攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

加賀 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…ではなさそうだとか、加賀美二郎遠光の三男・光行が奥州藤原氏の討伐に参加し、その戦功により源頼朝から陸奥国内に所領を与えられて入国し、彼の息子五人が各南部庶家の祖となり、本妻の子である実光の三戸氏が宗家となったという話も現在は否定されているそうです。 榎本先生には今回、当時の南部領に存在する地元の資料館や教育委員会に問い合わせていただき、またXで南部氏関連の投稿をよくされていた帆船ハッカさんに監修もお願いしながら、情報を整理していただきました。『青森県史』や『戦国の北奥羽南部氏…

【現在1782城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…印 大聖寺城(石川県加賀市) 歴町ふるさと館 500円 2020年11月17日 岩付城(岩槻城) 御城印 岩槻城(埼玉県さいたま市) ヘアーミックスカトウ、水野書店、田中屋本店、人形の東玉 岩槻総本店 300円 印刷 2020年11月15日 松尾山城 御城印 松尾山城(岐阜県関ケ原町) 岐阜関ケ原古戦場記念館 550円 印刷 2020年11月13日 大溝城 御城印 大溝城(滋賀県高島市) 大溝のまち並み案内処 総門 300円 印刷 2020年11月13日 萩城 御城印 萩城(…

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…ています。 金沢城は加賀藩前田家の居城であることは有名ですが、どんなお城だったかについては意外と知らない方も多いと思います。ぼくも今回までよく知らなかったのですが、もともとは多くのお城と同じように本丸に天守と御殿があったそうです。それが(これもあるあるですが)天守は落雷で焼失、またその後に本丸御殿も火災により焼失したため、3代・利常の代に二の丸を拡張して、メインの執政エリアとして二の丸御殿を新たに造営しました。 これが1631年(寛永8年) のことです。二条城二の丸御殿が後水…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…料集成』第二巻 ※『加賀家文書』について、同書の翻刻に拠って参照した。池田 哲郎1959「佐久間象山と蘭学-象山蘭書志-」『福島大学学芸学部論集』第10号市川 一学1850『御城地之儀ニ付存寄申上候書付』※北海道大学附属図書館北方資料室所蔵本のデジタルアーカイブに拠った。江川 英龍『砲術門人姓名簿』国文学研究資料館 伊豆韮山江川家文書データベース公開資料江差町史編集室1979『江差町史』資料編第三巻※『松前藩御達留』について、同書所収の翻刻を基準とし、北海道大学附属図書館北方…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

…日記』『藤枝日記』『加賀家文書』など)。「戸切地」とは、陣屋西側を流下する河川「戸切地川」に因んだ周辺広域を指す地名で、アイヌ語「peker-pet(ペケレ・ペッ、明るいor美しい・川)」を語源としています。その他、帰属する大名家にちなんで「松前陣屋」(『アナタヒラ松前陣屋絵図面』『蝦夷之夢』『北洲新話』)、または所在地点近隣の村落の名をとり「濁川(村)陣屋」(『峠下ヨリ戦争之記』)「文月(村)陣屋」(『南柯紀行』『蝦夷錦』)などと呼ばれました。ほか、幕府書類に「穴平(※)陣…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…。・戦国時代初期には加賀一向一揆によって一時的に越後へ追いやられ、またこの戦いに介入していた越後長尾氏が新川地域を領有。こういう流れの中で越中遊佐氏が弱体化し、椎名・神保が二大勢力化していく。【主に『下村史』】 ・この長尾氏ののちの姿である戦国大名・上杉氏が越中を圧迫し、越中守護代三家が戦国大名として強大化することはなかった(戦国大名にはなったとする資料も多い)。最終的にはまず椎名氏が上杉に与し、神保氏も武田と結んで対抗したがやがて内紛を起こす。その後、今度は椎名が武田に裏切…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…初出らしいのです。 加賀中央図書館が所有するものが第1部に展示されています。 「織田家の悪口に満ちている本」と西山学芸員は紹介されていましたが、Wikipediaにも「豊臣秀吉に関しては絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷評されている」と紹介されてますね。ゲームでは謎のキャラクターとしてよく出てくる幻術師・果心居士の記述もあるようで、たしかにうさんくさい系の本のようです。 現代でもフェイクニュースが拡散して、その訂正記事はまったく読まれず、まちがった情報だけが広ま…

「三管四職」の延長戦(復習回)を攻城団テレビで生配信しました

…許される。赤松政則が加賀半国守護に任ぜられ、その後の応仁の乱で旧領の三国をめぐって山名氏と争い、三国守護の座を取り戻す。 1467年(応仁1年)応仁の乱 ※最近の教科書では「応仁・文明の乱」と表記 足利将軍家の後継者問題、畠山氏の家督争い、斯波氏の家督争い、さまざまな内紛が複雑に絡み合って予想外の大乱になった。河内守護が畠山政長→畠山義就→畠山政長と交代を繰り返している。徒歩圏内で起きた争いが全国規模に発展し、守護在京制などそれまでの秩序が崩壊した。 1493年(明応2年)明…

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

…の国」を実現していた加賀の国などを経て、正信は家康の元に帰還する。帰還の時期については諸説あり、1569年(永禄12年)もしくは1570年(永禄13年)とも、1582年(天正10年)の「本能寺の変」の直前であったともいう。短くて7年、最も長く考えると20年という月日を彼は放浪の中に過ごしたわけだ。これはかなり異色の経歴である。 こうした経歴ながら家康は正信を深く信頼し、様々なことを彼に相談して決めていったという。正信もまたその信頼に応え、内政面や外交面などで様々な提案をしてい…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…の攻撃には加わらず、加賀・能登・越中を結ぶ要所に位置する末森城に向かった。一方、籠城側からの救援要請を受け取った織田方からは、北陸方面司令官の柴田勝家を主将とする部隊が七尾城の救援のため出陣した。うまく彼らが七尾城にたどり着いていれば、能登畠山氏にも生き残りのチャンスがあったかもしれない。しかし、この軍団にはトラブルが絶えなかったらしい。 まず加賀に入った辺りで、羽柴(豊臣)秀吉と勝家の意見が対立し、秀吉が勝手に抜けてしまう。しかも、七尾城の情報が全く入らなかったので、なかな…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台①――女性が支えた城・末森城

…城(石川県羽咋郡)は加賀・能登・越中の三国を結ぶ要所に位置する。織田政権において加賀・能登を与えられた金沢城主・前田利家が、本能寺の変後に織田家臣団同士が相争うようになると、越中の佐々成政の侵攻に備えるためにこの城を築いたとされる(それ以前、能登畠山氏の時代からあったとも)。1584年(天正12年)、いよいよ成政が来襲する。これに立ち向かうことになったのが末森城とその城主・奥村永福(おくむら ながとみ)である。末森城を落とされると加賀・能登間の連絡が断たれるため、永福らは決死…

【クーデターで読み解く日本史】源平合戦の背後で蠢く地方武士の思惑とは?――治承・寿永の乱

…陸を回って京に迫り、加賀と越中の国境に位置する倶利伽羅峠(くりからとうげ)では平氏の軍勢を奇襲によって破っている。しかもこのように平氏政権が危機の只中にあった時、これまで一族を主導してきた平清盛が病で亡くなるというさらなる衝撃が平氏を襲った。強力なリーダーを失った彼らは有効な対策を打てないまま義仲の圧力に押される形で都落ちをする。平氏にとって勢力基盤である西国に落ち延び、態勢を立て直そうとしたのである。 代わって京に入ったのが義仲だった。彼は平氏の元から逃げ出していた後白河法…

【殿様の左遷栄転物語】将軍のブレーン・新井白石

…石へ持ちかけたのは、加賀国は前田家への出仕であった。前田家はいわずと知れた「加賀百万石」の大藩であり、また学問への傾倒が深い家でもあったから、これは学者としては垂涎の就職先であった。 ところが、これを聞きつけた同輩の中に加賀へ母を残している者がおり、白石に頭を下げて自分にその話を譲ってくれるよう頼んだ。白石はこれを快諾、その同輩は無事に前田家に仕えて、順庵は白石の心ばえを涙ながらに喜んだ、と伝わる。このことは白石の人間性を示すエピソードでもあるが、同時にある種の「強運」を感じ…

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

…ている。 忠隆の妻は加賀国の前田利家の息女・千世である。まず、このことが問題だったと思われる――前田家は全国でも有数の大藩であり、また関ヶ原の戦い直前に家康から謀反の疑いをかけられ、人質を差し出して危機を切り抜けた、という経緯があった。この前田家とのつながりを持ち続けることは、細川家にとってよくない、と感じたのだろう。そのうえ、忠利は秀忠の養女(しかも実際には家康のひ孫に当たる)と結婚していて、ふたりの間には男子も生まれていた。前田家との関係を切り、徳川家との関係を近づける一…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…1年)、越前・若狭・加賀半国あわせて123万石という広大な所領を長秀に与えている。しかしそれからわずか2年後、長秀は病に倒れ、所領は息子の長重に受け継がれた。この時の長重、15歳である。 上にも下にも翻弄され続けた男 長重という男の苦難の道のりは、まさにこの瞬間から始まったといっていい。家督を継承したまさにその年のうちに、秀吉から「家臣団に秀吉に対する謀反の気配あり」と決め付けられ、所領の大半を没収されて、若狭国12万3千石へと落とされた。しかもその2年後には再び「配下の兵に…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…。また、この時期には加賀の前田利長から「10万石で仕えないか」と誘われたが断った、という逸話も残っている。関ヶ原後に他藩に仕えた大名が珍しくないのは前述したとおりだが、宗茂としてはあくまで独立大名として返り咲きたいという思いがあったのだろうか。 この浪人生活にピリオドが打たれたのは、1603年(慶長8年)あるいは1606年(慶長11年)に江戸へ出て、本多正信の手引きを受けて時の将軍・徳川秀忠に謁見したことからだった。まず5千石を受けて旗本の書院番頭となり、その後、陸奥棚倉に1…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府10代・足利義稙――念願叶い将軍職奪還! しかし…… 1466年~1523年

…けやま よしむね)や加賀守護・富樫政親(とがし まさちか)といった北陸の諸将たちがこれに応じた。こうして上洛の準備を整えた義材は、1498年(明応7年)に越中を出発。越前の朝倉氏のもとへ赴いた。名前を義尹に改めたのは、この頃だとされる。 また、かつて義尹とともに戦った畠山政長の息子・尚順(ひさのぶ)が、共同戦線を張らないかと話を持ちかけてくる。憎き仇・細川政元を挟み撃ちにしようということだった。義尹はこれに乗り、翌年越前を発ち敦賀を経て近江の坂本に陣を構えた。しかし政元が出陣…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府7代・足利義勝――わずか8ヶ月の短命将軍 1434年~1443年

…しても事件が起きる。加賀守護代である山川八郎が、持国を襲撃すると宣言したのだ。 ことの始まりは、義勝の父である義教が、加賀守護を務める富樫教家(とがし のりいえ)から守護職を剥奪したことだった。守護職はそのまま弟の泰高(やすたか)に譲られたが、義教の死後に教家と泰高が内乱を始めてしまう。山川八郎は泰高派だったものの、戦いに破れてしまう。そこで、教家の息子である亀童丸を援助していた畠山持国に狙いを定めたのである。 この騒動に際して、義勝の母である日野重子が仲裁に乗り出して、泰高…

【江戸時代のお家騒動】加賀騒動 30年以上にも及ぶ江戸三大お家騒動のひとつ

…(宝暦4年)【舞台】加賀藩【藩主】前田吉徳、前田宗辰、前田重熙【主要人物】大槻朝元、前田直躬、青地礼幹、真如院 先代「ぜいたく大名」の財政危機を受けて立て直しに挑む 別名「大槻騒動」とも呼ばれるこの事件は、加賀藩前田家の家臣・大槻朝元(おおつきとももと)を中心に勃発したものだ。他のいくつかのお家騒動と同じように、この事件も脚色されて人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となっている。その場合、大槻は加賀藩乗っ取りを企む奸臣として描かれることがほとんどだが、実際のところはどうだったのだろうか…

【江戸時代のお家騒動】酒井忠徳による財政改革 豪商・本間光丘の起用

…やってきた。彼の妻は加賀藩主・前田綱紀の養女で、金遣いが派手だったために雑用金が膨らみ、財政を圧迫させる要因となっていく。 その上、1739年(元文4年)には幕府から日光東照社の修理を命じられ、4万8千両の普請費用が財政をさらに圧迫した。そのため、藩士たちから禄と扶持を取り上げ、その代わりとして雑用金を支給するなどの異例の措置をとらなければならないほど、藩は困窮していたのである。さらに藩を苦しめたのは、多発する凶作だった。早魃、冷害、虫害などにより農民の生活は追い詰められ、年…

明智光秀と朝倉景鏡――あるいは誰のための裏切り?

…年にわたって隣接する加賀の一向宗と戦い続けていた。のちに、互い織田信長と戦っているという事情もあってか戦いをやめているが、信長の支配地域になったなら攻めるのは当然である。信鏡はたちまち危機に陥った。平泉寺とともに戦ったが敗れ、ついには自決へ追い込まれたのだった。 裏切り者としての彼を、光秀と比べるとどうだろうか。明確な違いは、裏切った原因が想像しやすいことだ。なぜ裏切ったのか諸説入り乱れる光秀と違い、景鏡(信鏡)は「朝倉氏が追い詰められたから」「自分の身が危うくなったから」と…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…を見てみましょう。 加賀藩(前田家) 加賀国、能登国、越中国の三令制国で二城(金沢城、小松城) 鳥取藩(池田家) 因幡国、伯耆国の二令制国で三城(鳥取城、米子城、倉吉城) 福井藩(越前松平家) 越前国に三城、のち二城(北ノ庄城(のち福井城)、丸岡城(のち丸岡藩として独立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。…

【江戸時代のお家騒動】浦野事件 加賀藩内の独立領を統合する

…(寛文7年)【舞台】加賀藩【藩主】前田綱紀【主要人物】長連頼、長元連、前田綱紀、浦野孫右衛門 加賀藩内の独立王国となっていた鹿島半郡 浦野事件は加賀藩主・前田家の家臣である長連頼・元連父子の対立が、主家をも巻き込み勢力を二分する騒動に発展したものである。加賀藩では五代藩主・前田綱紀の時に、後見人の前田利常によって改作法と呼ばれる農政改革が実施された。この改革は、検地による収益の推定、給人による直接支配の禁止、税率の決定などを含んだもので、家臣と農民を救うために実施された改革と…

【戦国軍師入門】九頭竜川大会戦――30倍の勢力差を逆転

…の頃、越前に隣接する加賀(現在の石川県南部)の国は一向宗(浄土真宗の本願寺派)によって支配されていた。1488年(長享2年)の加賀一向一揆(一向宗の信者が起こした反乱のこと)で守護の富樫氏を追い出した本願寺は加賀を百姓の国とし、さらに他の国にも勢力を広げようと虎視眈々と狙っていたのだ。 こうした事情から、越前で一揆が起きると加賀、越中(現在の富山県)、能登(現在の石川県北部)の一向宗門徒たちが続々と越前の国に流れ込んで合流する。ここにかつて朝倉家に敗れた越前甲斐氏の残党まで参…

【戦国軍師入門】3.戦国大名以外の勢力

…めたりもした。特に、加賀の国で起きた一向一揆は守護を追い出すほどに成功し、一向宗の国を作ってしまうほどだった。 しかし、こうした宗教団体の多くは、織田信長によって徹底的に滅ぼされてしまった。迷信深くて、仏相手には遠慮しがちな戦国大名が多かった中、信長は彼らも勢力のひとつととらえた。そして、武装している以上配慮をする必要はないと判定し、各地で虐殺を行ったのだ。 外国の存在も大きな影響を与えている。室町時代以前、日本にとっての海外といえば中国や朝鮮、それから当時は独立した国家だっ…

初代藩主と藩祖のちがい

「加賀百万石」で知られる金沢藩(加賀藩)の初代藩主は誰か答えられますか?前田家は江戸時代の大名としては珍しく、265年間一度も国替えされることなく加賀藩主をつとめた大名家ですが、その初代藩主は前田利長です。利長の父である前田利家は1599年(慶長4年)に死去し、江戸時代を生きてないので加賀藩主とはなっていません。そのため、加賀藩では利家を「藩祖」としています。 同様に福岡藩も初代藩主は黒田長政ですが、藩祖はその父である黒田孝高(官兵衛)となっています。官兵衛は1604年(慶長…

金沢城 武士が統治する証となった城

…天正8年)に信長から加賀を任された。信長によって統治される前の加賀は「百姓の持ちたる国」と言われ、武士による統治は100年ぶりのことだった。 こうの | 三の丸広場から見た五十間長屋[金沢城] 加賀に浄土真宗が広まったのは、本願寺8代住持蓮如が加賀の国境に近い、越前吉崎で伝導を行ったためである。蓮如は元々、京都東山の本願寺にいたのだが、本願寺教団の勢力が大きくなったため危険視した山門延暦寺と抗争している。山門の攻撃開始は1465年(寛正6年)の正月であり、同年3月には迫害され…

【お城の基礎講座】13.天守の外壁と意匠

…も素晴らしい意匠で、加賀百万石を醸し出している。 大壁造(おおかべづくり)と真壁造(しんかべづくり) 天守の外壁で柱を見せない構造を大壁造(おおかべづくり)と呼びます。一方で柱を見せるものを真壁造り(しんかべづくり)と呼びます。大壁造が基本ですが、真壁造りは寺社建築の意匠であり格式が高いのが特徴なため、天守の格式を高める目的で使われました。犬山城天守や広島城天守の最上階は、柱や長押(なげし)を見せる真壁造りになっています。 ▲ 最上階は柱や長押がむき出しになった”真壁造”の広…

明智光秀と柴田勝家ーーあるいは一線を引かれた同僚?

……このあたりは小説的な想像がいくらでもできるし、『麒麟が来る』がどう描くのかが楽しみだ。 織田家の勢力が全国に広がる中においては北陸方面を担当し、加賀一向一揆や上杉家と戦っていた。その最中に「本能寺の変」の急報を知るも動けず、信長の仇討ちをすることはできなかった。信長死後の織田家体制においては信長の妹・お市の方を娶り、羽柴秀吉と対立する。そして秀吉の躍進を押さえようとするも叶わず、敗れて死んだ。お市の方は彼と運命を共にしたが、彼女の娘3人は生還し、その後の歴史を動かしていく。

けっきょく江戸時代に藩はいくつあったのか

…ます。 藩庁の有無 加賀藩なら金沢城といった感じで、藩には藩庁が存在します。小藩であっても陣屋と呼ばれる城の代わりにとなる屋敷がありました。大名になるには1万石以上が必要ですが、さらに城を築くためには3万石がボーダーラインになっていたそうです。では藩には必ず城か陣屋があったのかというと、そうともかぎりません。藩内支藩といって子どもや兄弟に数字上のみ分与しているケースがあるからです。こうした藩内支藩は蔵米支給といって俸禄をもらうだけで領地を有しているわけではないので、当然のよう…

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