攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

今川氏 の検索結果:

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

…に思える。幼少期には今川氏の支配下にあり、独立した後は武田氏に脅かされた。同盟者である織田氏との関係も決して対等とは言えず、嫡男の信康を織田信長の強要により殺さざるを得なくなったとされる。豊臣氏(羽柴氏)に臣従した後は、秀吉の命令で無理やり父祖の地を追われて関東へ移り住むことになった。ようやく関ヶ原の戦いで勝利して天下を取るまで、家康の生涯は我慢の連続であり、その強さこそが彼に天下を取らせた、というわけだ。 ――さて、この通説は事実だろうか。そもそも戦国乱世において、近くに「…

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…強い西三河を、続いて今川氏の勢力が衰えて混乱状態になっていた東三河を支配下に収め、三河統一を果たす。太閤検地によると三河は29万石。このくらいになると立派な大名と言ってよかろうが、西に隣接する織田信長の尾張は57万石だというから、正面向かって立ち向かうのは難しそうだ。家康が旧主君の今川を見限り、織田の同盟者となったのには、こういう数字の都合もあったのかもしれない。 続いて家康はその旧主君の今川を甲斐の武田と同時期に攻め、遠江26万石を得た。やがて武田と対立状態になると三河・遠…

【家康の謎】家康はなぜ石川数正に出奔されたのか

…と織田の同盟にせよ、今川氏との手切れを受けての家康嫡子・信康の奪還にせよ、またその後の徳川氏の外交・内政にせよ、数正の働きは抜群であったという。いわゆる「神君伊賀越え」にも同行しており、家康にとって数正以上に信頼できる側近はほとんどいなかったのではないか。 そんな数正が、小牧・長久手の戦い後の家康・秀吉の睨み合いの時期に、突如として家中を出奔。家康にとって宿敵であったはずの秀吉のもとへ走ってしまう。この頃、正確には数正は「康輝(やすてる)」として家康から偏諱をもらった名前を名…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…康が奪取し、一時期は今川氏真が城主をつとめたという大河ドラマ「どうする家康」の登場人物たちともゆかりの深いお城です。そんな諏訪原城の歴史と高天神城攻略における戦略的要衝としての価値について書いていただきました。周辺地図を表示しながら読むとお城の位置関係がわかってより楽しめると思います。 はじめに 初めまして、島田市博物館 学芸員の岩﨑アイルトン望と申します。みなさんは、静岡県島田市に遺構が現存する諏訪原城という城をご存じでしょうか? 武田信玄の子・武田勝頼が、1573年(天正…

【家康の謎】徳川四天王は誰が決めたの?

…江国井伊谷の国衆で、今川氏の支配下にあった。しかし今川氏との関係悪化の中で幼い直政は各地を転々とすることになり、やがて家康と出会ってその小姓として仕えることになる。徳川家中の井伊氏の躍進は、家康と直政の個人的な信頼関係によるところが大きかったろう。 また、この四人は年齢もかなり違う。忠次は家康よりもかなり年齢が上で、忠勝と康政は家康より少し年下で同年代、直政はずっと年下という具合である。これでは、同時代を生きる人々にとって、四人を「四天王」というひとつのグループでまとめて認識…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…府にて誕生されます。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしましたが、桶狭間の戦い後に、今川方の鵜殿氏長殿・氏次殿との人質の交換により瀬名様と共に家康様の元に戻り、岡崎へ移ります。この人質交換のお話は、どうする家康でも話題になりましたね。 その後、1567年(永禄10年)に9歳で、信長様の娘で同じ年齢の五徳姫様とご結婚され、岡崎城で共に暮らされます。同年6月には家康様が浜松城へ移られ、岡崎城を譲られることに。この時、瀬名様も嫡子生母として岡崎城に入られたそうです。さらに1570…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…高まってくると駿河の今川氏、信濃の小笠原氏、越後の上杉氏などは京を離れて在国することが多くなり、同様に九州の勢力に対する押さえとして周防・長門・豊前国守護の大内氏も在国期間が長くなっています。大内政弘が「応仁・文明の乱」に参戦するのが遅れた理由は「京にいなかったから」です(だから多数の兵を率いて来れたのですが)。 守護代の話からはかなり脱線してますが、あらためて守護在京制について勉強したいですね。島津氏・大友氏・今川氏・大内氏など、戦国大名化に成功した守護の多くが、在京免除地…

「分国法ってなに?」の動画を公開しました

…だ。その上で、例えば今川氏の「今川かな目録」には、「喧嘩を買わずに耐えて訴えたら、トラブルの責任があったとしても勝訴にする」という項目があって、自力救済を乗り越えようという意志が感じられる。伊達氏の「塵芥集」なども自力救済を禁止しようとしている。 大名が法治国家を目指していたかはともかく、秩序を重んじようとしていたことは感じられます。一方で合戦になれば刈田狼藉や乱取りなどの略奪行為は認められていたわけで、二枚舌というか自国内だけルールを守らせようとするのは無理があるんじゃない…

【家康の謎】家康はなぜ曳馬城を浜松城に改名したの?

…ものだったとされる(今川氏による築城という説も)。 これが16世紀になると今川氏の支配下に置かれ、今川氏真の頃には飯尾連竜(いのお つらたつ)が城主として守っている(ちなみに、今川支配下にあった頃の曳馬城には、今川家臣のさらに下についていた豊臣秀吉が訪れたことがある……という逸話も)。ところが、その連竜が今川氏に反旗を翻したところ、策謀によって駿府へ誘き出された結果として殺されてしまう。残された曳馬城家臣団内部の対立を家康が調停し、支配下に収めたという経緯であるわけだ。 では…

【家康の謎】家康はなぜ「徳川」に改姓したの?

…年)、家康は三河から今川氏勢力を駆逐し、三河を(一部の織田方の所領を除いて)おおむね統一することに成功した。そしてちょうどこの頃、関白・近衛前久(このえ さきひさ)を通して朝廷から従五位下(じゅごいのげ)・三河守(みかわのかみ)の官位をもらい、さらには「松平」から「徳川」へ改姓したのである。 では、家康はどうしてわざわざ苗字を改めたりしたのだろうか。これはかつて祖父・清康が対今川氏を見据えて「世良田(せらだ)」を名乗ったのに倣ったものであろうと考えられている。つまり「世良田」…

【家康の謎】家康は何回名前を変えてるの?

…ある。当時の松平氏は今川氏の影響下にあり、元服当時の家康は今川氏の本拠地・駿府にいた。そんな家康に、今川氏の当主である今川義元が自分の名前のうち一字、「元」を分け与えたのである。これを「偏諱(へんき)を賜う」という。主君から偏諱を賜うのは名誉なことであり、ある種の褒美でもあったはずだ。有名なところでは、のちの室町幕府初代将軍・足利尊氏のケースがある。彼は元々「高氏」という名前であったのが、鎌倉幕府打倒に活躍した際、これを喜んだ後醍醐天皇の諱である「尊治(たかはる)」から一字を…

【家康の謎】家康はなぜ「家」の字を選んだの?

…と改名した。そして、今川氏と決別した後の1563年(永禄6年)に、「元」の字の方も変えてしまって「家康」を名乗るに至ったのである。元康の「元」の字は今川義元からもらったもの(偏諱)であり、松平と今川の強い関係を示すものだ。その偏諱の文字を捨てるというのは両者の決別を示すものだ――というのが通説的理解だ。 では新しく選んだ「家」の字は何に由来するのか。それは「八幡太郎」こと源義家である、というのが知られている説だ。義家は平安時代後期に起きた前九年の役・後三年の役の頃に活躍した武…

【家康の謎】家康はなぜ今川家でそんなに優遇されたの?

「徳川家康は幼少期に今川氏の人質だった」という話は、歴史にあまり詳しくない人でも聞いたことがあるレベルの知識であり、ほとんど常識と言ってもいいだろう。竹千代と呼ばれた頃の家康は故郷の岡崎から引き離され、今川氏お膝元の駿府で苦難の幼少期を過ごした。これが忍耐多き家康の人生の始まりである……というのが「徳川家康物語」の定番だ。 しかし近年の研究では「家康は人質ではなかった」というのが通説になりつつあるのをご存知だろうか。個人的には、これは「人質」という言葉の定義の問題であるように…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…義元の跡を継いでいた今川氏真が支配をつづけていました。ここで武田信玄は家康と密約を結び、大井川を境として東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領にしようと画策し、攻め取ることにしたのです。 1568年(永禄11年)12月に信玄は駿河に侵攻、家康もすぐさま遠江に侵攻し、約束通り大井川を境として奪い取ることに成功しました。これまでは武田と徳川は協力関係にありましたが、武田の家臣・秋山虎繁が大井川を超えて遠江を侵したため関係が険悪になりました。この後の1570年(元亀元年)に家康は越後の…

【家康の謎】家康のお父さんはどんな人だったの?

…かったようだ。結果、今川氏支配下の武将として東へ勢力を拡大する織田信秀と戦うことになる。もともとの居城である安城城を奪われたり、松平一族に裏切られる苦しみにも遭った。近年の研究で岡崎城を奪われていた時期もあるらしいことは以前にも紹介した通りだ。 それでも(今川の支配下にありながらも)松平氏を取り巻く状況が好転する中で1549年(天文18年)、広忠は父よりさらに若い24歳で死んでしまう。その死に方は父と同じ、家臣(織田方の刺客・岩松八弥)による殺害であった(病死説もあり)。この…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…ついては諸説あり)。今川氏真がそれを知ったのは同年4月であり、それ以降東三河へ侵攻していきました。しかし決定打とはならず、逆に元康は1563年(永禄6年)に元康から家康に改名。三河一向一揆が勃発するもこれを半年で制圧。さらには東三河に侵攻し、今川方の拠点である吉田城や田原城、牛久保城などを攻め取り、1565年(永禄8年)ごろまでに制圧して三河をほぼ平定することに成功したのです。 桶狭間の戦いの後、すぐに今川から独立したかのように語られることが多いですが、今川から独立して三河を…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…に侵攻していたため、今川氏真は西三河の家康よりも北条家支援を優先したため、独自の兵力では信長に勝てない家康は和睦・同盟を余儀なくされます。氏真が嫌いとか信長が好きといった「情」ではなく、氏真は頼りにならないので信長方につかざるを得ないという「理」での選択です。こんなふうに「別の選択はそもそも可能だったのか」という観点でも話をしています。 なお番組の最初ではぼくが子供の頃に出版された「学研まんが人物日本史 徳川家康」をもとに従来説と最新学説を紹介しました。 kojodan.jp…

【家康の謎】家康はなぜ織田家にいたの?

…これまで以上の援助を今川氏に求めざるを得ず、その代償として嫡男の家康(当時はまだ竹千代)を今川の本拠地・駿府へ送らざるを得なくなった。 駿府へ向かう家康の一行は、途中で田原城の戸田康光(とだ やすみつ)のもとを訪れる。康光は広忠の後妻の父であり、広い意味では身内に入る。その康光が密かに今川・松平を裏切り、五百貫とも一千貫ともいう銭と引き換えに家康を織田方へ売り渡した、という。哀れ家康は東ではなく西へ送られ、尾張で二年を過ごすことになったのである。なお、この時にのちの同盟者であ…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…大内義隆、朝倉義景、今川氏真、武田勝頼など家を滅亡させてしまった当主はどうしても無能で暗愚なイメージで語られがちですが、冷静に見ないといけませんね。(浅井長政は彼らに比べると暗愚な描かれ方をしていないのはやはりお江の父親だからでしょうか) まとめとしては、有名な合戦で負けても滅亡していないのは そもそもたいした規模の合戦ではない(殲滅戦にはならないし、盛られてる) 居城や領国が安泰なら挽回可能 有力家臣や国衆が離反し、本拠に攻め込まれるから滅亡する というあたりでしょうか。動…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…〜1521年)ごろに今川氏によって築かれたとされる引馬城がありました。東海道と天竜川本流が交差する要衝に築かれた引馬城は、江戸時代の絵図によれば浜松城の北東部にあり「古城」と記されています。その城域は100m四方で堀や土塁で囲んだ4つの曲輪がある並立的な館城(やかたじろ)だったと想像されます。現在でも土塁などの痕跡が残り、地籍図によっても堀跡が確認できます。浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブで江戸時代に描かれた浜松城の縄張りを見ることができます。あわせてご覧…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…時代を過ごしたのち、今川氏から独立して岡崎城を拠点とした 歴代城主 西郷頼嗣→松平清康→松平清康→田中吉政→本多家→水野氏→後本多氏 まとめ 岡崎城は家康が誕生した城で、今川の支配から独立した城でもあります。その後は三河を平定して領国経営の拠点としました。そういう意味では徳川家康にとっては特別な存在だったともいえるでしょう。まさに徳川家康の人生がスタートしていった城です。2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」でも岡崎在城時代の家康について詳しく書かれるものと思われます。…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…れる。つまり、家康が今川氏の家臣団の一員であった頃に、今川の結束を高めるための結婚であったということ。ところが義元は桶狭間で討死し、家康は今川から独立して戦国大名化を進めるので、その中で築山殿の立場は微妙なものになったであろうことが想像できる。結婚は政治手段の一つだが、敵味方は切り替わりやすい状況に置かれている、戦国大名、戦国武将にありがちなことではある。家康と築山殿の間に生まれた信康と、その妻として迎えた織田信長の娘の徳姫の関係が悪化し、そこから「築山殿と信康が宿敵の武田信…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…の名門今川家の当主・今川氏親(いまがわ うじちか)の五男で、本来は家督を継ぐべき人物ではなかった。そのため出家させられた彼には、同時に教育係がつけられた。それが雪斎だった。彼は今川家の重臣の息子で、最初は駿河の、次は京都の寺で修行をしていた。この頃の名を九英承菊(きゅうえいしょうぎく)という。しかし氏親によって駿河に呼び戻され、義元(幼名は芳菊丸(ほうぎくまる))と共に寺で過ごす。この生活の中で、雪斎は義元に様々な教育を施している。 当時の僧侶は漢文を読めたことから軍学書など…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台②――信玄と家康、虚虚実実の駆け引きが繰り広げられた城・浜松城

…斐の武田信玄と駿河の今川氏真(いまがわ うじざね)との戦いに備えるために築いたのが、三河の浜松城(静岡県浜松市)だとされる。この地に元は引馬城(ひくまじょう・ひきまじょう)という城があったが、これを奪った家康がその西に大規模な平城を築いたのが始まりだ。 浜松城に迫った最大の危機、それは1572年(元亀3年)の武田氏による侵攻だった。信玄は軍をいくつかに分けて遠江・三河を蹂躙した。そして信玄の本隊が浜松城に接近したのだが、なぜか攻撃しようとはせず、城をかすめるように三方ヶ原を西…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

…を結んでいた武田氏と今川氏に救援要請を送る。それを知った景虎は、援軍が到着する前に城を落とそうと城下に火を放って回ったものの、結局諦めることになってしまう。小田原城の堅さに手を焼き、1ヶ月余りにも戦い続けた末、兵糧も士気も心もとなくなっていたからだ。 さらに1569年(永禄12年)、氏康の息子・氏政に代替わりをしていた頃、今度は武田信玄が小田原城を攻めてきた。この頃には情勢が大きく変化しており、北条氏と武田氏の同盟は崩壊していた。そして武田氏と敵対関係になったことに危機感を覚…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…。 長篠城はそのころ今川氏に属していた菅沼元成によって築かれ、その後菅沼氏の居城となっていた平城である。この城は二つの川の狭間の断崖に存在し、川を堀代わりにした、いかにも戦国時代風の城であったようだ。菅沼氏はもともと奥三河山岳地帯に勢力を持つ豪族たちのリーダー的存在であり、信濃と三河を結ぶ交通上の要所であるこの地に城を築いたのも、それゆえであろう。とはいえ、一国を支配するレベルの大名の視野に立ってみると、菅沼氏も小豪族に過ぎない。その運命は過酷というしかないものだった。 まず…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…の勢力は、元は駿河・今川氏に一城を与えられたに過ぎなかった。しかし、伊豆に攻め込んで堀越公方(室町幕府における東国統括の象徴的役職、鎌倉公方の継承を主張した勢力の片方)を倒し、相模に進出して小田原城を奪い、二代目の氏綱の代には武蔵に出て扇谷上杉氏の本拠である河越城まで奪ったのである。しかも、氏綱は古河公方・足利晴氏に接近し、「あなたを関東管領にする」という命令まで取り付けていた、という。 これを本来の関東管領である山内上杉氏の当主・上杉憲政が放置できるはずがない。「新参者のく…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…部に勢力をもつ那古野今川氏を倒して那古野城を奪取。さらにその手は尾張国外へまで延び、東は三河へ進出して松平氏や今川氏と戦い、北は美濃で斎藤氏との勢力争いを繰り広げた。しかし、残念ながら信秀自身はそうした勢力拡大が大きな成功を収める前に42歳で死去した。 信長の活躍と死 信秀の死後、いよいよ信長の活躍が始まる。信秀は生前に国内の有力勢力である清洲・岩倉の両織田家や斯波氏を叩くようなことをしなかったため、没後には国内の勢力が次々と離反していくことになった。そのため、家督を継いだば…

【10大戦国大名の実力】北条家④――関東に覇権を築いた氏康の時代

…今川義元の死によって今川氏が衰退すると武田信玄によって三国同盟が破られ、これに対して氏康は謙信と同盟を組んで信玄に対抗しようとした。結果、1569年(永禄12年)に信玄の軍勢が小田原城を取り囲むが、この堅城を攻め落とすのは難しいと判断するや速やかに兵を引いてしまった。またしても氏康は強敵を退けたのである。 信玄による小田原攻めの2年後、氏康は病没して、すでに家督を継承していた氏政の代となる。その際、氏康は遺言として「自分の死後に謙信と手を切り、信玄と手を組むように」と言い残し…

【10大戦国大名の実力】北条家①――築き上げた組織力がもたらしたもの

…良氏が途絶えた場合は今川氏が将軍を継ぐ」と言われたほどの一族である。よほどの名門出身でなければ正室に迎えられるはずがない。 実際、最近では諸説あるうち、備中国荏原(えばら)荘に所領をもった足利氏譜代の重臣、伊勢氏の出身とする説が有力視されるようになった。伊勢氏の鎌倉時代以前の詳しい動向は不明だが、平維衡(たいら の これひら)の子孫とされ、室町時代に足利将軍の近臣として栄えた一族である。この説によれば、義忠が北川殿と婚姻したのは、隣国・遠江へ進出するにあたっての後ろ盾を中央政…

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