攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

大坂の陣 の検索結果:

【家康の謎】家康の死因は?

…する家康」はいよいよ大坂の陣による豊臣家の滅亡と、広義の意味での戦国時代の終わりへ向かっている。しかし、この連載ではあえてひと足さきに家康の死にまつわる幾つかの物事について紹介する形を取りたい。何しろ戦国時代を終わらせ、太平の江戸時代を招いた男であるから、その死の前後の事情については語るべきところが多すぎるのだ。今回はそのうちのひとつとして、家康の死因にまつわる話をしたい。 家康は豊臣家を滅ぼした直後の1616年(元和2年)、駿府城でその75年という当時からすれば驚異的な長寿…

【家康の謎】家康はどうして豊臣家を滅亡させたの?

…マックスイベント――大坂の陣を迎えようとしている。家康は関ヶ原の戦いおよびその後の戦後処理、さらには江戸幕府の創設によって、「豊臣政権の最大実力者」から「新たな政権のトップ」へとその立場を変えた。だが豊臣政権の継承者である豊臣秀頼は生きている。この状態を「江戸幕府・徳川将軍による単独政権」とみるか、「徳川・豊臣二重政権」と見るかについて議論があることは、すでに紹介した通りだ。その後、歴史は江戸幕府の攻撃による豊臣家の滅亡という結果へ向かっていく。ではどうしてそうなったのか? …

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…ラマにおける未来、関ヶ原の戦い後の徳川の領地を見てみよう。関ヶ原後、豊臣家の蔵入地(直轄領)の大部分および西軍諸大名の所領が没収され、それらは論功行賞に加えて徳川家の直轄地に当てられた。この関ヶ原戦後の徳川家の領地は一般に400万石とされる(徳川家の蔵入地ということだと、大坂の陣後だが約230万石という数字もある。おそらく、旗本や御家人の所領を除いた数字ということだろう)。家康は広大な領地に加え、各地の重要な都市や鉱山などを己の蔵入地に組み込み、江戸時代の礎としたのであった。

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…のぶ)に仕えた。【『大坂の陣 豊臣方人物事典』】 紀伊守護代 ・建武年間(一三三四―三八)に北朝側で守護になった畠山国清のもとの守護代としては、大和光富(おそらく「やまとみつとみ」。濫妨を訴えられて失脚)や杉原某(すぎはらなにがし。周防守)という名前が残っている。一方、応永年間には遊佐家久(いえひさ)の名前が守護代として出てくる。【『和歌山市史 第1巻(自然・原始・古代・中世)』】 ・南北朝期には北朝側が畠山国清(くにきよ)・細川宗茂(むねしげ)・山名義理(よしただ)、北朝側…

【家康の謎】家康は勉強熱心だった?

…した最後の戦いである大坂の陣の陣中においても、出版をどのように進めるか考えていたとされる(これは大勢が完全に決したという家康のゆとりから来ていたのかもしれないが)。 家康が集めさせ、また出版させた本は後世に残された。隠居の地であった駿府城には駿府文庫が作られ、これが御三家に三分割して譲られて、それぞれの家の文庫(尾張の蓬左文庫(ほうさぶんこ)、水戸の彰考館文庫(しょうこうかんぶんこ)、紀州の南葵文庫(なんきぶんこ))になった。また、江戸城にもこれとは別に富士見亭文庫(のちの紅…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…ね。 関ヶ原の戦いや大坂の陣が有名すぎて、家康が意外と合戦してないということは考えもしなかったのですが、この時代の人の中でも「外交カードとしての合戦」の優先順位がかなり低かったのかもしれません。べつにだから平和主義者だったとは思わないのですが、信長や秀吉とはちがう価値観で生きてそうだという印象を持ちました。 今回使ったスライドを共有しておきます。 「家康の合戦」連載終了記念ライブ by @kojodan 連載コラムをまだ読んでない方は、ぜひこの機会に第1回の「桶狭間の戦い」か…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…る最後の戦いとなった大坂の陣です。これについてもさまざまな研究論文や書籍、ウェブサイトがありますが、ここではそれらを踏まえながらできるだけわかりやすく記事にしていきたいと思います。家康はなぜ豊臣家を武力で滅ぼさなければいけなかったのか、どういった行動を起こしたのかについて見てみましょう。最晩年の家康の気持ちを想像しながら読んでみてください。 大坂の陣勃発の理由-方広寺鐘銘事件 復元された石垣。豊臣大坂城は絢爛豪華だったという 関ケ原の合戦ののち豊臣政権はしばらくは存続していま…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…めに奔走し、ついには大坂の陣へと進んでいくことになります。次回は最終回、大坂の陣です。徳川家康が豊臣とどのように対峙したのかをみていきましょう。 まとめ いかがだったでしょうか。戦いの布陣や戦闘の細かい描写、例えば小早川秀秋の動きなどはザクっと省いてしまいましたが、家康はどういった立場でこの戦いを迎えたのか、どんな心境だったのかなど、違った目線で関ヶ原の戦いを見てみました。これまでの関ヶ原の戦いのイメージと少し違ったかもしれません。戦いそのものよりも、なぜその戦いが起こるに至…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…占める →同じことが大坂の陣の片桐且元にも言える そもそもは家康が上洛しないから 秀吉との対決を覚悟して、岡崎城など領国内の城を改修する、軍制を武田家のものに改める、三河国衆の人質(妻子)は岡崎から浜松へ避難させる 11月、秀吉による家康成敗が計画された(翌年正月に実行予定) しかし11/29天正大地震により中止 三河より畿内・尾張・美濃・北陸など秀吉の勢力圏内の被害の方が甚大だった(三河では松平家忠が城普請を継続している) これにより秀吉は家康に対して融和政策に方針を転換し…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…3年~1615年)、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後の元和期(1615年~1624年)、そして3代将軍家光の寛永期(1624年~1644年)の3期にわたって行われ、完成は1660年(万治3年)です。もともと「江戸」という地名は「江(入江)の門戸(入口)」に由来するといわれ、江戸湾沿いの一帯は満潮になれば海水に覆われ、潮が引くと湿地帯が広がる土地でしたが、これを神田山を切り崩して埋め立てることによって土地を確保したのです。 翌年の1604年(慶長9年)からは諸大名に工事を分担させる…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…田原征伐)や豊臣家(大坂の陣)のように大軍で居城を攻められての籠城戦の場合はそのまま滅亡になっているものの、野戦での敗戦――それも本拠地から遠く離れた遠征先での敗戦なら即滅亡にはならない確認はできたかなと。同時に即滅亡していない時点でその当主はけっして暗愚ではなく、むしろ歴代を振り返ってもトップクラスに有能だった可能性があることも正しく認識すべきだと思いました。大内義隆、朝倉義景、今川氏真、武田勝頼など家を滅亡させてしまった当主はどうしても無能で暗愚なイメージで語られがちです…

【サイン本プレゼントあり】「超約版 家康名語録」のご紹介

……桶狭間から関ヶ原、大坂の陣まで、艱難辛苦に打ち克った家康の名言をじっくりとご堪能ください。 榎本先生からのメッセージ 江戸幕府を開いた男、徳川家康。来年の大河ドラマ「どうする家康」の主役でもあるこの人は、その偉業がゆえに江戸時代を通して尊敬され、また信仰されました。するとどうなるかというと、さまざまな物語に登場し、あるいは逸話が語られるわけです。時には軍記物で堂々と振る舞い、あるいは教訓集的な文章で素晴らしい君主としての言葉を残す……そんな家康の姿を史料に見出すことができま…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…出てくるものがある。大坂の陣の時で、家康は豊国の意見を聞こうと、彼を呼び寄せて老中と話をさせ、自分は隠れて聞いていた。そこで豊国は「正面から攻めれば勝てる」と言ったのだが、のちに家康がいうには「豊国は大坂城に人がいないと考えているようだった、そんなことをしたら被害が大変なことになる」ということで、少なくともこのエピソードでは名門生まれの戦場を知らない人扱いをされているのかなと感じた。 京極氏 ・京極氏は六角氏との対立や内紛、また本来家臣であった浅井氏によって衰退し、大名として…

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

…ついて回りがちだ。「大坂の陣」でも家康のために策を講じ(和睦の際に堀を埋めるのは彼の策だったという説がある)、その後に家康が死去すると後を追うように自分も倒れ、この世を去る。 軍師(参謀)として大きな力を振るった正信だが、実は彼の持つ所領は本当にささやかなものだった。家康が関東に移った時にもらったのが相模の1万石、これが後に加増されて2万3千石となる。正信の縦横無尽の働きを考えればこれは大変に少ない。 この扱いの悪さについては、家康が依怙贔屓(えこひいき)をしたというのではな…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…。また、軍事面でも「大坂の陣」に参加し、戦功をあげている。 彼は本多正信とも交流があり、その息子の本多政重を一時養子にしていた。上杉家の安泰をはかってのことだったとされている。しかし、兼続はなぜかのちにこの縁組みを解消し、さらに実の息子も早くに亡くなっていたため、直江家は彼の病死と共に断絶してしまう。 一説では、これは上杉の減俸の原因を作ってしまったことの罪滅ぼしのため、また財政的に厳しい上杉家のために財政の負担を減らそうとして、わざと直江家を断絶させたのだとも言われる。生涯…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…も徳川方で出陣した「大坂の陣」には参加できなかった。しかし、冬の陣への出陣前の息子・重綱(しげつな)に「おそらく初めは和睦して堀を埋めるが、その後に本当の合戦が待っているだろう。決して猪突猛進になってはいけない」と伝えている。 実際に徳川と豊臣は一度は和睦したものの、謀略によって大坂城の堀が埋められ、続く夏の陣で豊臣家は滅亡する。病床にあっても景綱の目は確かだった。そして冬の陣が行われた1615年(元和元年)、彼はそのまま息を引き取ってしまったのだ。その死を聞いた政宗はすぐさ…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…後の合戦――それが「大坂の陣」だ。徳川家康は「関ヶ原の合戦」に勝利してその後の天下を主導する立場に着くが、豊臣秀吉の子・秀頼と天下の堅城・大坂城は未だ残っていた。幕府を作って日本全体を支配しようという家康の企みにおいて、やはり豊臣家は最大の障害として残っていたのだ。 一方の豊臣側としても、本来臣下であるはずの家康が我がもの顔で采配を振るっているのは我慢のならないことだった。しかも徳川側はあの手この手の方法で豊臣家を挑発し、合戦をそちらから起こさせようとする。 こうした謀略の中…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…大坂城は落ちたのか。大坂の陣の事情について見てみよう。1614年(慶長19年)、両者の衝突が決定的になると、家康は各国の諸大名に出陣を命じ、大坂城を取り囲んだ。一方、大坂城に入ったのは浪人衆ともともとの家臣団だけであり、豊臣恩顧の諸大名が駆けつけることはなかった。このような情勢の中、大坂城内では真田信繁(いわゆる「真田幸村」)など一部には打って出ることを主張するものもあった。しかし、大坂城を囲んだ兵だけでも20万弱という幕府の大軍に対し、豊臣方の軍勢はあくまで少数に過ぎない。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…決定的になったのは、大坂の陣で豊臣氏が滅亡して後のことである。秀吉は信長から継承された石垣・水堀をはじめとする築城の技術を加藤清正をはじめとする子飼の諸大名に教え、各地で壮麗な近世城郭を築かせたとされる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで天下の実権を握った徳川家康は、江戸城、名古屋城、二条城といった城々を、諸大名たちを動員する「お手伝い普請」「天下普請」によって石垣の城として築く。 またこの江戸時代初期には、全国の諸大名も本拠地の拡張・支城の建設に励み、ある種の築城ラッシュの時代が訪…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

…時代が始まってから、大坂の陣で盛親が死ぬまで、約百年。長宗我部家はまさに戦国時代を「ジェットコースターのように」駆け抜けた一族だった。その結末は残念ながら滅亡という形で終わってしまった。それは結局、彼らは信長が評したところの「鳥なき島の蝙蝠」にすぎなかった、ということなのかもしれない。戦国時代が終わりに向かって突き進み、豊臣政権や江戸幕府のような巨大政権による日本の運営が進んで、「蝙蝠は鳥の勢いに負けた」のだろう。 ここで見えてくるのは地方勢力の悲劇であり、またイノベーション…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家①――イノベーションの遅れは致命傷①

…、しかし最後の当主が大坂の陣で「奮戦して討ち死に」――と、物凄く起伏の激しいジェットコースターのような経緯をたどった一族である。 戦国大名が経験しうるイベントも数あるが、それらをもうほとんどコンプリートといっていい勢いで経験していったのが長宗我部家なのだ。ここからはこのジェットコースターの軌跡をたどりながら、長宗我部家がどのような家だったのかを見ていくことにしたい。 長宗我部家を見ていく中でまず面白いのがその祖先と伝えられている人物だ。なんと、古代中国のファーストエンペラー、…

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

…臣家を滅ぼそうとした大坂の陣の直前まで大坂城にいたのだが、信雄は豊臣側の旗印にされそうなことを察知して合戦前に城を脱出。戦後、これを評価されて幕府より五万石を与えられている。一方の信益は冬の陣の勃発後も和平に奔走したがかなわず、夏の陣直前に城を脱出。以後は京にとどまった。 江戸幕府の支配下において、織田氏は大名四家・旗本十家が残り、幕末まで続いた。だがそれらも小大名ばかりで、名門としての形式上の優遇があっただけであったという。近年アイススケーターとして有名になった織田信成は旗…

【10大戦国大名の実力】伊達家④――地方勢力の栄光と悲哀

…の婿としている。この政略結婚自体は徳川家との接近を目指したものと考えられているが、その一方で政宗には忠輝及びその補佐役である大久保長安と結託しての幕府乗っ取り計画があったのでは、と見る向きもある。特に大久保長安は幕府財政を一手に取り仕切った実力者であり、政宗の武力と忠輝の大義名分がその財力に加われば、大きな動乱が起きた可能性は十分あった。 しかし、結局長安は病に倒れ、忠輝は大坂の陣直後に秀忠によって改易された。政宗の野望が(もしあったとしても)成就することはなかったのである。

戦国時代のはじまりと終わり

…の政変」 終わりは「大坂の陣」 という感じのようです。 ただ「戦国時代は何年から何年までの間」と明確に期間を区切れるかというとむずかしく、じっさい教科書でははっきり書いていません。「応仁の乱で将軍・幕府の権威が低下し、明応の政変で決定的となった」みたいな書き方が多いようです。(そもそも応仁の乱といっても11年あるのではじまりを示す「点」ではない) 書籍ではどうなのか うちには攻城団ライブラリとして1000冊以上のお城本・歴史本の蔵書があるのですが(ほとんど未読ですけど)、その…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…が、関ヶ原後(そして大坂の陣以前)という時代背景を考えると、大名たちは幕府の評価を高めるために競って工事を進めたでしょうから細かく管理監督をしなくても完成したのかもしれないですね。 ちなみに名古屋城築城の際、細川家も小倉藩として参加しています。その後、加藤家が改易となって細川家は小倉から熊本に移封となったので、この書状が熊本大学附属図書館にあるというわけです。 もうひとつは「岡村半右衛門尉事(おかむらはんえもんのじょうこと)」(熊本大学附属図書館蔵)という書状で、こちらは藩主…

【クーデターで読み解く日本史】鬱積した浪人たちのエネルギーが暴発した事件――由井正雪の乱(慶安の変)

…戸幕府 ×由井正雪 大坂の陣直後に徳川家康が亡くなり、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光と順調に代替わりが行われ、支配体制が完成に向かっていったのが江戸時代初期である。 さて、その家光が亡くなった1651年(慶安4年)の頃、江戸で問題になっていたのが浪人問題であった。関ヶ原の戦い以来、幕府に逆らったり、落ち度をとがめられたり、そして跡継ぎがいなかったりといった事情で数多くの大名が改易され、残った諸大名も経済的な圧迫を受けて新たな家臣など雇えない状態にされていた。これは徳川…

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年) ○徳川家康 ×豊臣秀頼 江戸幕府を開き、征夷大将軍となった徳川家康だったが、豊臣秀頼が目の上のたんこぶとして立ちはだかっていたのは事実である。家康は征夷大将軍になってからわずか2年でその地位を息子の徳川秀忠に譲りつつ、自らは大御所として実権を掌握する体制を構築する。これは名目だけでもトップが交代することで「天下人としての家康の立場は、幼い秀頼の代わりに預かっているのではなく、徳川氏のものだから息子に譲るのだ」というアピールに…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…夷大将軍となって江戸幕府を開き、天下をほぼその手中に収めた。 しかし、この時点で豊臣秀頼がまだ健在だったのも事実である。所領だけを見れば65万石の一大名であっても、「豊臣政権の継承者」という権威は小さくなく、また秀吉が残した天下の名城・大坂城と莫大な遺産、加藤清正や福島正則といった東軍方についたおかげで生き残った豊臣恩顧の大名の存在も家康にとっては脅威であった。家康としては幕府安定のためにどうあっても豊臣氏を滅ぼさねばならず、それが二度にわたる大坂の陣として結実するのである。

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

…田に60万石を与えられながら数々の諸行――殺人など凶暴な乱行や大坂の陣への出陣が遅れたことなど――を理由に改易されてしまった松平忠輝にも、ふたりの付家老がついていた。ひとりは家康の下で江戸時代初期の制度整備に活躍した大久保長安で、ただ忠輝の付家老というのに留まらない幅広い活躍を見せたが、忠輝改易前に病没している。もうひとりは松平重勝(まつだいら しげかつ、2万石、三条城主)で、こちらは忠輝改易後に譜代大名に取り立てられ、この家系が後に豊後国杵築藩主となって幕末まで続いている。

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー安藤直次の悲劇

…いうエピソードだ。 大坂の陣が勃発した頃、頼宣は駿府50万石に転封したばかりであった。そのため、兵を集めるのにもうまく手当てがされておらず、かなり苦労したらしい。その際、直次は百姓たちに対して「戦いが終わったら土地をやるから」ということでどうにか兵を集めた。これはこれでいいのだが、問題はその後の処理である。この時に与えた宛行状(書類)の存在が問題になって、その後の検地がなかなかうまくいかなくなってしまった。緊急の課題に対する準備に際してはしばしば後のことは考えずに無茶な施策が…

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