攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

戦国時代 の検索結果:

「三管四職」の延長戦(復習回)を攻城団テレビで生配信しました

…かけになったことから戦国時代のはじまりとされる→同年、伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻この結果、将軍家が2系統に分裂した→「義稙系(義材/義稙-(義維)-義栄)」と「義澄系(義澄-義晴-義輝-義昭)」 1507年(永正4年)永正の錯乱(えいしょうのさくらん) 室町幕府管領・細川政元が暗殺された事件。政元はエキセントリックな人だった。→突然諸国放浪の旅に出てしまうとか、烏帽子を嫌って被らなかったとか生涯独身で養子が3人いた。関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元…

三管四職の延長番組(復習回)をやります

…p 室町時代は後半は戦国時代と重なっているし、前半は南北朝時代と重なっているように、これまでの知識の点と点がつながりやすい時代でもあります。ぜひみなさんもこの表を見て気づいたことや、質問などをお寄せください。事前の場合は以下のリンク先にあるフォームから、当日はYouTubeのチャット欄にお願いします。 攻城団テレビ お便りフォーム もしまだ本放送を見てない方はざっとでも見ておいていただけると当日より楽しめると思います! blog.kojodan.jp www.youtube.…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…ど、ぼくらがよく知る戦国時代のビッグネームとはぜんぜんちがう(ゲームでは序盤に滅亡することが多い)武家が並んでいますが、ちょっと時代を遡るだけでその勢力図がまったく変わるということと、名門は名門だけあって表舞台からは消えてもしぶとく生き残ったり、庶流が大名になったりしていることがわかっておもしろかったです。 www.youtube.com 三管四職とは 意味としては「室町幕府を動かした有力守護家の中でも特に重要な役職を任された家」のことで、「管」は管領を、「職」は侍所所司(頭…

ガイドブック「国指定史跡 柏木城跡」のご紹介

…セージ 柏木城跡は、戦国時代、会津蘆名氏が米沢の伊達氏による会津侵攻への領国防衛を目的として整備されたとみられる山城です。東西500m南北450mの城域を有していますが、遺構の残りが良く、石積を多用し複雑な形状の虎口を有するなど戦国期最新の築城技術を採用していることや、会津と米沢を結ぶ街道をおさえる構造を有し領国防衛の考え方を知るうえで貴重な史跡であることなどが評価され、今年3月15日に国指定史跡となりました。そして今回、国史跡指定を記念して、当時の歴史背景や発掘調査の結果、…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

戦国時代の武将の中には、真田幸村や武田信玄のように本名ではない別の名前の方が有名な人物が数多くいるが、この片倉景綱(かたくら かげつな)もまたその中のひとりだ。彼のもうひとつの名前は「片倉小十郎(こじゅうろう)」。そう、「独眼竜」の名も高き隻眼の名将・伊達政宗の、右腕ならぬ右目として活躍した軍師だ。 彼は元々武士の出身ではなく、出羽(ほぼ現在の山形県と秋田県)米沢の成島八幡宮(なるしまはちまんぐう)の宮司・片倉景重の子として生まれた。彼の腹違いの姉(姉ではなく母とも)が政宗の…

【戦国軍師入門】角隈石宗――秘伝を火中に投じて散った軍配者の無念

…でに紹介したとおり、戦国時代の軍師にもいろいろなタイプが存在した。戦場での戦略を立てることに長けた者、忍者を使った情報工作などに長けた者、謀略を巡らせて合戦を有利に運ぶ者など、実に様々だ。 その中でも、九州の大名・大友宗麟に仕えた角隈石宗(つのくま せきそう)はちょっと異色な軍師だ。彼は「軍配者(ぐんばいしゃ)」と呼ばれる、軍配を持って占いなどを行うタイプの軍師だった。とにかく石宗の存在は際だっており、なんと彼は兵法や天文学・気象学といった知識に加え、妖術を駆使して合戦で活躍…

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

…り返し触れてきたが、戦国時代の九州には三強と呼ばれる強力な戦国大名が存在した。角隈石宗(つのくま せきそう)や立花道雪(たちばな どうせつ)が仕えた大友家、秀吉の九州征伐に頑強に抵抗した島津家、そして龍造寺(りゅうぞうじ)家だ。龍造寺家は隆信(たかのぶ)が当主の頃に全盛期を迎え、肥前(現在の佐賀県及び長崎県の一部)・肥後(現在の熊本県)・筑後(現在の福岡県南部)・豊前(現在の福岡県東部及び大分県北部)に勢力を伸ばした。そして、その隆信を支えた軍師が鍋島直茂(なべしま なおしげ…

【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

…町以来の名門武家で、戦国時代には越前国(現在の福井県の一部)守護として大きな勢力を持っていた。もともと越前守護は斯波氏という、尾張守護も兼ねる名門武家だったのだが、内紛の隙を突かれて守護代(守護の仕事を代行する役割)の朝倉氏に国を奪われてしまった。ちなみに、その後尾張国もそこの守護代の家系である織田氏によって実質的に奪われ、斯波氏は滅亡してしまう。 朝倉の名は信長のライバルのひとり、義景の名前でよく知られている。そんな朝倉家の重鎮として活躍したのが彼、朝倉教景(あさくら のり…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

戦国時代を飾る最後の合戦――それが「大坂の陣」だ。徳川家康は「関ヶ原の合戦」に勝利してその後の天下を主導する立場に着くが、豊臣秀吉の子・秀頼と天下の堅城・大坂城は未だ残っていた。幕府を作って日本全体を支配しようという家康の企みにおいて、やはり豊臣家は最大の障害として残っていたのだ。 一方の豊臣側としても、本来臣下であるはずの家康が我がもの顔で采配を振るっているのは我慢のならないことだった。しかも徳川側はあの手この手の方法で豊臣家を挑発し、合戦をそちらから起こさせようとする。 …

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

…っていた有力大名で、戦国時代には九州三強のひとつにも数えられていた。しかし宗麟の時代に一時拡大するも没落し、秀吉に従うことになった。しかもその後の朝鮮出兵の際に、義統が味方を救わずに逃げてしまったせいで秀吉の怒りに触れ、ついに取りつぶしの憂き目にあう。以来、彼は毛利輝元の元に預けられていたのだが、「関ヶ原の戦い」にあたっては西軍に参加して毛利の兵を借り、かつての領地を取り戻そうと兵を挙げたのだ。 この義統の軍が東軍側の杵築城を攻めたために官兵衛はその城を救援に向かい、途中の石…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…原の合戦」といえば、戦国時代の終焉を飾った天下分け目の合戦だ。徳川家康の率いる東軍と、石田三成の(名目上の指揮官は毛利輝元だったが)率いる西軍は美濃(現在の岐阜)の関ヶ原にて大いに戦い、激戦の末に軍配は家康の東軍に上がった。 ところがこの戦い、戦場での両軍の布陣だけを見ると西軍の方がはるかに有利だった。そもそも西軍の方が数が多い上、東軍は西軍に取り囲まれる形で布陣していたのだ。実際、明治時代に日本陸軍の軍事顧間として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐が、この布陣の様子を…

【戦国軍師入門】耳川の戦い――受け入れられなかった主君への進言

戦国時代に行われた様々な戦いには、軍師が主君に進言しながらも受け入れられず、そのために敗北した合戦というものもある。その中で特に象徴的なのが、北九州の名門・大友家衰退のきっかけとなった1578年(天正6年)の「耳川の戦い」だ。 1577年(天正5年)に薩摩(現在の鹿児島県の西部)の島津家が日向(現在の宮崎県)の伊東義祐(いとう よしすけ)を攻撃すると、大友宗麟(おおとも そうりん)は救援のために出陣しようとする。しかし、この時に2人の軍師・角隈石宗(つのくま せきそう)と立花…

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

…)の面白いところは、戦国時代のドラマチックなエピソードがしばしば全くの架空、もしくは事実を元にした創作であることが多いのに対し、どうやら実際に起きているらしいことだ。半兵衛は本当に少数の兵だけで、堅城と呼ばれた斎藤家の居城・稲葉山城を乗っ取ってしまっているのだ。動いた兵は少数で、起きた戦闘もごく小規模だが、だからこそのドラマチックさが目立つ。 なぜ半兵衛がこんな事件を起こしたのか、については幾つか説がある。まず当時の斎藤家当主・龍興(たつおき)が酒に溺れて悪政を行い、これを諫…

【戦国軍師入門】北九州をめぐる戦い――小早川隆景・立花道雪の激突

…た)という、それぞれ戦国時代を代表する名軍師・知将が参加し、その知略を激しく戦わせていたことだ。小早川隆景は元就の三男で小早川家に養子として入り、「毛利の両川」として本家を支えた、知将として名高い人物だ。元々水軍に縁の深い小早川家を率いて活躍した。一方の立花道雪は、この後でも述べるが大友家を支えた名軍師として諸国から畏怖された人物だ。この2人が激突したのだから、まさに戦国時代ファン垂涎の戦いと言える。 戦いはまず2万の大軍を率いた小早川隆景が北九州に上陸し、門司城を占領したこ…

【戦国軍師入門】厳島の合戦――策謀の限りを尽くした天才・毛利元就

…だけでは、動乱の続く戦国時代では安心とは言えない。この頃、元就にはもうひとつ出雲(現在の島根県東部)の尼子家という宿敵がいたから、晴賢の大内家と戦っている間に背中を攻められればお終いだ。中でも彼が警戒していたのは、尼子家の最強軍団と呼ばれた「新宮党(しんぐうとう)」という集団だった。この名前は彼らの本拠地が新宮谷というところだったことに由来する。 尼子国久(あまご くにひさ)と誠久(さねひさ)の親子が率いる新宮党は尼子軍の中心戦力だったが、同時に日頃の態度が横柄だったことから…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話③――「爆発炎上」した城?・信貴山城

…たという伝説があり、戦国時代には木沢長政(きざわ ながまさ)という武将が大規模な城を築いたが、これは炎上している。その信貴山城を再興し、拠点としたのが松永久秀(まつなが ひさひで)である。久秀はもともと近畿に大きな勢力を誇った三好長慶(みよし ながよし)の側近であったが、彼の死後に自らが大きな力を振るうようになった。この時期、時の将軍。足利義輝を死に追い込んでいる。ところが、義輝の弟・義昭を奉じた織田信長が上洛してくるとあっさり降伏し、以後は信長の配下として重用される。 ――…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台②――悲劇の女城主伝説の城・岩村城

…遠山氏が城主であり、戦国時代には遠山景任(とおやま かげとう)が織田氏の支援を受けつつ武田氏の攻撃を撥ね返していた。その後この城は動乱の中で幾度か主を変え、江戸時代には松平氏の居城となる。 物語の主人公は景任の妻で織田信長の叔母にあたるおつやの方だ。当時としては当然のことながら政略結婚であり、信長がそれだけ岩村城の価値を評価していた、ということなのだろう。実際、1571年(元亀2年)に景任が死去すると、信長は跡継ぎとして四男(五男説も)の勝長(かつなが)を養子に送りこんでいる…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台①――夫の仇をとるための奮戦の舞台となった城・鶴崎城

合戦が打ち続いた戦国時代、政略結婚が当たり前だった戦国時代は、各地で悲劇が演じられた時代でもある。特に城が落ちる時というのは、本来は戦場にかかわることがない女性たちもまた合戦に巻き込まれる可能性が高くなるということであり、結果として大小様々な悲劇が生まれることになった。女性関係だけでなくとも、城という自らの持ち場を守るために悲劇的な玉砕に挑む武将もいれば、孤立した末に滅ぼされた勢力もある。それら、籠城にまつわる悲劇――そして、その中でも必死に自らの仕事を果たそうとした人々の奮…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑦――支城を失い、戦意を失った城・観音寺城

…的に城が築かれたのは戦国時代になってからで、全盛期とされる六角定頼(ろっかく さだより)とその子・義賢(よしかた=承禎)の時代に改築されて壮大な石垣(当時普及を始めていた新兵器・鉄砲に対抗するためだったらしい)による補強がなされ、城下町も形成された。しかし、六角氏がこの城を放棄するとともに廃城になっている。 六角氏がこの城を捨てなければいけなかったのは、1568年(永禄11年)の織田信長による侵攻が原因だった。信長は足利義昭を奉じて上洛したかったのだが、その進行ルートには信長…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑤――飢えて落ちた城・鳥取城

…、堅固な山城である。戦国時代後期には毛利氏の支配下にあり、「毛利両川」吉川一族のひとり、吉川経家(きっかわ つねいえ)が入って因幡の支配拠点となっていた。羽柴(豊臣)秀吉によって滅ぼされた後、関ヶ原の戦いののちに池田長吉が姫路から入り、鳥取藩主となって城の大改築を行ったが、明治に破却された。 播磨・備前・但馬で成果を上げた秀吉の中国方面軍が次のターゲットとしたのが因幡であり、ひいてはこの鳥取城であった。しかし、堅い守りのこの城を落とすのは難しい――そこで秀吉は播磨の三木城に続…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく②――名将の死で落ちた城・箕輪城

…重要拠点であり、特に戦国時代中期には長野業政(ながの なりまさ)という名将が拠って立ち、甲斐の武田信玄がたびたび侵攻してきてもそれのすべてを撥ね返していた。それどころか、隙を突いては出陣し、武田側の城を落としていたほどである。彼の主君にあたる山内上杉氏の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)は北条氏との争いに敗れる形で越後へ逃れたが、その後も業政は上野に残り、大きな存在感を発していた。 ところが1561年(永禄4年)、その業政が病気によってこの世を去る。ここぞとばかりに信玄は箕輪城攻…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

…りだといわれている。戦国時代の黎明期、1495年(明応4年)には北条早雲が当時この城を居城としていた大森氏を攻め滅ぼし、以後小田原城は戦国時代を通じて北条氏の居城となった。 北条氏の時代、小田原城は幾度にもわたって拡張と整備が行われ、その規模は天正年間に最大級に達した。石垣ではなく土塁と空堀の「土の城」ではあるが、当時としてはまれに見る巨城であり、城下町を丸ごと包みこむ約12キロの大外郭が特徴であった。のちには豊臣秀吉の率いる大軍の前に白旗を揚げることになるが、戦国時代を代表…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は④――北九州の防波堤になった城・立花城

…戦地であるこの地は、戦国時代においては大内氏あるいは毛利氏と大友氏の激闘の舞台になったのはすでに見てきたとおり。特に激戦となったのが、1568年(永禄11年)に城主・立花鑑載(たちばな あきこと)が毛利氏へ裏切ったことに端を発する戦いである。大友氏が立花城を包囲すると、毛利軍は鑑載に救援を送ってこれを支援。しかし、鑑連らが率いる大友軍の圧倒的な兵力を前に、3ヶ月に及ぶ攻防戦の末に立花城は落城。鑑載は自刃した。 しかし、毛利氏は北九州を諦めなかった。反立花勢力と協力して本格的に…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は①――理想的な籠城戦で持ちこたえた城・吉田郡山城

…ったり来たりするのは戦国時代なら珍しくはなかったが、尼子氏としては見過ごせない。同じような裏切り者が出ないように、見せしめとしても毛利氏を滅ぼさなければならなかった。 大軍で押し寄せた尼子方は、徐々に包囲網を狭めながら吉田郡山城に迫る。一方の毛利氏は、尼子氏の来襲を知って国人たちを城に避難させていた。この時ちょうど米の収穫時期だったため、避難の際に収穫した米を城に持ち込ませ、籠城戦の準備を整えていたのだ。 いよいよ尼子方が攻め寄せる。当初、元就は尼子軍の挑発には乗らず、城に籠…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑩――戦うことなく炎に消えた城・安土城

…。 もちろん、これは戦国時代の城である。戦うこと、政治を行うことを無視していたはずがない。地理の面で見ても、西に向かっては琵琶湖の内湖に面し、水上交通が活用できる。当時、琵琶湖の水上交通は重要な存在だったのだ。東に向かっては中山道が走り、京に入るにしても、あるいは北陸や東海に出るにしても、非常に便利な位置関係にある。陸上交通と水上交通の両方を活用できることで、安土の城下町は大いに栄えたとともに、信長はいつどこに出陣することになっても迅速に兵が動かせたわけだ。 また、この安土城…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑨――見捨てられた城・上月城

…けない要地といえる。戦国時代後期、羽柴(豊臣)秀吉の率いる織田軍が中国侵攻を進めた際には毛利氏傘下の赤松政範が拠点としていたが、秀吉によって攻め滅ぼされる。 その後、秀吉の命を受けて上月城主として入ったのが、尼子勝久(あまご かつひさ)だ。彼はかつての中国二強の一角、尼子氏の分家の血を引いている。出家していた勝久は尼子が毛利に攻められて降伏した後に還俗。「願わくは我に七難八苦を与え給え」と願ったことで有名な山中幸盛(鹿介、鹿之助とも)に代表される尼子残党に担がれて、御家再興運…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

…この名で統一する。 戦国時代末期の大友氏は、中国地方から進出してきた毛利氏の攻勢を立花道雪(たちばな どうせつ)らの活躍で退けたものの、躍進著しい薩摩の島津氏の南方からの圧迫に苦しんでいた。翻って内側を垣間見れば、時の当主である大友宗麟が強力にキリスト教化を推し進めたせいで内部不和も目立ち、衰退が激しかった。それでも紹運や道雪といった名将たちが活躍することでどうにか持ちこたえている――それがこの頃の大友氏の姿であった。ちなみに、紹運の子は請われて道雪の婿養子となって立花氏を継…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…大名に出陣を命じた。戦国時代の最後を飾る大戦、「大坂夏の陣」の幕開けである。 堀を埋められてしまった大坂城では、もう籠城戦はできない。家康は策によって天下の名城を無力化してしまったわけである。こうなれば、豊臣方としても出陣し、進軍してくる幕府軍を途中で迎撃する野戦に挑むしかない。しかし城の守りがなければ、兵力に劣る側が勝てるはずもない。それで勝てる余地があるなら、最初からそのようになっていたのだから。度重なる戦いの中で名だたる名将が次々と討ち死にする。最後の決戦となった戦いの…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…つに数えられている。戦国時代を通して成田氏が城主であり、上杉氏と手を組んでたびたび北条氏と戦ったが、やがて北条氏の傘下に下ることとなる。豊臣秀吉によって北条氏が攻め滅ぼされると、この地は徳川氏の領有となり、関東の要所のひとつとして江戸時代を通じて譜代・親藩の大名が入った。そして、廃藩置県後に取り壊されている。 忍城をめぐる戦いで有名なのは、豊臣軍が北条氏を「踏み潰し」た小田原征伐の際のものである。これこそ、先述した「水攻めに耐えた城」のエピソードだ。ここでもまた、活躍したのは…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…せているのだから。 戦国時代の合戦で活躍したのは男性ばかりだと思われがちだが、戦いが女性たちの領域である城にまで及んだ際には、自らの命を守り、家を守るために女武者が出陣するケースもあったのだ。さてこの安濃津、のちに津と呼ばれた地は、もともと港町として大変栄えた場所だったが、戦国時代初期に大地震で破壊されてしまった。それでも北と南の川を防衛線として利用できることもあり、地理上の要所にあったことは変わりなかったようだ。そこで、伊勢に進出した織田信長がこの地の有力者であった長野氏と…

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