攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

三河 の検索結果:

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…―人質として 家康は三河の国人・松平広忠の嫡男として生まれた。しかし、彼が生まれたころ、松平氏は窮地にあった。祖父・松平清康の代には三河一国を席巻するほどに勢力を拡大したものの、家臣によって彼が殺害されると、一気に衰退。広忠のころには駿河国の名門・今川義元と尾張国の新興勢力・織田信秀(信長の父)との両勢力に挟まれた弱小勢力として、今川氏の支配下に収まることでどうにか存続しているに過ぎなかったのである。 松平氏をめぐる複雑な状況を受け、家康の幼少期は人質生活と同義だった。6歳の…

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…松平氏といい、もとは三河の国衆である。『徳川家譜』によれば、血筋のルーツとして源義家があり、その末裔の新田義季が「得川四郎」を名乗ったことを始まりとする。この得川四郎が各地を放浪し、その子が松平の地に住み着いて松平氏を名乗るようになった――というのが筋書きなのだが、これは家康による創作であろう、と考えられている。この時代、政治的な事情から経歴を創作・詐称するのは決して珍しいことではなかった。 ともあれ、三河の小勢力から出発した松平氏は、一度は三河を席巻するほどに勢力を拡大する…

【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は?

…(愛知県)に織田氏、三河(愛知県)に松平氏、と有力勢力が割拠していた。自然、遠山氏は一族内部では結束を固めつつ、外部に対してはその時その時の強者に恭順し、また八方美人的な政策をとらざるを得なかったのである。 戦国時代中期の享禄年間(1528―31)頃、三河で松平清康が大いに勢力を伸ばし、尾張・美濃にもその手を伸ばしていた。遠山氏はほかの東濃の諸将とともに恭順したが、清康が部下に殺害されたため、この関係は消滅している。続いて東濃に手を伸ばしたのは甲斐の武田信玄である。もとより西…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

奥三河に根を張る山家三方衆 奥平氏は三河国(愛知県)の北部、信濃(長野県)・遠江(静岡県)に接する中山道の交通の要衝、設楽郡作手(つくで、愛知県新城市)に勢力を誇った国人である。亀山城を根拠とし、近隣の田峰城主・長篠城主の両菅沼氏と密接な婚姻関係を結んで「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」と呼ばれていた。 この近辺はもともと三河守護代の野田氏が勢力を誇っていたのだが、戦国時代初期の永正年間(1504―21)にはその力が衰えていった。結果として生まれた空白地域に、奥平氏をはじ…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…。戦国乱世においては三河国(愛知県)西部の刈谷(同刈谷市)に進出してここを拠点とする一方、知多半島の南部にも進出、勢力拡大に努めている。この時期の知多半島には支配者というべき勢力がおらず、中小勢力による群雄割拠状態になっていた。 といっても、知多半島が価値のない場所だった、というわけではない。むしろ逆だ。知多半島は尾張。三河をつなぐ東海道の途上であるとともに、その陸路と伊勢湾の海路を結ぶ場所でもあった。この海路は伊勢(三重県)から紀伊半島をまわって畿内べ至る重要なものであるた…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…、徳川はこの頃すでに三河・駿河(静岡県)・遠江(同)を支配し、甲斐と信濃にも手を伸ばす大大名である。一度の敗北で引き下がるはずもなく、井伊直政が5000の援軍を率いて戦線に到着。じっくりと上田城を攻める構えを見せていた。 ところが、徳川軍は年が明ける前に引き上げてしまう。これは、徳川の重臣である石川数正が豊臣方へ出奔してしまった結果、豊臣・徳川関係がふたたび緊張化し、真田を攻めているどころではなくなってしまったからだ。ちなみに、上田合戦の直後には徳川と同盟する北条氏が沼田城に…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…大久保・本多といった三河武士の活躍が語られることが多い。そのため、井伊もまた譜代の三河武士であると見られることが多いようだ。 しかし、そうではない。松平氏が徳川氏と姓を変えて三河(愛知県)から遠江・駿河(ともに静岡県)へと勢力を拡大し、また豊臣秀吉の命を受けて関東へ移るという流れのなかで、数多くの武士が徳川の支配下に入った。本書で紹介するなかでも水野・奥平などがそうであり、井伊直政もまた徳川の勢力拡大の過程でその家中に迎え入れられたものだった。ただ、そのなかでも井伊氏、また直…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…張国、美濃国の一部、三河国の一部、信濃国(木曽)の四令制国で名古屋城の一城。しかし、付家老である成瀬家が2代将軍秀忠より犬山城を拝領し、実質は二城であった。そのほかにもいくつも事例があるので実質は一国一城ではないと言えますが、先にも述べた通り軍事力を統制することや幕府への反逆を抑えるという目的であったということですね。 まとめ 元和元年(1615年)に出された一国一城令によって城の数は激減し、戦の世が終わりを告げました。この法令によって破却された城は多数ありますが、今も城跡と…

【戦国軍師入門】安祥城の戦い――軍師僧・太原雪斎の交渉術

…しよう。松平家は一時三河(現在の愛知県東部)全域を支配するようになったが、内紛によってその勢力を減じ、松平広忠の代には駿河・遠江(共に現在の静岡県)を支配する今川義元の勢力下にあった。一方、尾張(現在の愛知県西部)の織田信秀(信長の父)は虎視眈々と三河を狙っている。 信秀は広忠が今川に息子の竹千代(後の家康)を人質として送ると、護送していた武将を寝返らせて自分の手元に連れてこさせ、松平を味方にしようとするが上手くいかない。そこで1548年(天文17年)に軍を起こして三河に攻め…

【戦国軍師入門】4.「戦略」と「戦術」の違い

…取り込んでいたはずの三河の松平元康(後の徳川家康)が独立を宣言し、これが今川氏の滅亡へとつながっていくわけだ。同じく、精強な騎馬軍団を率いた武田勝頼も、長篠の合戦で父・信玄以来の有力な家臣を多数失い、その後は豪族たちがどんどん離反してあっけなく滅んでしまった。 大名を支えた豪族たちは必ずしも強固な忠誠心を持ってはいなかった。だから、御家騒動や総力戦での敗北といった、勢力が大きく弱体化するような出来事があると、事件そのものの被害以上に、味方の離反という手痛い出来事がその大名たち…

掛川城 今川氏の終焉をむかえた城

…で今川氏に仕えていた三河の松平元康(徳川家康)が織田氏の力を借りて独立を図った。氏真はこれを阻止しようとしたが失敗に終わっている。やがて三河は松平氏が治めるようになった。 さらに氏真は人心掌握をうまくやれず、家臣たちは今川家を離れ、他の大名に臣従している。この状況を知った武田信玄は氏真の父・義元と結んだ同盟を破棄。1568年(永禄11年)12月6日に徳川家康と結んで駿河へと侵攻をはじめた。その日に大宮城を攻撃。12日には今川氏の重臣・朝比奈信置、葛山氏元らが調略によって武田氏…

原城 島原の乱の中心地

…揆の連絡を受けとり、三河国深溝藩主・板倉重昌を討使とする鎮圧軍を送り、九州大名には帰国を命じて戦に備えさせた。12月5日に重昌は島原に到着。そんな彼に、追討使派遣の知らせがもたらされた。自分の功績が減ってしまうことを焦り、追討使が来る前に事態の解決を図った。九州の諸大名を動員して原城を攻めさせたのだが、自軍に大きな被害を出すだけで終わってしまった。そのうえ、その失敗を他藩のせいにするという有様で、翌年の元旦に総攻撃をしたものの、またも失敗に終わり、重昌自身も討死にしている。 …

斎藤道三と高政の親子がギスギスしていた頃、関東では北条家が圧倒的優位に立っていた

…竹氏のような強敵もいたが、北条氏の優勢は変わらないように見えた。 また、1554年(天文23年)には別の大きな出来事も発生している。甲斐の武田、駿河の今川、そして北条の三家が同盟を結んだのだ。この結果、今川氏は北と東を警戒しなくていいようになり、西に向かって勢力を拡大する。そう、三河と尾張である。第20回と21回で描かれた1560年(永禄3年)の今川氏による尾張進攻とそのあっけない終わりーーすなわち「桶狭間の戦い」は、このような政治的な動きと連動して起きた事件とも言えるのだ。

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

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7.寵臣の出世と末路

…成貞の死後、牧野家は三河国吉田藩8万石、日向国延岡藩8万石、常陸国笠間藩8万石と転封している。。 間部詮房 間部詮房は6代将軍・家宣と7代将軍・家継のもとで側用人を勤めた人物だ。家宣は綱吉の甥であり、綱吉の養子になることで将軍家に入ることになった。詮房は家宣に仕える陪臣だったのだが、ここで直参となる。その後、家宣に取り立てられて側用人になるのは柳沢吉保とまったく同じパターンだ。最終的に詮房は老中次席の家格と、上野国高崎藩5万石の大名の座を手に入れる。ちなみに彼の父親は猿楽師(…

4.出世と譜代大名

…昌を紹介したい。彼は三河国田原藩1万石を治める小大名だった。そこから奏者番と寺社奉行を兼任し、さらに京都所司代に進み、最終的に老中となったのだ。このとき、石高は加増に加増を重ね、7万1千石にまで膨れ上がっていた。こうした絵に描いたような立身出世が成り立った背景には、将軍家の傍流出身であったために名門譜代を側近に持たない綱吉が、子飼いの部下である忠昌を要職に就けようとしたことがあったとされる。 一方、江戸に残り続けて老中になる大名もいた。これが奏者番から若年寄や側用人を経由して…

2.譜代家臣団の成立

…。 徳川家の前身は、三河国賀茂郡松平郷の豪族・松平家である。16世紀前半、家康の祖父である松平清康の代に、松平家は大きく発展した。岡崎城を本拠地とし、三河一帯を手中に収めたのはこの頃である。この清康は駿府を中心に勢力を展開する戦国大名・今川家に従い、尾張の織田家と対立する立場にあった。しかし、1535年(天文4年)、織田信秀(信長の父)を討つために尾張森山(守山)へと出兵した際、清康は家臣によって殺されてしまう。これが「森山(守山)崩れ」と呼ばれるできごとだ。 清康を失った松…

1.譜代大名の定義

…で、古くから徳川家(三河松平家宗家)に仕え、1万石以上の石高(米の生産量)を与えられた武家が「譜代大名」と呼ばれる。 譜代とはそもそも「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という意味を持つ言葉だ。大名とは、1635年(寛永12年)に発布された『武家諸法度』(武士や大名の守るべき法律)において「(徳川家)一門の歴々、1万石以上の石高を持つ国主および城主」と定められた。江戸時代の大名にとって、主家は徳川家しかない。ゆえに、代々徳川家に仕えてきた大名が譜代…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…は代々受け継いできた三河を含む東海から、関東への国替えを命じられ、本領を手放すことになった。これは家康を遠隔地へ移してその脅威を削ごうとする秀吉のたくらみであったとされる。家康ほどの大名であっても、これには従わざるを得なかったのである。 この配置転換から逃れて、かつ本領を保持できたのは、ごく少数の、それも中央から離れた遠隔地の大名だけだった。すなわち、陸奥の南部・津軽・岩城・相馬、出羽の最上・戸沢、常陸の佐竹、中国地方の覇者として早くから秀吉に協力した安芸の毛利、土佐の長宗我…

「麒麟がくる」第14回に登場した緒川城はどんなお城か

…川義元の間では尾張と三河の境界に位置する城主の調略(と威圧)が本格化し、寝返りによって敵味方の勢力図と境界線が刻々と変化しています。 緒川城を守る水野信元は織田方についていましたが、今川方の侵攻により城は孤立し、すぐそばに村木砦を築かれたため落城は免れないということで信長に救援を求めています。信長と信元は村木砦を背後から攻撃して、撃退に成功しました。 緒川城――正確には「緒川古城」―― じつは緒川城はふたつあります。ひとつは今回登場した緒川城、もうひとつは江戸時代に緒川藩の藩…

明智光秀と今川義元――あるいは貶められたイメージ

…配下に収めるとともに三河までもほぼ手中に収めた。 そんな義元がさらなるターゲットとしていたのが尾張であり、その支配者となりつつあった織田家(信秀・信長の弾正忠織田家)であったのだ。信秀・信長親子は三河や尾張の支配権を巡ってたびたび義元と戦い、一進一退の攻防を繰り広げた。義元最後の戦いとなる「桶狭間の戦い」も、実はこの争いの延長線上にあった。後世しばしば「義元が上洛して天下を取るための戦いであった」と語られるが、実際には尾張獲得が目的であったようだ。だが、この戦いこそが名将の命…

「麒麟がくる」第9回に登場した那古野城と刈屋城、末盛城、妻木城はどんなお城か

…に移っているので、対三河の前線基地としての意味合いも強かったのでしょう。なおのちに信長の弟に譲られるのですが、弟の名前は「信行」ではなく「信勝」でいくんですね。 kojodan.jp 周辺のお城の場所はこれで確認するとおもしろいと思います。古渡城との距離だけでなく、那古野城とか清須城の位置を見てみてください。 kojodan.jp 妻木城――妻木氏代々の居城―― 十兵衛の妻となる煕子の実家です。ぼくは未訪問なのですが、団員のみんなが投稿してくれた写真やクチコミを見るかぎり、苔…

明智光秀と徳川家康ーーあるいは本能寺の引き金

…だろう。 その家康は三河国の国人、松平家の嫡子としてこの世に生まれた。松平家は戦国乱世に乗って一時は三河一帯を広く支配するほどに力を得たが、浅利陽介演じる父・松平広忠の代には隣接する駿河・遠江の今川義元に従わざるをえない状態に追い込まれていた。幼き日の家康、幼名を竹千代が今川家で人質時代を過ごさなければならなかったのも、すべてはそのためである。成長した彼は義元の名をいただきた「松平元康」として今川家のために戦ったが、義元が桶狭間の戦いで信長の前に倒れるや、旗幟を変えた。今川の…

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」キャスティング一覧

… 岡村隆史 【架空】三河国出身の農民。 織田信長 染谷将太 織田家嫡男。のちに光秀の主君に。 織田信秀 高橋克典 織田家当主。信長の父。 帰蝶(濃姫) 川口春奈 信長の正室。道三の娘。 土田御前 檀れい 信秀の継室。信長の母。 織田信勝 木村了 信長の弟。 平手政秀 上杉祥三 織田家家臣。信長の守役。 織田信光 木下ほうか 信長の叔父 柴田勝家 安藤政信 織田家家臣。筆頭家老。 斎藤道三 本木雅弘 斎藤家の当主。帰蝶の父。 斎藤義龍 伊藤英明 道三の嫡男。光秀とは学友。 深芳…

武勇に彩られた本多忠勝の生涯

…らしい。 武田信玄が三河へ攻めてきた際も、一言坂の戦い(有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたる)において、撤退する味方を守って奮戦し、5本の矢を鎧に受けた状態で家康のもとに戻ってきた。これを家康は「我が家の良将」と褒め称え、また武田側からも「家康に過ぎたるものがふたつあり、唐の頭に本多平八」と賞賛の言葉があった、という。 やがて家康は織田信長とともに武田家を攻め、ついにこれを滅ぼす。その際、信長は安土へ戻る前にわざわざ忠勝を呼び寄せてその武功を褒め、「花も実も兼ねた勇士」と自ら…

命を犠牲に味方を勇気付けた鳥居強右衛門

…長篠の戦いの焦点は、三河の要所である長篠城を武田が奪うか、織田・徳川が守りきるか、という点にあった。武田の大軍に取り囲まれた長篠城としてはなんとしても徳川家康の援軍を呼ばねばならない。そこで、鳥居強右衛門という武士が選ばれ、家康のもとに走ることになった。 ようやくたどり着いた岡崎には、すでに信長がやってきていた。長篠城の要所としての価値はもちろんのこと、「この機会に武田を叩き潰したい」という思いがあって、家康の援軍要請に応じて素早く出陣していたのである。状況について報告を終え…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原の戦い、鳥居元忠の伏見城篭城

…ら仕えており、家康の三河統一などの戦いで活躍している。家康が関東に移封する際には下総国に4万石が与えられた。先鋒として情報収集を行ったりもしており、頼れる家臣だったようだ。 そんな元忠は関ヶ原の戦いの際、伏見城に置かれた。伏見城は豊臣秀吉が隠居する際に築いた城で、彼が亡くなった場所でもある。その後は豊臣政権の権力を握る家康の手に渡っていた。 家康は三成を戦いの舞台におびき寄せる作戦として、会津征伐を実行する。家康が関東を空けると、三成は思惑どおりに出兵。1600年(慶長5年)…

【戦国合戦こぼれ話】小牧・長久手の戦い―外交交渉で決着

…秀次らによる別働隊が三河方面へ進出した。しかしこの動きは家康によって完全に看破されており、羽柴別働隊は徳川軍の挟み撃ちによって壊滅してしまったのである。 兵力において勝るにも関わらず家康を圧倒できない秀吉は、以後局地戦ではなく総体での立ち回りによって家康を封じる作戦に出た。すなわち、家康を正面だって相手にするのではなく、その同盟者である信雄の城を攻撃することによってプレッシャーを掛け、追い詰めていったのである。 結果、秀吉と信雄の間で一足先に講和が成立。こうなってしまうと「信…

【戦国合戦こぼれ話】安祥城の戦い――戦後交渉こそが重要だった

…9年(天文18年)、三河は安祥城(安城城)をめぐる戦いはその代表格だ。 この時期、三河は駿河の今川義元と尾張の織田信秀の争いの舞台となっていた。元々、この地に大きな力を持っていたのは松平氏だったが、絶頂期を築いた松平清康が家臣によって殺害されて後はすっかり衰退し、今川氏の支配下に入っていた。つまり、織田vs松平(のバックにいる今川)という状況になっていて、たびたび両者が激突していたのだ。 そんな中、義元の軍師として、また外交僧としても名高い太原崇孚(雪斎)の率いる軍勢が安祥城…

【戦国合戦こぼれ話】土木工事で勝つ(1)長篠の戦い

…75年(天正3年)に三河の長篠城を攻め立てる。この地は信濃と三河を結ぶ要所にあり、かつて信玄が奪取するも、徳川家康によって奪回されていたのである。 これを放置できない家康と、その同盟者である織田信長は長篠城救援のため急行した。この際、長篠城からは鳥居右強衛門という武士が単身城を脱出して援軍と合流している。すぐさま城へ舞い戻った彼は、寄せ手に捕らえられたものの、自らの命を懸けて城内に援軍が来ていることを伝え、士気を上げることに成功している。このように、篭城戦においては城内と場外…

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