伏見城 の検索結果:
…93年(文禄2年)に伏見城で秀吉と対面したときから津軽と名乗ったらしいと紹介しましたが、それより2年早い1591年(天正19年)に出された豊臣秀吉の朱印状の宛名が『津軽右京亮』となっていることがわかりました。あわせて領地安堵についても1590年(天正18年)12月の上洛時から1591年(天正19年)6月の九戸一揆討伐の際に軍役動員されるまでの間のことだと考えられているそうです。 さて、1591年(天正19年)に起きた「九戸政実の乱」は豊臣政権によって討伐されますが、見落として…
…とで、秀吉が聚楽第や伏見城、大坂城に大名屋敷をつくらせて大名を集住させたのも、のちに江戸幕府が参勤交代制を取り入れたのも守護在京制の効果を認めていたということなのかも。 今回の動画ではあくまでも一例として「畠山氏における遊佐氏」を取り上げましたが、もう少しいろいろ勉強した上で、あらためて守護代をテーマに撮り直してもいいかなと思ってます。学べば学ぶほどわからないことが増えて、いろんな関連テーマに興味がわいてくるので、歴史はほんとうにおもしろいですね。 www.youtube.c…
…ではないかな。一方で伏見城は(指月と木幡山で)まとめてあったり、なぜか京都新城は入ってなかったです。2019年(令和元年)に京都御所の地下から金箔瓦が見つかったこともあり展示はもちろんあったのですが、城郭扱いしていないのかな。どちらも信頼に足る出典なので、とりあえず和集合を取って対象のお城を増やしておきました。 kojodan.jp 攻城団のローカルルールで一度獲得したバッジはあとから対象のお城は増えても剥奪しないとしているので、バッジを獲得された方はご安心ください(でもせっ…
…渡海しなかった大名が伏見城の普請を担当 家康も翌年上洛し、10月に江戸へ戻った 1595年(文禄4年)、54歳 7月、豊臣秀次が高野山へ追放、切腹(秀次事件) @自ら切腹したのか、秀吉の命によるものかは諸説あり 病の秀吉が起請文を提出させる 秀頼を頂点とした体制の構想=在京を原則とした体制=室町幕府を踏襲 →江戸幕府が当初、豊臣政権ほどの支配力がなかった証拠か 1596年(慶長元年)、55歳 秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は「江戸の内府(だいふ)」と呼ばれる。 …
…年(慶長8年)2月に伏見城で征夷大将軍の宣旨を受けましたが、3月に竣工したばかりの二条城に入城し、ここから参内して将軍拝賀の礼を行いました。さらに、朝廷からの勅使を迎えて将軍宣下の賀儀を終え、親王、公家衆などが表敬訪問してお祝いを表しています。この将軍就任に伴う儀式は家康から始まり、2年後の1605年(慶長10年)に二代将軍秀忠、1623年(元和9年)に三代将軍家光まで二条城で行われました。1611年(慶長16年)に二条城二の丸御殿にて家康と豊臣秀頼が会見したのは有名な話です…
…江膳所城や家康在城の伏見城の再建などを担当してきました。 当初は西国大名が主に工事を行っていましたが、このころから関東、奥羽、信越方面の大名、つまり伊達政宗、蒲生秀行らも加わって急ピッチで工事がすすめられることになります。本丸御殿が完成して2代将軍・秀忠が移り住み、天守を含めた本丸主要部が完成して将軍の城としての体裁が整いました。あわせて、西の丸龍ノ口から外桜田門、貝塚堀、半蔵門などの南西側の整備がされました。1614年(慶長19年)には本丸、西の丸、二の丸、虎ノ門までの外郭…
…なる。 西軍が京都の伏見城を陥落させ、三成が美濃の大垣城に入る一方、東軍も東海道を進んでいた先発隊が岐阜城を落として、家康も江戸城を出る。これとは別に家康の三男・徳川秀忠が、徳川軍の主力を率いて中山道を進んでいたが、なんとこの兵力が関ヶ原の決戦に参加することはなかった。信濃を進軍中に西軍・真田昌幸が籠もる上田城を攻撃したものの、昌幸とその子の幸村(これは通称で、実際の名は信繁)の知略に翻弄されて攻め落とせず、ここで時間を浪費したこともあって決戦に間に合わなかったのだ。 この遅…
…の戦いにおいて山城の伏見城(京都市伏見区)をめぐって行われた一幕などは、その典型といえよう。ここからはしばらく、関ヶ原の戦いにまつわる籠城戦をいくつか紹介しよう。 伏見城は豊臣秀吉が1592年(文禄元年)から指月山に工事を始めた城だ。その2年後には城下町の建設も開始され、城下には大名たちの屋敷が築かれていった。ところが、この城自体は4年後に大地震で倒壊してしまう。その後、木幡山に場所を移して再建され、豊臣政権の政治拠点となった。 秀吉の死後は一時徳川家康が入ったものの、関ヶ原…
…家康との約束に従って伏見城に入ろうとしたところ、城を守る徳川勢に拒否され、激怒した義弘は西軍側に参加したのだ、という。連絡の行き違いか、それとも家康が何かを考えていたのか、真相はわからない。 しかし、義弘の味方した西軍は、味方の裏切りもあって敗北が決定的になる。島津軍はここに至るまでほとんど戦っていないが、それは三成との意見の対立から傍観していたためとも、そもそも兵の数が千五百と少なく、陣取った場所も前線ではなかったためともされる。だが、島津軍が活躍するのはむしろここから――…
…された義直と頼宣が、伏見城の建物を移築する際になんらかの協力をしたのだろうとのことでした。 小屋場(こやば)というのは解体した資材置き場なのかと質問したのですが、よくわからなくて今後ほかの資料などが出てくれば特定できるかもしれないそうです。 二条城の寛永改修工事は大御所・秀忠が自分の弟である義直や頼宣に手伝わせており、天守台石垣は尾張藩が築いたという記録も残っているので、思わぬところで二条城が出てきてうれしかったです。このあたりはマンガでも紹介しているので未読の方はぜひ。 k…
…関ヶ原の戦いにおいて伏見城で囮の役を務めて討ち死にしたことで知られる鳥居元忠の子・成次(3万5千石)のふたりは所領の面でも職務の面でも群を抜いている。このふたりは、先述した御三家付きの五人の家老と同格の存在であった、と考えていいだろう。 残念なことに、彼らが仕えた忠長は問題の多い人物だった。大井川に橋を架けたり、寺社の土地を駿府の町の外へ移したりといったかたちで領国経営に熱心であった一方で、家臣の子やそばに仕えていた者たちを殺害してしまったのに、その翌日には自分が殺した彼らを…
…、子の勝俊は家康から伏見城の防衛を命じられていたにもかかわらず、三成方の軍勢が攻めてくると役目を放棄して逃亡している。この時、家康らの軍勢は上杉征伐に向かっていたため、伏見城は孤立した状態にあり、留守を任せられた徳川家臣の鳥居元忠は奮戦したものの、ついには討ち死にした。 これについては、そもそも家康は三成を挙兵させるための囮として上杉討伐に出陣し、また伏見城に少数の兵だけを残したのだ、という説がある。これに従うなら勝俊の判断は自らが生き残るためなら正解だったといえようが、「自…
…城に残ったとはいえ、伏見城攻めや関ヶ原本戦に重臣が代理で参戦したにもかかわらず、改易の憂き目に合うことはなかった。これは、朝鮮との和睦、関係復活を狙う家康にとって、宗氏は必要な存在だった、ということがありそうだ。 そして1601年(慶長6年)、ようやく義智らの手によって、朝鮮との交渉が再開された。この際、朝鮮側としても関係復活は望むところであったが、あまり性急に行うとやっとこの頃朝鮮から兵を引き上げたばかりの明から「朝鮮は日本と手を結ぼうとしているのではないか」というあらぬ疑…
…兵し、徳川家臣の籠る伏見城(京都市伏見区)を攻めている。長毎はあくまで家康に味方することを望んだが、畿内は三成ら西軍の勢力が圧倒的だったので諦め、しかたなく西軍に与した。しかし心中ではあくまで家康の味方をするつもりで、ひそかに徳川重臣の井伊直政に使者を送った、と『求磨外史』は語っている。 実際のところ、長毎が関ヶ原本戦に参加することはなかった。関ヶ原(岐阜県関ケ原町)近くの大垣城(大垣市)に在陣し三の丸守備を命じられていたからだ。そして戦いの趨勢が決まったと見るや、長毎はほか…
…、田辺城の杉若無心が伏見城へ向かった隙をついて、日高郡の小川与一等が蜂起。増田長盛が玉置氏などに鎮圧を指示し、一揆は鎮圧される。 慶長19年(1614)北山一揆 大坂冬の陣で新宮城主浅野忠吉が出陣した隙をついて、北山地方の土豪が蜂起。新宮城を目指すも、熊野川を渡れず撃退、一揆は鎮圧される。 秀吉の紀州侵攻で押さえつけられた在地勢力は、支配者側が領地をあけた隙をついて、一揆を起こしていますが、どれも鎮圧されています。 白浜町教育委員会 佐藤純一氏の報告「熊野水軍と史跡安宅氏城館…
… 平戸城(長崎県) 伏見城(京都府) 横手城(秋田県) 唐津城(佐賀県) 今治城(愛媛県) 長浜城(滋賀県) 忍城(埼玉県) 清洲城(愛知県) 関宿城(千葉県) などがあります。郡上八幡城天守は木造で再建された模擬天守第1号です。 ▲ 清洲城天守(清須城とも書く)。史実とは全く異なる模擬天守だ。しかし、町のシンボルでもある。 ▲ 郡上八幡城天守。大垣城天守を基に建てられた木造第一号の模擬天守だ。まったく史実と異なるが、今では郡上八幡のシンボルとして定着している。 復元天守の再…
…による中国攻めにて 伏見城や大津城:関ヶ原の戦いの前哨戦にて 豊臣大坂城:大阪冬の陣夏の陣にて 会津若松城:戊辰戦争にて などがあります。もっと他にもあるかもしれないので、いろいろと探してみてください。 備えあれば 戦国の世ではいつ籠城戦になるかわからないため、城郭全体だけでなく天守にも籠城戦に必要な設備が備えられたところがあります。※ここでは天守の籠城への備えだけに絞りました。 畳敷き 籠城戦において多くの人々が天守に詰めることになれば、そこは一転して生活の場にもなります。…
…景勝を征伐するために伏見城を出陣している。景勝が上洛命令に応じないため、豊臣政権への反逆の疑いを持たれたためだ。上杉方もそれを回避するために動いたが、家康は邪魔な上杉氏をつぶすために上杉方の申し開きを受け入れず、征伐に動きだした。戦いは止められないものと感じた景勝の家臣・直江兼続は『直江状』という家康を批判した手紙を本人に送っている。 両者の激突は必至だったが、家康が伏見城を離れた後、五奉行のひとり・石田三成が家康を打つべく挙兵した。秀吉の遺命を守る三成と、天下人になろうとす…
…幕府の直轄地となって伏見城代の内藤信正が転任されたのが始まりとされる。2万石から15万石の石高の譜代大名まで選任され、1万石が俸禄として与えられた。また、赴任の際に従四位下の官位も授けられた。大坂は畿内の軍事的中心であり、大坂城代の責任は重い。任期は1年ないし3年の交代制の時期もあったようだが、結局はまちまちで、のべ70人ほどが任命されている。 大坂定番(おおさかじょうばん) 大坂城代の補佐役。1623年(元和9年)に高木正次が二丸京橋口、稲垣重綱が玉造口に任命されたのが始ま…
…の拡張工事に始まって伏見城・駿府城・名古屋城・高田城といった徳川家のための城や、西国に対する防衛拠点としての彦根城・篠山城などの築城、さらには江戸市街地の拡張・整備などが、江戸時代初期に行われた主な御手伝普請である。 大名は石高に応じた人数を動員する義務を負わせられ、それを家臣団に分配した。家臣たちもまたそれぞれの知行高に応じて領民を人夫として動員し、現地に赴いた。こうした工事は大名たちにとって大変な経済的負担であり、これを強いることによって幕府は反乱する力を削ごうとしたのだ…
…が休戦中のころ、京は伏見城でのことだった。このとき、正則は大杯になみなみと注がれた酒を太兵衛が飲み切れるかどうかに秘蔵の宝物をかけた。これを受けた太兵衛は見事大杯の酒を飲み干し、賭けの品――正則が豊臣秀吉から拝領した名槍「日本号」を勝ち取った。すなわち「日の本一の槍」を「飲みと」って見せたのである。 このエピソードは戦場での槍働きの話ではない。しかし当時の武士たちは大酒飲みが普通で、宴の席では誰もが大いに飲んだという。それならば、酒の挑戦を受けずに引き下がることには大きな恥、…
…重臣・鳥居元忠による伏見城籠城戦だ。 元忠は家康が今川義元の人質になったときから仕えており、家康の三河統一などの戦いで活躍している。家康が関東に移封する際には下総国に4万石が与えられた。先鋒として情報収集を行ったりもしており、頼れる家臣だったようだ。 そんな元忠は関ヶ原の戦いの際、伏見城に置かれた。伏見城は豊臣秀吉が隠居する際に築いた城で、彼が亡くなった場所でもある。その後は豊臣政権の権力を握る家康の手に渡っていた。 家康は三成を戦いの舞台におびき寄せる作戦として、会津征伐を…
…加する予定でしたが、伏見城に籠城する鳥居元忠が「主君である家康から聞いていない」と入城を拒否したため、流れで西軍として参戦することになりました。こうした経緯で西軍に参加したものの、わずかな手勢であったことからか石田三成ら西軍首脳は義弘の存在を軽視し、開戦したのちも島津軍はほとんどなにもすることなく撤退戦――つまり今回のマンガで紹介された「島津の退き口」――がはじまることになります。 このマンガに登場する島津義弘を思い浮かべながら、兄弟間の方向性のちがいに悩まされたり、東軍とし…
…元忠らが討ち死にした伏見城の床板が移築されています。 手形の血痕がくっきりわかります。 こちらには足形が。 鳥居元忠の位牌がありました。 ほんとに過ごしやすいお寺です。今月末から再来年まで修復工事のため拝観休止となるというのに、お客さんも多くなく、30分以上のんびりしていました。 灯籠の穴も手前が四角、奥が円になっていて、こういう細部へのこだわりを見つけるとうれしくなりますね。 御朱印もいただきました。 拝観再開は再来年の秋 拝観再開は2021年(令和3年)10月末頃だそうで…
…れらの障壁画は秀吉の伏見城にあったものという記述も見つけましたが、真偽不明です。等伯が秀吉の依頼で描いたのは祥雲寺(現・智積院)障壁画くらいだと思っていたのですが、これが1592年(文禄元年)頃完成なので、1597年(慶長2年)の木幡山伏見城にどこかの絵を任されていても時系列ではおかしくはないですね。あと、このMIHO MUSEUMに収蔵されている「柳橋水車図屏風」は「伝」長谷川等伯筆の注釈付きですが、伏見城御殿を飾っていたと書いてありますので、可能性はゼロじゃなさそうです。…
…9年、天正17年) 伏見城(1594年、文禄3年)※秀吉の命により助工 宇和島城(1596年、慶長元年)※宇和郡7万石の領主として起工 伊予大洲城(1597年、慶長2年)※大洲1万石の加増を受け、城を築く 順天倭城(1597年、慶長2年)※慶長の役で朝鮮に宇喜多秀家らと城を築く 膳所城(1601年、慶長6年)※家康の命により築城助工および縄張り 甘崎城(1601年、慶長6年)※大改修 灘城(1601年、慶長6年)※大改修 今治城(1602年、慶長7年)※伊予半国20万国の領主…
…伊賀上野城や墨俣城、伏見城などです。 天下布武 | 伏見城 模擬天守[伏見城] 現存天守は比較的有名なのでわかりやすいんですけど、その他のお城を訪問する際に、そのお城が復元天守なのか、復興天守なのか、あるいは模擬天守なのかを調べておくのも楽しいと思います。 お城めぐりをはじめると復興天守や模擬天守を「偽物」と感じてしまうこともあるかと思いますが(ぼくもそうでした)、でも現代の城下町にとってはその天守が本物で、地域になじんでいるのも事実です。「その城に天守はなかった(こんな外観…
…は、大坂城、江戸城、伏見城の3つが上位にランクインしています。このランキングは城の規模や防御力を考慮して作成されたそうですので「三名城」とは少しちがいますが。ちなみに名古屋城は5位、姫路城は8位、熊本城は11位となっています。 けっきょく三名城を決めるのはむずかしい こうしてみると三名城を選ぶのって大変ですね。ここに出てきてない城の中にも、国宝である松本城や犬山城、彦根城もありますし(というか国宝から選ばれてるのは姫路城だけで、その姫路城ですら選外になってることもあるというの…
…」の前哨戦で落城した伏見城の床板だそうです。鳥居元忠らが討死した籠城戦ですね。足で踏む床板として使っては供養にならないからと、天井に上げています。 京都のいくつかのお寺にはこうした伏見城の床板が天井に貼られてるそうです。もしかしたらここは写真撮影オッケーだったかもしれません。確認するのを忘れてました。庭はオッケーといわれたんですけどね。 kojodan.jp 金碧障壁画がデザインされた御朱印帳とクリアファイルが買えます もし天球院を訪問されるなら、おみやげにぜひオススメしたい…
…代償として真田親子に伏見城の普請を命じる。11月2日、秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。信繁、大谷吉継の娘(一説に養女)を正室に迎える。 1595年(文禄4年) 29 1596年(慶長元年) 30 「慶長の役」 1597年(慶長2年) 31 1598年(慶長3年) 32 8月18日、秀吉が死去。 1599年(慶長4年) 33 1600年(慶長5年) 34 7月、昌幸、家康に従い上杉討伐軍に加わる。道中、石田三成が挙兵し、下野…