攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

三好長慶 の検索結果:

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…遊佐長教(ながのり。三好長慶(みよしながよし)の継室の父)がついているし、長政はむしろ大和へ進出している(大和守護になったという話も)。また、畠山在氏(ありうじ)を擁立して総州家の実権も握っていたようだ。そんな中で長政は結局晴元と対立することになり、さらに長教が当時の河内半国守護・畠山政国(まさくに。尾州家)を追い落としてその兄の稙長を擁したのに対し、長政は政国を擁立する形になり、結果として長政は晴元・長教らとの戦いの末に滅ぼされている。 ・その後、長教は幼い畠山尚誠(ひさま…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…の家臣だった三好氏の三好長慶が台頭し、晴元を打倒する。長慶は将軍・義輝と対立したり和睦したりしながら長年にわたって畿内を支配したが、彼の死後は三好一族の有力者である三好三人衆や、長慶の側近だった松永久秀らによって畿内が混乱。そこに織田信長がやってきた後は皆さんご存知の通り。・本流である京兆家の人間(晴元の子の昭元(あきもと))は織田家に仕えたものの豊臣秀吉により追放され滅びている。しかし和泉半国守護家の末裔である細川藤孝(ふじたか)が信長に仕え、その子の忠興(ただおき。細川一…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話③――「爆発炎上」した城?・信貴山城

…に大きな勢力を誇った三好長慶(みよし ながよし)の側近であったが、彼の死後に自らが大きな力を振るうようになった。この時期、時の将軍。足利義輝を死に追い込んでいる。ところが、義輝の弟・義昭を奉じた織田信長が上洛してくるとあっさり降伏し、以後は信長の配下として重用される。 ――これで終われば話は簡単なのだが、天下の梟雄・松永久秀はそんな人物ではなかった。彼は信長に対して三度も謀反を起こしているのだ。一度目は降伏したので許されたが三度日、1577年(天正5年)に上杉謙信の侵攻に呼応…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…六)足利政知(二二)三好長慶(二三)三好三人衆(二十四)織田信長不安定な時代のナンバー2 間章 戦国大名とナンバー2戦国大名とナンバー2(一)武田信繁(二)豊臣秀長(三)朝倉宗滴(四)島津四兄弟幼少から共に過ごした側近(五)片倉景綱(六)島左近(七)直江兼続(八)鍋島直茂大名のブレーンといえば僧侶(九)太原雪斎天下人にナンバー2はいたか(十)明智光秀(十一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家②――姫若子から鬼若子へ

…の重臣の位置にあった三好長慶(みよし ながよし)である。 彼は四国と近畿にまたがる強力な政権を打ち立てたが、晩年になると親族の相次ぐ死もあって失速。代わって長慶の側近であった松永久秀や三好三人衆といった者たちが力を増して勢力争いを繰り広げた末に、京へ進出した織田信長によって追い散らされる――という複雑な経緯を経て、この時期の阿波・讃岐は三好一族による支配下にあった。そこに元親による侵略がはじまる。しかも1577年(天正5年)、事実上の阿波の支配者であった三好長治(みよし なが…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府14代・足利義栄――一度も京へ入れなかった将軍 1538年~1568年

…運営をしたいと考え、三好長慶の養子・義継を擁立する三人衆に対し、久秀の価値観は完全な「下剋上」だった。力によって、もともとの主家である三好氏を自分の支配下に治めようとしているのだから、名前だけであっても三好氏の主君を擁立する気など彼にはなかった。これでは、義輝打倒のように共通の目標があるときならともかく、その後の政権運営では仲良くできるはずもない。 戦国時代に入ってからの足利将軍ほとんど全員と同じように、義栄もまた、このように有力武将たちの思惑に振り回される御輿に過ぎず、自ら…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府13代・足利義輝――非業の死を遂げた剣豪将軍 1536年~1565年

…このころ躍進を続ける三好長慶(みよし ながよし)と敵対することになったため、今度は晴元とともに再び近江へ逃れた。このように、義輝の前半生は畿内の諸勢力に翻弄されながら京と周辺を行ったり来たりする流浪の日々だった。これは父・義晴のものと重なる。 それでも、義輝はこの数代続いてきたような、周囲に翻弄されるだけのか弱い将軍ではなかった。追い詰められて逃亡せざるを得なくなった際、それでも「兵と一緒に死に、戦いによって戦功をあげ、後世に名を残したい。運は天にこそあるものだ。ここは退くべ…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府12代・足利義晴――各地を転々とした、名ばかり将軍 1511年~1550年

…勢力の間を渡り歩きながら、京都と近江の行き帰りを繰り返すこととなる。このような流浪の人生だったことから、義晴には将軍としての実権はほとんど備わっていなかったようだ。 1546年(天文15年)には息子の義輝に将軍職を譲り渡したものの、3年後には三好長慶(みよし ながよし)に京都を追われ、父子ともども近江に逃れた。義晴はそのまま3度と京都の土を踏むことはなく、1550年(天文19年)にこの世を去った。その死の間際、京都に鞠のような光の玉が現れ、西方に飛んでいったという逸話がある。

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…川氏の家臣筋にあたる三好長慶が四国より上洛し、晴元を脅かす……。 このように目まぐるしく変わる情勢のなかで、柳生氏は危機に陥る。盟主である木沢長政が晴元との不仲から追い詰められ、1542年(天文11年)に討ち死にしてしまったのである。柳生氏は単独でその領地を守れるような強力な国人ではない。同じく大和の国人で、その頃めきめきと頭角を現していた筒井氏に攻め込まれ、小柳生にあった城を失っている。天文13年のことだ。 ここで大和国の特殊な事情について紹介しておきたい。室町時代において…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…らは戦国時代に入って三好長慶が現れている。 そして、この小笠原氏は兵法、軍学、礼法――すなわち弓馬の道(武士としての心得)に詳しく、そのことでも厚く遇された。故に鎌倉幕府から江戸幕府まで、武家政権において小笠原氏は師範を務めたというのだが、これはあくまで伝説だ。実際のところ、将軍家の師範を務めた記録が出てくるのは室町時代、京都小笠原家の持長が足利義教の御弓師(弓術師範)となった(『満済准后日記』)とするものが最初だ。代々将軍の師範を務めたというのはあくまで後世の創作にすぎない…

特別展「桃山─天下人の100年」の後期展示を見てきました

…ています。 ほかにも三好長慶に代わって足利義輝の肖像画とか、織田信長の陣羽織に代わって小早川秀秋の陣羽織とか、どちらもテンションが上りまくる作品ばかりなので、前期展示をご覧になられた方もきっと楽しめると思います。 一部変更とはいえ、かなりの量の作品が入れ替わっていました。それは(全会期にあたる)2ヶ月間も置いておけないくらい人気の作品ばかりということの裏返しなのだろうと思いますし、桃山文化を代表する作品を一度に展示しきれないくらい集めたトーハクのすごさでもありますね。 会期は…

明智光秀と三好三人衆ーーあるいは畿内混乱の原因?

…は細川氏に仕えつつ、三好長慶の時に躍進して畿内一帯に広く勢力を誇った三好氏。長慶亡き後、彼の子である義継を擁して一族を動かしたのが、いわゆる「三好三人衆」である。名を三好長逸(ながやす)、三好政勝(のちに政生――「政康」として有名だが記録にはない)、岩成友通(石成とも書く)といい、もともと三好一族における実力者であった。 長逸は長慶の父の従兄弟にあたり、一族の長老であった。永禄年間の長慶が生きていた頃には山城国の南半分を統括したほか、松永久秀と並んで長慶を補佐する重要な役目を…

東京国立博物館で特別展「桃山―天下人の100年」を見てきました

…いましたが、肖像画も三好長慶、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人のものがズラリと並んでいました。後期展示では足利義輝の肖像画が展示されるなど、このコーナーも入れ替えがあるようです。 今回は初めて見る作品が大半でしたが、そのなかでも智積院で見た「楓図」(長谷川等伯)や、名古屋の徳川美術館で見た「豊国祭礼図屏風」(岩佐又兵衛)など、以前現地で見た作品と再会できたのもなんだかうれしかったです。 『楓図』(智積院所蔵) 再会といえば第2会場の最後、つまり桃山文化のラストを飾る…

細川藤孝と麝香のなれそめについて調べたら足利将軍が出てきた

…)だった頃で、義輝が三好長慶と和睦して京に戻っていた時期になります(義輝は永禄8年5月19日死去)。ちなみに藤孝の「藤」の字は義輝が「義藤」と名乗っていた時代に偏諱を受けています。 そこで気になるのが、なぜ京のエリートである藤孝が若狭の城主の娘と結婚したかということですが、麝香の父・光兼も藤孝と同じく室町幕府に仕えた奉公衆だったようです。ふたりの結婚について書かれた資料を大河ドラマ「麒麟がくる」推進協議会から訳文とあわせていただいたのでそのまま引用します。 沼田家記上野介光兼…

戦国時代の足利将軍についてざっくり理解する

…、今度は晴元が家臣の三好長慶と対立し京を追われると、晴元を指示していた義晴も京にいられなくなり、また近江に逃亡します。義晴は京都奪還を目指し、銀閣寺の裏山に中尾城を築きましたが、過労がたたったのか病死しています。 13代将軍・足利義輝(よしてる) 義晴の嫡男・義輝はわずか11歳で将軍職を父から譲られていますが、将軍宣下は近江坂本でおこなわれています。「麒麟がくる」でも語られていたように、義輝は子どもの頃から父とともに京への復帰と近江(坂本や朽木)への逃亡を繰り返しました。義輝…

土佐の風雲児、長宗我部国親が活躍した時期はちょうど「麒麟がくる」前半と重なる!

…下にあった阿波出身の三好長慶が勢力を伸ばす。これを支えたのが松永久秀だ。――このあたりの事情は「麒麟がくる」劇中でも断片的に語られた部分である。長慶はときの将軍・足利義輝とたびたび戦ったがのちに和睦し、京に落ち着いた義輝を支えることになった。 四国における三好家の領地は阿波から讃岐にかけて広がった。一方、伊予には河野氏がおり、土佐では名門公家にルーツを持つ一条氏が敬意を払われ……という具合に、細川・三好が強者として立ちつつも群雄割拠・混沌の状況にあったのが戦国時代の四国であっ…

京都文化博物館の総合展「明智光秀と戦国京都」にいってきました

…は興味深かったです。三好長慶の名前がよく出てきたことからも最近よくいわれる「信長に先駆けた天下人」の異名に説得力がありました。 義昭をともなって入京した際、信長が東寺を宿所にしていたのは知らなかったけど、広い境内を持つ寺社が宿所や本陣に利用されるのはよくあることで、寺社側にとっても権力者に貸しをつくるいい機会だったのかもしれません。 図録が無料でもらえる 展示スペース自体がフロアの一角なので、明智光秀が出てくるのは最後のコーナーにある「革嶋家文書」の書状数点のみです。革嶋家は…

明智光秀と足利義輝――あるいは幻の主従関係

…復したものの、今度は三好長慶と対立することになり、晴元ともども近江へ追いやられることになる。このとき近江に逃れることになったのは、敵対する三好家が四国をはじめ京の西側に基盤を持っていたのでそちらには逃げにくかったこと、そして義輝に味方したのが近江の六角家であったことが原因であろう。 その後も京に戻っては追われるということが何度かあった末、どうにか京に腰を落ち着け、諸大名との交流によって自らの政治基盤を築こうと試みた。先述したような諸大名への偏諱、上洛してきた大名との謁見はもち…

「麒麟がくる」第6回に登場した越水城はどんなお城か

…麟がくる」、第6回「三好長慶襲撃計画」もおもしろかったですね。主人公が本来会うことのできなかったような人に対面したり意見したりといったシーンは過去の作品でも見られたし、ある意味では(ひとりの主人公の視点を通して物語が進行する以上)しょうがないのですが、昨日の戸襖越しに将軍・足利義輝が聞いているという演出はうまかったですね。いくらなんでもこの時点の光秀が直接、義輝に拝謁できるわけないので、そのリアリティは守りつつ、たまたま壁一枚を隔てたところに居合わせた将軍が光秀の主張を聞くと…

明智光秀と松永久秀――あるいは似た者同士

…の実力者となっていた三好長慶の側近として歴史の表舞台に現れた、ということだ。やがて三好一族の中で長兄に匹敵する実力者となっていった彼は、長慶が亡くなるといよいよ頭角を現す。 三好一族の有力者である三好三人衆と手を結んだ久秀は、将軍権力の確立を目指す足利義輝と対立。これを死へ追い込む。その後は三人衆とも対立して一進一退の激しい闘いを繰り広げていた(この時期に大和東大寺が燃え、長く久秀の行いであると信じられていたが、実際には三人衆側のやったことであるらしい)ところ、義輝の弟・義昭…

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」キャスティング一覧

… 室町幕府の管領。 三好長慶 山路和弘 細川家の家臣。 松永久秀 吉田鋼太郎 三好家家臣。 伊呂波太夫 尾野真千子 【架空】旅芸人一座の女座長。 朝倉義景 ユースケ・サンタマリア 越前を支配する戦国大名。 近衛前久 本郷奏多 関白。 芳仁 ベンガル 【架空?】駒の灸の患者。 スタッフリスト 語り・ナレーション 市川海老蔵 時代考証 小和田哲男 衣裳デザイン 黒澤和子 風俗考証 佐多芳彦 建築考証 三浦正幸 医事考証 星野卓之 古文書考証 大石泰史 時代考証補 小和田泰経 所作…

松永久秀、自ら爆死す!?

…その名を高めたのは、三好長慶の側近としてだった。 戦国時代の近畿は、足利将軍の権威が失墜した後、管領職を継承していた細川氏が実権を掌握しつつ、しかし内部争いが続いていた。そんな中、細川氏の重臣である長慶が下剋上で頭角を現し、近畿から四国にかけて広く勢力を伸ばしたのだ。ところが、晩年の長慶はその力を失墜させ、失意のうちにこの世を去った。 長慶の死後、久秀は三好一族の有力者である三好三人衆と手を組み、時の将軍・足利義輝と対立。久秀らは兵を送り込んで義輝を殺害してしまう。しかもその…

剣豪将軍・足利義輝、最後の大奮戦

…し、長らく戦ってきた三好長慶と和解してついに京に戻って幕府を再興したものの、長慶の死とその腹心・松永久秀の躍進によって再び追い詰められ、ついに殺害されてしまった。 歴代の征夷大将軍は多くが(大小の動乱はありつつも)平和な時代を生きたこともあって、その死因は寿命や病死になっている。それでも暗殺によって倒れた将軍もいるのだが、その中でも義輝の死はドラマチックだ。なぜなら、彼は剣客として大立ち回りを演じた末に死んだ、といわれているからだ。 そもそも、義輝は将軍という高貴な身分である…

大文字山(如意ヶ岳)にのぼってきました

…あります。細川晴元が三好長慶に敗れたことにより京を追われ、近江・朽木谷に逃れていた12代将軍・足利義晴がふたたび入京するために築いた最前線の城が中尾城です。 kojodan.jp しかし義晴自身は城が完成した翌年に病死したため、ここには嫡男の13代将軍・足利義輝が入城しますが、1550年(天文19年)11月21日に起きた「中尾城の戦い」で三好軍に攻められると、義輝は城を自ら焼いて近江に撤退しました。 山麓にはこんな看板があります。 「応仁の乱」以降の京は、それこそ信長が常駐し…

「戦国武将細川藤孝とその周辺」参加レポート

…軍となる、細川氏綱・三好長慶と講和1552年(天文21年)藤孝は従五位下兵部大輔に叙任 義輝・藤孝は三好長慶に逐われ、近江朽木谷へ1553年(天文22年)8月〜1558年(永禄元年)12月 義輝による諸大名間の調停→織田信秀と今川義元の抗争の仲裁など1559年(永禄2年)の長尾景虎(上杉謙信)上洛の際、藤孝が奏者 「永禄六年諸役人付」で藤孝は「御供衆」 この時代の京において三好長慶はキーマンだとおっしゃってました。来年の大河ドラマでも登場するとかしないとか。 足利義昭擁立に奔…

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