攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

古代 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…研究室『東北史講義 古代中世編』ちくま新書 遠藤ゆり子、竹井英文『戦国武将列伝 1 東北編』戎光祥出版社 福田千鶴『新選 御家騒動〈上〉』新人物往来社 兼平賢治『近世武家社会の形成と展開』吉川弘文館 下斗米哲明『文政四年の激震 相馬大作事件』寿郎社 『ふる里なんぶ』南部町歴史研究会 論文 滝尻侑貴 南部氏の正月行事にみる領主関係 熊谷隆次 戦国期南部の「一家」―糠部郡の政治的秩序― 熊谷隆次 南部信直の元服状 千葉一大 盛岡・八戸両藩の分立 経緯の再検討と考察(上下) 千葉一…

【現在1761城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…原市文化財センター「古代まほろば館」 300円 印刷 2023年3月11日 石倉城 御城印 令和五年春限定版 石倉城(群馬県前橋市) ホテル1-2-3 前橋マーキュリー、大甘堂菓子舗 500円 印刷 はがき大 2023年3月4日 丸子城 御城印 お茶染め御城印 丸子城(静岡県静岡市) 駿府の工房 匠宿 700円 手染め 2023年3月3日 大葉澤城(大葉沢城) 御城印 大葉沢城(新潟県村上市) 普済寺 300円 直書き 2023年2月27日 天羽城 御城印 高梨商店、まるごと…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…第1巻 下(本文編 古代・中世)』】→どちらにせよ、木沢氏の勢力が畠山や遊佐の勢力を一掃してしまったわけではなかったようで、守護代には遊佐長教(ながのり。三好長慶(みよしながよし)の継室の父)がついているし、長政はむしろ大和へ進出している(大和守護になったという話も)。また、畠山在氏(ありうじ)を擁立して総州家の実権も握っていたようだ。そんな中で長政は結局晴元と対立することになり、さらに長教が当時の河内半国守護・畠山政国(まさくに。尾州家)を追い落としてその兄の稙長を擁したの…

【家康の謎】家康が採った空城計ってなに?

……という。この作戦を古代中国の軍学書『兵法三十六計』に第三十二計として記されている「空城計」(あえて敵に警戒させる作戦)になぞらえて、「家康は空城の計を仕掛けた」と言われるようになった、というわけだ。 なお空城の計の有名な例としては、『三国志演義』の一場面がある。いわゆる北伐において、諸葛孔明は弟子の馬謖を信じて要所を任せたために窮地へ陥り、どうにか味方を撤退させなければならなくなった。そこで城の門をすべて開け放たせ、自らは櫓の上で琴を鳴らすパフォーマンスに出る。この状況を危…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…『福島県立博物館』。古代から近現代に至る福島県の歴史や自然、美術などの貴重な資料を紹介している。「博物館を学びの場だけではなく、見て感じて楽しめる場にしていきたい」と話すのは学芸員の塚本麻衣子さん。その言葉通り、リニューアルした民俗コーナーでは展示物と影像が一体となり、雪国・会津の風土と文化を体感することができる。4月29日(祝)からは企画展「Go! Go!5世紀–東北地方中・南部の古墳文化–」が開幕。古代の人々の暮らしに迫る展示は子どもから大人まで楽しめそうだ。 実物資料の…

【家康の謎】家康の趣味は鷹狩らしいけど、なぜ鷹狩をするの?

…が、おそらくは遥かな古代に中央アジアの遊牧民たちの編み出した技が広まったものであろう。一方、日本で初めて行われたときについては明確に記録に残っている。『日本書紀』によれば仁徳天皇四十三年、百済の王孫・酒君が調教した鷹が献上され、天皇がこれを用いて鷹狩を行った、という。のちに鷹狩は天皇をはじめとする貴族の楽しみとして独占され、高い身分のものたちの象徴になった(誰もが頻繁に行うようでは獲物がいなくなるという事情もあったろう)。ただ一方で仏教が禁じる殺生でもあったため、しばしば信仰…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…紹介する。→大内氏は古代に百済の王族がやってきて聖徳太子に謁見し、日本に定着したという伝説がある。鎌倉時代より武士として力を持ち、西日本でも有数の大名の一つとして権勢を誇った。戦国時代には新興勢力である尼子氏の台頭もあったが、中国地方を代表する戦国大名だったのは間違いない。・そんな大内氏が揺らいだのは大内義隆(おおうちよしかた)の時のことである。義隆も名君と言っていい人物であったが、尼子(あまご)氏の本拠地・出雲の月山富田城を攻めて大敗したことなどをきっかけに政治への意欲を失…

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

…る。その知略は様々な古代の英雄にたとえられ、張亮(古代中国の王朝・前漢を建国した劉邦を支えた軍師)や諸葛亮(同じく古代中国の三国時代に活躍した軍師)に匹敵するとも、また「昔楠木、今竹中」(楠木とは楠木正成のことで南北朝時代に後醍醐天皇に仕えて少数で多数を翻弄した軍師)とも讃えられた。 一般的に知られている「半兵衛」は通称で、本当の名前は重治(しげはる)という。斎藤家に仕える美濃の武士・竹中重元(しげちか)の子だ。しかし、斎藤道三をその子・義龍(よしたつ)が殺した際、重元は道三…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…この城および城下町を古代中国の故事に基づいて「岐阜」と命名した。そこには天下統一に向けての意思が反映されている、という。信長が安土城に譲った後も、嫡男の信忠がここを拠点として武田氏への押さえをつとめたから、城の価値が失われたわけではない。しかし信長・信忠ともに本能寺の変で死に、信長の孫・織田秀信(おだ ひでのぶ)の代に関ヶ原の戦いの前哨戦で落城。徳川家康の娘婿にあたる奥平信昌(おくだいら のぶまさ)が領主となったものの、彼が居城として別の新しい城(加納城)を築いたため、この城…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…思います。 この本は古代から江戸時代まで、その時々の権力者を支えたナンバー2をまるっと紹介した内容になっています。どんな人物が収録されているかは最後にもくじを貼り付けておくので確認していただくとして、ライブでは最初にタイトルにある「ナンバー2」についての確認からはじめました。天皇を補佐する摂政・関白はともかく、執権(天皇を支える将軍の補佐)や大老(天皇を補佐する将軍に仕える大名)は「2番目(ナンバー2)」なのかについては厳密には異なるものの、その時代を動かしていた最高権力者の…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台②――信玄と家康、虚虚実実の駆け引きが繰り広げられた城・浜松城

…国志演義』で知られる古代中国の伝説的天才軍師、諸葛亮の策にも通じる「空城の計(くうじょうのけい)」である。――残念ながら、この話は創作の色が濃い。徳川氏の天下となった後世、大敗した徳川軍を少しでも持ち上げるために作られた話、とする説のほうが有力なのだ。この他にも、この戦いの直後に徳川軍が夜襲をかけ、鉄砲の音に驚いた武田軍の兵士が多く崖に落ちたともいうが、これもやはり後世の誇張、徳川氏に対する「ゴマスリ」の類と考えるべきなのだろう。 それでも、城に籠もる徳川軍をおびき寄せた信玄…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城造りと信心

…間違いない。なにせ、古代日本の寺院は「御仏に祈って国を守る」役所だったくらいなのだから。当然、戦国大名たちも信心深かった。彼らは合戦という命がけの戦いに自らや一族、家臣団や領民たちの運命をかけなければならなかったのだから、できることは何でもやった――その中には、神や仏に祈りを捧げる、あるいは各種の儀式を執り行って縁起を担ぐ、という行動も含まれていた。 もちろん、武将たちは城を築くにあたっても神仏の加護を願い、呪術の力を頼り、縁起を担いだ。四神相応もその中のひとつだ。そもそも、…

【サイン本プレゼントあり】「ナンバー2の日本史」のご紹介

…ナンバー2の存在。「古代天皇の補佐役」「摂関政治と院政期のナンバー2」「鎌倉幕府は執権のものか?」「室町幕府、持ち回りの管領」「戦国大名と名参謀」「巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣」など古代から江戸時代の6章にわたって、日本史の歴史で活躍したナンバー2に光を当てる。 とあるように摂政や関白のように天皇を補佐した人物や、織田信長や豊臣秀吉などの天下人を支えた軍師などが紹介されています。表紙に出てる名前が藤原道長、北条義時、明智光秀というのもいいですよね。どの人物も一癖も二…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史①――古代の集落から、拠点としての城ヘ

…知られている。これは古代遺跡としても非常に有名だが、同時に日本100名城のひとつにも数えられているので、立派な城と考えていいだろう。 これに対し、飛鳥・奈良時代の大和朝廷が各地に築いた城の数々は軍事拠点としての性格が強く、私たちの想像する城のイメージに近くなっていく。まずひとつ、朝鮮半島からの侵略を警戒して北九州や瀬戸内海沿岸に設置された朝鮮式山城(および、これより古いが同種の建築法で作られた山城「神籠石(こうごいし)」)がある。もうひとつは北方の異民族・蝦夷を征服する過程で…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家①――イノベーションの遅れは致命傷①

…いる人物だ。なんと、古代中国のファーストエンペラー、秦の始皇帝の末裔だというのだから驚きである。始皇帝の子孫が朝鮮半島経由で日本へ渡ってきて渡来人・秦氏となり、飛鳥時代にはその中でも族長格であった秦河勝(はた の かわかつ)という人物が聖徳太子に仕えた。 さらにその子孫が鎌倉時代の初め頃になって四国に渡り、土佐国長岡郡宗部郷に住みつく。この際に土地の名前(宗我部氏)を名乗り出したのだが、すぐ近くに香宗我部氏がいたので、区別のために「長宗我部」を名乗ったのだという。しかし、蘇我…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…武元年) 壬申の乱 古代日本最大の内乱。天智天皇の太子・大友皇子(おおとものおうじ)と、皇弟・大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)が戦い、反乱者である大海人皇子が勝利。乱の前、大海人皇子は出家して吉野で過ごしていた 奈良時代 729年(天平元年) 長屋王の変 藤原氏による長屋王の排斥事件。文武天皇(もんむてんのう)に嫁ぎ、聖武天皇(しょうむてんのう)を生んだ藤原宮子(みやこ)は藤原不比等の長女 奈良時代 740年(天平12年) 藤原広嗣の乱 藤原広嗣が政権への不満から…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…だけで数通だという。古代中国の兵法書『孫子』は戦争は戦う前に結果が見えるものだとし、事前準備の重要性を説いているが、関ヶ原の戦いはまさにそのとおりの結果に終わったといえる。 ただその一方で秀秋らが本当に裏切るかどうかは誰にも分からず、後に家康が勝敗は「時の運」と語ったように薄氷の勝利という部分があったのも見落としてはならないだろう。戦後、家康は恩賞と処罰の名目で全国の諸大名を自分の思い通りの配置に置き換え、その力を大いに増した。さらに1603年(慶長8年)には征夷大将軍となっ…

【サイン本プレゼントあり】「ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」のご紹介

…す!今回も近世の城、古代の城、沖縄の城などが入っていますが、タイトルの通りディープな戦国の城の比率が高くなりました。そしてもう一つの特徴は、地方自治体等のために描いたイラストを多数収録したこと!攻城団さま制作の『明石城ガイドブック』のために描き、現在は明石観光協会の所蔵になっている明石城イラストも載っています。地方のために描くイラストは、地元の方々が隅々まで検討を重ね、時間をかけて完成することが多いのですが、なかなか全国売りの本で目にする機会がありません。一冊に集まる機会は、…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

…であった。 牧野家は古代日本で活躍した政治家・武内宿禰の子孫とされ、三河守護の一色家に仕えていたのが家康に属するようになり、譜代の家臣として活躍。特に牧野康成は「徳川十七将」に数えられるほどの人物で、家康・秀忠といった初期の将軍たちから厚い信頼を受け、家康の「康」の字をもらっている。本家は幾度かの転封後に越後国長岡藩6万4千石に定着し、明治維新にいたった。 一方、康成の3男・儀成は寄合旗本として5千石を受け、その子の成貞は神田御殿の綱吉に仕えるようになった、というわけである。…

【サイン本プレゼントあり】「将軍の日本史」のご紹介

…定義ではないのです。古代において将軍と幕府は紐づいておらず、強い権力を持っていなかった時代も長くありました。全体を見渡せば、傀儡・お神輿の将軍の方がもしかしたら多いかもしれません。でも、そのような将軍だからこそ、社会を平和に保てていた、という見方もあります。将軍親政を目指したものあり、あくまで名前だけのトップとして趣味に生きたものあり。平和な時代の将軍も、混乱の時代の将軍もいました。そのような魅力あふれる将軍たちを、なるべくわかりやすく、新しい研究の成果も盛り込みながら紹介す…

【歴代征夷大将軍総覧】成良親王――天皇になるかもしれなかった将軍 1326年~1344年?

…の時代、征夷大将軍は古代のような「討伐軍の総指揮官」にとどまらず、「武士の頂点であり幕府の長」だった。そのような地位を名門の武士である尊氏に与えれば、せっかく滅ぼした武士政権が新たな形で復活するのは理の当然である。天皇としてはこの要求を呑むことはどうしてもできなかった、というわけだ。 その一方で、「天皇はどうせ将来的に尊氏が将軍になるのを止めることはできないと見て、むしろ自分から与えてコントロールしようとしたのだが、護良親王に代表されるような反尊氏派の声によりかなわなかったの…

【歴代征夷大将軍総覧】後醍醐天皇の皇子たち――建武の新政・南北朝時代の将軍

…る。もちろん、これは古代の「臨時に設置され、東方の敵を討つ」存在ではなく、中世の「武士たちのリーダー」としての征夷大将軍だ。 一般に、建武の新政における征夷大将軍は、後醍醐天皇の本来の意思ではなく、護良親王が強引に認めさせたもの、という理解がされているようだ。しかし、建武の新政が必ずしも幕府の手法を全否定するものではないこと、またそもそも武士たちの力が弱まったわけではなく、彼らを無視して新たな政府を運営することはできないことを考えると、「後醍醐天皇はもともと幕府を自らの政治に…

【歴代征夷大将軍総覧】源家将軍――鎌倉時代①

…考えていいだろう。 古代の将軍の項で紹介したように、将軍とは節刀を与えられて天皇の代理人となる存在であったから、武士が新たな政権を――武家政権を作り上げるにあたって、適切な大義名分であったわけだ。義仲自身はまもなく倒れたため、このときの将軍就任そのものは情勢へ大きな影響を与えなかったようだが、このことが頼朝が征夷大将軍を名乗るのに少なからず影響を与えたはずだ。 平氏は滅び、朝廷は封じられ、武家政権が立つ 頼朝の命を受けた弟・源義経が京を占領した義仲を倒し、西で態勢を整えた平氏…

【歴代征夷大将軍総覧】文室綿麻呂――蝦夷征伐の最後を飾った将軍 765年~823年

…)は、坂上田村麻呂将軍がよみがえってきても鎮圧することはできなかっただろう」といった意味の記述がある。これは伝説の武人である田村麻呂の名前と比較して保則を持ち上げているのだろうが、どこか象徴的な意味合いにも感じられる。征夷大将軍の時代は終わっていたのである。綿麻呂以後、百数十年にわたって征夷大将軍(征東大将軍)の役職は姿を消す。次に世に現れるのには、古代日本における最大級の反乱劇――平将門と藤原純友による「承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)」を待たなければならない。

【歴代征夷大将軍総覧】坂上田村麻呂――あまたの伝説に名を残す、武士の象徴 758年~811年

…で最初の征夷大将軍・古代の伝説的な英雄として知っている人は少なくないだろう。それが正確な事実とはいえないことはすでに紹介したとおり。しかし、田村麻呂が難敵・蝦夷(えみし)討伐に大きな働きを示したことは間違いないし、後世に多くの「田村麻呂伝説」が伝えられて伝説化・神格化したこともまた事実である。 平安時代末期、源平合戦のころになって征夷大将軍というすでにその役割を終えた役職が引っ張り出され、「武家の頂点」という意味合いを与えられたのも、「あの」坂上田村麻呂が務めた、という付加価…

【歴代征夷大将軍総覧】大伴弟麻呂――名門出身の「最初の将軍」 731年(722年とも)~809年

…天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫」だと伝わる。 古代の大和朝廷においては物部氏と並んで軍事をつかさどる大権力者であり続け、新興の蘇我氏が躍進を遂げた時期には一時影を潜めたものの、蘇我氏が没落すると再び頭角を現した。藤原氏の出現によって最終的には衰退の一途をたどることになるのだが、それでも弟麻呂のころにはまだまだ軍事貴族として有力かつ高名な存在であった。このような大伴氏の先祖代々積み重ねた功績に敬意を表する形で、桓武天皇は「最初の征夷大将軍」として弟麻呂を選んだのだろう。

【歴代征夷大将軍総覧】古代の将軍たち

…という役職が誕生した古代、奈良時代末期から平安時代にかけてみていきたい。この時代の将軍と以後の将軍との大きな違い、それは「古代の将軍は幕府の長ではない」ということである。鎌倉時代以降の将軍は実質的な権限が備わっているか否かという違いはありつつも、武家政権にそのトップとして君臨する存在であった。しかし、古代の将軍は天皇から軍事権を与えられて大きな力を振るう存在ではあったが、あくまで公家政権の一部として機能する存在だったのである。 征夷大将軍とは何のための役職だったのか 古代にお…

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…社の神官家 諏訪氏は古代より続く長い歴史を持つ名門武家だ。しかし、例えば東北に多くいたような「鎌倉以来」の名門武家とは少々性質が違う。信濃国(長野県)の諏訪湖、その南と北にある上社(本宮=諏訪市。前宮=茅野市)と下社(春宮・秋宮とも下諏訪町)を合わせていう諏訪大社のうち、上社の大祝(おおほうり)を務めてきた一族(大祝家は神氏とも称した)である。諏訪大社のことは、日本三大奇祭の一つとして数えられる御柱祭で知っている方も多いだろう。なお、大祝というのは諏訪大社や鹿島神宮(茨城県鹿…

【お城の基礎講座】73. 城の歴史・古代

…までさかのぼります。古代から城があったのです。ではどんなお城だったのか?今回は古代のお城について学んでいきましょう。 日本最古のお城 日本のお城の歴史はとても古く、弥生時代(やよいじだい)にまでさかのぼります。現在最も古いと考えられているお城の一つは吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)です。昭和後半から発掘調査や整備復元が行われましたが、竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)を深い空堀が囲い、要所要所には塀を半月形に張り出して、そこに物見やぐらが設けられています。いわゆる環濠集落(…

【プレゼントあり】沖縄県立博物館で開催中の「グスク展」を取材してきました

…球列島の場合は日本の古代から中世まで一気に駆け抜けた時代がグスク時代になるかと思います。その点では古代日本と比べても激動の時間幅が短いように思われます。」と返信をいただきました。 「城(しろ/グスク)」というものが食料争いといった人間の根源的な欲望をきっかけに生まれたという共通点を見いだせたのはちゃんとこれまでに勉強してきたことが活かされてるなと思えたし、鋭い指摘とほめられたこともうれしかったです。そして山本さんがおっしゃるとおり、本土と比べて城郭の誕生から国内統一されるまで…

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