攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

豊臣秀吉 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…正19年)に出された豊臣秀吉の朱印状の宛名が『津軽右京亮』となっていることがわかりました。あわせて領地安堵についても1590年(天正18年)12月の上洛時から1591年(天正19年)6月の九戸一揆討伐の際に軍役動員されるまでの間のことだと考えられているそうです。 さて、1591年(天正19年)に起きた「九戸政実の乱」は豊臣政権によって討伐されますが、見落としてはならないのは四戸(櫛引)氏、七戸氏、久慈氏など南部一族の多くが(宗家であったはずの三戸南部氏ではなく)九戸氏に加担し…

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

豊臣秀吉の死後、豊臣政権内ではさまざまな問題が顕在化し、不協和音が加速していく。その中のひとつが、加藤清正・福島正則らを筆頭とする武断派と、石田三成ら文治派の対立であった。そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説にお…

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

豊臣秀吉は主君であった織田信長の死後、その政権を吸収して自らの豊臣政権を作り上げ、天下統一を達成した。そして、豊臣政権において東国の押さえを担当し、また群を抜く大大名として君臨したのが徳川家康であることは、すでにこの連載でも書いてきた通りである。では、家康の領地はどのような変遷で増え、各時期においてどのくらいの石高であったのか。推測の域を出ないところもあるけれど、追いかけてみよう。 独立大名としての家康のスタートはまだ松平元康だった頃、父祖の地である岡崎城主としてのものだ。の…

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

豊臣秀吉の生涯を代表する大事業といえば、ひとつは天下統一(及びそこに付随する太閤検地や石高制への移行など統治政策)であり、もうひとつは文禄・慶長の役――朝鮮出兵であろう。前者が華々しい成功であったのに対して、後者ははっきりと失敗に終わった。この大事業の失敗は豊臣政権に大小のダメージを与え、最終的な家康による天下取りへつながることになる。その意味で、徳川家康と江戸幕府の歴史においても重大な事件であるといえよう。 朝鮮出兵で派遣されたのは主に西国に所領を持つ諸大名であった。家康は…

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…、羽柴があり、つまり豊臣秀吉と源家康、羽柴秀吉と徳川家康が等しい関係になります。 名字を変えた戦国大名・戦国武将 今回、榎本先生に調べてきていただいたのはこんなにあります。 上杉謙信のケース 山県昌景のケース 惟任光秀のケース 一色義龍のケース 姉小路良頼のケース 北条早雲のケース 津軽為信のケース 松前慶広のケース 徳川家康のケース もちろんこれはほんの一例で、たとえば毛利元就は毛利家を継ぐ前は多治比元就を名乗っていたし、真田昌幸も武藤氏の養子となって武藤喜兵衛を名乗ってい…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…年(天正18年)に、豊臣秀吉の命で家康が関東へ移封されたことに伴い、諏訪原城は廃城になったと考えられています。 じつはこの諏訪原城、2023年(令和5年)に、築城されてからちょうど450年を迎えました。島田市博物館では、第91回企画展「築城450年記念 諏訪原城」の開催や、落語家の春風亭昇太師匠が隊長を務める「諏訪原城応援隊」のみなさんとイベントを実施するなど、諏訪原城の記念すべき年を盛り上げるべく、様々取り組んでいます! 今まで諏訪原城を知らなかった人も、ぜひこの記事を読め…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…土の都市と城の挿絵、豊臣秀吉の城を描いた屏風及び同時期の様々な屏風を参考にして、安土山図屏風を独自に推定復元してみました(下図)。屏風がどの方角からの俯瞰で描かれたかは不明であることや、本当に屏風は二曲一双であったのかなど、いくつかの疑問点は残りますが、安土山図屏風の大まかな印象はだいたいこのようなものであったのではないでしょうか。 「安土山図屏風」推定復元概略図(筆者作成)。諸記録によれば、屏風は横幅1m弱の箱に収められて日本からバチカンへと運搬され、その後、屏風は木の板で…

【家康の謎】家康は戦に強かったの?

…てしまうのも無理がある。家康は三河一向一揆によって家臣団が切り崩されても、そこから立て直すことができた。武田信玄や勝頼らに圧されても、ギリギリのところで領土を守り、最終的な逆転に繋げた。また、羽柴秀吉(豊臣秀吉)とは小牧・長久手の戦いで互角以上の戦いを演じ、それは豊臣政権における優位(ひいてはのちの天下取り)に繋がった。このように、家康は決して戦に弱い武将ではなかったろうが、「強かった」かどうかと言われると「歴史の彼方のことであってよくわからない」というのが正直な答えである。

【家康の謎】いわゆる「三英傑」って誰が決めたの?

…といえば、織田信長・豊臣秀吉と並んで愛知出身の「三英傑」のひとり――とスムーズに答えられたあなたは、もしかしたら東海地方の人かもしれない。愛知のテレビ局が最近調査したところによると、この呼び名は東海地方だけで流通している可能性がある。新幹線の駅ごとに調査したところ、東は静岡で、西は岐阜と滋賀の境目あたりが限界で、それより先ではそれぞれ調査した10人のうち過半数が三英傑の名前を答えられないという結果が出た、という。とはいえ、近年は大河ドラマで戦国時代後期をテーマに扱うたびに「三…

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…参照)。次男・秀康は豊臣秀吉のもとへ養子として送られ、のちに結城晴朝の養子になる。家康の跡を継いだのは三男・秀忠だ。その秀忠と同母弟の四男・忠吉はのちに関ヶ原の戦いで活躍するも、間も無く病に倒れてこの世を去った。五男・忠吉は武田家を再興させてその当主に据えられるも、彼もまた若くして亡くなっている。六男の忠輝は大きな所領を与えられたものの、大阪の陣での振る舞いを問題にされて改易、流罪に処された。その弟として松千代という子がいたが、幼くして亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の…

【家康の謎】家康の正室・側室は何人いたの?

…た。それが朝日姫――豊臣秀吉の実の妹である。この人は佐治日向守という武将に嫁入りしていたとされるが、他ならぬ兄・秀吉の命令によって離婚させられ、改めて家康の正室として送り込まれることになった。背景には当時の情勢がある。この頃、家康と秀吉は対立状態にあり、小牧長久手の戦いでは家康方が有利であったが秀吉の政治工作によって大義名分を失う形になっていた。秀吉としてはどうにか家康を政治的に取り込みたいと考えており、そのために妹を政略結婚の道具にした、というわけだ。 家康は朝日姫を正室と…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…れない。だが天下人・豊臣秀吉亡き跡の覇権争いで徳川家康と鋭く対立した景勝は、着工3ヵ月ほどで築城を放棄、天下分け目の関ケ原で敗者となり、米沢へと移された。古い空撮写真によると鶴ヶ城と比較しても2倍の面積はあり、規模の大きさを伺えるが本丸と二の丸四隅の土塁を除き、昭和40年代の圃場整備により遺構を失った。二の丸南側の如来堂が建つ土塁は、幕末の戊辰戦争時に、新選組らが戦った激戦地としても知られる。城好きならお気付きかもしれないが、城郭配置は山形の米沢城跡と酷似。景勝は三十万石で米…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…kipediaにも「豊臣秀吉に関しては絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷評されている」と紹介されてますね。ゲームでは謎のキャラクターとしてよく出てくる幻術師・果心居士の記述もあるようで、たしかにうさんくさい系の本のようです。 現代でもフェイクニュースが拡散して、その訂正記事はまったく読まれず、まちがった情報だけが広まり定着してしまうことはよくありますが、徳川家康が織田家で悲惨な人質時代を起こしたエピソードのように、この長益の悪評も創作話が引用されまくった結果、数…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(初日)

…、最後の城主となった豊臣秀吉様の時代のものが多くあらわれているとのことで、秀吉様の個性が強く出たものだと考えられるそうです。現在も、多くの遺構をご覧いただけます。 さらに福島館長は、山崎の戦いの際に、大山崎に伝わる民の動きなどもご研究されておられ、此度のご講演も大変興味深いお話をお聞きいただけたと思います。 大山崎町歴史資料館は、JR東海道線・山崎駅下車、徒歩5分、阪急電鉄京都線・大山崎駅下車すぐと、駅からとても近くなっております。またお車では、名神高速道路・大山崎ICから約…

【家康の謎】家康はなぜ曳馬城を浜松城に改名したの?

…さらに下についていた豊臣秀吉が訪れたことがある……という逸話も)。ところが、その連竜が今川氏に反旗を翻したところ、策謀によって駿府へ誘き出された結果として殺されてしまう。残された曳馬城家臣団内部の対立を家康が調停し、支配下に収めたという経緯であるわけだ。 では、どうして曳馬から「浜松」と名を改めることになったのか。元の名が「馬を引く」と読めるが、これは退却・敗北を意味するから縁起が悪い、ということになったらしい。現代の常識で考えると「そんなことでいちいち名前を変えるのか」と思…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…武田信玄、織田信長、豊臣秀吉と多くの人からさまざまなことを学んだのだろうと思います。 余談ですが高天神城を紹介する際の定型句にもなっている「高天神を制する者は遠江を制する」という言葉の出典はご存知ですか?掛川市のサイトにも 1571年、遠江への侵攻を本格的に開始した信玄は、「高天神を制する者は遠江を制する」と言われた徳川方の高天神城をものにすべく攻め入る。https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/10224.html …

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…わゆる「旧二条城」、豊臣秀吉が1583年(天正11年)に京における拠点として築いた「二条第(妙顕寺城)」、そして徳川家康が築城した「二条城」で、これが現在私たちが知っている二条城です。徳川家康が築城したのち三代将軍家光の時に大改修されているため、実際に見ることができるのはこの当時の二条城ということになります。 徳川家康が築城した二条城は、1601年(慶長6年)に西国大名を動員した公儀普請(天下普請)によって築城されました。造営総奉行は京都所司代の板倉勝重、作事大工棟梁は中川正…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…いた江戸は、くしくも豊臣秀吉に命じられて移封した先。世界有数の一大都市となる基礎を築いた家康ですが、その道のりは平たんではなかったはずです。天下普請によって築かれた江戸城と家康時代の天守を最新研究結果から探ってみます。 江戸城を大城郭へ 山を切り崩して埋め立て、広大な土地を確保して大城郭とした 江戸城は太田道灌が築いた城と言われています。家康は、1590年(天正18年)の小田原征伐後に秀吉より東海五カ国から関八州への転封を命じられたため、それに従って江戸に入城しました。家康が…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…らなかった。中央から豊臣秀吉が進出してきて、龍造寺はそちらへ臣従する事で滅亡を免れたのだ。その後、鍋島による平和的な下剋上を経て、鍋島家が江戸時代へ入って幕末まで続いたのはご存じの通り。 ●即滅亡ではないが実質的に命脈が失われているケース ・中国の二強の片方、一度は戦国時代に上洛まで達成した大内氏のケースを紹介する。→大内氏は古代に百済の王族がやってきて聖徳太子に謁見し、日本に定着したという伝説がある。鎌倉時代より武士として力を持ち、西日本でも有数の大名の一つとして権勢を誇っ…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…織田家に仕えたものの豊臣秀吉により追放され滅びている。しかし和泉半国守護家の末裔である細川藤孝(ふじたか)が信長に仕え、その子の忠興(ただおき。細川一族のうち、奥州家と呼ばれる血筋に養子に入る)が豊臣・徳川と仕え、長く残ったのはあまりに有名。 斯波氏 ・斯波氏は応仁の乱の時に分裂。大きく分けて宗家・武衛家の本拠地である尾張と、越前の系統に分かれた。尾張は言わずもがな織田信長の本拠地でもある。信長が一時期本拠にしていた清洲城に斯波氏がいた。もともと家臣のさらに家臣(信長の家は尾…

歴史ゲーム「太閤立志伝V DX」について榎本先生と語り合いました

…う点で、タイトル通り豊臣秀吉で立身出世を図るだけじゃなく、茶人や剣豪としてその道を極めたり、鍛冶屋や海賊にもなれます。ただしいきなりすべての人物でプレイできるわけじゃなく、ゲームを進めて親密度を増していくことでその人物がプレイ可能になります(それを「札を集める」と言います)。 織田信長や明智光秀は「本能寺の変」のイベントを起こさないと札がもらえないとか、人物ごとに取得難易度もちがっていたりしていろいろと奥深いです。(なおこのふたりは「本能寺の変」直前のシナリオではじめればけっ…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…に迎えている。これは豊臣秀吉の妹で、別の男性と結婚していたにもかかわらず、家康を自分の傘下に引き込みたい秀吉によって家康の正室として送り込まれたとされる。しかし家康は彼女を正室にしながらも上洛して秀吉の支配下に入ろうとはしなかったので、最終的に秀吉の母まで家康の元へ赴くことになった。朝日姫自身は駿河に住んで「駿河御前」と呼ばれたりもしたが、母が病気ということで一度京都に戻った後は家康のところへはゆかず、そのまま数年後に亡くなっている。夫婦としての関係性はほぼなかったと考えてい…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…った各分野で活躍し、豊臣秀吉からは「天下の器」と絶賛された。一方で当代一流の文化人であると同時に蔵書家としても知られ、さらに秀吉の側近・石田三成や、前田利益(慶次郎)などの牢人衆とも親交があり、人付き合いの広い人物だった。 そんな彼は上杉家に仕えた樋口兼豊(ひぐち かねとよ)の子として誕生する。長じてからは景勝の側近として働き、この頃は樋口与六(よろく)と呼ばれていた。しかし、景勝の側近である直江信綱(なおえ のぶつな)が毛利秀広(もうり ひでひろ)という人物に殺害され、この…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…われるほどだった。 豊臣秀吉の死とそれに続く前田利家の死は、再び戦乱の時代が迫っていることを示していた。豊臣政権の最大の敵を家康と見た勝猛は、何度も彼を暗殺するよう三成に提案したという。武断派との仲も悪い三成では、歴戦の名将である家康にはかなわないと判断したのだ。しかし、あくまで官僚であり、大義名分を掲げて戦えばいいと考えていた三成はこれを却下してしまう。 そうこうするうちに、今度は三成の命が危険にさらされる。加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料に…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…ろうとしている関白・豊臣秀吉との対立だった。政宗は同じように秀吉と反発する関東の北条家と手を結ぶ。しかし、北条家は1590年(天正18年)に秀吉の大軍に攻められ、政宗のところにもその攻撃に参加するようにと命令が下る。この時、勇猛果敢な伊達成実が国に籠もっての徹底抗戦を主張し、政宗自身も秀吉と戦うことを考えていた中、ひとり会議で沈黙する人物がいた。それが景綱だ。 これに気付いた政宗は夜にこっそりと彼の家を訪れ、改めてどうすればいいのかを尋ねる。すると彼は団扇で物を払う仕草をして…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…吉ではない、天下人・豊臣秀吉の出発だったといえよう。 もちろん官兵衛は毛利家との講和にも大きな役割を果たし、さらにのちの四国征伐・九州征伐・小田原城攻めといった大きな戦いでも諸勢力の説得や敵方武将の調略などで活躍する。ところがこうした功績ゆえにかえって秀吉は官兵衛を警戒するようになり、小田原の北条攻めが終わると政治の中心から外されてしまうのだ。 この警戒の原点は、どうも「本能寺の変」の際のあの一言にあったようだ。主君が謀反にあって殺された場合は秀吉のように悲嘆にくれる方が普通…

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

…ている逸話がある。 豊臣秀吉が天下人だった頃の話だ。直江兼続の項でも触れるが、秀吉は各大名家の優秀な武将を愛し、「豊臣」姓を与えて懐柔しようとした。直茂も兼続らと同じように秀吉に気にいられ、豊臣姓をもらったのだが、秀吉なりに彼らについては言いたいこともあったようで、ある時こんなことを言った。「天下を取るためには大気・勇気・知恵が必要だが、この3つを兼ね備えたものはいない。ふたつを持つ者はいるが、上杉の直江兼続には知恵がなく、毛利の小早川には勇気がなく、龍造寺の鍋島直茂には大気…

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

豊臣秀吉の「両兵衛」と言えば、彼の両腕として活躍した軍師として大変に有名だ。その一方、黒田官兵衛には外交折衝や謀略などで活躍しているイメージがあり、もうひとりの竹中半兵衛は痩せ形で長身、優しい顔立ちといった外見や、病で死んだことなどもあって知性派の策士、というイメージがある(もちろんこれはフィクションで積み上げられたイメージであるわけだが)。 半兵衛は幼少の頃から武芸よりも学問や読書を好んで兵法書にも通じ、長じては秀吉の軍師として活躍する。その知略は様々な古代の英雄にたとえら…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

豊臣秀吉の軍師といえば、まず誰を連想するだろうか? 病に倒れた竹中半兵衛と野心を秘めた黒田官兵衛の「両兵衛」が最も有名だが、ちょっと渋好みの人だったら主に内政面を担当して兄を支えた豊臣秀長(とよとみ の ひでなが) を挙げるかもしれない。しかし、秀吉を支えた家臣団の中にはもうひとり、軍師的な役割を担った重要な人物がいる。彼の名は蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)。蜂須賀小六、という名前の方が通りがいいだろうか。 彼は尾張国(現在の愛知県西部)海東郡は蜂須賀村の出身で、木曾川筋を…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

真田といえば、豊臣秀吉に「表裏比興の者(表裏があって信用ならない者の意味)」と呼ばれた謀将・真田昌幸(さなだ まさゆき)と、その子で徳川家康を後一歩までに追いつめ「真田日本一の兵」と讃えられた勇将・真田幸村が有名だ。しかし、ここで紹介する昌幸の父親・真田幸隆(さなだ ゆきたか。正しくは幸綱(ゆきつな))もその活躍では彼らに負けていない。忍者を使っての情報戦や裏切り工作などの謀略を得意とし、武田信玄の軍師として活躍した彼は、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受けており、家…

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