攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川家康 の検索結果:

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

徳川家康による最後の戦いとなった大坂の陣です。これについてもさまざまな研究論文や書籍、ウェブサイトがありますが、ここではそれらを踏まえながらできるだけわかりやすく記事にしていきたいと思います。家康はなぜ豊臣家を武力で滅ぼさなければいけなかったのか、どういった行動を起こしたのかについて見てみましょう。最晩年の家康の気持ちを想像しながら読んでみてください。 大坂の陣勃発の理由-方広寺鐘銘事件 復元された石垣。豊臣大坂城は絢爛豪華だったという 関ケ原の合戦ののち豊臣政権はしばらくは…

【家康の謎】家康はなぜ「家」の字を選んだの?

徳川家康は元服当初「松平元信」を名乗ったが、これを「元康」と改名した。そして、今川氏と決別した後の1563年(永禄6年)に、「元」の字の方も変えてしまって「家康」を名乗るに至ったのである。元康の「元」の字は今川義元からもらったもの(偏諱)であり、松平と今川の強い関係を示すものだ。その偏諱の文字を捨てるというのは両者の決別を示すものだ――というのが通説的理解だ。 では新しく選んだ「家」の字は何に由来するのか。それは「八幡太郎」こと源義家である、というのが知られている説だ。義家は…

細川玉子さんによる「京田辺伊賀越えスタンプラリー」参加レポート

…ございます。前回は、徳川家康様の"神君伊賀越え"について綴らせていただきました。お読みくださいました皆様、本当にありがとうございました!そして此度は、前回案内しておりました「京田辺伊賀越えスタンプラリー」に参加して参りましたので、そちらを記事にさせていただきます。 わたくしのスタンプラリーの旅は、近鉄新田辺駅から始まりました。 駅周辺には「徳川家康公 伊賀越えゆかりの地 京田辺」と書かれた、墨絵師・御歌頭(おかず)様が描いた、とても男前な家康様ののぼり旗もたくさん飾られており…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…阜県不破郡関ケ原町で徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による天下分け目の決戦が勃発。関ヶ原の戦いはわずか1日で東軍勝利という形で決着がついた戦いです。関ヶ原の戦いといえば、戦国史に残る有名な合戦のひとつです。家康vs三成として描かれ、テレビドラマや映画、書籍など数えきれないほどあります。私たちが以前から知っている関ヶ原の戦いは、先にも示したような徳川家康と石田三成による天下分け目の決戦というイメージですが、近年の研究の成果によって通説が見直されています。つまり、いまは秀…

【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?

…よく知られているのが徳川家康の「厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の旗印である。 これは浄土宗の考え方(思想)で、汚れた現世から離れたい、浄土へ生まれ変わりたい、という意味合いだとされる。では、どうして家康はこのような言葉を旗印として掲げるようになったのかをご存じだろうか。 じつは、この由来には二つの説がある。家康の菩提寺である大樹寺の住職・登誉天室(とうよ てんしつ)がルーツだというのは同じなのだが、その伝えるに至ったシチュエーションが大きく違うのだ。ひとつは…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…いきました。さらに「徳川家康成敗のこと」を出して正月に軍勢を出す計画まで進行していました。 しかし、11月29日深夜、尾張地方や近畿地方、北陸地方を大地震が襲いました。天正地震です。家康の領地・三河や遠江などの被害は比較的小さかったようですが、秀吉は大打撃を受けました。坂本城にいた秀吉は大坂城へ急いで帰っていくほどの恐怖だったようで、大垣城や長浜城が大きな被害を受け、戦どころではなくなってしまいました。当初の予定では2か月後に家康を征伐することにしていましたので、家康にとって…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」のご紹介

…ガイドブック「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」(マコト出版)を佐藤強志さんから献本していただきました。抽選で5名の方にプレゼントいたします! 表紙もじつにインパクトがありますが、内容のほうも大河ドラマ「どうする家康」の時代考証・小和田哲男先生、忍者考証・山田雄司先生と豪華な顔ぶれとなっています。 書籍『ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり』、『ぶらり明智光秀の城&史跡めぐり』に続く、城跡を中心に史跡を楽しむ歴史ガイドブック。 徳川家康は運ではなく、情報(忍者)を持ってい…

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…正9年)の武田勝頼と徳川家康による高天神城争奪戦のことを指しますが、じつは1572年(元亀3年)にも一度武田信玄が高天神城を攻めているため、武田と徳川による争奪戦は三度行われていることになります。以下ではその三度の攻防戦を順番に見ていきましょう。 第0次高天神城の戦い/1572年(元亀3年)信玄vs家康 高天神城遠景 この戦いは武田信玄による遠江・三河侵攻作戦の一環で行われたものです。高天神城は徳川方の小笠原氏助が城主でした。1572年(元亀3年)2月、信玄は2万の大軍を引き…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…打開のために岡崎城の徳川家康に援軍を要請することとしました。その使者として指名されたのが鳥居強右衛門です。 武田軍に完全に包囲されている中、5月14日の夜に城を出て豊川を泳いで下り、翌朝に雁峰山でのろしを上げて脱出成功を知らせ、すぐさま岡崎城に向かいます。夜には岡崎城に無事到着。家康・信長に呼ばれて現状を報告すると「長篠に必ず救援に向かうので、いましばらく城を保持せよ」と言われ、急いで長篠城に戻っていきました。実際に5月14日には家康と信長が岡崎城にいたので、この話は本当のよ…

【家康の謎】家康はなぜ今川家でそんなに優遇されたの?

「徳川家康は幼少期に今川氏の人質だった」という話は、歴史にあまり詳しくない人でも聞いたことがあるレベルの知識であり、ほとんど常識と言ってもいいだろう。竹千代と呼ばれた頃の家康は故郷の岡崎から引き離され、今川氏お膝元の駿府で苦難の幼少期を過ごした。これが忍耐多き家康の人生の始まりである……というのが「徳川家康物語」の定番だ。 しかし近年の研究では「家康は人質ではなかった」というのが通説になりつつあるのをご存知だろうか。個人的には、これは「人質」という言葉の定義の問題であるように…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…を、そして織田信長と徳川家康が同盟関係になりました。このように刻一刻と状況が変化していくなかで、上杉謙信と同盟を結んだ徳川に白羽の矢が立ったと考えられます。 信玄が浜松城を無視したのはなぜか 武田軍は堀江城攻略を狙っていたのか?(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成) 信玄が遠江に侵攻したのちの動きは前述したとおりですが、なぜ浜松城を無視したのでしょうか。従来の説は上洛が目的だったため西へと軍をすすめたというものですが、最近の研究では上洛が目的とは言えないというのが主流にな…

【家康の謎】家康のお母さんはどんな人だったの?

…名・竹千代。すなわち徳川家康である。ところが1543年(天文12年)になると忠政が病で亡くなってしまい、信元が当主になって水野氏の方針が転換した。彼は織田氏側につくことを選び、父の死の翌年に於大の方(及び、その妹で形原城主・松平家広(まつだいら いえひろ)に嫁いでいた於上の方(於丈の方))を松平から引き戻してしまうのである。織田・今川の対立が激化したことも背景にあったようだ。当然、家康はわずか3歳で母親から引き離されることになった。なお『松平記』という史料によると、於大の方を…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…有名です。この戦いに徳川家康はどのように関わっていたのでしょうか? そして、この戦いを経て状況はどのように変わったのか。家康の足跡をたどります。 織田信長vs浅井長政・朝倉義景 -姉川の戦い前夜- 浅井長政の肖像画(高野山持明院像)と朝倉義景の肖像画(心月寺所蔵) まずは、姉川の戦いに至るまでの状況をおさらいしておきましょう。1570年(元亀元年)2月、信長は足利義昭を奉じて京へ出発、3月5日には上洛を果たします。このとき29歳となった家康も上洛しました。一方で、それまでは畿…

【家康の謎】家康のお父さんはどんな人だったの?

徳川家康の父は松平家の当主・松平広忠である。ただ、彼の生涯について語るにあたっては、その父(つまり家康の祖父)・清康について語らないわけにはいかない。清康の行動とその死が広忠の人生に与えた影響は非常に大きいからだ。清康はもともと三河の安城城を拠点にしていたが、同族の岡崎松平氏を攻めて岡崎城を奪い、ここを拠点とした。以来、合戦を繰り返して勢力を拡大し、もともとの西三河だけでなく東三河、さらには尾張にまで進出。織田信秀(信長の父)とも戦っている。 ところが、清康はその戦いの中で突…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…歳の松平元康(のちの徳川家康)です。 家康は幼少は竹千代と呼ばれ、1549年(天文18年)、8歳の時に今川家の人質として駿河へ渡り、元服して松平元康と名乗っていました。松平家は今川家の家臣として尾張と接する西三河を領有していましたが、元康は今川家を支える武将候補として大いに期待されていたのです。桶狭間の戦いのとき元康は19歳で、尾張へ進軍する今川軍の先鋒として三河勢を率いていました。そして、大事な任務を帯びていたのです。それが「大高城兵糧入れ」です。1560年(永禄3年)5月…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…付き合っていただいて徳川家康の生涯を振り返りながら、その時々の選択は正しかったのか、ほかの選択をしていたらどんな可能性があっただろうということをいっしょに語り合う内容にしました。 番組でも話したとおり、戦国武将は選択の連続です。何度も訪れる重要な選択をひとつでもまちがえたらお家滅亡なんてことも多々ありました。そういう意味も「どうする家康」という今回のタイトルは見事だと思うのですが、じつは若い頃の家康は自分で主体的に選ぶことはできなくて、周囲によってつくられた状況により、一択し…

たかまる。さんの連載「家康の城」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…6回を振り返りつつ〈徳川家康の城〉というテーマで話しました。 連載では家康生誕の城でもある岡崎城にはじまり、浜松城、駿府城、江戸城と歴代の居城に加えて、京都に築いた二条城と「清須越し」をおこなって城下町そのものから再構築した名古屋城を取り上げて、築城・改修の背景や縄張り、遺構の紹介などをとくに家康との関係を中心に書いていただきました。 事前にたかまる。さんには「まあ1時間程度ですよ」と説明していたんですけど、気づけば2時間半くらい話してましたね。でも見てる人はどうかわからない…

12月31日に攻城団テレビでライブ配信「どうした家康」をやります

いよいよ師走に入りましたが、12月31日の午後に【大河ドラマ直前予習企画】としてライブ配信をおこないます。 2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送にあわせて、徳川家康の生涯を振り返りながら何度もあった重要な選択肢について語りましょう。その選択はベストだったのか、ほかの選択肢を選んでいたらどうなっていたのか等、榎本先生をゲストに迎えて、徳川家康の選択・転機をたどります。 当日はチャットでみなさんのコメントもお待ちしています!

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…)の正月のことです。徳川家康は関ヶ原の戦いののち、公儀普請(天下普請)によって各地に大城郭を築城または従来の城の大改修を行っていきます。これはいわゆる大坂包囲網を敷くためと考えられています。その最終的な城の一つとして、1610年(慶長15年)に家康が名古屋城の築城を諸大名に命じました。京都防衛と西国大名の抑えとして東海道・美濃路の追分に位置する名古屋に城を築いたのです。名古屋城築城にあたっては家康自身が地選をおこなったり、指示を細かく出すなど、家康肝いりの城ともいえます。16…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…妙顕寺城)」、そして徳川家康が築城した「二条城」で、これが現在私たちが知っている二条城です。徳川家康が築城したのち三代将軍家光の時に大改修されているため、実際に見ることができるのはこの当時の二条城ということになります。 徳川家康が築城した二条城は、1601年(慶長6年)に西国大名を動員した公儀普請(天下普請)によって築城されました。造営総奉行は京都所司代の板倉勝重、作事大工棟梁は中川正清が担当しました。1603年(慶長8年)3月に天守以外の部分が完成、1606年(慶長11年)…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…9年)2月、松江市は徳川家康が築いた当初の江戸城図「江戸始図(えどはじめず)」が見つかったと発表しました。ここに描かれた江戸城は1607年(慶長12年)から1609年(慶長14年)のころの様子だと思われ、これにより当時の天守や本丸の構造が明らかとなりました。特徴は3つあります。一つは天守が連立式天守であったこと。二つめは本丸南側には連続外枡形を有していたこと。三つめは北側には三重の馬出が構えられていたことです。 「江戸始図」では建物は書かれていませんが、石垣については黒く塗り…

榎本秋先生の最新刊「超約版 家康名語録」の出版記念ライブを生配信しました

…ラマの主人公でもある徳川家康の名言を集めた本ですが、その大半は江戸時代中期や幕末にまとめられた書物で紹介されているので、ほんとうに家康が語ったセリフかはわかりません。わからないのですが、ただ「みんなが求める家康像」というか、まさに偶像としての家康の輪郭が見えてくるような名言録になっているので、個人的にはとてもおもしろく読めましたし、また紹介するのも楽しかったです。 本書に掲載されているのは60個の名言ですが、そこから10個の発言をピックアップして約二時間にわたって紹介しました…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…死したからですよね。徳川家康が天下人になれたのも運によるところが大きいと思います。「成功する上で重要なのは才能よりも運である」というような発表が今年のイグノーベル賞でされていましたが、歴史がそれを証明していると思います。 あと個人的には榎本先生がおっしゃった姉川の戦いは家康の活躍をアピールするために盛られてる?(じっさいはそこまで大規模合戦ではない?)という指摘が印象的でした。このあたりもいわゆる徳川史観に引っ張られてしまっている部分もあると思うので、注意が必要ですね。 今回…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…たといわれています。徳川家康時代のことが良く書き記されている「家忠日記」を見てみると、天正13年8月14日に「駿府府中普請のために」駿府に出かけ、20日に「石引普請をした」とあります。さらに、天正15年1月26日に「駿州普請のため、浜名まで出た」とあり、2月5日には「御構え二の曲輪の堀普請をした」、2月13日には「城(堀か?)普請が出来た。石取りをした」と書かれています。つまり天正13年から15年にかけて駿府城普請が行われていたことがわかります。 家康が大拡張して17年間も居…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…取り込んでいったのが徳川家康です。三河・遠江・駿河に加えて甲斐・信濃の5か国を領有するまでに一気に勢力を拡大しました。これもすべて浜松城在城時に起こったことです。駿府城に移ったのち浜松城には譜代大名が入れ替わり立ち代わり入城しますが、老中をはじめとした幕府の閣僚が排出されていきます。出世城と呼ばれる所以であり、幕府要職への登竜門となったのです。 大改修して「浜松城」に 家康時代の浜松城想像図(現地案内板より) 家康が浜松城を築城する前は方形館と思われる城で引馬城と呼ばれていま…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…たのも岡崎城です。「徳川家康」誕生となったこの城は当時の姿をとどめていませんが、どのような城だったのか、ここでどのような出来事があったのかをたどってみましょう。 岡崎城で生まれ、そして独り立ち 竹千代(のちの家康)は岡崎城で生まれた 出生 家康が生まれたのは1542年(天文11年)12月26日、岡崎城でした。父は松平広忠(ひろただ)、母は於大の方で二人とも10代という若さでした。天文11年といえば、岡崎城に近い三河・小豆坂(愛知県岡崎市)で三河の今川・松平氏と尾張の織田氏が激…

【サイン本プレゼントあり】「超約版 家康名語録」のご紹介

…戦国の世を終わらせた徳川家康。 その名言を60個ほど厳選し、ドラマで描かれる場面と重ねつつ、平易な現代語で解説する名言集。 来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公、徳川家康には多くの名言が残されています。もちろんその中には神格化した家康を賛美するため、のちの時代に創作されたエピソードも多数含まれているのですが、そうした「みんなが求める家康像」もまた徳川家康という人物の魅力なのだと思います。 また家康は人質時代から天下人に至るまで、さまざまな立場を経験しています。それは…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…番組公開です。今回は徳川家康から徳川慶喜まで歴代征夷大将軍15人の正室(御台所)という視点から江戸時代を見てみました。 youtu.be 結論として3代・家光以降、大半が京都の皇族(宮家)や摂関家から嫁入りしていましたが、なかには皇女もいたり、その時々の幕府と朝廷のパワーバランスが垣間見えます。皇族も途中までは天皇との血筋が遠い伏見宮家からでしたが、10代・家治の正室には当時の天皇と非常に近しい血筋の閑院宮家から来ているなど、時代によって違いが見られます。 あるいは急遽将軍職…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…かげ)の配下にあって徳川家康と戦っている、というのだ。これは「関ヶ原の戦い」の前夜に彼が語ったという形で伝えられている話なのだが、真偽はさだかではない。 順慶が死んで甥の定次(さだつぐ)に代替わりすると、彼と反りが合わなかった勝猛は数年後に筒井家を出奔。その後の彼の消息については、伊賀(現在の三重県西部)の上野に転封された筒井家に代わって大和の大名となった秀吉の弟・秀長に仕えたとも、また近江の高宮郷という場所に隠棲していたともいい、諸説ある。 そんな彼に誘いを掛けたのが、秀吉…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

…さゆき)と、その子で徳川家康を後一歩までに追いつめ「真田日本一の兵」と讃えられた勇将・真田幸村が有名だ。しかし、ここで紹介する昌幸の父親・真田幸隆(さなだ ゆきたか。正しくは幸綱(ゆきつな))もその活躍では彼らに負けていない。忍者を使っての情報戦や裏切り工作などの謀略を得意とし、武田信玄の軍師として活躍した彼は、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受けており、家中でも「攻め弾正」の異名で一目置かれていた。 真田氏は信濃(現在の長野県)小県郡(ちいさがたぐん)の豪族・海野氏…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する