攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

関ヶ原の戦い の検索結果:

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

…とになった。ようやく関ヶ原の戦いで勝利して天下を取るまで、家康の生涯は我慢の連続であり、その強さこそが彼に天下を取らせた、というわけだ。 ――さて、この通説は事実だろうか。そもそも戦国乱世において、近くに「格上」がいて圧迫されなかった大名(武将)の方が希少なのではないか。織田信長にしても、家督継承直後には弟と争い、その後は今川氏に圧迫され、上洛後は包囲網の諸勢力に圧迫されるとともに自ら擁立した将軍・足利義昭との関係性は難しいものがあった。我慢強さが求められる状況、忍耐が最大の…

【家康の謎】家康はどうして豊臣家を滅亡させたの?

…うとしている。家康は関ヶ原の戦いおよびその後の戦後処理、さらには江戸幕府の創設によって、「豊臣政権の最大実力者」から「新たな政権のトップ」へとその立場を変えた。だが豊臣政権の継承者である豊臣秀頼は生きている。この状態を「江戸幕府・徳川将軍による単独政権」とみるか、「徳川・豊臣二重政権」と見るかについて議論があることは、すでに紹介した通りだ。その後、歴史は江戸幕府の攻撃による豊臣家の滅亡という結果へ向かっていく。ではどうしてそうなったのか? 家康はなぜ豊臣家を滅ぼしたのか? と…

【家康の謎】家康はなぜ江戸に幕府を開いたの?

…ろそろ10年くらい。関ヶ原の戦い頃の江戸の人口は6万人程度であったらしい。京都は同時期に30万から40万、大坂は20万人というから、人口ではまだまだ劣る。しかし、以前にこの連載でも紹介した通り江戸は関東・東国における交通の要所であり、また海の埋立・山の切り崩しによって都市を拡張する余地は十分にあった。家康が「わざわざ京都・大坂へ移らなくとも、江戸を幕府の本拠地として拡大すれば良い」と考えた可能性は小さくない。 歴史書の類を調べてみても、「どうして関東に入った家康は江戸を本拠地…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

天下分け目の関ヶ原の戦い――家康はその戦いに、どのくらいの勝算を持って挑んだのだろうか。通説では、決戦開始時には家康率いる東軍は劣勢であったと語られる。兵力こそほとんど互角であったものの、陣形としてはおおむね平地に陣取る東軍に対して、西軍の諸部隊はその前後左右を半ば包囲する形になっていた。家康が陣を置いた桃配山から見て左手に位置する松尾山の小早川秀秋や、後方に位置する南宮山・毛利氏の軍勢が一気に攻め込んできたなら、ひとたまりもなかったはずだ。 実際にはよく知られている通り小早…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…し、敵を切り崩して、関ヶ原の戦いの勝利を掴み取ったのである。関ヶ原の戦いが毛利勢の不戦や、小早川秀秋の裏切り(近年はそもそも東軍側で、状況的に西軍につかざるを得なかっただけという説も有力だが)によって決着したことを思えば、家康はこの時の手紙攻勢によって天下を掴んだといっても過言ではあるまい。 ちなみに、通説では7月24日に家康が「小山評定」と呼ばれる会議を行ったとされる。これは上杉征伐に参加した諸将に西軍の挙兵を伝え、「諸将の中には妻子を大坂に残したものもいるので、誰に味方す…

【家康の謎】家康が直江状に激怒したのは本当?

…る天下分け目の決戦、関ヶ原の戦い。そのきっかけとなったのが家康による会津・上杉家討伐のための出陣であり、ひいてはその呼び水となったとされる「直江状」である。そもそもの始まりは、家康が五大老のひとり、上杉景勝にかけた謀反疑惑――「新しく城を築いたり、浪人を召し抱えたりしているのは、豊臣政権に逆らおうとしているのではないか」という主張であった。そこで家康は「誓詞を出せ」「弁明するために上洛せよ」と上杉家に要求した。 この疑惑に対処する立場にあったのが、上杉家の重臣・直江兼続である…

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…ドラマにおける未来、関ヶ原の戦い後の徳川の領地を見てみよう。関ヶ原後、豊臣家の蔵入地(直轄領)の大部分および西軍諸大名の所領が没収され、それらは論功行賞に加えて徳川家の直轄地に当てられた。この関ヶ原戦後の徳川家の領地は一般に400万石とされる(徳川家の蔵入地ということだと、大坂の陣後だが約230万石という数字もある。おそらく、旗本や御家人の所領を除いた数字ということだろう)。家康は広大な領地に加え、各地の重要な都市や鉱山などを己の蔵入地に組み込み、江戸時代の礎としたのであった…

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

…れないが、そうはならなかった。朝鮮出兵は一度の休戦を挟みつつ泥沼の状態で戦いが進み、ついに秀吉が死んで中止されるまで、状況が好転することはなかったのである。また、秀吉に代わる朝鮮での指導者としても豊臣政権生え抜きである石田三成が派遣されたため、家康の出番はなかった。結果、石田三成は加藤清正ら武断派諸将との関係が悪化(例えば、加藤清正は三成らに「朝鮮との講和を妨害している」と讒言され、一時的に蟄居の処分を受けている)し、のちの関ヶ原の戦いへつながる種が蒔かれることとなったのだ。

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…いたのが譜代大名で、関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開き天下人になった家康に従うようになったのが外様大名と思えばおおむね間違いはない。 一般的に、譜代大名は石高こそ低いものの幕政に関わることができ、外様大名は石高が高い者も多いが幕政には関われないとされる。また伺候席(江戸城における待合室)も譜代大名ならこことここ、外様大名ならこことここ、という具合に分かれた。 ここで予防線を張ったのは、譜代大名と外様大名の間にけっこう揺らぎというか、移動があるからだ。例えば仙石家は時期でいえ…

【家康の謎】家康は戦に強かったの?

…算されるものが多い(関ヶ原の戦いなどはまさにそうだ)が、どの戦いは別にし、どの戦いはひとつにまとめる基準はどうするか。そのため細かい数字は人によって変わるだろうが、とりあえず家康がたくさん勝った武将だったことは動かないだろう。ただこれも「そりゃ天下人になるためには負けっぱなしというわけにはいかないだろう」と言われればそれまでの話である。 そもそも家康の「戦が強い」というイメージには、いわば徳川史観的な構成の徳川家臣団および江戸幕府による粉飾の影響も小さくないはずだ。私たちが家…

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…の四男・忠吉はのちに関ヶ原の戦いで活躍するも、間も無く病に倒れてこの世を去った。五男・忠吉は武田家を再興させてその当主に据えられるも、彼もまた若くして亡くなっている。六男の忠輝は大きな所領を与えられたものの、大阪の陣での振る舞いを問題にされて改易、流罪に処された。その弟として松千代という子がいたが、幼くして亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなった。 家康晩年に生まれた九男義直、十男頼宣、十一男頼房はそれぞれ尾張・紀伊・水戸に家を建てら…

【家康の謎】家康の正室・側室は何人いたの?

…れた女性であったとされるお梶の方という女性もいて、この人については「最も美味いものは何か」という話題について「最も美味いものは塩で、最も不味いものも塩だ。塩が過ぎれば美味くない」と答えた、というエピソードが特に有名だ。 ちなみに、「家康の側室の趣味が関ヶ原の戦い以前は年増好みだったのに、関ヶ原以後は若い娘好みに変わった」などという指摘もあるようで、隆慶一郎『影武者徳川家康』では「関ヶ原の戦いで家康は死に、以後は影武者が成り代わっている」ことの傍証として作中に取り込まれている。

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

…的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治維新時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代が城主を務めた。現存12天守の1つである。 大天守と西小天守 備前丸からみる大天守 天守の鯱 大天守から化粧櫓のある西方向の市街地を望む 「暴れん坊将軍」のロケでも使用された、はの門下坂 天守から南の大手前通りを望む 西の丸 「播磨姫路…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…が少ないですよね。 関ヶ原の戦いや大坂の陣が有名すぎて、家康が意外と合戦してないということは考えもしなかったのですが、この時代の人の中でも「外交カードとしての合戦」の優先順位がかなり低かったのかもしれません。べつにだから平和主義者だったとは思わないのですが、信長や秀吉とはちがう価値観で生きてそうだという印象を持ちました。 今回使ったスライドを共有しておきます。 「家康の合戦」連載終了記念ライブ by @kojodan 連載コラムをまだ読んでない方は、ぜひこの機会に第1回の「桶…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…営に暗雲が立ち込め、関ヶ原の戦いになったことは有名です。しかし、家康はどういった立場でこの戦いを迎えたのでしょうか。テレビや雑誌などでは大きく取り上げられても、描かれていない細かいやり取りや心情などが入り混じっているのが関ヶ原の戦いです。今回は家康が大坂を離れて上杉討伐に向かってから、関ヶ原の戦いを経て大阪に戻るまでの立ち位置を中心に関ヶ原の戦いを見てみましょう。 関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部抗争 関ヶ原の戦い前夜、武将たちは尾張に集結していた 1600年(慶長5年)9月1…

知ってる? 水野勝成

…ことに。 その9. 関ヶ原の戦いで放浪時代の人脈を活かす 水野家当主となった勝成は家康の元で、勇んで関ヶ原の戦いへ。本戦への参加を願いでるが許されず、大垣城への抑えとされた。しょうがないので大垣城を攻めることにした勝成は、放浪時代の人脈を生かして敵を寝返らせることに成功。その後も父の仇を含め数々の首級をあげる。この時の功績により日向守の官位を授かったが、日向守といえば裏切り者明智光秀。皆から避けられていた官位にも関わらず、勝成は喜んで日向守を名乗った。以後はその勇猛さから「鬼…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…「賤ケ岳の戦い」や「関ヶ原の戦い」での佐和山城攻撃など、近江を中心とする合戦が多くなっていくと「江州合戦」ではどの戦いを指すのかがわかりにくくなっていったために、1570年(元亀元年)6月28日の戦いを「姉川の戦い」と呼ぶようになったようです。 徳川幕府が編纂した書物では「姉川合戦」や「姉川の役」と呼ばれていますが、徳川家で呼び出したのが最初で、時代がどんどんと進んでいくと次第に定着し「野村合戦」や「三田村合戦」などの浅井氏・朝倉氏の呼び名は呼ばれなくなっていったと考えられま…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…城に戻る 9/15、関ヶ原の戦い @合戦の場所、問鉄砲の有無(小早川秀秋が裏切ったタイミング)、松平忠吉の抜け駆けの有無、など論点があるらしい 9/25、毛利輝元が大坂城を退去 9/27、家康は大坂城へ入り、秀頼に戦勝報告 @あくまでも豊臣政権内部の政争 論功行賞。豊臣系大名は大幅加増となるも遠方へ。畿内と江戸を結ぶ東海道や要衝には重臣や一門を配置(結城秀康=越前北庄、松平忠吉=尾張清洲、本多忠勝=伊勢桑名、井伊直政=近江佐和山など) →徳川家臣は秀頼から見れば陪臣なのに? …

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…てきた清須城でした。関ヶ原の戦いのときに清須城主だった福島正則はこの戦いののちに安芸に移封となり、家康四男・松平忠吉が52万石で清須城に入城しました。しかし、1607年(慶長12年)に忠吉は早世したため、九男・徳川義直がわずか8歳で清須城主となります。実際に清須城に入城したのは1609年(慶長14年)の正月のことです。徳川家康は関ヶ原の戦いののち、公儀普請(天下普請)によって各地に大城郭を築城または従来の城の大改修を行っていきます。これはいわゆる大坂包囲網を敷くためと考えられ…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…ながら独立を保って(関ヶ原の戦いに参加しなかったせいで一度改易されたりもしたが、貞隆の必死の運動により大名として復活し、)江戸時代へ入っている。あまり追い詰められて養子をもらったという感じではないために生き残れたのかもしれない。→政隆は伊達一門になって「岩谷堂伊達家」としてその血筋が続いたが、江戸中期になって隆恭(たかよし)が岩城家の養子に入り、ある意味での返り咲きを果たしている。 ●有名ではあるがそこまで大きな意味を持ってはいない戦いのケース ・浅井(あざい)氏と朝倉氏は織…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…潰されることもなく、関ヶ原の戦いで東軍につくなどして江戸時代へ入ったが、家臣団に内紛があり、そのせいで五十数万石の所領は一万石へ減らされた後、結局五千石の高家になってどうにか残った。※奥州管領・羽州管領は室町幕府の構造のところで紹介した奥州探題・羽州探題の前身。 畠山氏 ・畠山氏も応仁の乱の時に分裂した。その片方、畠山義就(よしなり)こそが応仁の乱の火付け役ではないかと言われており、実際に義就は乱が終わった後も戦い続けている。彼の血筋は最終的に家臣に権力を奪われて衰退した。一…

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

…るくらいである。 「関ヶ原の戦い」の際には家康の後継者である秀忠についていた。ここで彼と他の将との間で意見が食い違い、結果として先に述べたとおりに秀忠の軍は上田城に足止めされ、関ヶ原には間に合わなかった。この戦いで家康が勝利して徳川幕府が開かれると、正信は秀忠付きの重臣として大きな権力を振るう。 また、この頃に政敵だった大久保忠隣(おおくぼ ただちか)を失脚させたりしていることから、彼にはどうも悪いイメージがついて回りがちだ。「大坂の陣」でも家康のために策を講じ(和睦の際に堀…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…ためにとって返して「関ヶ原の戦い」が始まるのはすでに述べたとおりだ。この時、兼続と三成が共謀してことを起こしていたという説もあるが、これも後代の創作と思われる。 さて、兼続と上杉家は関ヶ原での決戦には参加しなかったが、東軍側である最上家の長谷堂城を攻める。黒田官兵衛の九州での決起に見られるように、関ヶ原の戦いは全国に広がって様々な「地方版・関ヶ原の戦い」が行われていたのだ。 ところがこの長谷堂城攻めはなかなか決着がつかず、そうこうしているうちに関ヶ原での決戦の結果が兼続の元に…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…というのだ。これは「関ヶ原の戦い」の前夜に彼が語ったという形で伝えられている話なのだが、真偽はさだかではない。 順慶が死んで甥の定次(さだつぐ)に代替わりすると、彼と反りが合わなかった勝猛は数年後に筒井家を出奔。その後の彼の消息については、伊賀(現在の三重県西部)の上野に転封された筒井家に代わって大和の大名となった秀吉の弟・秀長に仕えたとも、また近江の高宮郷という場所に隠棲していたともいい、諸説ある。 そんな彼に誘いを掛けたのが、秀吉の重臣・石田三成だ。当時、近江水口4石の大…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…り込んで世間話をしたりと、のんびりとした日々を過ごしていた。子供たちはそんな彼によく懐き、しばしば彼の隠居所に遊びに行って大騒ぎをして、官兵衛はそんな彼らを微笑ましく見つめていたという。 けれど、その胸にはまだ野心の炎が残っていた。そんな彼が最後のチャンスとして賭に出たのが「関ヶ原の戦い」の際に九州で起こした戦なのだが、あまりにも早く終わった関ヶ原の決戦のためにその野心が実らなかった。この時の無念は最後まで残ったようで、遺言として長政にそのことを悔やみ、臨終を迎えた、という。

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

…いけない。さらには「関ヶ原の戦い」で一度西軍につきながらも、東軍に寝返ることによって領地を守れたという事情もあった。そして何よりも龍造寺家の当主が政家・高房と二代続いて非常に凡庸な人物であったということが決定的だった。 結果として、高房が成人しても直茂は実権を返さず、本来直茂の上、もしくは同格にいたはずの龍造寺の一族たちもそのことを認めた。これに絶望した高房は自殺してしまい、ついに直茂が龍造寺の家督を継承し、ここから佐賀鍋島藩の歴史が始まる。以上のように、直茂はごく平和裏に下…

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

…られていたのだが、「関ヶ原の戦い」にあたっては西軍に参加して毛利の兵を借り、かつての領地を取り戻そうと兵を挙げたのだ。 この義統の軍が東軍側の杵築城を攻めたために官兵衛はその城を救援に向かい、途中の石垣原という溶岩がゴロゴロと転がっていたところで決戦となる。兵力では官兵衛側が勝ったものの、義統の元には大友の旧臣たちが集結して奮戦し、かなり手こずらせたようだ。しかし、結局は官兵衛が圧倒的な勝利を飾り、義統は降伏する。これが奇しくも9月15日、関ヶ原で決戦が行われた日のことだった…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…る。まさにこの時、「関ヶ原の戦い」の決着はついたといっていいだろう。 東軍を両の翼で捕らえていたはずの西軍だったが、片翼は最後まで動かず、それどころかもう片翼は自分を傷つけてしまったわけだ。これではどれだけ優位な布陣をとっても勝てない。 大谷吉継は秀秋の裏切りに逆襲を加え、一時は500メートルばかりも小早川軍を後退させる。しかし、ここで藤堂高虎の調略を受けていた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱らの四将が傍観を止めて秀秋に同調し、吉継を攻める。本来は秀秋の裏切りに備えて布…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…だ ひでのぶ)の代に関ヶ原の戦いの前哨戦で落城。徳川家康の娘婿にあたる奥平信昌(おくだいら のぶまさ)が領主となったものの、彼が居城として別の新しい城(加納城)を築いたため、この城は廃城となった。 この稲葉山城をめぐる最も興味深いエピソードといえば、龍興の代に家臣によるクーデターで短期間とはいえ乗っ取られてしまったことだ。実行者は竹中半兵衛。豊臣秀吉の軍師、「秀吉の両兵衛」の一方として名高い半兵衛だが、彼はもともと斎藤氏の家臣で、この事件を起こして主家を離れた後に、秀吉と出会…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑥――水に沈んだ城――備中高松城

…改築が施され、さらに関ヶ原の戦いののちにも整備された形跡がある。 さて、鳥取城を攻め落としていよいよ中国西部へ侵攻した秀吉の前に立ちふさがったのが、先述した境目七城である。しかし、秀吉の勢いの前には抗しきれず、北端に位置する宮路山城・冠山城が落とされ、高松城の南に位置していた日幡城は織田方に寝返ってしまった。こうして秀吉は高松城を徐々に孤立させていき、その日前まで迫った。しかし、沼地という天然の要塞に囲まれた高松城を力攻めで落とすのは容易ではない。そこで秀吉は高松城を兵糧攻め…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する