攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

天守 の検索結果:

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…な城なのでしょうか。天守台の発掘調査や門や櫓の復元によって新たな事実が判明している駿府城で家康の考えをのぞいてみましょう。 家康にとっての駿府城 家康は駿府城を築城し、晩年を駿府で過ごした 駿府城と家康のかかわりは二つあります。一つは駿府城を築城した天正期と、もう一つは将軍職を譲った後の1607年(慶長12年)以降(慶長期)です。現在、駿府城公園にみられる堀をはじめとする遺構や復元された門・櫓などは慶長期以降のものです。慶長期以降のものは後述するとして、ここでは天正期に駿府城…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…土造りの城で、石垣や天守などの瓦葺建物はなかったとされています。三の丸を整備して城下町を拡張したのは、家康が駿府城に移ったのちの堀尾吉晴時代かさらにそれ以降の譜代大名が城主のときなので、家康時代の浜松城は江戸時代の絵図にある「古城」=引馬城を東端として二の丸、本丸、清水曲輪あたりの中枢部と、そこから堀を挟んだ北西対岸の「作左曲輪」までと考えられます。 この間に徳川の築城技術は格段に向上します。それは武田の城での戦の経験や武田旧家臣の取り込みによるものです。特に「横堀」と「馬出…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…の場合は、小田原城の天守前の広場に面したお土産屋さん「本丸売店」でも販売してます。売上ランキング第2位の売れ筋商品だそう。 本丸売店(神奈川県小田原市城内6-1 小田原城址公園 本丸広場)営業時間 9:00~17:00 / 定休日 12/31〜1/1 /電話 0465-24-2050 collection.kojodan.jp 3.「大名最中」(栄月) 160円 皮は、定番の三層角右寄り型。さっきまでの三層正面型などのオリジナルの皮が連続していると、懐かしささえ覚えてくる。念…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…は間違いありません。天守や石垣がまだない時代の土造りの城が元康の原点なのです。 岡崎城の基本情報 築城者 西郷頼嗣 築城年代 1452年(享徳元年)~1455年(享徳4年)ごろ 別名 龍城、龍が城 分類 梯郭式平山城 家康にまつわる出来事 1542年(天文11年)に岡崎城で誕生。人質時代を過ごしたのち、今川氏から独立して岡崎城を拠点とした 歴代城主 西郷頼嗣→松平清康→松平清康→田中吉政→本多家→水野氏→後本多氏 まとめ 岡崎城は家康が誕生した城で、今川の支配から独立した城で…

名古屋城で開催中の企画展「初公開 門外不出 巨大杉戸絵」取材レポート

…いますが、名古屋城は天守も本丸御殿も戦争の空襲で焼失しています。ただし当時の名古屋市職員の方々が襖や天井板絵のほか、今回展示される杉戸絵も含め、多くの障壁画を取り外して避難させていたため、焼失を免れることができました。 現在の本丸御殿は2018年(平成30年)に復元されたもので、そこに飾られている絢爛豪華な障壁画も複製ですが、昨年西の丸御蔵城宝館がオープンしたことにより、障壁画の原本がこうして順次公開されています。とくに今回の杉戸絵はサイズが巨大すぎるため過去に天守内での展示…

城葱さんの「城もなか」道中記【福井県編】

…三層角右寄り型三層の天守(櫓)であり、石垣の角が、中央より右側によっているもなかの皮の型のひとつ。 型の凹凸は、シャープで細かいタイプ。皮のみでパッケージされ、餡の水分が染み込む要素がないので、パリパリ中のパリパリ。皮だけでもパリパリと香ばしさで十分旨さを感じます。 箱買いしていれば心配いりませんが、パッケージが帯紙のみで直で餡子と皮のパッケージなので比較的簡素。衝撃による皮の破損にご注意ください! 餡は、個別パッケージされた、四角の絞り出すタイプ。粒あん。 ねりねりねり! …

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#2】

…で「四層角中央型」。天守のモデルは四層で、天守の石垣の角がちょうど皮の中央にきているという形だ。とはいうものの、皮が中央だけだなく、左右のサイドにも角をもち、2枚の皮が合わさると変形六角形担っているようにも見えるため、正確には「四層角中央・左右端型」といえるのかもしれない。両方に角があることにより、皮がより多くのあんを包めるように皮の内部の空間が広く取れる工夫と見える。全体的にどっしりとした形状。石垣に「蛇姫城」と彫り込まれているところも唯一無二の特徴だ。(皮の焼き型の関係か…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編】

…三層角右寄り型三層の天守(櫓)であり、石垣の角が、中央より右側によっているもなかの皮の型のひとつ。 餡は白餡ベースの柿餡(かきあん)です。柿の細かなブロックがちりばめられており、触感や風味に変化をもたらしてくれます。「うぉー柿!」じゃなくて、「あっ、柿!!」といった感じで、ほどよい存在感。城もなかで柿の餡はここだけだろうと思うので、柿好きにはぜひ買い求めてほしい逸品。 柿は柿岡も含む「八郷産」の柿を使用しているということで、ご当地餡&特産餡です。皮はよく見るタイプですが、中身…

城葱さんの「城もなか」道中記【東北編】

…三層角右寄り型三層の天守(櫓)であり、石垣の角が、中央より右側によっているもなかの皮の型のひとつ。 餡は、あずき餡で、これもまた個包装になっています。餡が“キューブ状”になっているのが、特徴的なところ。よくある手作りタイプの城もなかの場合は、案は、密封包装のパック状が多く、包装を破ってそこから絞り出す形式です。それに対してキューブ状の餡をまずは透明なビニールで包み、さらにそれを和紙風素材の包装紙で包んであるというもの。 食べるときには、片方のもなか皮の内側に、キューブ状の餡の…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…一方の豊臣軍も大筒で天守を攻撃され、城を実質的に支配していた秀頼の母・淀殿が怯えてしまい、これに応じる。 こうしてひとまず戦いは終わったかに見えたのだが、謀略という意味では全く終わってはいなかった。この時の和平の条件として「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊すること」「堀を埋めること」などがあったのだが、徳川家がつけ込んだのは堀についての条項だった。 この時、豊臣側としては堀とは外堀のことだけのつもりだったのだが、徳川側の交渉担当だった本多正純は全部の堀(総堀)のことである、と…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑩――戦うことなく炎に消えた城・安土城

…模であり、五層七重の天守閣(信長は「天主」と称した)は白、黒、朱、青などそれぞれの階で配色が異なり、最上階は黄金に輝いていたという。また、近畿の各地から大工や職人たちが集められ、外装も内装も徹底的に装飾が施された。内側の話をすると、なんと安土城の内部は空洞の吹き抜けになっていて、一番下には多宝塔があり、中空に能舞台を吊り上げる仕組みまであったという。とてつもなく奇想天外な構造といわざるを得ず、安土城を訪れた当時の人々はさぞ腰を抜かし、それを見た信長は相当に喜んだことであろう。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…層(諸説あり)になる天守閣は外装にも内装にも金銀をふんだんに使い、かつ黒漆で外壁を漆黒に染めたとされる。黒と金に輝く大坂城は、現代の白亜の城とはまた違う威圧感を放っていたのだろう――九州の大名、大友宗麟は大坂城について「天下無双の城」と語っている。 秀吉の死後はその跡継ぎである秀頼が入り、ここを居城とする。しかし関ヶ原の戦いで天下の実権は徳川家康に移り、やがて豊臣氏と徳川氏(江戸幕府)の対立が加速。二度にわたる合戦の末に豊臣氏は滅び、大坂城もまた炎の中に消えた。戦後しばらくし…

丸岡城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…展望室からは丸岡城の天守がよく見えます。 collection.kojodan.jp 國神神社 國神神社はもともと現在の丸岡城天守の位置にあった神社で、柴田勝豊が築城する際に現在地に移転しました。そういう意味でも丸岡城の歴史には欠かせない存在ですね。 入ってすぐのところに机を出してくださってます。 collection.kojodan.jp 城小屋マルコ そして最後は城小屋マルコです。 お城ファンが集えるようにと丸岡城天守を国宝にする市民の会によって運営されているカフェです。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】地形に合わせて縄張をする

…建物。これが発展して天守閣になる)の位置を決めていく。 つまり、城の構造を設計するわけで、この工程を「縄張」という。地面に杭を打ち、縄を張って、どこに堀を掘るか、どこに建物を作るか、というのを示したことからこの名前がついた。ただ、いちいち縄を張っていくのは大変だったためか、大きな城では一部にしか行わなかったらしい。現代ならばこのように建築物を設計するにあたっては設計図を描くのが当たり前だが、戦国の城においても絵図を描いたようだ。ただ平城はともかく、山城は立体的な存在であり、地…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城造りと信心

…に目を移してみると、天守閣は「仏教的な宇宙を象徴している」という説もあるし、神道の神々を祀る神社や棚のある天守閣も珍しくない。また、いわゆる「鬼門(北東の方角、陰陽道や風水では鬼の通り道とされる重要ポイント)」についても寺社を建てるなどして、かなり気を遣ったようだ。 こうした考えの延長として、「人柱」を用いたのではないか、ともよく言われる。難航する工事を無事完成させるため、あるいはより堅固な城にするために、若い娘などを生き埋めにし、生贄として捧げる、というのだ。このような人柱…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

… 多聞城は高い石垣と天守閣の原型となる白塗り漆喰の建造物を持った城であり、二条城は一番最初に天守閣を備えた城であるという(金閣寺の影響を受けた、とも)。そして安土城こそが高い石垣と当時では考えられない五層七重の天守閣(天主)をもった、「象徴の城」の先駆けであった。城の目的が「防衛」と「統治」だった、というのは何度も紹介してきたとおり。しかしこれ以後、そこに三番目が加わる。すなわち、「支配の象徴」であることだ。 金や朱・青などで色取り取りに飾られた安土城は炎に消えた。その後を継…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化①経済・政治上の都合から?

…、私たちがよく知る「天守閣を持つ白亜の城」としての近世城郭がある。 どうして山城が姿を消し、平城や平山城ばかりになっていったのだろうか?そこには、いくつかの理由を見出すことができる。これらのうちどれが正解というよりも、様々な要素が絡み合って変化していった、と考えるべきだろう。 もっとも一般的な理解は、「政治・経済上の都合から、山城は使いにくくなった」というものである。先述したとおり、領国を統治するための拠点として、山城は向かない。根小屋式の館を拠点とするにしても、やはり限界は…

【2021/2022】年末年始にお城は営業してる?(全国のお城の営業状況調査)

…ておきましょう。国宝天守や現存天守も年末年始が休みのところはけっこうあるので注意してください。 また感染対策のために人数制限や抽選予約のお城も増えています。松江城(来年は先着20名限定)、岐阜城などは天守から初日の出を見ることができるお城として有名ですが、すでに定員に達しているようです。 マッシー | 門松を配した桜門[大阪城] 元日の入城料が無料になるお城 なかでも高知城と丸岡城、高松城(玉藻公園)は元日の入城料・入園料が無料となっています。和歌山城も元日は6:00〜9:0…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

… 一般に「名古屋城の天守台石垣は加藤清正が築いた」とよく言われていると思いますが、その証拠となったのがこの資料の冒頭「御天守」の欄に唯一の担当者として記載された「賀藤肥後守」(加藤肥後守=加藤清正のこと)の記述です。 名古屋御城御普請衆御役高ノ覚【部分】(熊本大学附属図書館蔵) 名古屋城は天下普請で築かれていることもあり、尾張藩に資料は残っておらず、このように参加した各藩の大名家に伝わっているんだそうです。幕府が工程管理するために用意していてもおかしくないと思いますし、あまり…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…城の西の丸に移住し、天守閣を築造した。このことは「家康は秀頼と匹敵する力を持つ存在だ」と周囲に知らしめる効果があった。しかし、家康が真に自らの天下取りを行うためには、武力によって対立する勢力を打破する必要があった。そのために最初は前田氏に謀反の疑いをかけ、これが失敗すると今度は上杉氏をそのターゲットとした。これに対して上杉景勝は強硬的な姿勢で望んだため、1600年(慶長5年)、家康率いる軍勢が会津の上杉氏を討伐することになった。 このことは謹慎中の石田三成にもチャンスとして捉…

「全国入城者数ランキング」についての補足動画をアップしました

…うです。 今年からは天守も再公開されているので、引き続き熊本城の数字には注目したいですね。 調査の意義 最後に「攻城団がなぜ調査するのか?」について、少しだけ。この調査にはFAX送信代だけでもお金がかかっていますし、データを整理するのもかなりの時間を必要とします。そのわりに無視されたりそっけない態度を取られたりすることもあり、データは無償で公開しているのでなにか収益に直結しているわけでもありません。(微々たるものですが、広報には多少貢献していると思います) ただそれでも攻城団…

熊本城天守閣完全復旧記念チャリティグッズを購入して熊本城を支援しませんか

…(月)に約5年ぶりに天守閣内部が公開された熊本城ですが、本来はGW前に公開予定で「天守閣復活祭」というイベントも開催される予定でした。そのイベント用に用意されていたチャリティグッズを今回、攻城団のオンラインショップで販売することになりました。グッズの売り上げの一部は「熊本城災害復旧支援金」と「熊本県南豪雨義援金」に寄付されます。これまでも攻城団では独自に熊本城復興のためにチャリティTシャツを販売して寄付をおこなってきましたが、こうしてご協力できてうれしいです。(なお熊本城は現…

城葱さんの「城もなか」通販記【あわ家惣兵衛さんの「首里城最中」】

…ているともいえます。天守や櫓はない城、例えば今回の首里城のように屋敷や宮殿形状の城など(足利氏館とかの館系もいけるかも)の異なるタイプの城にも、城もなかを生み出せる道を切り開いた。ぜひこの道を通って、これまで城もなかを生み出すことに躊躇していた城にも、城もなかの創作に踏み出してほしい! と思うばかりです 沖縄から通販しているので、作られてからどうしても時間がたってしまう。もなかは皮であんを挟んでから、あんに含まれる水分を皮が徐々に吸ってしまい、皮のパリパリ感は時間と共に失われ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府4代・徳川家綱――安定期の病弱将軍「左様せい様」 1641年~1680年

…からのことだが、本丸天守閣で「遠眼鏡で町を見物してみてはいかがでしょう」と勧められた家綱が「将軍が遠眼鏡で町を見張っていたら、人々はいやな気持ちになるだろう。それは軽々しい行いだ」と断った、という話もある。また、趣味としてずいぶん馬術を好んだようで、ほとんど毎日のように乗馬に励んだ時期もあったらしい。記録に残っているだけでも、歴代1位の乗馬回数だ。一方、父と違って鷹狩りには熱心でなかった。 老中たちによる政治の始まり ともあれ、家光晩年の子であるから、父が48歳で病死し、嫡男…

大阪城のなんちゃって御城印を自作してみた

…スタンプの設置場所は天守閣の中なので入場料が必要です。また以前は管理事務所のスタッフに声をかけてスタンプを借りる方式でしたが、コロナの影響もあって現在はスタンプ台が常設されています。 「御朱印」「御城印」はありません、と断言 また以前はスタンプを押すための用紙は必ず持参だったのですが、いまは試し押しにどうぞとはがき大サイズの紙を置いてくださっています。(1枚目の写真は置いてある紙に押印したものです) じつはとなりによくある記念スタンプもあったので、そちらでもつくってみました。…

大阪城で公開されている豊臣時代の石垣を見てきました

…選しました。 大阪城天守のすぐそばにある「金蔵」の東側に発掘現場があり、当選した方を対象にひと組8名で10分ずつ入れ替え制で見学することができます。 上から覗き見るだけなので、見るだけなら数分もあれば十分です。ぼくといっしょに参加した方はみんなすぐ帰られたので、少しだけ独り占めすることができました。その時間を使って、まるで独占取材のような動画が撮れたので共有しますね。 豊臣期大坂城の石垣 石垣の技術が急速に発展するのは関ヶ原の戦い以降、江戸時代に入ってのことなので、まだ秀吉の…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…なった石川氏が建てた天守は、今に国宝として残っている。 その後の小笠原氏 こうして徳川氏の庇護のもとで旧領回復の悲願を果たした小笠原氏であったが、1585年(天正13年)に思わぬ動きを見せている。徳川を裏切り、豊臣側についたのだ。この年は徳川と豊臣が戦った「小牧・長久手の戦い」の翌年であり、その境界である中部地方では両者の晩み合いが演じられていた。そして優勢であったのは中央を制圧する豊臣方であったから、裏切ること自体は不思議ではない。だが、旧領回復の恩を忘れてなお裏切るのには…

【お城の基礎講座】89. 三大連立式天守(さんだいれんりつしきてんしゅ)

…三大○○。三大連立式天守(さんだいれんりつしきてんしゅ)というのをご存知でしょうか?城郭建築の最高傑作とも称される連立式天守をもつ和歌山城、松山城、姫路城です。Theお城のTOP3を見たい方におススメです。 三大連立式天守(さんだいれんりつしきてんしゅ) 三大連立式天守(さんだいれんりつしきてんしゅ)とは 和歌山城(わかやまじょう、和歌山県和歌山市) 松山城(まつやまじょう、愛媛県松山市) 姫路城(ひめじじょう、兵庫県姫路市) です。 和歌山城(わかやまじょう) まずは、和歌…

【お城の基礎講座】88. 三大湖城(さんだいこじょう)

…城です。2015年に天守が国宝に指定され、城跡は国の史跡です。城は堀尾吉晴と孫の堀尾忠晴が築城しました。堀尾吉晴は松江城が完成する前に亡くなってしまい、完成した姿を見ていません。1611年のことです。現在は宍道湖のすぐそばに松江城があり、宍道湖の自然の風景なども楽しみながらお城巡りをしたいところです。 膳所城(ぜぜじょう) 膳所城は滋賀県の大津市にあった城です。琵琶湖の沿岸というか、琵琶湖上に作られました。1600年より前まではこの付近では大津城が大きな城でしたが、関ヶ原の戦…

【お城の基礎講座】87. 三大海城(さんだいうみじろ)

…日本初の層塔型の五重天守が建てられました。現在の天守は昭和55年(1908)に建てられた復興天守です。 右手が復興天守、左手が平成2年に建てられた山里櫓。今治城と言えばココという写真だ 宇和島城(うわじまじょう) 宇和島城は、藤堂高虎が慶長元年(1596)から6年とかけて築いた海城です。藤堂高虎が創建した天守は望楼型だったが、寛文6年(1666)に建てられた2代目の天守は3重の層塔型天守です。千鳥破風や唐破風などの装飾性の高い飾りが特徴で、これが現存している天守です。現在は埋…

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