担当し、また群を抜く大大名として君臨したのが徳川家康であることは、すでにこの連載でも書いてきた通りである。では、家康の領地はどのような変遷で増え、各時期においてどのくらいの石高であったのか。推測の域を出ないところもあるけれど、追いかけてみよう。 独立大名としての家康のスタートはまだ松平元康だった頃、父祖の地である岡崎城主としてのものだ。の…

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

豊臣秀吉の生涯を代表する大事業といえば、ひとつは天下統一(及びそこに付随する太閤検地や石高制への移行など統治政策)であり、もうひとつは文禄・慶長の役――朝鮮出兵であろう。前者が華々しい成功であったのに対して、後者ははっきりと失敗に終わった。この大事業の失敗は豊臣政権に大小のダメージを与え、最終的な家康による天下取りへつながることになる。その意味で、徳川家康と江戸幕府の歴史においても重大な事件であるといえよう。 朝鮮出兵で派遣されたのは主に西国に所領を持つ諸大名であった。家康は…

【家康の謎】家康が関東に移ったときの江戸はどんな感じだった?

豊臣政権による北条攻めが終わると、家康は北条氏の旧領である関東を与えられた。こうなると、どこを徳川家の本拠地にするか、が大事になる。広大な関東を支配するために適切な場所を選ばなければ、行政に破綻をきたす恐れがあるからだ。常識的に考えれば、候補に上がるのは小田原、あるいは鎌倉であったろう。小田原は北条五代が本拠地とした都市であり、十分に発展している。一方、鎌倉は源氏ゆかりの地であり、鎌倉時代には鎌倉幕府が、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国統治の重要拠点であり続けた場所だ。このど…

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

大河ドラマ『どうする家康』では徳川・豊臣(羽柴)の対立が終わり、家康は秀吉の支配下に入ってその天下統一を支える立場に変わっていく。この豊臣政権において、家康は「五大老」――すなわち、五人の主要な大名の、中でも筆頭の存在として遇される。 では、なぜ家康は五大老の筆頭となったのだろうか。五大老の名前を並べてみると、徳川家康・前田利家(死後、嫡男の利長に交代)・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(死後、上杉景勝に交代)となり、このうち前田利家は織田政権時代から生き延びた大名であり、宇…

【家康の謎】家康はどうして関東に行かされたの?

大河ドラマ『どうする家康』でもそろそろ豊臣政権による北条攻め、そして家康の領地が東海・中部の五ヶ国から関東の八ヶ国へ移り変わる時期が近づいてきた。のちにこの関東の地こそが250年の大平を築いた江戸幕府の基盤になったわけだが、転封当時に家康とその家臣団は一体どのように受け止めていたのだろうか。 後世の私たちの目で考えると、五ヶ国が八ヶ国になったのだから大加増(石高としてはほぼ倍)ということになる。単純に喜んでいいように思える。しかし、一方で当時は京都こそが日本の中心であり、その…

【家康の謎】三河譜代ってなに?

今週は放送がお休みということもあって、久しぶりにちょっとストーリーから外れた解説をしてみよう。時代劇などでもしばしば出てくる「三河譜代」というワードを掘り下げてみたい。 そもそも「譜代」というのはどういう意味か。元々の言葉としては「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という一般名詞である。ただ、江戸時代に限定すると、この言葉にはもっと特別な意味が出てくる。つまり「譜代大名」の譜代だ。江戸時代の大名(いわゆる徳川大名、もしくは近世大名)は、大きく分けて…

【家康の謎】家康はなぜ上田城の戦いで自ら出陣しなかったのか?

真田氏は小規模な大名ながら、家康をはじめとする戦国時代末期の人物を主役とする大河ドラマでは欠かせない勢力になっている。2016年の『真田丸』の記憶がまだ新しい人も多いだろうし、今回の『どうする家康』でも、真田昌幸役には佐藤浩一氏が割り当てられているあたりからも、その役の大きさがよくわかるというものだ。では、どうして真田氏はここまで大きく扱われるようになったのか。それは三度にわたって徳川氏を痛い目に遭わせたからであり、その一度目が先週の放送回でも扱われた、いわゆる第一次上田城の…

【家康の謎】家康はなぜ石川数正に出奔されたのか

ここまで大河ドラマでも長く描かれてきた通り、石川数正は家康第一の側近として活躍してきた人物である。松平(徳川)と織田の同盟にせよ、今川氏との手切れを受けての家康嫡子・信康の奪還にせよ、またその後の徳川氏の外交・内政にせよ、数正の働きは抜群であったという。いわゆる「神君伊賀越え」にも同行しており、家康にとって数正以上に信頼できる側近はほとんどいなかったのではないか。 そんな数正が、小牧・長久手の戦い後の家康・秀吉の睨み合いの時期に、突如として家中を出奔。家康にとって宿敵であった…

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…トでの情報によれば、秋には秋のシーズン限定のものがあるほか、毎年デザインが変わっているようでした。何度も足を運びたくなる工夫ですね。お店の人が頑張ってアイディアを練り上げ、商品として実現させてくれていると思うと、ありがたい気持ちでいっぱいです。 こんなにも城もなかを使った進化系城もなかが豊富なお店があるとは思いませんでした。城もなか好きの私には、天国のような場所を見つけてしまったwこんなお店が至る所にあれば……。1城下町1店舗でできないかなぁと夢見ています。 なお、このお店は…

【家康の謎】家康は武術の達人だったの?

徳川家康は学問好きの教養人だった、と以前この連載で紹介した。とはいえ、家康は戦国乱世を生きた武将である。彼にとってより近しいのは学問より武術であったはずだ。じっさい家康はさまざまな武術を学び、修めていたという話が現代に残っている。 まず、武士といえば剣術であろう。家康の剣術の師としては、奥山休賀斎(おくやま きゅうがさい)の名前がよく知られている。新陰流の祖である剣聖・上泉信綱(かみいずみ のぶつな)の弟子にあたる人物だ。家康は彼のもとで熱心に剣を学び、その秘伝を外に出さない…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…1806『海防辨』 秋葉 実/編1989『北方史史料集成』第二巻 ※『加賀家文書』について、同書の翻刻に拠って参照した。池田 哲郎1959「佐久間象山と蘭学-象山蘭書志-」『福島大学学芸学部論集』第10号市川 一学1850『御城地之儀ニ付存寄申上候書付』※北海道大学附属図書館北方資料室所蔵本のデジタルアーカイブに拠った。江川 英龍『砲術門人姓名簿』国文学研究資料館 伊豆韮山江川家文書データベース公開資料江差町史編集室1979『江差町史』資料編第三巻※『松前藩御達留』について、…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…4・1857)では、秋田藩のマシケ陣屋で行われた砲術演習は和式砲術によるかたちだけのものであったり、自らの属する仙台藩の白老陣屋では藩士が幕府役人に賄賂を渡し日がな釣りにいそしんでいるなど、北方防衛の弛緩ぶりを強く嘆いています) 1861年(文久元年)には、戸切地陣屋正面大通り沿いに本拠福山より藩士を移住させ、その屋敷が立ち並ぶ居住地を土塁で囲んでしまいます(図28)。これは、サヴァール教本では禁忌である「陣前斜面に構築された敵の進軍に利することのできる家屋などの建築物」に他…

【家康の謎】家康のブレーンにはどんな人たちがいたの?

戦国大名、ひいては天下人にもなると、求められる知識や交流は莫大な範囲になる。とてもひとりの人間がフォローできる範囲ではない。そうなると「ブレーン」、つまり相談役や顧問などと呼ばれるような、知識や助言、交流・コネの分野で活躍する人が必要になる。これは現代の政治家や実業家と同じことだ。当然、家康にもブレーンはいた。 戦国大名のブレーンといえば、まず名前が上がるのは僧侶である。この時代、僧侶は公家と並んで希少な知識階級であり、領地の運営や法律の制定などに欠かせない人材だった。家康も…

【家康の謎】家康は信長の姉妹を娶ったのか?

大河ドラマ「どうする家康」では序盤から現在描かれている中盤に至るまで、北川景子演じるお市が活躍している。お市は家康の同盟者・織田信長の妹で、浅井長政のもとに嫁ぐも、織田・浅井の同盟関係が破綻して長政が死ぬと織田へ引き戻された。さらに信長の死後に織田の重臣・柴田勝家のもとへ再嫁するも、その柴田が滅亡する際に運命を共にした、という女性だ。彼女と長政の間に生まれた3人の娘がそれぞれ有力大名のもとに嫁ぐなど、お市は戦国時代を語るにあたって欠かせない存在ではある。しかし、家康とお市の間…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-3.戸切地陣屋ができるまで(3)-松前崇広・藤原主馬の軍制改革と、その「思わぬ」結末-

…交わすことを「一日千秋ノ思」で待つ崇広の心情が記されているなど、当時の崇広の進める軍制刷新において主馬が大きな存在感を示していたことがうかがえるものでした。 図8.嘉永7年(1854年)4月~5月における藤原主馬の東奔西走 図9.嘉永7年5月2日付、松前崇広筆・藤原主馬あて書簡(個人蔵) ペリーとの交渉後も着々と軍制刷新は進み、松前城の改築竣工(10月1日)・領内各台場の西洋式への改築(12月14日)と、崇広・主馬らの努力を結ぶかに思われた1855年(安政2年)3月20日、幕…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

織田信長は本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、自害した。本能寺の変である。以後、織田家中は主君の仇討ちと実質的後継者の座をめぐる大混乱に巻き込まれていくことになるわけだが、同時期に人生最大のピンチに追い込まれていた人物がいた。誰あろう、徳川家康である。この時の家康のピンチは、後世「三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。 本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の…

【家康の謎】本能寺の変での家康黒幕説ってどんな説?

本能寺の変――それは日本史上最大のミステリーのひとつ、と言っていいだろう。天下取りまで後一歩と迫っていた織田信長が、ある日突然、重臣のひとりである明智光秀に討たれてしまう大事件だが、なぜこうなったのか理解し難いところがある。 信長が英雄とみなされるのに対して、光秀はその素性もよくわからない人物であり、英雄を討つのには(あえて言えば)格が低い。そこで「光秀を操っていた黒幕がいるのではないか」という考え方が数多く唱えられてきた。例えば「朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」などは、光秀と…

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